スティーヴ・マックイーンの過去と現在 

まばたきせずに見つめる 



ジョン・バード(Jon Bird)

アーティスト、作家、キュレーター
ロンドン・ミドルセックス大学名誉教授(美術及び批評理論専攻)

訳:大竹秀子 


 ロンドンを拠点とし、そこからインスピレーションを得てきたといわれるアーティストで映画監督のスティーヴ・マックイーン。20年以上にわたり独特で斬新な手法でカメラを駆使し、人間のありようを詩的な映像で見せる作品を編み出してきた。その彼の作品の初の大規模な展覧会がロンドンのテート・ブリテンとテート・モダンで2020年2月中旬に、3カ月間の会期予定でオープンしたが、新型コロナウィルスのために突然、閉幕になった。本稿は、展覧会の入場者が会場で作品と出会っていく道程をたどりながら、マックイーンの作品の特徴、コンセプト、表現方法、時代性、芸術的・社会的意義を考察する。[日本語版編集部]

(英語版2020年4月号より)


Charlotte (2004); film still

© Steve McQueen. Courtesy the artist, Thomas Dane Gallery and Marian Goodman Gallery


 テート・モダンのブラバトニック・ギャラリーで開催中のスティーヴ・マックイーン展の会場に行くためには、大聖堂を思わせるタービン・ホールを通ることになるのだが、そこではカラ・ウォーカー作の4段構成の噴水 Fons Americanus が展示されていた。この作品は、バッキンガム宮殿の外にあるクイーン・ビクトリア記念碑への逆襲だ。帝国の建設に対抗するこの寓話的な語りにおいて、彫像はアフリカ、アメリカ、そしてヨーロッパの、相互に接続された歴史に言及し、噴水の水は大西洋横断の奴隷貿易を意味している。

 この噴水は、「ブラック・アトランティック」(英国の歴史家ポール・ギルロイの用語で、アメリカとヨーロッパにおけるブラック・アイデンティティとブラック・カルチャーとの結びつきを意味する)のメタファーであり、植民地の歴史と政治を暗黙裡に祝す公共記念碑の現代的意味を問う議論に関わっている。ギルロイは、マックイーンの展覧会カタログにエッセーのひとつを書いている。

 アーティストで映像作家、ターナー賞受賞者(1999)であるマックイーンは、『それでも夜は明ける』(2013)でアカデミー賞最優秀作品賞も受賞している。彼の映画・ビデオ作品14本と彫刻作品1点は、批評的で疑問を呈するという点でカラ・ウォーカーの噴水のスタンスを共有しているが、政治性を明白に表現することはない。ギルロイにとって、マックイーンの20年間の作品は、その形式、概念的および物質的な構成において、「新しい精神構造とまったく前例のない人間の現象学」を必要とするものだった。

 ブラバトニック・ギャラリーの照明が落とされたスペースを横切りながら、私は映像とサウンドトラックに強い不快感を覚えながらも激しくひかれ、知覚と感情の限界を認識させられた。ある作品、たとえば Western Deep(2002)では、手持ちカメラが南アフリカの金鉱の中へと地下2マイル以上も下降し、閉所恐怖症を引き起こしそうな労働条件を追っていく。あるいはIlluminer(2001)は、パリのホテルのベッドルームのテレビのちらつく光だけを使って撮影されたマックイーンのセルフポートレートショットだが、見ることは視覚と聴覚のナラティブが意味をなすよう集中力をフォーカスさせる行為となった。


Static (2009); video still

© Steve McQueen. Courtesy the artist, Thomas Dane Gallery and Marian Goodman Gallery


マーカスの物語のナレーション

 他の作品では、意味の構築において、サウンドトラックが先行している。7th Nov.(2001)が提示するのはあおむけに横たわった人物の逆光で撮影したスライド写真からなるたったひとつのイメージだ。フレームの大半を占めるのは、剃り上げた頭のてっぺん。耳から耳へと走る傷あと。これは、マックイーンのいとこのマーカスだ。ナレーションの中でマーカスは、銃を装填中に弟を撃ってしまった事故の悲劇的な物語を語っている。20分間のモノローグは感情を表に出さないロンドン訛りで述べられ、イメージとあいまって、見るものはその関係の性質を読み解くよう託される。私が目にしているのはマーカスなのか、それとも弟なのか、そして、傷の背後にあるのは、どんな物語なのか?

