実りをもたらし続けるバッハの遺産


アガト・メリナン(Agathe Mélinand)

劇作家、演出家。2020年にLe Petit Livre d’Anna Magdalena Bachを自作し、上演。


訳:村上好古


 「音楽の父」と呼ばれるバッハの音楽は、1750年に彼が死んで以降、メンデルスゾーンによる1829年の『マタイ受難曲』演奏での「復活」を待たずとも、着実に評価を高め、解釈の深みと幅を増し、可能性を広げつつ、現代へと受け継がれ続けている。「絶対音楽」の勝利とも言えるその足取りを辿る。[日本語版編集部]

(仏語版2020年8月号より)

J.S.Bach by Dave Gerhart


 1750年7月31日、ライプツィヒでひとりの男が埋葬された。「ヨハン=セバスチャン・バッハ氏、67歳、音楽監督であり聖トマス学校聖歌隊長(カントール)、火曜日に死去。未成年の子供が4人、霊柩車は無償」(1)

 遺された家族はバラバラになった。お気に入りの息子であったヴィルヘルム・フリーデマンは、ハレの町で音楽活動運営の任に当たり、カール・フィリップ・エマヌエルは、プロイセンのフリードリヒ大王の宮廷のチェンバロ奏者となった……。年上の子供たちは楽譜を分け合い、いくつかあったチェンバロ、ヴァイオリン、それにコーヒーセットを売り払った。彼らの継母のアンナ・マグダレーナは、その後10年間「哀れな未亡人」(2)として暮らしたが、貧窮の中でひっそりと世を去った。その追悼の頌歌(オード)を書く者は誰もいなかった。

 普通はこう考えられがちだ。古めかしいバッハは忘れ去られたが、そののち1829年に、若きフェリックス・メンデルスゾーンが『マタイ受難曲』をベルリンで演奏したことで復活した、と。しかしその復活は、実は、その間の一連の流れの結果だった。「ライプツィヒの聖歌隊長」の名声は、彼が世を去ったときザクセンの国境をほとんど越えてはいなかったし、人気があった訳でもなかった。ただ、彼の存在は知られていた。そして、彼の息子たち、生徒、音楽家、収集家、パトロンたちが彼の遺産を発展させ、ついには、ベルリンを音楽史に引き入れることになった1829年の「いっそう輝ける新たな日」(3)に至ったのだ。

 バッハが死んだときのことを思い出してみよう。プロイセン王国は、雅びな雰囲気[訳注1]とルター派の敬虔主義、それに多感主義(Empfindsamkeit)[訳注2]の間で揺れ動いていた。短調と斬新・大胆な和声法、苦悩と情熱! 王侯の宮廷やブルジョワジーのサロンでは、啓蒙主義や産業の発達が話題にされていた。王はフルートを演奏し、ヴォルテールに手紙を書いていた。バッハが死ぬと、その時すでに父よりも有名になっていた息子のカール・フィリップ・エマヌエルは、『フーガの技法』初版の申込み受付けを始めた。売れたのは30部だった。彼は自分の作品のカタログ作りに忙殺される中、『追悼記』(Nekrolog)[訳注3]を出版し、これが将来彼の父の伝記を作るうえで非常に有用なものとなった。しかし、音楽的遺産は分散してしまった。[一番下の]ヨハン・クリスチャンは、ミラノに出発するとき、いくつものバッハの自筆譜をベルリンに残した。ヴィルヘルム・フリーデマンは寛大で、抑鬱的、そして文無し、父の音楽の一篇たりと演奏することなく、これらの楽譜の一部を人に与え、売った。その相手の中には、まさにメンデルスゾーンの父親がいた。カール・フィリップ・エマヌエルは、『四声コラール集』の3分の1を出版することになるが、やがて彼もまた父の自筆譜を売り払った。散逸したものを再び見つけ出すには、その後2世紀を要することになる。

 しかし幸いにも、父バッハ(ヨハン・セバスチャン)の生徒であるヨハン・フィリップ・キルンベルガーは、師が彼によく語っていたことを忘れはしなかった。「私はあなた方に、このささやかなことを善良な人たちに伝えると約束してくれることだけをお願いしたい」。生徒、学生、来訪者たちはバッハに教えられたことをともに分かち合い、彼の作品を演奏し、楽譜を広めていった。キルンベルガーはフリードリヒ大王の宮廷の音楽監督となったが、王の妹のアンナ・アマーリアに作曲を教えることになる。彼女はバッハの息子たちの生徒として、彼らの父の作品に夢中になり、コンサートを企画し、自筆譜を集め、驚嘆に値するバッハ図書館(Bachbibliothek)――現在はベルリン[国立図書館(Staatsbibliothek)内]に残されている――を作った。そしておそらく、年老いたバッハが1747年にポツダムを訪れ、王がフルートを演奏し、バッハが『音楽の捧げもの』を贈ったことを、彼女は記憶にとどめていた。

