脱グローバリゼーションに向けて

ポストコロナの新たな旅のあり方


ロドルフ・クリスタン(Rodolphe Christin)


著書にLa vraie vie est ici. Voyager encore ?,
Écosociété, Montréal, 2020.

訳:菅野美奈子


 現代社会において、観光を目的とした旅行は余暇のための人気商品である。しかし、COVID-19(新型コロナウイルス感染症)の世界的流行によってこの産業が減速した今こそ、資本主義の突き進める商業的な観光から脱却すべきであり、地域独自の文化や自然の多様性を尊重し、人間と自然との共生を目指した新たな旅のあり方が求められている。[日本語版編集部]

(仏語版2020年7月号より)


 「アンチツーリズム(反観光)」を唱える過激な論者たちが想像さえしなかったことを、コロナウイルスはやってのけたようだ! 世界観光機関(UNWTO)は観光業の限界なき成長の展望を喧伝していたが、突如として完全停止に追い込まれたこの産業は存外もろいようだ。今ならわかるが、グローバル資本主義、とくに観光産業に不可欠なハイパーモビリティ[人の移動が非常に活発である状態]は、いつでも起こりうるフローの停止に左右される。倒産や解雇のせいでどれだけの生活が壊され、モノやヒトといった資源を利用し尽くすためにどれだけの土地がコンクリートで覆われ、社会が無味乾燥なものにされてきたかを考えたら、フローの停止という災難はまったく喜ばしいことをもたらさない。

 しかしながら、資本主義は臨機応変な対応や補償政策によって、非常に上手くCOVID-19に対処できている。早くも5月中旬に、観光業が「歴史上最悪の試練」を乗り越えるための支援として、エドゥアール・フィリップ首相(当時)は180億ユーロを支出した。環境問題対策における一貫性のなさをごまかすような嘘や手落ちだらけのグリーン成長[訳注1]という幻想がもうそこまで見え隠れしている。

 うんざりする話題から目をそらさずにいよう。「変化」を望んでいると言う人たちの中に、何かへの「転換」が自分たちの日常にどんな変化をもたらすのかをはっきり感じ取っている人がどれほどいるだろうか? このような変革によって、生活に欠かせない快適さという要素を、その便利で何より心地よくて当たり前なものを、どれだけ手放さなくてはいけなくなるのか気づいているのだろうか? ネオリベラリズムのせいで、疎外が生活の隅々にまで広がっており、激務であることも少なくない仕事の世界に加え、安らぎやゆとりのある暮らし、休息や娯楽、そして人間的解放にさえ関連する余暇の範囲にも及んでいる。こうしたなか、余暇を「商品」にする観光旅行が登場するのだ。

 悪臭や騒音を生み出し、労働者の身体をそれぞれの持ち場に拘束する重工業を糾弾するのはたやすい。その一方で、最近でも、商品化されたレジャーを批判することは危険な試みであった。笑われたり馬鹿にされたりするならまだしも、下手をすると不審に思われてしまうこともあり、誰を相手にしてもそうだった。観光は楽しいうえに道徳的と思われていた。それはなごやかな人間関係を生み出すし、発展途上国や辺鄙な地域の開発につながり、その土地の自然や文化に「価値」を見出して「活用」することもできる。自然や文化を売り物にし、そこから利益を得るにはそれらを保護する必要があるが、両立しえないことに気づかぬまま、観光資源化が実現すれば保護活動も行われるだろうと考えられていた。また、旅行する余裕があってよかったと喜ぶ平凡な消費者のように、観光の恩恵に浴する人たちにとっての「象徴メリット(bénéfices symboliques)」[訳注2]や、バカンス旅行の自慢話にみられる自己陶酔的な満足をみても、観光は批判の対象になりえなかった。

有給休暇は観光旅行のため?

