抹殺された哲学者の肖像

サルトルの拒絶


アンヌ・マシュー(Anne Mathieu)

ロレーヌ大学准教授、『アデン』誌編集長


訳:一ノ倉さやか 土田修


 1980年4月19日、ジャン=ポール・サルトルの葬儀には、その約1世紀前に没したヴィクトール・ユーゴーの場合と同様に群衆が押し掛けた。サルトルの死とともにアンガージュマン(知識人の政治・社会参加)の時代は幕を閉じたかのようだ。今や、知識人の世界を特徴付けているのは、大学人の社会問題からの引きこもりとメディアへの露出ぶりだ。サルトルの知識人モデルからはほど遠い。日本でもサルトルについてあまり語られなくなったが、政治の劣化を前にアンガージュマンを再考する意義は大きい。[日本語版編集部]

(仏語版2020年4月号より)

by Brassai


 サルトルのパラドックスというものが存在する。「全体的知識人を象徴する彼は、哲学者、批評家、小説家、劇作家として、思想のあらゆる領域で最前線にいた」(1)が、 死後、母国フランスでその名に相応しい評価がなされていない。このパラドックスは、諸外国においてサルトルの思想や著作が常に威光を持ち続けていたことで、一層際立つ。フランスという国が輝いて見えるのは、いまや内輪で成り立つ順応主義という灯りに照らされてのことだ。しかも、テレビやラジオの偽りの討論は、その順応主義に、社会を混乱させる活力となる幻想を吹き込むことさえできていない。偏狭で紋切型なその国は、第二次世界大戦後に議論を続け、闘争に身を投じ、リスクを引き受けたサルトルから遠く離れたところにいる。ある種の知識人はサルトルが「フランス風」に社会参加する知識人の代表であることを否定する。誰もが認める唯一の作品は『言葉』(1964)だ。この「作家の偉大な作品」について繰り返し注釈がなされてきたが、それは偶然などではない。幼・青年期を語ったこの自伝を読んでも誰も困らないからである。 左派同様、右派の画一的思考は、知識人を一方的に嫌悪するというカードを捨てさると同時に、古くて時代遅れの「部品倉庫」に知識人を仕舞い込むことを可能にすることで、この著作の価値を明確にした(2)

 過ちというレッテルを貼られ、とことん時代遅れで使い古されてきた道具。というのも、一部の知識人が私たちに「サルトルは常に誤っていた」(3)と繰り返し言ってきたからだ。それは、こうした非難が反対に告発者たちの身に降りかかってこない限りにおいてのことだ。『自由への道』の著者(サルトル)が亡くなった数年後の、ギイ・ホックンゲムのサルトルを復活させた言葉を借りれば「けちで貧相で、厳格で、理論家気取りの人々が、幾度となくサルトルを殺そうとした。否定すればするほどサルトルを蘇らせ、彼らがサルトルを拒絶すればするほど、サルトルは彼らを捕捉し、墓場まで引きずり込む。真実のサルトルは、彼らが閉じ込めようと願った変節と裏切りの墓から逃れ出ているのだ」(4)

 もしも当人が生きていたら言わなかったことを、1980年の彼の死以後、人々が容赦なく言うようになる。サルトルは駄作を書く哲学者だ等……。中高生たちは、このような冗談の中で育ち、それは大学の中にも持ち込まれ、そうした冗談に事実上学問的な正当性が付与されることになった。文学の領域において、サルトルはほとんど研究されていない。だが、彼の最初の長編小説『嘔吐』、短編集『壁』、不当に過小評価された3部作『自由への道』を読んでもらいたい。それは、文体やストーリー展開が多様で、皆の「心に訴えかけ」、常に知的・個人的な教養を吹き込む素晴らしい作品だ。つまり偉大な作品の証だ。戯曲は? それらも多様で、創意に富み、時代性をはらんでいる。『出口なし』『汚れた手』という彼の戯曲のなかで最も有名で、今日頻繁に上演されているものを除けば、『ネクラソフ』と『アルトナの幽閉者』が持つ告発の力強さに未だ陰りはみられない。『ネクラソフ』は、情報の不確かさと洗脳に対する告発の威力、『アルトナの幽閉者』は、歴史上、暴力の時代の目的と手段に対する告発の威力である。

