パリ・コミューン150周年、壁は再び語るか


マチルド・ラレール(Mathilde Larrère)

ギュスターヴ=エッフェル大学現代史准教授
著書にRage against the machisme, Éditions du Détour, Paris, 2020

訳:福井睦美


 パリ・コミューンから150年。これまで共産主義者、無政府主義者、そして極右活動家までもがその記憶を誇りとし、自分たちとの関連性を主張してきた。それは壁を舞台にグラフィティやポスターの形で描かれたことも多い。今年、フランスの壁は何を語るだろうか。[日本語版編集部]

(仏語版2021年3月号より)

トルビアックの自由コミューン、2018年4月14日撮影

 1871年、パリ・コミューンの期間、それまでの革命の時期と同様に、ポスターやグラフィティ[チョークやペンキなどを使った落書き]が「革命の壁(1)」として市民に情報を伝え、彼らを動員する役割を果たした。そのすべては「血の一週間」(1871年5月21日~28日)のあと一掃され、反乱は最終的に鎮圧された。しかし、間もなくまた首都の壁は語りだした。匿名の人々が敗者を称え、勝者を非難し、ヴェルサイユ政府内に沸き起こっていた弾劾を求める声を攪乱した。翌1872年、ペピニエールの兵舎の城壁に、“専制主義と我らが哀れなフランスを守るヴェルサイユ軍よ、おまえたちは人民の殺人者だ、おまえたちの額の血痕は決して消えることはないだろう”と書いたのは、「市民の友である共和派の兵士グループ」だった(2)。アドルフ・ティエール[パリ・コミューン時の行政長官(内閣首班)で反乱収束後フランス共和国大統領に就任]の私邸はパリ・コミューンにより破壊され、その後税金で再建されたが、1873年、“パリ市民よ、この館は我々の血の代償だ”というグラフィティとともに非難の的になった。そしてもちろん、壁は反乱軍を称えている。“パリ・コミューンのために命を失った勇敢なフェレ、ロセル、クレミュー、ドンブロフスキに敬意を表する”(1872年、12区の壁)。1872年に警察が入念に記録したうち23%がこうした内容だったが、その後はほとんど見られなくなり、言葉による戦いの場はペール=ラシェーズ墓地の連盟兵の壁[1871年5月28、最後まで戦った連盟兵147人が銃殺された場所]の前に置かれた花輪に移った。警察はそこに書かれた文言のうち、扇動的とみなすものをはぎ取っていった。

 パリ・コミューン関連のグラフィティを追跡するためには、20世紀に書かれたものについてより多くの研究が必要だろう。そのための史料ももっと必要なのだが、それもまた少なくなってしまった。共和国が成立し表現の自由が確立して以来、グラフィティは歴史家にとって有用な「扇動的要素をもつ」警察記録に含まれなくなったからだ。

 1920年以降、フランス共産党がパリ・コミューンの記憶(3)の中心的な語り部として登場し、コミューン活動家と共産主義者の関連性を主張した。連盟兵の壁に参拝することはフランス共産党にとって重要な儀式となり、それは1936年5月、50万人以上の市民が集まったパレードで最高潮に達した。パリ・コミューンはビラや記事、ポスターに頻繁に引用され、1971年のジャン・フェラによる曲をはじめとした歌の題材にもなった。しかし、市中にグラフィティの形で掲げられることはめったになかった。フランス共産党はこの活動手段をあまり使っていない。

 それでも1968年、ソルボンヌ通りに“コミューン万歳”の大きなグラフィティが出現したのは言うまでもない。その年の美しい5月、パリ・コミューンは多くの関心を集めた(映画の上映、ジュール・ヴァレスの日刊紙『人民の叫び』の再版など)(4)。1968年5月[五月革命と呼ばれる大規模な反体制運動]のデモ参加者に対する弾圧は、多少の誇張を伴いつつ、しばしば1871年のものと比較される。「ヴェルサイユ政府側には改革と進歩について語る権利はない」と社会学者アラン・トゥレーヌは書いている(1968年6月30日付ル・モンド紙)。歴史学者リュディヴィーヌ・バンティニの分析によると、1968年当時、パリ・コミューンは自主的に組織された直接民主主義のモデルとして、「同じものを再現するというよりも、五月革命の主人公たちが何を目指しているのか、そして何が起こりうるかを思い起こさせる役割」を果たした(5)