 マックイーンは、1980年代に「ヤング・ブリティッシュ・アーティスト」(YBA)を多数輩出したロンドン大学ゴールドスミス・カレッジの芸術科で教育を受けた。しかし、彼の世代の多くが創造的表現の主要な手段として映像に惹かれたが、メジャーな映画へと移行したのはごくわずかだった。マックイーンの主要な映画作品である、『ハンガー』(2008)、『Shame・シェイム』(2011)、『それでも夜は明ける』そして『ロスト・マネー 偽りの報酬』(2018)は、実験映画作品をはるかに超えた観客を獲得し、こうしたアーティストたちの映画とビデオが受容されている文化的文脈を伝える。マックイーンが、フレーミング、ナラティブ、ミザンセーヌ(演出)、そしてナラティブとカメラアイとの構造的な相互依存関係など、映画製作にビジュアル・アーティストの美学を持ち込んだのは明らかだ。

 彼の映像にはきわめて触覚的な特性がある。身体(通常は黒人男性の身体)に合わせたレンズの焦点を通して、また、カメラの動きを通してそれが感じられる。カメラは多くの場合、手持ちで、静止するか否かは、操作するカメラマンの手にゆだねられている。マックイーンの形式上そして技術的な手法の多くを、構造主義的美学の証拠ととることもできる。フレームの安定性を壊す突然の動きや即興性を通して、カメラ、映画という作法、見るという行為に注意を惹くのだ。だが、マックイーンは、彼のアプローチは、「現存すること、そして目の前にあるものに反応する」ことだと語っていて、それは彼の映画的ナラティブの中に見て取れる。そしてこれは、構造主義者の理論化のマニフェストとは少し違う。

 この展覧会で私が遭遇した最初の映画は、Static(2009)。ニューヨーク湾の自由の女神像のまわりを周回するヘリコプターから撮影された7分間の35ミリ映画だ。女神像は9/11襲撃事件直後に閉鎖され、撮影の少し前に再公開されたばかりだった。絶え間なく周回するカメラは、自由のたいまつを掲げる高くあげた女神の腕を追いながら像のさまざまな部分を切り取る。酸化した金属の不均等な変色に焦点を当て、衣服のひだにたまったゴミ、そしてわきの下に作られたかもめの巣を捉えつつ、ニュージャージーの海岸線に並ぶ工業建築をパノラマ的にみせる。一定しないカメラの動きは、ヘリコプターの羽根のうるさい回転音を伴奏にして、像の映像に反映され、意味をさらに切り崩す。こうしたディストピア的光景が女神像の祝福の記念碑的特性を解体し、あらゆる人を「自由の地」へと歓迎するというその主張に疑問が呈される。


Ashes (2002-15); video still

© Steve McQueen. Courtesy the artist, Thomas Dane Gallery and Marian Goodman Gallery


地上の生命の横断面

Once Upon a Time(2002)は、もともとは1977年に打ち上げられた[惑星探査機]ボイジャー1号と2号に載せて送り出すためにNASAが選択した116点の映像と音声録音からなる一連の映写作品だ。人類と地上の生命とを代表する断面を提示するために集められたこの作品には、生まれたばかりの赤ん坊、都市の建築物と自然の景観、飛行と輸送機関。そして、宇宙を見せるために、月や銀河系を、そして計測や距離を規定する数学的記号や方程式が含まれている。その上に自然界の音、語られたことば、意味をなさない声、グロソラリア[宗教的な忘我状態などで発せられる不可解な言葉]などがかぶさる。ボイジャーはいまなお年に1億5000万マイルの速度で飛行中で、いまでは星間空間に入り、さまざまな機器とこの高度に選択されたデータバンクを運んでいる。理論的にみれば、異星の生命体と初めて接触できるかもしれないのは、彼らなのだ。

 メインギャラリーから外れた、暗い壁で囲まれた小さいスペースで、Illuminer により私は、半抽象的な形態と英語とフランス語のサウンドトラックから意味を生み出す能力を試された。マックイーンは、パリのホテルのベッドでアフガニスタンでのアメリカの特殊部隊に関する番組を見る自分を撮影している。彼の身体は暗くぼんやりとしたシルエットで、テレビのモニターの光に照らされた部屋のようすはほとんど、わからない。身体へのカメラの凝視と映画技術の限界を前面にすえて強調する点で、Illuminer は、その概念において Cold Breath(1999)とCharlotte(2004)に連なる。

Cold Breath はこの展覧会で製作年代順に最初の作品にあたり、マックイーンの裸の胸のクローズアップを見せる。10分間の長回しで撮られたショットの中で、彼の指が自分の乳首を撫で、つかみ、つねる。女優シャーロット・ランプリングの目に焦点を当てたCharlotte は、赤いフィルターを通して撮影されている。マックイーンの指が彼女のまぶたと周囲の肌をデリケートに探り、ひとたびその目に接すると、彼女が感じたに違いない緊張と痛みを、観察するものも感じ取る。映画史を知る人なら誰でも、ルイス・ブニュエルの映画『アンダルシアの犬』(1929)の目玉をカミソリで切るシーンと重ね合わせるだろう。これらの作品の中では、見ることと触れることとの関係が傷つきやすさと快楽と苦痛の間を行き来する親密な映画的ナラティブの中で提示され、見ることは現象学的な行為となっている。