 勿論政治的な作品もある。それこそが我々を困惑させる。サルトルは「状況のなかにいる」が故にいっそう読者は混乱するのだ。彼は1945年に月刊誌『レ・タン・モデルヌ(現代)』でこう書いている[訳注1]。「作家は自分の時代の中に状況づけられている。一つ一つの言葉はそれぞれの反響を呼ぶのだ。一つ一つの沈黙もそうだ。私はフロベールやゴンクールに、パリ・コミューンに続く弾圧について責任があると考える。彼らはこの弾圧を阻止するためただの一行も書かなかったからだ。それは彼らの本職ではなかったと人は言うだろう。だが、カラス事件の裁判[訳注2]はヴォルテールの本職だっただろうか。ドレフュスの判決[訳注3]はゾラの本職だっただろうか。コンゴの行政[訳注4]はジッドの本職だっただろうか。この作家たちは、人生の特定の場面に遭遇して作家としての責任を推しはかった」(5)

 戦争はサルトルのアンガージュマンのきっかけとなる。1939年9月に召集され、1940年6月捕虜になりトレヴェの収容所に移送される。そこでは仲間意識、連帯意識が芽生え戯曲『バリオナ』[サルトルの処女戯曲、原題はBariona ou le fils du tonnerre]を書き、収容所でクリスマスに上演した。1941年3月、民間人になりすまし[実際は生来の斜視を利用し「平衡障害」であると偽って民間人の仲間に入れてもらい釈放された(白井浩司『サルトルとその時代』より)]サルトルはパリに戻り、行動を起こすことを決意する。サルトルは、レジスタンス運動を組織しようと、モーリス・メルロ・ポンティと「社会主義と自由」という、数カ月後に自然消滅したグループを作り、自由地域[ヴィシー政府の支配地域]にいたアンドレ・ジッドとアンドレ・マルローに会いに行った。戯曲『蠅』は占領下のパリに反乱の機運をもたらす。1943年~1944年に、彼は、ジャック・ドクールとジャン・ポーランによって創刊された全国作家委員会の地下機関誌『レットル・フランセーズ(フランス文学)』に寄稿している(6)。しかし、政治活動に関してはそれに尽きる。ジョルジュ・ポリチェル[訳注5]やクロード・ブールデ[作家でジャーナリスト、第2次大戦後は政治家。レジスタンス運動に加わりゲシュタポに逮捕される]のようなレジスタンス運動の活動歴はなかった。第2次世界大戦前には、驚くべきことに、サルトルには政治的な視野が欠けていた。シモーヌ・ド・ボーヴォワ―ルが何を言おうと[スペイン内戦を背景に書かれた]中編小説『壁』があっても、サルトルはスペインで起きていることに無関心であった(7)。ボーヴォワール(愛称カストール)宛ての手紙を読むとサルトルが初めて政治的なことを書いているのが、ミュンヘン会談[訳注6]の2ヵ月前の1938年7月だったことには驚きを隠せない。彼らは[ファシズムと戦争に反対する政党や団体によって結成され、スペインとフランスで政権に就いた]人民戦線について充分な情報を得ていなかった。2つの大戦間に政治的な問題から距離を取ったことで、サルトルは全生涯にわたって、青年時代の友人であるポール・ニザン[訳注7]の亡霊に取り憑かれることになった。ニザンは1920年末から全面的に政治運動に身を投じていたからだ。