 賃金労働者が増え、消費社会が発展して以来、観光業は生産至上主義の社会を傍らで支える原動力であった。この癒やし産業は、すぐさま働き詰めの生活とバランスを取るための一つの方法として台頭した。生産活動の対価としての賃金。これこそ、楽園の輝きを垣間見たいという儚い望みに支えられた悪循環を生み出す交換だ。楽園にはさまざまな種類があって、流行や気分に任せてあちこち移動しながら、短時間でいろいろと訪れなければならないだろう。そのうえ余暇市場が発展したことで、賃金労働者は消費から逃れられなくなってしまった。給料は消費するために使われるべきなのだ。

 この閉ざされたサイクルの中に賃金労働者を留めておくことは、古くからの戦略である。ヘンリー・フォードは早くからこの手を熟知し、自社で働く工員の収入を上げることで、彼らに自社製品をより多く買ってもらい、車社会の発展を確固たるものにしようとした。まさにテーラーリズムの有能な実践者であった彼は、強制に関する真なる実験を行ったナチズムにも好意的であった(1)。ともあれ賃金労働者は、ダニー=ロベール・デュフールが明確に示したように(2)、ある時は生産しまたある時は消費することで、2度働くのだ。広告によるプロパガンダは、この二重の軛(くびき)を覆い隠している。「生きてゆくために消費しなさい」という指令に対し、私たちはいつも「自由意志で従っているのだ」という印象を与えている。「己の自由を抑えなさい、そうすれば享楽が手に入るでしょう」……。美しい景色、旅行先の歓迎ムード、癒やしといったあらゆるイメージを駆使した誘惑の大いなる作用は、悪知恵の産物であり、本来逃避ではないはずのバカンス旅行を逃避のように見せることができてしまう。

 社会が勝ち取った権利の象徴である有給休暇は、瞬く間に観光する権利に変わってしまった。バカンス旅行の大衆化はいわば社会的進歩の証と思われていたが、実際には旅行業界の発展にしかならなかったと認めざるをえない。消費社会では、政治の民主化が堕落し、消費活動の大衆化に成り果てる。それゆえ、政治は単に家計の購買力を管理することと混同されてしまうのだ。知識人にしろ、政治運動や政府にしろ、人々が休暇を取って思いのままに過ごせるような社会に立て直すことについて、もっと深く考えなければならなかったのではないか。こうしたみんなの自由は、外出禁止期間中に見かけた「時間があるから自分の好きなように過ごそう」という言葉のように、大事にされるべきだったのではないか。それにもかかわらず、ソーシャルツーリズム[訳注3]から商業的ツーリズムへの展開を経て、資本主義は想像を超えるまがいものがはびこる場となってしまった。

 フランス人民戦線と第二次世界大戦末期の解放期を経て[訳注4]、観光はいろんなことを学んだり地理や文化を発見したりする機会となり、人間的解放へ導くと考えられた。しかしその後、消費社会で富の再分配を機能させようとする資本主義が観光を担うようになった。「自由」はサービス業が扱うものとなり、いまや購入され消費される。さらに気がかりなのは、余暇の過ごし方を商品化のレールに乗せるために行われたこの信じがたいマーケティング活動への批判的な見方が全く欠けていたと思われる点だ。この件に関して、改革か革命かという古くからの議論が繰り返される。すなわち、商品化されたレジャー活動の社会的基盤を広げながら資本主義を容認できるものに改良するか、あるいは人が生きることの目的を考え直して生活条件と行政のあり方を刷新するかという選択だ。

 楽しいことが盛り沢山の観光旅行は、私たちを「正常化=規範化された個人」にする。つまり仕事中は生産者、旅行中は人生を謳歌する者というように、各役割に順応する人間となる。私たちは一生懸命に働いた後、一時的な癒やしを得て、あるがままの世界に満足する。旅先では、先進国の出身であることに安心し、貧しい人々と交流して自分たちは恵まれていると実感する。そのとき、少々罪悪感を抱く人もいれば、多分に無礼な態度で接する人もいる。これこそ、顧客を増やし売上げを増大させるためのブルジョワ気分を味わえるライフスタイルなのだ。COVID-19の世界的流行のせいで一時停止に追い込まれたこの世界は、それでもなお、以前よりいっそう豪勢に再出発することを待ち望んでいる。もはや非常事態の時にしか、この世界が隠している人々の不平不満は表に現れてこない。