 マックイーンは多くのプロジェクトを、ロンドンを拠点とするアート組織「アートエンジェル(Artangel)」と共に行ってきた。1991年以来、ジェイムズ・リングウッドとマイケル・モリスが運営している組織だ。彼らは、個々のアーティストやグループと長期間にわたって緊密に仕事し、通常の展示ゾーンの枠を超えたスペースを占めるメディアを使った一時的な作品を生み出すことを意図している。アーティストたちは、スケールや予算、販売可能性に制限されることなく、作品と場、観客との出会いについて想像力を駆使して考えるよう奨励される。今回の展覧会には、アートエンジェルのプロジェクトが3点あったWeight(2016)は、[元刑務所]HMプリズン・レディングの獄房やその他のスペースを使って開かれたグループ展のためにつくられた彫刻作品だ。Caribs' Leap(2002)はスーパー8mmフィルムで撮影し35ミリフィルムに変換した作品で、撮影場所はグレナダ島だ。Western Deep は南アフリカの金鉱で撮影された。

 私が展覧会場を訪れたときには、Caribs' Leap は上映されていなかった。しかし私は、以前に見たスプリット・スクリーン[画面を複数に分割して構成すること]の投影を覚えている。片方のスクリーンには、灰色の曇り空、そしてフレームの外に向かって浮遊する、あるいは落下していく人物のかすかな輪郭。そしてもう一方のフレームにはグレナダの人々の日常生活のドキュメンタリーが、島の環境音をサウンドトラックにして映し出されていた。マックイーンの家族はグレナダの出身で、彼は祖母の葬儀のために島に戻った時に、フランスの植民地化への抵抗の痛ましい出来事に関する映画を作ろうと決意した。1650年に、マルチニークの元総督が島をカリブ族からただ同然の金額で購入した後、軍隊を派遣して先住民たちを追放した。島の最北端に追いやられたカリブ族は、フランス人支配者に降伏するよりは崖から身を投じて死を選んだ。


Year 3 (2019); photographs, inkjet print on paper, each 385 × 305mm (framed). Image

© Tate Photography


権力と圧制

 死という運命は、普遍的に存在するマックイーンのテーマだ。黒人男性の肉体を脅かす危険が──人種問題と分かちがたい植民地主義の歴史から、社会的生活を送るために最低必要なものを得るために生じる個人的な暴力にいたるまで(マーカスはなぜ、自分の弟の命を終わらせることになった銃を所有する必要を感じたのか?)──帝国建設と奴隷貿易が分かちがたく結びつくことで生じた権力と圧制のさまざまな形をとった派生的な現れを明らかにする。

 Ashes(2002-15)はCaribs' Leap からの未使用のフィルム映像と2013年に撮影された追加の素材で作られている。マックイーンと彼のカメラマンのロビー・マラーは、最初は自分の船の船首にくつろいですわる若い漁師アッシュを録画していた。彼のしなやかな黒い身体の背後で海の浮き沈みが水と空のリズムを作り出す。アッシュはまったく動じることなくカメラを見つめ返し、立ちあがり、水に飛び込み、微笑みながら浮上し、船によじ登って戻ってくる。このシークエンスが繰り返される。官能的な快楽の哀愁をおびた祝祭以外、示されるものは何もない。暗黒は、逆側のスクリーンのビジュアル・ナラティブからやって来る。そこでは、2人の労働者が島の墓地の中でセメントの霊廟を立てている。彼らが作業する音がボートの旅の牧歌的な空間に侵入し、観客であるあなたに別の現実への注意を喚起する。2013年に再び訪問したときに、マックイーンはアッシュのドラッグがらみの殺人を知った。だから、この映画は、ポストコロニアルのグレナダの若者の人生の、愛と喪失、経済的必要性によって吹き消された約束と潜在的可能性のナラティブなのだ。

 Carib's Leap 製作中に、マックイーンは中心的モチーフである空から地上へと落下する人物の再解釈を行なおうと決意した。だが Western Deep は、大変異なる場所での(映画のタイトルは、ヨハネスブルグに近いタウトナ金鉱からとられている)、大変異なる種類の降下を提示している。スーパー8mmフィルムでほとんど暗黒に近い状態で撮影されたこの作品は、金鉱夫の一団が昇降機に乗って熱と埃、騒音、そして岩から鉱石を取り出すために働く身体で構成された煉獄のような冥府へと2マイル降下するのを追っていく。あなたが目にするのは、技術(カメラの限界)、隠喩の双方における、可視性と隠蔽の容赦ない管理体制、そして、こうした労働形態を決定づける差別の歴史だ。ドリルが抵抗する物体を貫通しようと格闘するとき、音響は耳をつんざかんばかりになるが、次に沈黙が訪れ、暗い深淵からさまざまな姿形が出現するにつれ、不安が安心に代わっていく。見つめるという行為は、あなたが神経をとぎすませてビジュアル・ナラティブをたどり、極度の温度と照明を感じとり、埃のにおいをかぎ、工業機械のスタッカートに緊張するとき、具現化された実感を伴う体験となる。マックイーンのフィルムストックの選択は、映写によって拡大されるとイメージは、画素が粗くモザイク状態になり、「あなたは埃の分子を実際に感じるべきだ」という彼の意図の視覚的表現となる。