 1782年に、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、芸術に彩られた都ウィーンから手紙でこう書いている。「私は毎日曜日お昼ごろヴァン・スヴィーテン男爵の館へ行きますが、そこではヘンデルとバッハ以外が演奏されることはありません」(4)。当時は、音楽家皇帝と言われたヨーゼフ2世が権勢をふるい、様々な法律と政令が一新されていた。ゴットフリート・ヴァン・スヴィーテンは、ブリュッセル、パリ、ワルシャワ、ベルリンでオーストリア大使を務めたことがある恐ろしいくらい音楽好きの外交官で、モーツァルト、ヨーゼフ・ハイドン、そして当時12歳で『平均律クラヴィ-ア曲集』を演奏していたルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェンを支援した。スヴィーテンの作った「音楽協会」(Gesellschaft der Associerten)は、音楽愛好家貴族の集まりであり、音楽に関するウィーンの総力を結集したものだった。スヴィーテンはかくもバッハびいきであったことから、ヨハン・フォルケルは、1802年に『ヨーハン・セバスチャン・バッハの生涯、芸術、および芸術作品について』[訳注4]というこの作曲家についての初の伝記を、彼に献じた。その副題は、「真の音楽芸術の愛国的賛美者のために」とされていた。

 要するに、19世紀が始まったばかりのころ、バッハの曲を全く知らないというオルガン奏者、聖歌隊長、楽長は一人としていなかったのだ。

 新聞が「宗教と芸術の偉大な祭典」を報じていた1829年3月11日のベルリンに戻ろう。作曲後100年の『マタイ受難曲』が復活しようとしていた。プロイセン王とベルリンの名士たちがその場に居た。メンデルスゾーンは曲を書き直したり、削除したりしていた。彼の師[カール・フリードリヒ・ツェルター]は、それより前の1827年にヨハン・ウォルフガング・ゲーテにあてた手紙の中で、自分が行った同じことについて自慢していた。「こうして私は多くのカンタータを自分用にアレンジしました。そして私は、天国にいる老バッハが肯いて『よし、結構』と、私に賛意を表してくれたのが分りました」。多分その通りだろう。いずれにしろ、ロマン主義の劇的な音響表現や重々しい苦悩が支配するベートーヴェン的な雰囲気の中で、「絶対音楽」[訳注5]の再発見に人々は魅了された。批評記事はこぞって、「あらゆる国民の音楽芸術の中で最も偉大で最も神聖な作品」、「プロイセンを祖国とするプロテスタント信仰の象徴」と絶賛した。

 もちろん、その土壌はその前に出来上がっていた。それは単に出版の企画や宣伝のおかげによるものではなかった。新たなヨーロッパはナポレオンの敗北の上に築かれており、1815年のウィーン会議は、その後50年続くことになるドイツ同盟の姿を描いていた。いくつもの王・公国と自由都市の連合であったが、プロイセンとオーストリアが大部分を占め、それぞれが互いににらみを利かせあっていた。政治と同様、芸術においても、ゲオルク・ビューヒナーやハインリヒ・ハイネといった作家が親密な関係にあった「青年ドイツ運動」の進歩派に、保守派が対立していた。オーストリアを排除しプロイセンのもとに集まる「小ドイツ」と、オーストリアを中心とした国民国家である「大ドイツ」というふたつの理念に、熱狂が渦巻いていた。カトリックのオーストリアに対するルター派教徒の誇りの高まり、それに対する国民国家統合への夢……。『マタイ受難曲』よりもドイツ的なものがあるのか? 育ちの良い20歳の天才が指揮するバッハ以上に国民の統合にふさわしい存在があるだろうか? 演奏会は決起集会であり、ロマンチックで、愛国的、そして神聖なものだった……。

 1843年、激震が走った。イギリスでヘンデル協会が作られ、6年後には、こともあろうに、最初の「バッハ協会」(Bach Society)ができた。ロべルト・シューマンをはじめとして何人かのドイツ人は憤慨した。それに対する答えは記念碑的なものになった。バッハの死後100年に当たる年[1850年]に、彼らは「バッハ協会」(Bach=Gesellschaft)を設立し、彼の全作品を出版すること──完全版と校訂版――を企図した。膨大な量の作品を集めていた収集家フランツ・ハウザーも協力した。バッハは「調性」[訳注6]の基礎を作り「音楽の父」と呼ばれるが、今度はそれを変容させることになった。主題について部分よりも全体観を重視する総合的なアプローチがとられ、音楽学(楽理)の始まりとなった。49年間で47冊を刊行した後、協会は解散した。フランツ・リストとヨハネス・ブラームスが、そのメンバーとして非常に活発に活動した。

