メディア業界の大統領候補 

特権階級に奉仕するために製造されたエマニュエル・マクロン 



マリー・ベニルド(Marie Bénilde)

ジャーナリスト
著書に On achète bien les cerveaux, Raisons d’agir, Paris, 2007.

訳:出岡良彦 


 2017年5月、エマニュエル・マクロンは39歳にしてフランスの大統領に選出される。しかしその3年前には、ほぼ半数の国民にしか知られていなかった。大統領選決選投票のまさに直前に発行されたこの記事(本紙2017年5月号)は、メディアの力を利用してわずかな時間のうちに大統領になれるほどの知名度を得たマクロン陣営の内実を暴いている。その内幕は、ホアン・ブランコ著『さらば偽造された大統領 マクロンとフランスの特権ブルジョワジー』(岩波書店、杉村昌昭・出岡良彦・川端聡子訳)に詳細に描かれている。[日本語版編集部]

(仏語版2017年5月号より)


 大統領選挙の第1回投票を2週間後にひかえた2017年4月、39歳のエマニュエル・マクロン氏はサン=ジェルマン大通りの夜遅くまで営業している書店から妻と並んで出てきた。ふたりは政治運動グループ「前進!」のリーダーであるマクロン氏のポスターを休むひまもなく貼り続けている学生たちと出くわす。「前進!」グループ員のパリ本部にマクロン候補が顔を見せていないことを詫びたところから会話が始まり、選挙キャンペーンの公式ポスターに話が及んだ。妻のブリジット・マクロン氏はそのポスターが気に入っていないと言う。若々しい夫らしさがないと見ているようだ。大統領の風格をより一層出すためにわざと老けた写真にしたんだ、とエマニュエル・マクロン氏はその理由を説明した。

 このポスターの写真と同様、マクロン氏の立候補そのものもプロの手によって作り上げられたものではないだろうか? 野心と、才能と、フランス特有のエリート主義の賜物としてたどった経歴のほかには(1)、この寵児にほほえむ女神たちが、マクロン氏みずからの口から聞ける以上のことを明かしたりはしないのだろうか? とりわけ聞きたいのはメディアと通信業界を司る女神たちの声である。マクロン氏はマスコミとその経営者たちに気に入られている。それはもっともなことで、その新自由主義、EU推進派、親米、現代主義的な発言は、ル・モンド、リベラシオン、ロプス誌、レクスプレス誌の論説を合成したもののようであり、実験演劇の役者が舞台に立って叫び出しそうな内容である。

 国立行政学院出身の若者だったマクロン氏がジャック・アタリと出会ったのは、La République des idéesとTerra Novaの2つのシンク・タンクの出資者で、エリック・フォットリーノが発行人の週刊誌ル・アンの大口株主であるアンリ・エルマンの手引きによってである。フランソワ・ミッテランの元顧問で、情報サイトSlateの監査役会議長を務めるアタリ氏は、「エマニュエル・マクロン?  彼を見出したのはわたしだ。いや、彼を作り出したのがわたしだ(2)」と言っている。2007年、アタリ氏は「フランス成長解放委員会[通称アタリ委員会]」の報告者補佐にマクロン氏を任命した。その委員会でマクロンは、現役の経営者と元経営者合わせて17人に囲まれ、コネクションを築く。テレビチャンネルPink TVを創業したのち、Numéro 23というチャンネルを買収し、ル・モンド社の監査役会メンバーでもあるパスカル・ウズロ氏からはディナーへ招待された。2010年、パリのメディア、文化界の有力者たちに影響力をもつこの人物が、当時若くしてロスチャイルド銀行の役員となっていたマクロン氏を、ル・モンド・グループを買収したばかりの3人に紹介したのだった。その3人とは、事業銀行家のマチュー・ピガス、携帯通信会社フリー創業者のグザヴィエ・ニール、イヴ・サンローラン元社長のピエール・ベルジェである。

