コロナ禍でもマテ茶を回し飲みするアルゼンチン人


ホセ・ナタンソン(JOSÉ NATANSON)

ル・モンド・ディプロマティーク(アルゼンチン版)編集長


訳:生野雄一


 アルゼンチンでは国民的な飲み物であるマテ茶を回し飲みする習わしがある。コロナ禍で、政府や保健衛生当局からの警告にもかかわらずこの風習は止まない。儀式にも似たこの風習には喫飲者間の信頼関係を確認する意味があるという。翻って、アルゼンチンの人々にはフィジカルコンタクトによってお互いの愛情や親近感を表す傾向があるとの興味深い分析も示す。[日本語版編集部]

(仏語版2021年2月号より)

連作« Los Gauchitos »から« Tomando mate » 「マテ茶を飲むガウチョ」(年代不詳)
Juan Manuel Blanes © Museo de Bellas Artes Blanes, Montevideo

 16世紀に、将来のリオ・デ・ラ・プラタ副王領[訳注1]の首都となるブエノスアイレスを建設した後、金銀財宝を求めてスペインのコンキスタドールたちはパラナ川[訳注2]の緑豊かで険しい流域を遡っていった。そこで彼らは、求めていた金銀の代わりに、先住民のグアラニ族が不思議な飲み物を楽しそうに飲んでいるのを見た。それは原料の木の葉を乾燥させ、刻み、挽いて、「マチ(mati)」と呼ばれるひょうたんに入れて煎じた飲み物で、やがてこれが「マテ(maté)」と言い慣わされることになる。この飲み物には、酸化防止、水の浄化、コレステロールの調整、利尿作用など多くの性質があるが、イエズス会の修道士たちが関心を持ち、彼らをマテの栽培に駆り立てたのは、多量に含まれるカフェインに精神を昂進させる特性があるからだった。17世紀、原住民にキリスト教を布教するためにこの地に馳せ参じてきたイエズス会の宣教師たちは、もはや半奴隷となっていたグアラニ族の人たちがマテ茶を飲むと主人の命令によく従うということに、早くから気づいていた。

 時代を経て、マテ茶はプラナ川の下流域に伝わりパンパ大草原に辿り着く。そこでは、ガウチョ(カウボーイ)たちが肉ばかりの偏食を補うために利尿作用のあるマテ茶を飲んでいた。マテ茶は、まだ国としての自覚に欠けるこの国にあって国民的な飲み物となる。南米のほとんどの国で中央権力が徐々に周辺に支配力を及ぼしていったのとは異なって、アルゼンチンでは、米国やドイツにやや似て、州の集合体として国の形ができた。ほぼ300万㎢の国土(フランスの4倍)のうち100万㎢を占める北部諸州は16世紀にできたが、パタゴニアのように創設されてまだ100年も経っていない行政地域もある。ブラジルとの国境沿いには熱帯林がある一方で、亜寒帯気候の南部地域もある。ブエノスアイレスのようなコスモポリタンな大都市があるかと思えば、近代化から忘れ去られた地方地域もある。そのために、この国には「アルゼンチンらしさ」と言えるものは多くない。言語とカトリック信仰(衰退傾向にあるが)の他にアルゼンチンを特徴づけるものといえば、アサード(週末に食べる伝統的な焼肉料理)とサッカー(悲劇の国民的英雄ディエゴ・マラドーナに象徴される)、そしてやはりマテ茶くらいしかないだろう。マテ茶はいたるところで飲まれている。家庭でも、オフィスでも、お店でも、路傍でも、公共交通機関のなかでも、そして議会においてさえ、議員たちは夜の会期の際にはたっぷりと飲む。 

 ちょっと前までは、マテ茶は諸外国には知られていなかった。アルゼンチンと隣国のウルグアイとパラグアイで飲まれているだけだった。その後、欧米の一部の店で見られるようになったが、それでもまだわずかなものだった。マテ茶には南米大陸以外に輸出されるのに必要な条件(古くからの起源、さまざまな薬効、類い稀な風味)は全て揃っているにもかかわらず、海外に普及させる努力は期待されたほど成果がなかった。唯一の例外は、奇妙なことにシリアだ。そこではアルゼンチンからの移民によってマテ茶が普及している。ジャーナリストのマルティン・カパロスが指摘するように、世界中で誰もが同じソーダ水、同じフレーバーウォーター、同じ濃縮還元ジュースを消費し、暮らしが画一化している現代にあって、マテ茶は「資本主義の原理に従わない稀有な例外的存在の1つで、金儲けにもならないが、なくなりもしない(1)」。公式データによると、アルゼンチン人は年間1人当たり6.4㎏の茶葉を消費しており、それはおよそ100リットルのマテ茶になる。 