 サルトルは1948年2月に発足した革命民主連合(RDR)に加わった。RDRの構想はジャーナリスト、左派の知識人や極左によって少し前から練られていて、メンバーには、ダヴィッド・ルッセも含まれていた。RDRは1949年10月にサルトルが離脱したことで消滅したが、これがサルトルにとって唯一の政治団体へのアンガージュマンになる。1952年の半ばから1956年末にかけて、サルトルはフランス共産党(PCF)の同伴者の立場をとった。それは共産党を狙った警察や司法による抑圧[訳注8]が理由だった。それ以前、サルトルはPCFと激しく対立しており、ソビエト連邦作家同盟が1948年に彼を「万年筆の姿をしたハイエナ」と形容するほどだった。1956年のハンガリー動乱をソ連軍が鎮圧したのをきっかけにサルトルは共産党との関係を断ち切った。それは毎度のことになるのだが、ジャーナリストとしての生気に満ちた文章は、彼を迎え入れた共産党の仲間たちが用い、共有する語彙とテーマに彩られていた。1955年に『France-URSS』誌で発表されたこのようなサルトルの文書は、正統派共産党員に特有の用語や言葉で満ちあふれている。しかしながら、この時代のサルトルの記事は指導者やメディアの欺瞞について常に現代的な考察を提供していた。「我々の読者は皆、政府の政策を有害だとみなし、そうした政策を考案している政治家たちを軽蔑すべきものと考えている。だが、我々の使命はそのことを絶え間なく明らかにすることだ。我々が奉仕できるのは暴くことだけだ。まだまだそれを続けよう。我々がビドー[訳注9]を罪人と呼ぶことが禁じられているのならば、重罪の容疑者と言おう。彼の手に付いた血について話す権利がないと言うのならば、彼の目に張り付いたウロコについて話そう。それは用語の問題でしかない」(8)

 PCFの同伴者だった最後の月は彼がアルジェリア戦争に反対し政治運動に参加した時期と重なる。それは大論争を巻き起こした(9)。一部の人たちがいまだにサルトルを容認しないのは、彼の理屈抜きの反植民地主義と、フランス人に歴史的・知的・道徳的な責任を突きつける辛辣な言説によってのことだ。「見せかけの無邪気さ、逃亡、自己欺瞞、孤独、沈黙、拒否しつつも容認された共犯関係、これこそ我々が1945年に集団的責任と呼んだものなのだ。当時ドイツ国民は、強制収容所の存在を知らなかったと主張することは許されなかった。『冗談じゃないよ! あいつらは万事承知していたのさ!』と我々は言ったものだ。そしてそれは正しかった、彼らはすべてを知っていたのである。そして今日になってやっと我々は理解できるようになった。なぜならば我々もまたすべてを知っているからだ。(......)我々は現在でもこのドイツ人たちに有罪を言い渡す勇気があるだろうか? これでもまだ我々には罪はないと言えるだろうか?」(10)

 その上、大抵同じような人々がサルトルとマルティニーク島出身の精神科医で随筆家のフランツ・ファノンの友情を快く思っていない。サルトルは、当時、国外追放されたに等しかったファノンの第三世界についての代表作『地に呪われたる者』(1961年)[原題はLes Damnés de la terre飢えたるもの]の序文を書いている。その序文の中で幻影でしかない高慢な国家[フランス]の嘘をあざ笑う。「何という饒舌だろう――自由、平等、友愛、愛情、名誉、祖国、その他何やかやだ。だがそれも、我々が同時に、黒んぼめ、ユダヤ人め、アルジェリアのねずみめ、と人種的差別的な言辞を弄するのを妨げはしなかった」(11)

 サルトルの急進性や破壊性は、同業者やマスコミの権威に抱かせた憎しみの度合で推測される。彼らは、文体を口実にしてある種の批評に救われたルイ=フェルディナン・セリーヌ[訳注10]に対してはそれほど腹を立てもしなかった。というのも、サルトルは反ユダヤ主義者ではなかった代わりに、フランスの圧政者たちに反抗する者たちと友好関係を結ぶという“大きな過ち”を犯したからだ。そのため、サルトルに対する誹謗中傷が続いた。談話会で弁の立つある者は、笑いの種になろうと、サルトルを「カミュに対する暗殺未遂」の廉で糾弾してはばからなかった。こういったすべてのことは、もちろん、アルジェリア戦争の背景をめぐってのことであり、そこでは「けっして誤ることのなかった1人の哲学者[アルベール・カミュ](12)」についての議論が蒸し返された。個人的な状況の複雑さのゆえに、皆は、歴史的時代の争点[アルジェリア戦争]に関して『異邦人』の著者[カミュ]の誤った立場を正当化した。同時に、皆は自己決定権のためのサルトルの勇気ある闘い——それは危険でもあり、事実、サルトルの自宅は極右のプラスチック爆弾による襲撃を受けた——を軽蔑した。プロレタリア左派のマオイスト(毛沢東主義者)の“相棒“になり、1970年にパリ西南のブーローニュ・ビヤンクールで労働者を前に、樽の上で演説するサルトルを嘲笑した。