ひとめぼれが本当の恋愛に 

 由緒ある日刊紙ル・モンドをめぐる買収劇を、マクロン氏はまったく知らないわけではなかった。その数カ月前に、投資家を探していたル・モンド編集者組合(SRM)に無報酬でコンサルタントを請け負っていたのである。SRMがこの3人組と手を握ろうとしていたとき、善意から自分たちを守ってくれる天使だと思っていたマクロン氏がアラン・マンク氏の企んだ対案にひそかに加担していることにSRMのリーダーたちは気づいた。マンク氏という人物は、その2年前にSRMがやっとのことでル・モンドから追い出した元監査役員である。2010年9月3日、パリ中心街のジョルジュ・サンク通りで滑稽な光景が繰り広げられた。当時SRMの副会長だったアドリアン・ド・トリコルノが、マンク氏のオフィスから出てくるマクロン氏を偶然見かける。マクロン氏はそそくさと姿を消した。トリコルノはあとを追う。「その建物の最上階のエレベーター・ホールで、マクロンは自分のつま先に視線を落とし、携帯電話を耳に当て、わたしに気がつかないふりをした。『もしもし、エマニュエルだ』と話すのが聞こえた。(…)わたしが数センチのところまで近づいてもまったく反応なし。携帯を相手にしゃべり続けている。わたしは手を差し出し、『やあ、エマニュエル。もうあいさつもしてくれないのかい? 下で会社のみんなが待ってるよ』と言ってやった。そのときは気まずそうだったな。息を詰まらせ、心臓もバクバクさせていたよ(3)

 2012年5月、それまで財務監督官を務めていたマクロン氏は大統領府の副事務総長に任命され、大企業と政権をつなぐパイプ役になる。携帯電話会社オランジュの社長ステファヌ・リシャール氏は「エマニュエル・マクロンはわたしたちにとって仲介者で、大統領へ近づくための入口だ」と明言する(4)。2014年8月には経済産業デジタル大臣に任命され、雇用の「創造的破壊」の提唱者として名声を得て、労働分野のデジタル・トランスフォーメーションを進める。2014年12月、タクシー運転手がウーバーに対して抗議したときには、「既存の企業と仕事を保護するのはばかげた間違いになる」という考えを示す。経済相のマクロンはこうしてニューエコノミー[従来型の経済に対し、インターネット関連企業を中心とする経済]の資本家を引きつけ、例えば出会い系サイトMeetic創業者のマルク・シモンチーニ氏はマクロンとの出会いを「ひとめぼれの翌日には本気の恋愛が始まった」とたとえる。グザヴィエ・ニール氏は自分が運営するコンピューター学校École 42にマクロン氏を招き、「パリの上流社会でエマニュエルは好かれている。(…)意志が強くてリベラルなところがいい」(ソサイエティ2016年5月号)とほかの多くの経営者も感じていることを代弁した。

 2017年1月、ル・モンドの共同出資者ピエール・ベルジェが「エマニュエル・マクロンを無条件に支持する」ことをツイッターで表明した。この手放しの賛同と、それが読者に引き起こした困惑とにより、2017年3月10日の記事で「ル・モンドはマクロンのために働くのか?」と同紙は自問自答することになる。社内オンブズマンでもある執筆者による答えは当然ノンだった。とはいうものの、各コラムニストが「自分の見解を書くのは自由である」とした。実際、コラム執筆者たちは自由に書いた。アルノー・ルパルマンティエは、「社会福祉国家フランスを再建するため中道左派の経済学者ジャン・ピザーニ=フェリーが仕込んだ現実的な解決策」を提示するマクロンを、元英国首相ブレアの後継者として諸手を挙げて歓迎する。また、ヴァンサン・ジレはラジオ・フランスに出演し、「そのビジョンと、グローバリゼーションを説くときにしばしば見せる明快さ」、さらに「新自由主義的であると同時に社会主義的でもある」政策の「一貫性」を称える。

 週刊経済誌チャレンジの2017年1月19日号表紙では、「左派:マクロンのために敷かれた道」というタイトルで、若き野心家マクロンが左派のライバルたちを一歩リードする形で特別扱いされた。この週刊誌の、とりわけモーリス・サフランとブリューノ=ロジェ・プチ記者による無条件のマクロン支持には、その社員でさえも激怒する。3月16日、記者クラブの声明が出され、マクロン支持に対する自制が呼びかけられたが、選挙戦真っ只中の4月13日にはチャレンジ誌が開催した第2回「スタート・アップ・サミット」にマクロンはメイン・ゲストとして招かれた。同誌オーナーのクロード・ペルドリエル氏は、マクロンをピエール・マンデス=フランスの再来と見る。

