仕掛け爆弾 


セルジュ・アリミ(Serge Halimi)

ル・モンド・ディプロマティーク統括編集長

(仏語版11月号論説)

訳:土田修 



 コロナ禍による公衆衛生・環境・経済・社会的な苦悩に見舞われているフランス社会は、そのうえ相次いで発生するテロ攻撃に見舞われている。そんな時に、「これは戦争だ」と言って社会を焚きつけようとする人たちがいる。それはいつか辿った道のりと同じだ。だが、敵は往々にして姿が見えにくく、以前に比べてますます強力な武器が必要となる。それは大砲や空挺部隊のことではなく、市民的自由をさらに侵害する武器のことだ。実際、テロの直後や伝染病が蔓延している時に、誰がわざわざ市民的自由を擁護するだろうか?(外出禁止や営業時間の制限など)数々の制限が何の議論もなしに実施され、受け入れられてしまう。それは一時的なものだ、と説明される。ウイルスやテロが制圧され、平穏な日々が戻って来ればすぐに解除されるというのだ。だが、本当に平穏な日々が再び戻って来ることはない。一旦、こうした制度に屈服した社会は音を立てて崩れ落ちていくかもしれない。

 こうした状況下で発生した、狂信的なイスラム原理主義者による犯罪は、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)を通して拡散した虚言を信じ、面識のない教師の首を切り落とすというものだっただけにフランス国民を驚かせ、強い衝撃を与えた。犯人はチェチェン出身者で、テロ組織と密接な関係もなく、共犯者の数も少なく、フランス国内での支援者もほとんどいない。他の時期だったなら、この中学教師サミュエル・パティさんの殺害事件は、心神喪失者が引き起こした惨劇として扱われていたことだろう。だが、今回の事件はイスラム原理主義者のテロ行為が次々に発生する中で起きたものだ。すなわち、サルマン・ラシュディ、9・11、バリ、マドリード、モハメド・メラ[ミディ=ピレネー連続銃撃事件容疑者のアルジェリア系フランス人]、シャルリー、バタクラン、ニースなどの一つか二つの言葉を聞けば思い浮かぶ一連の事件なのだ。どれも作家やユダヤ人、風刺画家、キリスト教徒を狙った残虐なテロ、死の脅威だ。同様にイスラム教徒も殺害されている。

 それだけに、コンフラン=サントノリーヌで教師がイスラム原理主義者に斬首された事件が知れわたるやいなや、すぐに気を取り直し、監視と取り締まりについて「30年来、何の手立ても取られなかった」とお門違いにも言い立てる人たちの無責任ぶりが知れようというものだ。続いて、国家がイスラム教徒や移民に対して特例措置を採るよう求めることになる。右派は憲法改正について語り、内務大臣は大型スーパーの「エスニック食品コーナー」に懸念を表明し[訳注]、ジャーナリストは国務院や憲法院、欧州司法裁判所を黙らせるよう主張する。それは恣意的な行政命令や警察のブラックリストのみに基づいた身柄拘束を阻害しないようにするためだ。その彼らは、自分がヘイトスピーチにも劣らぬ悪意ある発言をテレビ・ラジオのいつもの情報番組で撒き散らしていることに気づくことなく、ソーシャル・ネットワーク上の「ヘイトスピーチ」を禁止すべきだとさえ言っている。

 これまで歴代の政府は、教師を予算の調整弁として使い、彼らの授業内容に関心はあってもその労働条件には関心のない父母が教師に圧力を行使するに任せてきた。今回の犯行の残忍さはそのような教師に対する国民全員の一致した支持を促すことができたはずだ。しかしそうはならず、またもや「文明の衝突」の兆しが頭をもたげている。その兆しはフランス国民の構成単位を、イスラム原理主義者や極右だけでなく、各々の「共同体」や家族、神へとますます分断することしかなしえないだろう(1)。「30年来、何の手立ても取られなかった」のは、フランスを分断するこうした仕掛け爆弾に対してなのだ。


  • (1) Lire « “Ahmadinejad, mon héros” », Le Monde diplomatique, août 2016.


  • [訳注] サミュエル・パティ殺害事件後の10月20日、大型スーパーを視察したダルマナン内相は、店内にある「エスニック食品コーナー」を見て、「こんなものがあるとは驚いた。だから共同体主義が生まれるのだ」と発言し、SNS上で批判が集中した。


(ル・モンド・ディプロマティーク 仏語版2020年11月号より)