統合アンスティチュ・フランセ構想の頓挫とその後の中央主導態勢

翳りの見えるフランス文化外交


パスカル・コラザ(Pascal Corazza)

ジャーナリスト
著書にVoyage en italique, Transboréal, Paris, 2012.がある。


訳:村上好古


 フランスは自らの文化と言語を世界に普及することに力を入れてきた文化外交の国として知られる。しかし19世紀後半にアリアンス・フランセーズを設立したことに始まるこの政策は、現地組織の自律性との調整をどう図るかなど多くの問題を抱え、その方針に紆余曲折を繰り返してきた。近年は、かつての「威光」ではなくソフトパワーを活かす「影響力外交」に転換していると言われるが、予算や現地拠点の削減など、影響力の後退が言われている。[日本語版編集部]

(仏語版2020年11月号より)

フランス外務省


 文化外交? フランスがこの政策を考え出したのは、1870年にプロシアに敗れ国際関係での存在感を失っていると感づいたとき、その影響力の喪失を、当時そう呼んでいた「文化の威光」で埋め合わせるためだった。この流れに沿って1883年には、フランスの植民地において人々が一層フランス語を話しフランス文化への帰属意識を高めることを企図し、アリアンス・フランセーズが創設された。この非営利団体は、各支部の運営に当たる理事の半数はその国から選ばれた者で構成されるという点に、その特徴があった。今日約40の国に112の教育施設を持つ ミッション・ライック・フランセーズ(la Mission laïque française[宗教的目的を伴わないフランス語教育ミッション、の意味])は、1902年に誕生した。そして5年後、グルノーブル大学のイタリア文学の教授ジュリアン・リュシェールによって、アンスティチュ・フランセ・フィレンツェ(l’Institut français de Florence)が設立された。これらは民間主導であると同時に、国から財政面の支援を受け大なり小なりその後押もあるが、その直轄組織ではなかった。フランスの動きは他国に先んじたものであり、イギリスがブリティッシュ・カウンシルを設立したのは1934年、ドイツのゲーテ・インスティトゥートは1951年、スペインのインスティトゥト・セルバンテスは1991年のことだった。

 これら非営利組織に依存して世界に拡がり、すぐに外務省とも関係を持つようになったこの態勢は、省内に「海外におけるフランス語での活動と文化交流関係を担当する総局」(文化関係総局)[訳注1]が1945年に創設されたことで、まがいもなく公式のものとなった。ただ当初から、その歴史は紆余曲折に満ち地政学的な利害関係と国の文化的な価値観とに翻弄されるものになると予想された。最近の変化で言えば、2010年に、各種関係組織を統合してアンスティチュ・フランセを創設したことがある。在独フランス大使館の元総務部長は、「私たちの隣国の例にならい窓口を一本化するのは、良い考えです」と評価した。「アンスティチュ・フランセの設立前は、ある文化行事を行うとき、国のいくつもの事業部門から支援を得ることができたのです。それらの間では互いの連絡が行われていませんでした(1)」。事業を行おうとする者は、たとえば、大使館の文化担当アタシェ、文化センターの館長、音楽部門の専門事務所、これらのそれぞれに出向き、国からの援助を3回受けることができた。合理化が必要だった。

 2000年代になると、予算の基本方針に関する法律[訳注2]と、公共政策の包括的見直し(la révision générale des politiques publiques : RGPP)とによって、外交ネットワーク、特にその文化関連部門の削減が行われた。国の予算と民間資金が併存しているこの特異な経済主体にとって、国の資金が減ると、その収入全体が影響を受ける。活動のスポンサーは自らにとってあまり利益を生まないと思えるものへの投資には背を向けがちであるし、フランス語クラスの生徒はネイティブ教師の数が減ればそこから離れて行く。ところが文化センターの独自財源のほとんどはこれらのクラスからのものなのだ……。

 2001年、フランス2のテレビ番組「文化の熱いスープ」[培養液という意味もある]の司会者ベルナール・ピヴォは、この番組があと2回で最終回を迎えるというときに、「フランスには今なおフランス語とフランス文化を広めて行く力があるのか」というホットな問題を取り上げた。バルセロナの文化センター館長のフィリップ・ルリケ氏は、放送準備のためにスペインでピヴォの訪問を受けた時は現状への憤懣(ふんまん)をあらわにしていたが、番組に出た時はおとなしいものだった。外務省でこの分野の指揮にあたる責任者であり、まさに文化外交ネットワーク人脈の上に立つブルーノ・ドゥレ氏も番組にゲスト出演したのだが、彼は表立って批判する者があればその首を飛ばすと脅していたのだった。しかしピヴォは、当時アンスティチュ・フランセ・ベルリンの館長であったベルナール・ジョントン氏の証言を手の内に用意していた。彼は、「外務省の小役人どもにぺこぺこする」のにうんざりしていると公言した。「多くの同僚とは違って私は教育現場に戻ることを恐れていなかったから、自由に振る舞えたのです」と彼は今回のインタビューで私たちに語った。国民教育省の公務員の多くは、外交ネットワークに派遣され、任地での勤務を2カ所終えるともとの国民教育省に戻ってくる。古典文学の教授資格を持ちアンスティチュ・フランセ・クラクフ[ポーランドの都市]の元館長であったパトリス・シャンピオン氏は、サルセル[イル=ド=フランス地域圏、ヴァル=ドワーズ県のコミューン、人口約5万8千人(2013)]の中学校に配された。「私はこう告げられました。『あなたは私たちが期待しているようなタイプの職員ではありません。勝手な行動が多過ぎるのです』」