 数カ月前、フィガロ紙上で、ジャック・ジュリアールはサルトルに評価を下した。「悪しき小説家、上演されない劇作家、冗漫だが独創性のない哲学者である彼は、あらゆる独裁者を称賛する絶対自由主義者であり、社会主義を引き合いに出すことで、あらゆる虐殺を正当化する高邁な精神の持ち主なのだ(......)。彼は、自由主義体制に対する厳格さ、時には怒りを蓄え、彼の作家としての良心の呵責を看板に掲げて知的満足のアリバイをつくった善意に基づく偽善者なのだ。それこそが、今日まで弟子を生んできた唯一の領域だ(13)」。いったい全体、[ジュリアールは]どれだけ人間的な慎みを持ち合わせていることか。

 『サルトルの政治的擁護』(14)に到る最善の策はサルトルの作品を状況に応じて考察することだ。つまり、その才気煥発さ、その妥当性、その現代性と同様、その誤ち、その極端さ、その脆弱性をも状況に応じて推し量ることだ。サルトルの作品の現代性とは何か? 政治参加する知識人のこのモデルが今日、時代遅れであったとしても、それを喜ぶ理由はない。サルトルの死から3年後の1983年に、ピエール・ブルデューは事実、こう説明している。「(典型的な知識人の存在を可能にする)経済情勢だけでなく制度的な条件もまた、今や死滅しつつある。つまり、国家的官僚制度からの抑圧、報道と文化資本の市場からの誘惑が、知の領域の自律性とそれらの再生産と価値化のための固有の仕組みを潰すために結託している。インテリのサルトル的モデルと、ブルジョワ的傾向に真っ向から反対するサルトル的なモデルに内在していた、おそらくより一層希少かつ貴重となるであろうイデーが脅かされている。つまり権力の拒絶、世俗的権威の拒否(ノーベル賞のことだ)、全ての時の権力に「ノン」を突き付ける真の知の力と特権の肯定のことだ」(15)

 我々が目の当たりにしているサルトルの拒絶は、栄光の影に隠れた裏側の論理なのだ。それはスクリーンに登場する偽物の知識人が持つ良心のやましさだ。サルトルの拒絶は、知識人がテレビの出演や影響力のある友人によってではなく、その人の思想や業績、作品、決意によって、その名にふさわしい存在になるのだということを我々に思い出させてくれる。時代は変わった、闘いや要求は限られた範囲内でしか認められなくなった、と繰り返す手軽な思考の実践者には、公共の利益に対するいかなる変化も、小さな声で「ウイ」とつぶやくのではなく、大きな声で「ノン」と意思表示することによってしか実現できないのだと反論することができる。闘いの始まりには常に拒否がある。サルトルを拒絶した知識人やジャーナリストは、彼らが発する言説からうかがい知れることとは裏腹に、そのことをよく知っている。サルトルの発言を歪曲し、息が詰まるほど恥をかかせることは、慣習や権力の持つ影響力に抵抗する我々の自由を損なうことだ。それは、すべての言葉が等価だと信じ込ませ、それらの値打ちを落とすことに一役買わせようとしている。だが、知識人の責任とは、言葉に頼ることである。サルトル自身の言葉によれば「装填したピストル」に訴えるように。