 1835年のパリ。再びハンガリー人のリスト、ポーランド人のフレデリック・ショパン、それにドイツ人のフェルディナント・ヒラーが、『3台のチェンバロのための協奏曲』を演奏した。エクトル・ベルリオーズは、「素晴らしい才能を持った3人が、こんなばかげて滑稽な、詩編を朗誦するような単調な曲を再現するために集まるとは、嘆かわしいことだった」(5)と評した。さて、どうしたものか? 時代はロマン主義であり、20年後[1852年]にはフランス第2帝政が生まれるが、それはルター的でも「平均律」のように穏健でバランスの取れたものでもなさそうだった。それにバッハは「誰も弾けない」と言われるくらい演奏が難しいことで有名だったし、何と言っても、ゲーテが評したように「飼いならされていない」抑え難さを持つベートーヴェンが称賛されていた。また、ヴィクトル・ユーゴーが言っているように、「偉大なるイギリス人と言えばシェイクスピアであり、ドイツ人であればベートーヴェン」(6)だった。権勢を振るうコンサート界では、ベートーヴェンが、異論なく金になるスターだったのだ。

 フランスが真にバッハを発見したのは、イギリス人から50年遅れてのことだった。1885年の「両世界評論」は、こう書いている。「ヨハン・セバスチャン・バッハは、シャルル・グノー氏がこの老大家の平均律クラヴィーア曲集[第1巻]プレリュード第1番を彼が作曲した歌曲の伴奏に使ってから、フランスで相当広く知られるようになった」。万歳! まさにこの歌曲の題名どおり、『アヴェ・マリア』(Ave Maria)だ! バッハはもはや、学者ぶった厳めしいものでも退屈なものでもなかった! それはグノーのおかげなのか、パリ音楽院演奏会協会(la Société des concerts du Conservatoire)が『ミサ曲ロ短調』を演奏したおかげなのか? マルセル・デュプレがパリでバッハの全オルガン曲を演奏することになるが、これはロマン主義、象徴主義への嫌悪によるものなのか? 人々はバッハを発見し、彼を尊敬し、そして何より……、彼の曲を演奏するようになった!

 1889年。近代ピアノが発明され、20歳のピアノ奏者でバッハ狂のフェルッチョ・ブゾーニが、グスタフ・マーラー、エドヴァルド・グリーグとともにライプツィヒに居た。その様子を思い起こしてみるとよい。有名なコンサートホール、ゲヴァントハウスとかつてメンデルスゾーンが指揮したオーケストラ、ヨーロッパ音楽の最高峰がそこに集まっている。まさに音楽の都だった。プレリュードやトッカータなど、若きブゾーニは、かつてバッハがアントニオ・ヴィヴァルディを編曲したように、バッハを書き直そうとしていた。彼は新たな可能性を開いた。オルガンと合唱を外し、感情を内に抑えたピアノソロで、対位法[訳注7]を描き出したのだ。ついで半世紀後、ディヌ・リパッティが現れ、ブゾーニのバッハを透き通るような音色で演奏した。そしてすぐにグレン・グールドが登場した。彼はブゾーニを嫌ったが、ブゾーニのアプローチと全面的な傾倒は彼に近いものだった。エミール・シオランの言葉によると、グールドはスタジオに閉じこもり、うめき声を上げながらピアノを弾いた。自分流のテンポで、バッハが神に対して行ったようにバッハに対し全霊をささげた。グールドと、どう見ても彼のものでしかない彼の内なるバッハとは、こんな関係だった。

 「バッハは本質的に建築家だった」。ガボンのランバレネ。併合されたアルザス=ロレーヌ出身の市民であったアルベルト・シュヴァイツァーは、第一次世界大戦の前夜にそこで医者を開業していた。彼はバッハのプレリュードをペダル付きのピアノで弾き、自分の猫を追い払って一匹のハエの命を救った……。ノーベル平和賞の受賞者であり、牧師、オルガン奏者、伝道医師である彼は、アルザスなまりで福音を説き、病院の運営資金確保のためバッハを演奏しながら巡行した。聖なる音楽を使った植民地化と言えるのかもしれない……。彼の人道支援活動、あるいはオルガン奏者としての才能については議論があるが、彼が1905年に発表した[J.S.Bach,]Le Musicien=Poète[訳:J.S.バッハ、音楽家にして詩人][訳注8]という研究書は高い評価を得ている。シュヴァイツァーが初めて、「音楽におけるミケランジェロ」の建築学的で象徴的な力について論述したのだった。