フィジカルコンタクト嗜好

 アルゼンチン人の心の内奥に宿るマテ茶は、国民意識の象徴であると同時に社会の融合にも一役買っている。最も庶民的な階層から最も富裕な階層に至るまであらゆる階層でマテ茶は大変好まれている。ブエノスアイレスの高級地区パレルモで毎週日曜日に催される、旧植民地生まれの白人上流階級お好みのスポーツであるポロの競技場でこれ見よがしに銀器に入れて出され、貧しい郊外では質素な木製の器で飲まれている。食事抜きでベッドに入らなければならない時に空腹をまぎらわすために飲むのもマテ茶だ。50年前に、フアン・ドミンゴ・ペロン[1946年~1955年および1973年~1974年に大統領在任]の政権下でラテンアメリカにおいて最もまとまりがあり最も平等な社会を築いたこの国が、アサード、サッカー、マテ茶という、あらゆる社会階層の全国民から受け入れられた3つの国民的象徴を拠りどころとしていたというのはおそらく偶然ではなかろう。1970年代の軍による独裁政権以降は不平等と排他主義のメカニズムが高まったものの、マテ茶には同胞愛に満ち溢れ神話ともなったあのアルゼンチンの鼓動が脈々と鳴り響いている。 

 マテ茶は、人々の交歓の源であり、社会の絆を演出するものだ。1人で飲むこともできるが、普通は誰かと一緒に飲むものだ。一番良い楽しみ方は輪になって飲むことだ。“セバドール”と呼ばれる人が茶葉とお湯で一杯になったひょうたんを準備し、同席者の間でこれを回させる。受け取った人は“ボンビーリャ”という先端にフィルターがついたストローでマテ茶を吸い、信頼感と親近感を示すしぐさで次の人に手渡ししていく。 

 お察しの通り、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)はこの喫茶習慣を見逃しはしなかった。ボンビーリャを共有する人たちの唾液からウイルスが伝染するのはほとんど確実だからだ。この感染症の大流行の当初から政府を補佐している専門家委員会の警告にしたがって、政府は主要な勧告として、ソーシャルディスタンス、マスクの着用、そしてなんとお節介にも、セックスを控えること、に加えて、マテ茶の回し飲みリスクの回避を挙げた。「茶は皆で分け合ってもボンビーリャは共有しないこと」というのが感染防止の目的で政府が作った標語だ。 

 状況は憂慮すべきものだった。ペロン主義者のアルベルト・フェルナンデス大統領は早くも3月19日には、他の南米諸国に先んじて厳格な外出禁止令を出し、それも、まだ陽性者のいない州も含めて全州におよぶ全国規模のものだった。この毅然とした施策のおかげで、少なくとも初期段階では感染症を効率的に抑え込むことができた。チリやブラジルなどの隣国が爆発的な感染の危機に見舞われ、病院は手一杯になり、死者の埋葬もままならないなかで、アルゼンチンは、機能の劣る保健衛生体制を補強し、人工呼吸器を入手し、集中治療室を整えるための時間があった。 

 新型コロナウイルス感染症の大流行勃発のわずか3カ月前[2019年12月]に、混成で脆弱な連立を率いて政権に就いたフェルナンデス大統領は、主に厄災を撃退する努力が評価されて、世論調査では人気が急上昇した。この予想外の成功を受けて政府は外出禁止措置を延長したが、社会はもう我慢できないとして警戒を緩め、以前の生活に立ち戻ってしまった。これによって、規範と現実が食い違い、法律の定めるところと社会が良しとするものに齟齬が生じるという、アルゼンチンに典型的なプロセスが始まった。おかげで、医療体制の崩壊は回避できたものの、感染者数と死亡率は再び増え始めた。2021年1月には、アルゼンチンはイタリアやスペインなどの欧州諸国と同水準に並んでいた。 

 ソーシャルディスタンスのルールを実行することの難しさはどの国にも共通しているが、アルゼンチンでは他の国々よりも強い抵抗に遭った。愛情や感情の表現の仕方は社会によってかなり異なる。42カ国で行われた調査によると、アルゼンチン人は、初対面の人と接するときにすぐにフィジカルコンタクトをしようとするグループに属するという。 

 アルゼンチン文化は、体を近づけることを好むこの傾向を立証している。その最たるものがタンゴで、パートナーたちは互いの脚を絡ませ、抱擁する。19世紀には「みだら」だとされて禁止された。同様に、外国の音楽がこの地で流行るかどうかは、それが体を近づける機会を与えるかどうかと、しばしば関係している。特に1970年代に生まれたニューヨークのパンク・ロックバンドのラモーンズがアルゼンチンで大当たりした背景には、それがある。このグループはニューヨークではクラブで演奏していたが、アルゼンチンではスタジアムを満員にした。そのコンサートは巨大なポゴを踊る機会だったのだ。ポゴは激しく飛び跳ねて踊るダンスで、人々の体がぶつかり合う。 