 社会党の国民議会議員イヴ・ドージュ氏もそこに出演していた。彼は外務委員会の命を受けある報告書を提出していたのだが(2)、それは、政治的中立を守るという義務が、往々にして沈黙を守るということと同義になってしまう現場から、その生の声を表に浮かび上がらせていた。内容は辛辣だった。――星は消えた、フランスはもはや「輝いて」などいない。専門的な職業にすることが必要だ。「くだらないし些細なことにこだわる」監視の目で主体的な行動が封殺されるようなことがあってはならない……。こうした声に対し同議員は、「文化というものは、折り目正しくしてはいられない。政治的に当たり障りのない言い方をするだけの世界に安住していればいいというわけではない」と考えていた。彼は、外務省の監視の目を緩め主体的な行動を活性化するために、外務省と文化省、国民教育省にまたがる議論の場を設けることを奨め、文化センターやアンスティチュの運営に自律性を持たせることが重要だと強調した。

 それでも2000年代は解体が続いた。領事館の多くが閉鎖されたため赴任地が見つからない領事が文化センターの館長に「天下り先」として送り込まれた。ドイツには、第二次大戦後18の文化センターがあったが、その半分が閉鎖された。イタリアでは、ジェノアに次ぎトリノのセンターがなくなった。セヴィリア、ポルト、リスボン、ウィーン、アムステルダムと、明け渡された砦の名前がいくつも並んでいる。もちろん、アジア、アフリカ、近東地域など新設が行われている他の場所もあるが、政策的な配置計画がもはやないという印象は拭えない。2001年のドージュ報告は、現場ヒアリングからいくつもの提案に至る過程を通じこれとは違う観方を示し、ゲーテ・インスティトゥートやブリティッシュ・カウンシルに倣い、文化外交ネットワークは監視下に置かれるのではなく自律性を持つのだ、という考えが明らかにされていた。2007年から2010年まで外務大臣だったベルナール・クシュネル氏はこの考えに好意的で、「東洋学の試験に受かったりENA(高等行政学院)出身だからといって、文化とはどういうものか分かっている訳ではありません」と私たちの取材に答えている。

 そしてアンスティチュ・フランセが誕生した。これについては、当時その学院長であったグザヴィエ・ダルコス氏が、次のように回顧してくれた。「私たちはまず施設の名前をアンスティチュ・フランセというブランドとして、次いで、「IFシネマ」だとか「キュルチュールテック」だとか、その活動内容を統一しました。ですが、その組織体を合体させる段になって困難にぶつかりました。契約職員を雇い直し、正職員に任用しなければなりませんでした。するとファビウスは私にこう言ったのです。『今、君たちはガス工場(やたら複雑なもの)を作ろうとしている』と。それで私たちはすべてをやめてしまったのです」。2013年暮れ、当時外務大臣であったファビウス氏は、統一に向けたそれまでの成果を「肯定的」に評価したが(3)、この実験が拡張されることにはならなかった。「うまく機能したのです。それで中止したのです」と、冗談めかした言い方をしたうえで、クシュネル氏はこう続けた。「外務省は国家の中にある国家なのです。絶対的な保守性を持っています。専門職グループは改革に賛成しなかったのですが、それと同じように、彼らはいつも通りの手に出ました。大臣が交代して、それを放擲(ほうてき)するのを待つのです」。ダルコス氏の方は、こう語った。「組織統合に必要とされる費用の大きさのほかに、大使たちが、政府の別の部門から給料が出る人間を配下に持つのを望まないということが障害になりました」。つまり大使たちは自分の直接的な指揮権を失いたくなかったのだ。2009年から2014年まで外務事務次官を務めたピエール・セラール氏は、「彼らが消極的だったのは、その考えが、国際的な対外活動のことを何も知らない者と何ら変わらないものだったからです。」と分析してくれた。議員たちは議会でこれに理解を示すことになった。ともかく、ニコラ・サルコジ氏の外交顧問であったジャン=ダヴィッド・レヴィット氏はそういう見方をしていたし、大統領にそのことを伝えた。