  • (1) Pierre Bourdieu, «Sartre, l’invention de l’intellectuel total», Libération, Paris, 31 mars 1983; réédité dans Agone, n° 26-27, Marseille, 2002.
  • (2) Cf. dossier Sartre, Europe, Paris, octobre 2013.
  • (3) Cf. Claude Imbert, «Sartre, la passion de l’erreur», Le Point, Paris, 14 janvier 2000.
  • (4) Guy Hocquenghem, Lettre ouverte à ceux qui sont passés du col Mao au Rotary [1986], Agone, coll. «Contre-feux», Marseille, 2003.
  • (5) Jean-Paul Sartre, «Présentation des Temps modernes», Les Temps modernes, Paris, 1er octobre 1945, repris dans Situations II, Gallimard, Paris, 1948.
  • (6) Cf. Michel Contat et Michel Rybalka, Les Écrits de Sartre, Gallimard, 1970; cf. également Annie Cohen-Solal, Sartre, Gallimard, 1985.
  • (7) Cf. «Jean-Paul Sartre et l’Espagne : du “Mur” à la préface au Procès de Burgos», Roman 20-50, 2007/1, n° 43, Villeneuve-d’Ascq, juin 2007.
  • (8) Jean-Paul Sartre, «À nos lecteurs», Les Temps modernes, mai 1954.
  • (9) Lire «Jean-Paul Sartre et la guerre d’Algérie», Le Monde diplomatique, novembre 2004.
  • (10) Jean-Paul Sartre, « Le colonialisme est un système », Les Temps modernes, mars-avril 1956, repris dans Situations V, Gallimard, 1964. [実際は≪Vous êtes formidables≫からの抜粋だと思われる]
  • (11) Jean-Paul Sartre, préface à Frantz Fanon, Les Damnés de la terre, «Cahiers libres», Maspero, Paris, 1961, repris dans Situations V, op. cit.
  • (12) Michel Onfray, « La tentative d’assassinat de Sartre contre Camus », Le Point, 5 janvier 2012; «Le philosophe qui ne s’est jamais trompé. Comment Sartre a tenté de le tuer», ibid.
  • (13) Jacques Julliard, « Pourquoi les intellectuels n’aiment pas la liberté », Le Figaro, Paris, 1er juillet 2019.
  • (14) Cf. Ian H. Birchall, Sartre et l’extrême gauche française, La Fabrique, Paris, 2011.
  • (15) Pierre Bourdieu, «Sartre, l’invention de l’intellectuel total», op. Cit

  • 訳注1]サルトルがシモーヌ・ド・ボーヴォワール、モーリス・メルロ・ポンティらと1945年10月に創刊した政治・文学・哲学雑誌。
  • 訳注2]18世紀、フランス・トゥールーズの布地商人ジャン・カラスがプロテスタントに改宗した息子を殺害したとする「カラス事件」をめぐる裁判。事件は冤罪だったが、裁判所はカラスを処刑にし、財産を没収した。ヴォルテールは冤罪を告発し、国王あてに書いた嘆願書などを集めた文集『カラス事件』(1763年)を発表した。
  • 訳注3]1894年、フランスのユダヤ人将校のドレフュスがドイツ軍のスパイ容疑をかけられ、流刑に処せられた。ゾラは『われ糾弾す』(1898年)という公開状を発表して軍部を批判した。
  • 訳注4]作家のアンドレ・ジッドは1925年にコンゴに向け、フランス領赤道アフリカ地域を旅行し、『コンゴ紀行』(1927年)を書いた。その中でフランスの植民地主義による不正な行政を批判している。
  • 訳注5]ハンガリー出身のフランスの哲学者でマルキスト。1942年にジャック・ドクールらと共にナチスによって処刑された]
  • 訳注6]1938年9月、チェコスロバキアのズデーデン地方の帰属をめぐって開催され、ヒトラーの要求を全面的に認めた国際会議
  • 訳注7]作家のニザンはアンリ4世校(リセ)と高等師範学校でサルトルの同級生だった。その後、フランス共産党に入党し、スペイン内戦を取材したほか、人民戦についても寄稿している。1940年に北フランスで戦死]。
  • 訳注8]1952年5月、アイゼンハワーの後任として北大西洋条約機構(NATO)の最高司令官に任命されたリッジウェー将軍がパリに到着した際、共産党は激しい抗議デモを組織。この時、ジャック・デュクロら数人の党幹部が逮捕され、訴追されたが、警察によるでっち上げであることが判明した。サルトルはこの事件に憤慨して「自分が共産党の同伴者だと宣言した」と『反逆は正しい1』(人文書院)で書いている。
  • 訳注9]シャルル・ド・ゴール政権の外相。62年にド・ゴールのアルジェリア独立政策に反対し地下テロ組織に参加
  • 訳注10]フランスの医師で作家(1894〜1961年)。代表作『夜の果ての旅』(1932年)はサルトルとボーヴォワールによって絶賛され、実存主義の先駆的作品とされた。その後、反ユダヤ主義に転じ、戦後、国家反逆罪に問われ有罪判決を受けた。

(ル・モンド・ディプロマティーク 仏語版2020年4月号より)