 バッハは第二次世界大戦からも立ち直る。彼の音楽を収容所のスピーカーから流し、被収容者のオーケストラに演奏させたドイツは、バッハのドイツではなかった。「バッハは退屈だなどと私がことさら言ったりするだろうか」と書いたのは、なんと言っても、音楽学者で哲学者のウラジミール・ジャンケレヴィッチだったが、残念ながら、フランスが解放されるとバッハの大流行が起こることになる。LPレコードが発明されただけになおさらのことだった。

 ここから後の歴史はよく知られている。『平均律クラヴィ-ア曲集』が1930年に初めて録音され、1950年代にはニコラウス・アーノンクール、ついでグスタフ・レオンハルトが古楽器で演奏し、バロック音楽が大流行した。さらに、チェリストのムスティスラフ・ロストロポーヴィチがベルリンの壁崩壊の際スツールに座って『[無伴奏チェロ]組曲第3番』を演奏し、バッハは政治的にも復権を果たすことになる。あまり知られていないことだが、アルノルト・シェーンベルク、アルバン・ベルク、ジョン・ケージが、12音技法[訳注9]の発明を通じて作品化した12音の音列で構成されるフーガは、やはりバッハの遺産である。そしてスティーヴ・ライヒ、フィリップ・グラスといったミニマリスト[訳注10]がこれに続く。

 バッハはフーガの各パートをそれぞれ、その場で話をしている人になぞらえた。そして今、『[無伴奏ヴァイオリンのための]パルティータ第3番』を録音した金のレコード盤(ゴールデンレコード)を載せた2機の宇宙探査機ヴォイジャーが、星間空間を無限の世界へと遠ざかっている。



  • (1) ライプツィヒ市史料。バッハは、実際は65歳だった。
  • (2) アンナ・マグダレーナ・バッハの嘆願書、ライプツィヒ市史料、1750年。
  • (3) Berliner Allgemeine Musikalische Zeitung, mars 1829.
  • (4) Mozart, Lettre à son père, archives Mozart, Salzbourg.
  • (5) Hector Berlioz, Critique musicale, Buchet-Chastel, Paris, 1996.
  • (6) Victor Hugo, William Shakespeare, 1864.

  • 訳注1]ギャラント(galant)様式のこと。宮廷恋愛を想起させる流暢、気楽、洗練された雰囲気を持ち、自由で軽い書法が使われた。
  • 訳注2]多感様式と言われる。多様な拍や旋律の動きを使い、情念や憂愁を巧みに表現した。
  • 訳注3]死者の略歴書。バッハの家族、作品、逸話などが記されている。白水社『バッハ叢書』第10巻所収、1983年。
  • 訳注4]角倉一朗訳、白水社『バッハ叢書』第10巻所収、1983年。なお、当邦訳は、後に『バッハ小伝』として白水社Uブックスで2003年に再出版された。そのほかに、『バッハ:その生涯及び作品』、田中吉備彦訳、みすず書房、1949年、『バッハの生涯と芸術』、柴田治三郎訳、岩波文庫、1988年などの邦訳がある。
  • 訳注5]音楽外の意味の表現から離れて、純粋に音の構成によってのみ音楽美をねらう種類の音楽。交響詩などの表題音楽、オペラや声楽曲と対立する(百科事典マイペディア)。
  • 訳注6]長・短調の体系のこと。
  • 訳注7]複数の旋律を、それぞれの独立性を保ちつつ互いによく調和して重ね合わせる技法のこと。
  • 訳注8]当初1905年に本文記載のフランス語版J.S.Bach, le Musicien=Poèteが書かれ、次いで1908年に大幅に加筆、改訂の上ドイツ語版Bachが書かれた。ドイツ語版については、邦訳として、『バッハ』、浅井真男訳、白水社『シュヴァツアー著作集』12~14巻所収、1957、58年がある。
  • 訳注9]1オクターブ中の半音階に含まれる12の音を平均的に用いることによって、調性に基づくものとは別の音楽を作る技法。
  • 訳注10]音の動きを最小限に抑え、パターン化された音型を反復させるミニマル・ミュージックの作曲家。

(ル・モンド・ディプロマティーク 仏語版2020年8月号より)