 組織の合体が実現していれば、高給を食む海外駐在エリートと、しばしば最低賃金しか支払われない現地採用の職員との溝を幾分埋められたかもしれない。「現地の職員を搾取しているのです、許しがたいことです」とドージュ氏は私たちの前で激怒した。2019年9月18日付の報告書で、ヴァンサン・ドラエとレミ・フェロー両上院議員は、「国家の対外活動」に携わる職の給与総額は2008年から2018年の間に20%増加したことを示した。一方彼らの定員はおよそ10%減り、その減少の大半は現地採用の職員だった。職員は少なく給与は高く、というパラドクスには外国での住居手当が関係している。この手当は課税が免除されており、ふたりの上院議員は、年間1億5,000万ユーロ分の国家収入の減少要因になっていると見積もった。これは、2013年末にファビウス氏が改革案を葬り去るに際して、「予算が5,000万ユーロ必要になる(……)、これはとても受け入れられるものではないだろう」と説明した、その組織合体費用見積りの3倍に当たる。

 現在は、大使と直接の協力関係にある文化参事官(多くはENA出身者)が現場を統括している。各施設の館長は日常業務の支払いに当てる数千ユーロの支払い権限を持つが、その予算はこの大使館のナンバー3の手中にある。文化センターの自律性がなくなることは、きめ細かな文化政策ができなくなることを意味する。文化には地域性があるからだ。2000年代にトリノの館長であったフィリップ・ハルディ氏はこう回顧する。「トリノは、カトリックの国の中にあってプロテスタントの町です。このことはナポリでやるのとは違う活動計画が求められることを意味しました」。各地の歴史とその下で形作られた感性に配慮することが、活動計画を検討するときに忘れてはならないことのひとつなのだが……。

 フランスは、その「ソフトパワー」を、ファビウス氏が大使のことをそう呼んだ「外国にいる地方長官」の手に委ねる道を選んだ。しかし、「外交というものは『地方庁』の管轄に属するものではないし、そう考えることは大変な誤りかもしれません。そうではなくて社会と社会との関係なのです」とパリ政治学院のベルトラン・バディ教授は言う。「私にはすべて現地でその任に当たっている人に懸かっているように思われるのですが、彼らにはふたつの系統があります。『中央寄り』の理念に忠実なグループと、『異色』と言われる人物を招いたり活動に参加させたりして、地元の人たちに、表には現れない極めて多彩なフランス社会があること示そうとするグループとです」

 こうした中央主導態勢の結果はと言うと? 「現在は、国際間の力の源泉になっているのは経済であって、文化ではありません」と、2014年から2018年までアリアンス・フランセーズ財団の理事長であったジェローム・クレマン氏は言う。そして歴代の理事長は、旅芸人ごときではなく企業のトップを外国に差し向けている(4)。2008年の金融危機によって、文化との関わり方に関する変化に一層スピードが加わり、他の産業と同じく文化もまた市場経済に組み込まれざるを得なくなった。しかも、2015年からは、言語と文化の普及活動が、観光や企業活動と同じ位置づけで、グローバリゼーション・開発・パートナーシップ総局に属することになり、その時以来「文化影響力外交」という名前が付けられた大臣の担当におかれているのだ……。

 その「影響力」はますます弱められている。大使館が行う関連業務に付けられた予算は2009年には5,300万ユーロあったが、2016年にはもはや3,000万ユーロしかなかった。世界全体で、予算は20年間で30%減少した。同じ期間に、中国の孔子学院は100校から510校に増加し(2006~2016年)、プーシキン・インスティトゥートは2017年にオンライン授業を開始した。2007年にトルコで設立されたユヌス・エムレ・インスティトゥートは現在45校になっている……。

 文化センター、あるいはフランスの在外施設の呼び名となっている「bunker」[ドイツ語のトーチカという意味]が「外国にある地方庁」だとして、そこでの採用関係はきわめて不明瞭で、大使館の担当官とはメールでしかコンタクトがとれず、「照会窓口」事務の担当部署が、たまに送られてくる質問に答えたり答えなかったりしている。その部署に、フランスではソフトパワーがすでに過去のものになっているとは思わないか、とあえて尋ねてみようという気にもならない。



  • (1) 掲載してある全ての発言は、文化外交に関する著作のために筆者が行った100回におよぶインタビューによるものである。
  • (2) « Rapport d’information déposé par la commission des affaires étrangères sur les centres culturels français à l’étranger, présenté par M. Yves Dauge », Assemblée nationale, Paris, 7 février 2001.
  • (3) « L’expérimentation de l’Institut français ne sera pas étendue », Le Monde avec AFP, 23 octobre 2013.
  • (4) Lire Jean-Michel Djian, « La diplomatie culturelle de la France à vau-l’eau », Le Monde diplomatique, juin 2004.

  • 訳注1]la direction générale des relations culturelles et des œuvres françaises à l’étranger。1920年以来、海外でのフランス語普及活動を行っていた局(Service des œuvres françaises à l’étranger)を、事業の推進力強化のため総局に衣替えしたもの。この総局のもとで行われるその後の組織体制の変遷を含め、簡略化してla direction générale des relations culturelles(文化関係総局)と呼ばれることも多い。
  • 訳注2]国家予算を省庁ごとにではなく、政策目的ごとに作成するという予算組織法(2001年に成立、2006年から施行)のことを指していると思われる。

(ル・モンド・ディプロマティーク 仏語版2020年11月号より)