 観光旅行に癒やしの効果を求めることは目新しくないが、コロナ危機のせいでまさにこの産業が広く世界的に停止に追い込まれたことは見過ごせない。また、ポストコロナのツーリズムを保健衛生の観点から利用しようとする以下のような提案を、Easyvoyageという旅行ポータルサイトの創設者ジャン=ピエール・ナディール氏が打ち出したことも注目に値する。「身体の次は、心の手当てが効果的だろう。経済が回復すれば、この夏、医療従事者を対象にした無償のバカンス旅行プロジェクトをクーポン券の配布という形で計画し進めることさえできるのではないか(3)」。これは旅行業界の本音が透けて見える節操のない提案だが、生産能力を回復させるために労働者を応急処置するといった、いうなれば余暇を商品化した観光旅行の社会的な有用性に適ったものだ。旅行業者は窮地を脱するために、外出禁止令のせいで精神を病んでしまった人や疲れ果てた医療従事者を治療する医者になろうとしているのか? 観光はPTSD(心的外傷後ストレス障害)の治癒を目的とした公共サービスの新たな任務を担うのだろうか? この問題提起は、観光地の多くが医療クリニックのように閉鎖し隔離されているからいっそう厄介である。観光地はまもなく保健省の所管になるのだろうか?

あらゆる生き物にとって「住みやすい」世界を求めて

 しかし、観光旅行は生活必需の商品ではない。旅行できるのは、自分たちの「楽しみ」のため、どこかに滞在する経済的余裕のある人々に限られたままだ。不平等観測所(Observatoire des inégalités、独立機関)によれば、管理職の80%が休暇中に旅行するが、労働者階級では50%に過ぎず、条件も行き先も異なる。発展途上国における格差はいっそう大きい。観光業が提供するサービスは、グローバリゼーションがもたらした私たちと身近な地域との関係の変化、すなわちその結びつきの喪失の現れである。他方、外出禁止令は私たちの日常生活の短所と長所を浮き彫りにした。まさにこの点、諸々の生活条件を批判的に洗い出すことを出発点にして、私たちは実社会に対して自分たちの行動力を発揮しなければならない。目的は、日常生活における我慢ならない点を改善し、暮らしやすくすることであろう。日常を忘れるため世界の果てに旅立ち、そこで異国情緒を台無しに、つまりはヴィクトル・セガレンの言う「異なるものの概念(notion du différent)」を自分たちの都合に合わせて改変し、つまらないものにしてしまうような私たちの生活を変えなくてはならない。そのためには、似たり寄ったりな場所が増えていくことや、お気楽にも荒廃を招くような現実世界の改変が広がっていくことに抵抗しなくてはならないだろう。

 しかし、それは各地域を要塞化することではなく、むしろ詩人で思想家のエドゥアール・グリッサンが切り拓いた道に従い、グローバリゼーションを「世界性(mondialité)」に取り換えることなのだ(4)。「世界性の思想は、世界を崩壊に導くグローバリゼーションの猛攻と混同しないように、私たちが絶えず呼び求めているものだ」。要するに、市街地から森に至るまで、共同生活が行われる空間的形態である「場所」をめぐる思考への回帰を意味する。人間が瞑想し、自らと物質世界ないし自然との間に新しい関係性を構築するような、人々が団結する空間として「場所」を考えなければならない。思いやりのある思想、創作的でかつ実践的な知はまだ考案されていない。それは、いまや当たり前となった生産性の名のもとに行われる自然と文化のエコシステムの破壊ではなく、むしろ再び脚光を浴びた共生の方法や生物とのバランスの取れた関係を目指すものだろう。これこそが人々に必要な教育なのである。

 また世界性が厳格に要請するのは、商業的な取引関係から距離を置いた「歓待(ホスピタリティ)の政治」の構築であろう。なぜ、都市間、地域間、国家間において、住宅やソファなどの物々交換という方法を思いつかないのか? 世界に開くことは「地元回帰」と矛盾しないだろう。ある地域とのつながりは、もはやその土地の出身かどうかは関係なく、仕事の手伝いや助け合い、能力の交換、単に一緒に居たり会話を交わしたり、その地域に溶け込むことなど、居住者と移住者が出会う方法を考え出そうとする両者に共有された意志の問題だからだ。ここでは、グローバリゼーションの論理に見られるように一つの共通モデルを外へと押し広げていくのではなく、それぞれの社会においてその自然環境との関係から生まれるその土地ならではの特性を尊重するような、さまざまな交流を関連づけていくことが重要となるのだ。