 「前進!」の大統領候補マクロンと、通信・メディア業界の大物で移動体通信会社SFR、ニュース専門テレビ局BFM TV、ラジオ局RMC、リベラシオン、レクスプレスを所有するパトリック・ドライ氏との関係も疑問である。2014年、当時経済相のアルノー・モントブール氏は、この実業家に対して税務調査を開始していた。ドライ氏が住居をスイスに定め、個人資産を租税回避地であるガーンジー島へ移していたからである。ところが、マクロン氏が経済相に就くと、より穏便な対応をとった。そしてドライ氏はメディア・通信企業のヴィヴェンディからSFRを買収することができた。モントブール氏はドライ氏の財産をフランスへ送還することを条件として要求していたが、その必要もなかった。翌年、今度はSFRが100億ユーロでブイグ・テレコム買収の提案をしたときにマクロン経済相が好意的な態度を示さなかったのは、そこに地雷が隠されているのを知っていたからである。テレビ局TF1の株主でもあるマルタン・ブイグ氏が経営するブイグ・テレコムは、ロスチャイルド銀行をアドバイザーに起用していたのだった。さらに、ブイグ・テレコム副社長のディディエ・カザス氏は、2017年1月、大統領候補マクロンの選挙キャンペーンチームに加わっている。

 マクロン氏が経済省に着任したとき、「わたしはマスコミが作り上げた評判をまとってここへ来た」と言った(5)。実際のところマクロン経済相は、多くのジャーナリズム界の御意見番たちが推し進めようとしていた「最新の」政治ビジョンに合致していた。2014年9月の「マクロン爆弾」の後、レクスプレス誌は2016年3月の誌面刷新を「マクロン:2017年にわたしが望むこと」というタイトルで飾った。同誌の編集長クリストフ・バルビエは、「現代的なセンスを持って、今日のフランスに改革の精神を最もよく体現できるのは彼だ」と主張した。同じく2016年3月、マクロン氏がまだ自分の政治運動グループを創設していないときに、ロプス誌は「マクロン・ロケット:2017年への秘策」というタイトルを掲げた。ほかにも5誌が続けてトップ記事で「前進!」の大統領候補の動向を読者へ繰り返し届けることになった。2017年4月20日、ロプス誌編集長マチュー・クロワッサンドーは「なぜマクロンか」というタイトルの論説記事で手の内を明かす。「マクロンは今回の大統領選でほかのどの候補よりも、革新を実現する政策と勢いと希望を、そして同時に人を集める意志を、形にできた候補だ」

 少し右派よりのル・ポワン誌は「彼でいいじゃないか?」、「お騒がせな人」、「新自由主義たちを恐れるのはだれ?」、「彼が考えていること」と、マクロンを繰り返し表紙に起用した。表向きにはフランソワ・フィヨン氏を支持するル・フィガロ紙さえも、マクロン氏を持ち上げる論評を大目に見て掲載した。4月16日、フランス2にテレビ出演したル・フィガロ副編集局長イヴ・トレアールは「常に若さに対してある種の反感をもっているフランスのような国に39歳の共和国大統領が生まれると、いろいろな変化があるだろう。外から見たフランスのイメージは変わり、完全に一新されるだろう」とあえて口にした。政治学者のトマ・ゲノレは「有権者にマクロンというブランドを売り込むためにメディアが集中して行った宣伝」を指摘する。電通コンサルティングが出した数字によると、2016年4月1日から9月30日のあいだに、「前進!」のマクロン候補は既存メディアにおいては42%の占有率を得たのに対し、ソーシャル・ネットワークでは17%に過ぎなかった(6)。2017年2月21日付けの週刊誌マリアンヌの集計でも同様に、4カ月間でBFM TVがマクロン氏の集会での演説を426分間中継したのに対し、主要な4名のライバル候補は合計で440分だった。アルティス・メディア・グループの元経営陣で、BFM TVの株主であるベルナール・ムラド氏が「前進!」の大統領候補の選挙キャンペーンチームにいたことと何か関係があると見るべきだろうか?