 100周年には再び炎が燃え上がった。おびただしい数の新聞記事、エッセイ、小説、反乱者たちの回想録の再版、自然発生的な記念祭、いくつかのテレビ番組さえもパリ・コミューンを話題に取り上げたが、グラフィティはほとんどなかった。1968年に壁が利用された後(その1つには“壁が白ければ、市民は語らないのと同じだ”とあった)、この表現方法が衰退期を見たのは確かだ。とはいえ造形芸術家エルネスト・ピニョン=エルネストがパリ・コミューンの100周年を祝ったのは石の上だった(6)。1971年3月のある夜、彼はパリの石畳にセリグラフィー[シルクスクリーン]で描いた複数の「横臥像」を貼り付けた。この作品のために彼が選んだ幾つかの場所にはサクレ・クールに登る階段もあり、1世紀前にこの町を舞台に繰り広げられた蜂起の記憶を蘇(よみがえ)らせた。

 1971年以降、パリ・コミューンが社会運動に利用されなくなったことは誰の目にも明らかだ。数十年にわたってその記憶を伝えてきたフランス共産党が影響力を失ったことに加え、20世紀から21世紀への変わり目にこの出来事がフランスの歴史物語の一部に組み込まれたのもその一因だ。パリ・コミューンは学校教育カリキュラムに取り入れられ、ビュット・オ・カイユ地区のある広場がゆかりの場所に指定され、サクレ・クールのふもとの小公園にはルイーズ・ミッシェル[訳注]の名がつけられた。パリ・コミューンは認知度が高まった分、既存の体制を打倒する動きという、極左が利用してきたイメージを失った。

 その記憶が蘇り始めたのは2010年代初頭のことだ。まず2011年から2014年の間に散見されたのは大部分が極左の絶対自由主義者と反ファシストによるもので、2種類の反対意見だった。その1つは、ジャン・セヴィリアが著作『歴史的妥当性』(原題Historiquement correct、ペラン出版、2003年、未邦訳)の中で述べた「反乱勢力が首都を恐怖で支配した無政府状態の72日間」のように、パリ・コミューンを破壊的な無秩序と表現する新ヴェルサイユ主義的な再認識を否定している。またもう1つは、一部の極右主義者がパリ・コミューン史を自分たちに都合よく解釈しようとする企てへの抵抗だ。その例はパリのアイデンティティ・グループ「プロジェ・アパッシ」で、彼らは2011年以来、ステンシルによるスローガン、“混血の共和国はパリ・コミューン活動家が倒されたせいで生まれた”で壁を汚している。これらの新たな壁の利用方法はパリ・コミューン蜂起の無政府主義的な伝統を受け継ぐもので、ジャック・ルジュリーの表現(7)によれば、「民主主義についての絶対自由主義的な問いかけ」がついに復活したことに当たる。1871年にパリ・コミューン活動家らが提起した、人民の議会における代表権と主権の問題、権力の行使、直接的で社会的な「真の」民主主義の問題が、再び市民の議論の的になったのだ。2014年3月18日(パリ・コミューン143周年)の朝、“神もなく、主人もなく、国家もなく”、“礼拝堂に火をつけろ”、“1871年のパリ・コミューン万歳!”という赤と黒のグラフィティがサクレクール寺院に書かれたのは、このような状況下でのことだった。

 2016年の労働法改革に対する抗議行動ではグラフィティアーティストらがデモ活動の中心にいた。彼らは広告看板や銀行、保険会社の窓ガラスを乗っ取って、グラフィックアートの常識を捻じ曲げ、公共空間を乱用した。SNS上ではクリシェ[常套句]が拡散し、社会運動の新たな美学の創造を助けた。そして何週間にもわたったニュイ・ドゥブ運動[「ニュイ・ドゥブ——フランスの新しい民主主義の実践 」参照]によるレピュブリック広場の占拠は、連帯の印を壁へのマーキングで示す方法を助長したのだ。しかも広場には「パリ・コミューン広場」とあだ名が付けられ、地下鉄駅の入り口には“パリ・コミューンよ蘇れ”という赤い文字のグラフィティが現れた。

 次いで2018年の春が荒れた。一方では鉄道労働者がフランス国鉄(SNCF)の改革に対して立ち上がり、また一方では大学生と高校生が新たな高等教育入学振り分け制度「パルクールシュップ」と闘った。この年は5月革命の50周年にあたり、町は特にそれを祝うグラフィティであふれた(“68年5月、人々は記念し、我々は再び始める”)。しかし、パリ・コミューンも不在ではなかった。学生が占拠したいくつかの大学の建物は「トルビアックの自由コミューン」、「サンシエの自由コミューン」などと命名された。2018年5月22日の鉄道労働者のデモでは、“68年5月はどうでもいい、我々には1871年が必要だ”と書かれた。また、2018年6月16日のシジェオ核廃棄物埋設センター計画に反対する大規模なデモ行進では、道筋に残された多くのグラフィティのうちバル=ル=デュック市のヴィクトル・ユーゴ河岸に“貴族はくたばれ、パリ・コミューン万歳”とあったことも特筆に値する。この時にパリ・コミューンが持ち出されたのはその潜在する力と反乱のイメージのためで、それに比べ1968年の出来事は決め手に欠けるとされていたようだ。「1871年が必要だ」というのはある意味で「我々」は武力対決の準備ができている、ということで、つまり68年5月が若いブルジョア層の穏やかな抗議行動だったという誤ったイメージに基づいているのだが、それはまた別の話だ。