 アルゼンチンの政治の歴史さえもフィジカルコンタクトの連続とみることができる。20世紀の最も華々しい2組の結婚──エビータとフアン・ペロン、そしてもっと後のクリスチーナとネストル・キルチネル[2003年~2007年大統領在任]──は、抱擁する彼らの写真の数々によってその記憶を永遠にとどめ、悲劇的な運命(エビータとネストルはともに配偶者を残して先だった)を辿った彼らの愛を証している。そして、ペロン主義[フアン・ペロンが推し進める政治、あるいはそれを支持する運動]が生まれたのは、1945年10月17日に、都市周辺部から押しかけてきた数多くの労働者たちが、アルゼンチンの政治活動の中心地である5月広場に集まって、軍事独裁政権に囚われたペロン大佐の釈放を要求したときだ。人々がひしめき合って勝利を喜んだこの大規模な動員行動は、毎年、異教徒の儀式のように、記念式典のデモで祝われている。 

 この国の歴史上最も遍(あまね)く評価されている作家のホルヘ・ルイス・ボルヘスのものとされる表現では、アルゼンチン人とは「スペイン語を話し、自分をフランス人だと思っているイタリア人」だと定義している。実際、アルゼンチンは、イタリアを別にすれば世界で最もイタリア人の末裔が多い国だ。そこから受け継がれているものは、私たちの話しぶり、身振り、大声で話したり人に触れたりする仕方に表われている。頬にキスし抱き合うのは、挨拶をするときの最も普通のやり方だ。めったに握手はしない。 

 マテ茶を回し飲みする儀式はこの感情豊かな国民性と完全に軌を一にするものだ。つまるところ、同胞に対する信頼を証明するのに、ボンビーリャを通じて唾液を共有する以上に良い方法があるだろうか? 社会生活上かくも有益であるとともに公衆衛生上かくも有害なマテ茶の喫飲習慣は、保健衛生ルールや政府の警告を無視して、外出禁止期間中あるいはそのほとんどの期間中、続けられた。1、2カ月も経つと、人々が公園に集まって何事もなかったかのようにマテ茶を回し飲みするのを見ても驚かなくなっていた。個別に感染源を突きとめるのは困難としても、保健衛生当局は国中でのマテ茶喫飲がウイルス伝染の主要な媒介の1つであるとみており、規律が守られた最初の外出禁止措置の後にウイルスが拡散した重要な要素だと考えている。大流行の第一波をほぼ免れたいくつかの都市でも、マテ茶喫飲の集まりが再び始まると感染者数のグラフは急激に上向いて、現地当局は改めてより厳しい外出禁止規制を宣言することを余儀なくされた。マテ茶喫飲を抑えることはとても困難だとわかりながらも、いくつかの州は思い切って禁止した。 

回し飲みがまた始まる

 しかし、アルゼンチン人は頑固だ。数ヵ月間は保健衛生法令に沿って居心地の悪い挨拶を交わした後は、結構おおっぴらにキスと抱擁の習慣に立ち戻った。マテ茶に関しては、オフィスや公共の場を覗いてみれば、政府の規制や専門家の警告をものともせず、回し飲みがこれまでにないほど行われていることがわかる。植民地時代の年代記によれば、マテ茶の回し飲みの起源はグアラニ族の時代に遡る。誰かが亡くなると、部族は死者を村で葬り、墓の上にマテの樹を植えたものだ。それを家族が大事に栽培し、皆がそろって車座になって茶を喫し、死者の霊気を吸引することで死者にあの世での命を与えるのだ。 “セバドール”が差し出す熱くて苦いこの飲み物を飲んでいるときは誰もそんなことには思い至らないが、この習慣は葬儀の一側面を今に伝えている。アルゼンチンで新型コロナウイルス感染症が奪った人の命は43,000人にのぼるが、人々はマテ茶の回し飲みには抗えない。 


  • (1) Martín Caparrós, « Elogio del mate » , The New York Times, (en espagnol), 23 novembre 2017.

  • [訳注1]副王領とは、スペイン王国が16世紀以降、海外領土統治のために創設した制度。領土の統治を国王の代理人としての副王に任せ、副王領には王国の州または県に準ずる主体として本土と同じ権利を与えた。リオ・デ・ラ・プラタ副王領は1776年に創設された。

  • [訳注2]ブラジル高原に源を発し、パラグアイ川と合流してアルゼンチンの平野を流れ、ラプラタ川となって大西洋にそそぐ。全長4500㎞。



(ル・モンド・ディプロマティーク 仏語版2021年2月号より)