 アートエンジェルとの3つ目のプロジェクトは、フィルムとビデオ作品のパターンから抜け出す。Weight は当初は、同性愛の部分的非犯罪化50周年を期して、いまは廃止されたレディング刑務所で展示されたアート作品のひとつだった。劇作家のオスカー・ワイルドは「重大な猥褻行為」で有罪判決を受けた後、1895年から97年までの2年間、ここに投獄されていた。マックイーンは隔離と監禁のこの空間に対する反応を、囚人用ベッドの金属製フレームの上に吊るされた金のプレートでできた蚊帳で彫刻的に表現した。軽やかさと優美がむき出しの土台を包囲し保護している。


7th Nov. (2001); video still

© Steve McQueen. Courtesy the artist, Thomas Dane Gallery and Marian Goodman Gallery


ポール・ロブソンの長い監視

 End Credits(2012-進行中)は、アフリカ系アメリカ人歌手で俳優のポール・ロブソンに対する35年間にわたる監視を記録する、終わりのないビデオとサウンドトラックだ。1941年から、マッカーシーの反共ヒステリーの時代を通してずっと、FBIは公民権活動からごくごく日常的な出来事まで、ロブソンの人生のあらゆる側面を監視した。カメラは情報公開法を通して入手可能になった何万もの文書のアーカイブをスクロールしていく。その多くは、問題とされる部分を黒塗りで隠蔽した部分の多いテキストで構成されている。サウンドトラックは、その数々の報告を読む男女の声で構成されているが、映像とはまったくシンクロしていない。

 この作品は、いくつかの点でOnce Upon a Time につながっていて、データをただ蓄積することで社会的存在を捉えようとすることの避けがたい失敗を端的に要約してみせている。FBIが、どんなに立ち入って、どんなに広範囲にわたってロブソンの生活を綿密に調べようと、部分的で選択的なポートレートしか得られない。ここでミーティングし、あそこでスピーチをしたなど、多くの陳腐なテキストは、パラノイア的な官僚的メンタリティだけにつき動かされた情報の反復的蓄積に過ぎないことを示している。End Credits は、北京に次いで世界で2番目に監視度が高い都市ロンドンで、あらゆる場所に存在する企業と政府権力の監視の目が光っていることへの認識が高まっている時に上映された。そして、私たちの暮らしが過重なデータにあふれ、公私の境界、国による統制と個人の自由の境界があいまいになっていることを直截に物語っている。

 テート・モダンの上流にあるテート・ブリテンでは、マックイーンとアートエンジェルのもうひとつのコラボレーションを展示していた。Year 3(2019)もまた、ビジュアル情報の大量の蓄積だが、課題は大変異なっていて、個人としても集団としても何者かになろうとしている生成の瞬間にある社会集団を肯定的に描いている。マックイーンは、カメラマン・チームと共に活動し、公立、独立、そして特別支援のカテゴリーを含むロンドンの小学3年生の子供たちをできるだけ多く訪れ、記録した。その結果が、中央のデュビーン・ギャラリーのすべてを埋める同一のフォーマットのカラーイメージからなる巨大なグリッドとして展示された。Year 3 が提供したのは、多文化で民族的に多様な首都としてのロンドンのポートレートだ。

 マックイーンが選んだのは8歳の子供たちだ。8歳は、子供たちの意識が家族の境界と保護を超え、想像力を広げて知識の新しい地平線を覆う時期だ。教職員と共に彼らの教室に集まった7万6000点の生徒たちの個々のポートレートから、3128枚のグループ写真が生まれた。昨年11月の2週間、その中から選ばれた作品がグレーター・ロンドン内各地の600カ所のポスター・サイトに貼られた。作品は社会的共時性の瞬間を表現しているが、さまざまな出会い、コミュニティ、アイデンティティ、歴史、そして人々の到着と出発の場としてのこの都市のナラティブをも浮き彫りにする。ロンドンの住民であるということは、これらのイメージからも明らかなように、ユートピア的な要素をもっている。都市の未来を構築するために必要な土台となる複雑さと差異の存在を受け入れるのだ。



(ル・モンド・ディプロマティーク 英語版2020年4月号より)