 「黄色いベスト」運動家たちは、パリ・コミューンよりもフランス革命の方をずっと頻繁に引用し、そこから陳情書の概念を受け継いだ。彼らの社会学や政治文化はそれまでの社会運動とは異なっていた。パリ・コミューンは労働者運動の重要なモデルだが、フランス革命に比べるとはるかに知名度が低く、民衆の行動文化に伝えられたり採り込まれた部分も少ない(8)。しかし2018年12月1日のアクトⅢ[抗議運動第3週]から、パリ・コミューンに影響を受けた好戦的気風を持ち込み、まもなくそれを拡散しはじめた独立系のグループが参加したことで、初めてスローガンが登場した。12月22日のアクトⅥ[抗議運動第6週]では、モンマルトルのサクレ・クールのふもとに“パリ・コミューン1781年(原文ママ) / 黄色いベスト2018年”というグラフィティが出現した。2019年1月12日、大通りの商店を防護する板塀には大きく“マクロンをやっつける1871の理由”と書きなぐられた。“パリ・コミューンは再び花開く”、“パリ・コミューン万歳”、“パリ・コミューンは生きている”など、アクトごとに(アクトという単語はしばしばアナーキストを示す丸で囲んだAの大文字で書かれていた)、デモ行進の道筋にパリ・コミューンに関するグラフィティが増加した。その後、2019年12月5日から始まった年金改革への反対運動でも同様だった。例えば12月8日、マジェンタ大通りには“ストライキで始め、革命で終わらせよう。1871年から2019年。我々はここにいる。GJ[黄色いベストの頭文字]”と書かれ、その2日後のラスパイユ大通りでは“パリ・コミューンを待っている間に金が欲しい”とあった。

 これらのパリ・コミューンの引用はどれもその名称を使ったにすぎず、様々な運動がパリ・コミューンという出来事について何を知っているか、どう考えているかを推察することはできない。しかし、「黄色いベスト」運動家にしても年金改革反対派にしても、1871年の効果(立場によって動員力、または扇動力として)を知っていることは証明された。つまり「パリ・コミューン」は「暴動」、「反乱」、そして「蜂起する人々」により具体的なイメージを付けた同義語のようだ。

 パリ・コミューン150周年は新型コロナウイルス感染症拡大の影響を受けて混乱が予想される。しかし、行動を制限された人々が利用できる数少ない表現方法の1つがグラフィティであり、壁が何を語るかを注視しなければならない。すでに昨年7月14日[フランス革命記念日]には、パリ東部の壁に“150年/我らのパリ・コミューンを取り戻そう/我々は忘れない”と書かれていた。



  • (1) 1848年のポスター集の名称、Gallicaのウェブサイトにはパリ・コミューン時のポスターのオンライン展示がある。
  • (2) 1871年から79年のこれらのグラフィティの例はセリーヌ・ブラコニエール著作 « Braconnages sur terres d’État. Les inscriptions politiques séditieuses dans le Paris de l’après-Commune (1872-1885) », Genèses, n° 35, Paris, 1999より
  • (3) Cf. Éric Fournier, La Commune n’est pas morte. Les usages politiques du passé, de 1871 à nos jours, Libertalia, Montreuil, 2013.
  • (4) Cf. les pages consacrées par Ludivine Bantigny à la mémoire de la Commune dans 1968. De grands soirs en petits matins, Seuil, coll. « L’Univers historique », Paris, 2018.
  • (5) Ludivine Bantigny, 1968, op. cit.
  • (6) Cf. Laurence De Cock et Mathilde Larrère, « Anvers et contre tout », dans Manifs et stations. Le métro des militant-e-s, Éditions de l’Atelier, coll. « Celles et ceux du Maitron », Ivry-sur-Seine, 2020.
  • (7) Jacques Rougerie, « Entre le réel et l’utopie : République démocratique et sociale, Association, commune, Commune », dans Laurent Colantonio et Caroline Fayolle (sous la dir. de), Genre et utopie. Avec Michèle Riot-Sarcey, Presses universitaires de Vincennes, coll. « Temps et espaces », Saint-Denis, 2014.
  • (8) Sophie Wahnich, « Sans-culottes et gilets jaunes », dans Joseph Confavreux (sous la dir. de), Le fond de l’air est jaune. Comprendre une révolte inédite, Seuil, 2019.
  • [訳注]パリ・コミューンに参加し救護員・戦闘員として活動した無政府主義者で詩人。「パリ・コミューンの女たち」参照。

(ル・モンド・ディプロマティーク 仏語版2021年3月号より)