 世界性は「ソーシャル・エコロジー」[訳注5]という目的を追求するだろう。文化や自然環境の多様性への適応が必要であるという考えによって、地域に根ざし、できるかぎりその影響力を広げていくのだ。この点において、マレイ・ブクチン(5)とエドゥアール・グリッサンの思想が互いに結びつくかもしれない。その政治方針は生物全体との連帯を通じて、この世界の「住みやすさ」を作り上げていくことにあるだろう。そこで旅は、この豊かな連帯を移動しながら感覚的に経験できる点に醍醐味がある。それは情緒も風情もない移動とは無縁であり、そんなものよりずっと貴重で、詩的で、密接な関係の、うわべだけでない交流の賜物なのだ。こうした交流は、訪問する側とされる側の経済的関係から生まれる非対称とは無関係であり、政治主導で準備された、人間関係の基本となる「歓待」の互恵的可能性に根ざしたものだろう。


  • (1) Cf. Johann Chapoutot, Libres d’obéir. Le management, du nazisme à aujourd’hui, Gallimard, Paris, 2019.

  • (2) Dany-Robert Dufour, Le Délire occidental et ses effets actuels sur la vie quotidienne : travail, loisir, amour, Les liens qui libèrent, Paris, 2014.

  • (3) Tour hebdo, 14 avril 2020.

  • (4) Cf. Édouard Glissant, Philosophie de la Relation, Gallimard, 2009.

  • (5) Murray Bookchin, Qu’est-ce que l’écologie sociale ?, Atelier de création libertaire, Lyon, 2012.


  • [訳注1] グリーン成長とは、OECDが提唱した標語であり、「自然資産が今後も私たちの健やかな生活の支えとなる環境資源やサービスを提供し続けられるよう留意しつつ、経済成長および開発を促進していくこと」を意味する。

  • [訳注2] この表現は、社会学者ピエール・ブルデューが提唱した「象徴資本(capital symbolique)」の概念を踏まえている。ブルデューは、人々が社会生活において有利な位置を獲得ないし表示しようとするとき動員する非物質的な資本のうち、態度や物腰、感受性などを「象徴資本」と定義した。本文における「象徴メリット」とはすなわち、観光旅行に出かける行為自体が、社会の中で恵まれたグループに属していることの証として働くことを意味する。(参考:宮島喬「象徴資本」『情報学事典』弘文堂、2002年)

  • [訳注3] 子どもから高齢者まで、また経済的あるいは身体的理由で旅行と無縁だった人も含めて、だれもが「観光する権利」を享受できるようにしようとする考え。

  • [訳注4] フランスで初めて有給休暇制度が導入されたのは1936年、フランス人民戦線(左派連合政権)の時代である。その後、第二次世界大戦中の1943年5月に対独レジスタンス運動の一環で「全国抵抗評議会(Conseil national de la Rrésistance )」が組織され、翌年3月には社会保険の設立やインフラ企業の国有化、労働者の権利の拡充等を盛り込んだ綱領が採択された。この綱領はナチスドイツからの解放後、国内政治の基本方針として採用され、戦後の社会モデルの構築に影響を与えた。

  • [訳注5] 環境運動の先駆者の一人であるマレイ・ブクチンの提唱した社会思想。「ソーシャル・エコロジー」は、人間が自然を支配することで生じる環境問題の解決という点で「ディープ・エコロジー」と目標を同じくするが、支配/被支配の関係性を単純に逆転させて人間が自然に従うべきとするエコセントリズムを批判する。自然支配の根本には人間の人間に対する支配があることを看破し、自然を通して人間の行為を見つめ直すことで、人間と自然の共生が可能となるエコロジカルな社会変革を目指す。(参考:庭野義英「ソーシャル・エコロジー」『環境文学用語集』文学・環境学会編) 


(ル・モンド・ディプロマティーク 仏語版2020年7月号より)