 確かに、政治における真新しいことは人の好奇心をくすぐり、メディアの売上を伸ばす。しかし、「マクロン・ロケット」を天空高く打ち上げるには、モーリス・サフランとマチュー・クロワッサンドーが一体となって持ち上げる以上に高効率の原動力を必要とした。その強力な補助エンジンが大衆誌だった。2016年4月、「前進!」の発足時、パリ・マッチ誌はトップ記事のタイトルを「政権への道をふたりで歩むブリジットとエマニュエル・マクロン」とし、ブリジットの打ち明け話を独占記事として掲載した。マクロン経済相がのちにこの取材を「遺憾」であると言ったところで、20歳年下の教え子と恋に落ちた元女性教師の話はプレスにとって金脈であり、多数の他誌が追随した。マクロン夫妻は、PurePeopleというサイトの共同創業者であるミシェル・マルシャンが設立した著名人の写真を扱う有力フォトエージェンシーBestimageと組んだ。政治家マクロンは「自分の知名度を上げている時間がほとんどない」ことを立ちどころに理解したのだった。フランス世論研究所によると、2014年10月から2015年2月のあいだに、マクロンを知らないフランス人の割合は47%から18%に下がった(7)。大衆誌はマクロンの話題を記事にすることにより、マクロンが従順ではなく、型破りで、たとえ嫌われても決めたことは最後までやり遂げる人物であるというイメージを伝え、強固なものにした。妻ブリジットがルイ・ヴィトンの服を着た写真が目立つようになったのもちょうどこの頃である。それは高級品ブランド・グループLVMH社長のベルナール・アルノー氏の娘で、ブリジットの友人であるデルフィーヌ・アルノーが経営するブランドである。2016年7月には、多国籍広告会社ハヴァスの社長で、ヴィヴェンディの監査役会メンバーであるヤニック・ボロレ氏が、雑誌業界のアイドルとなったマクロンのパリでの集会に出席した。

 ラガルデール・グループは、4月20日に所有者のアルノー・ラガルデール氏がみずから経営の手綱を握る決定をしたが、マクロン氏は同グループ内でもル・ジュルナル・デュ・ディマンシュ紙を味方にすることができた。この新聞は、マニュエル・ヴァルス氏に次いでフランソワ・フィヨン氏を応援してきたが、結局のところ2016年3月にマクロン支持に変わった。「前進!」の大統領候補は、「わたしが大統領なら」というとても控え目とは言い難いタイトルのインタビューを設定してもらい、大統領府での最初の100日間を想像する機会を得た。どんな貸しがあったのだろう? 2013年、ラガルデール氏は当時年若い大統領府副事務総長だったマクロン氏の手引きによって、これ以上ない好条件でエアバス・グループから身を引くことに成功し、しかも18億ユーロ近い株式売却益も手にしていた(8)。その数年前には、ラガルデール・グループが海外雑誌部門を売却しようとした際、ロスチャイルド事業銀行にいたマクロンが短期間、仲介役となっていた。

 ところで、メディアがマクロン氏に与えたアドバンテージは、報道されたことよりも報道されなかったことによるところが大きい。ル・カナール・アンシェネ紙は、経済省で使われた12万ユーロの飲食費、支払い義務のある富裕税を払っていないこと、個人資産評価額を暴露したものの、これら「金銭」問題において、エマニュエル・マクロンに対する寛容さは、悪事がばれたときにライバル候補たちが受けた集中攻撃に比べると一層際立つ。

 「考えてみてください。なぜこんなに何時間も繰り返しテレビで中継されるのか? なぜ雑誌がこんなに取り上げるのか、大した内容のない写真や話にどうしてこれほど何ページも割くのか?」と中道派のフランソワ・バイルはBFM TVで問いかけた。それは2016年9月7日のことで、当時は「ホログラム」のように実体がないと形容していたマクロン氏にまだ合流していない頃である。「そこには、巨大資産家や経済的な権力だけでは飽き足らなくなった者たちが、これまで何度も繰り返してきた試みがあるからです」。2014年10月、「フランスの病気」は「個々の既得権益」にあると見ていた当時のマクロン経済相ならば、この答えに同意していたかも知れない。



(ル・モンド・ディプロマティーク 仏語版2017年5月号より)