アンガージュマンの形

歴史の「影」に隠れていた女性画家ナディア・レジェ


フランソワ・アルベラ(François Albera)

ローザンヌ大学名誉教授、学術誌1895. Revue d’histoire du cinémaの編集長、
近著にLe Cinéma au défi des arts, Yellow Now, Crisnée (Belgique), 2019がある。


訳:菅野美奈子


 ナディア・レジェは帝政ロシア時代のベラルーシに生まれ、ロシア革命の最中に画家を志し、1920年代半ば世界各地から外国人芸術家が集っていたパリへと渡った。いずれ夫となるフェルナン・レジェのアトリエで研鑽を積み、戦間期ついで戦後と、労働者や彼らの側に立つ指導者を描きつづけたが、没後ほとんど注目されることはなかった。昨秋、伝記の刊行を機にパリで再び脚光を浴びたナディアの存在は、20世紀美術史からこぼれていた歴史の一片に光を当てる。[日本語版編集部]

(仏語版2019年11月号より)

Mosaic portraits by Nadia Léger
in the square in front of the House of Culture "Mir" in Dubna, Moscow oblast


 2019年9月、ユマニテ祭[仏共産党系の日刊紙ユマニテ主催の祭典]の数日前、パリ・シャンゼリゼのロータリーにある世界的なオークションハウス、アートキュリアルの事務所にて、一風変わったイベントが開催された。ピオネール[共産主義教育を目的としたソ連時代の少年少女団]の制服に身を包んだ案内嬢と革命歌に迎えられた物見高い群衆が、ナディア・レジェ(1904-1982)絵画展のオープニングレセプションと、『プチ・ニコラ』の編集者でもあるエイマール・デュ・シャトゥネが監修し図版が多数収録されたナディアの浩瀚(こうかん)な伝記(1)のプレゼンテーションに殺到した。「赤のナディア」は、炭鉱員や革命家を描いた自身の作品がDAU(2)で展示されることを快く思っただろうか? 定かではない。数年前、航空会社のショーウィンドウに飾られた彼女の作品《レーニン・アエロフロート(飛行機)》は、界隈の高級ブティック街を嘲っているようであった。

 伝記には、全く評価されていないとは言わないまでもよく知られていないこの画家に関するあらゆる入手可能な資料が収録されている。彼女は自分の作品にナディア・レジェ(1952年に画家フェルナン・レジェと結婚)だけでなく、初期にはナディアまたはナデジダ・ホドシェヴィッチ、ヴァンダ・ナジェヤ・ホダシェヴィトーヴナ、ナディア・グラボフスカ、ヴァンダ・ホダシェヴィッチ=グラボフスカ、ナディア・グラボフスキー、N.ホダなどと署名した。いくつものアイデンティティに加え、ナチス占領期に使ったレジスタントとしての名ジョルジョット・ぺノー、3人目の夫ジョルジュ・ボーキエの配偶者としての名前も存在する。

 ベラルーシ生まれのナディア・ホドシェヴィッチは、家族が第一次世界大戦の戦闘と食糧難から逃れ、中央ロシアのトゥーラに近いベリョーフに避難したとき、13歳であった。彼女はソヴィエトの新政権が設立した芸術宮殿で授業を受け、その後単身で、いくつかの国立高等美術教室が開校していたスモレンスクに渡った。ナディアはそこで二つの決定的な出会いに恵まれた。一人は、妻のカタジナ・コブロと共に教鞭を執っていたヴワディスワフ・ストゥシェミンスキ。もう一人は、モスクワの国家自由工房でストゥシェミンスキ夫妻を指導し、彼らから講義するよう招かれていたカジミル・マレーヴィチであった。

 1919年、ソヴィエトロシアとポーランドの間で戦争が勃発した。マレーヴィチは、1918年以降現地の美術委員を務めていたマルク・シャガールに招聘され、ビテプスクに発った。帝政ロシア生まれのポーランド人ストゥシェミンスキもまたスモンレスクを離れ、ソヴィエトと同盟関係にあったリトアニアの首都ビルニュスに移った。ナディア・ホドシェヴィッチは、ワルシャワに向かった。美術学校に通い、スプレマチズム(非物質性を志向し形態と色彩の要素を削ることで具象を否定しようとする絵画様式)の「菌」を学生たちに広めた。彼女はそこで一人の青年画家スタニスラス・グラボフスキーと知り合い、1924年に結婚した。二人は1925年の国際現代装飾産業美術博覧会の開催を機にパリへ行くべきだと確信し、翌1926年にはラスパイユ大通りにある現代美術の画廊でそれぞれ作品を展示した。そして彼らは、フェルナン・レジェとアメデ・オザンファンが指導し、あらゆる出自の学生を受け入れていたアカデミー・モデルヌに登録した。

 ナディア・ホドシェヴィッチは後年、スモレンスクでは魅了されてもいたが落胆してもいたと語っている。1919年から1920年にかけて、ソ連の前衛画家たちはイーゼル絵画[訳注1]を放棄し、芸術を社会空間、日用品、新聞、ポスター、建築に広げることを推奨していたからである。彼女がパリに惹かれたのは、ル・コルビュジエとオザンファンが編纂していた『エスプリ・ヌーヴォー』誌を読んだからであった。この雑誌は、あらゆる表現手段(絵画、彫刻、映画、都市計画、スポーツ、工学、科学など)において諸芸術と近代生活を融和させる道を切り拓いていた。レジェは、その「機械的な」作品によって造形分野におけるこの運動の特筆すべき人物であった。プロペラ、歯車、ピストンといった機械部品から着想を得たコンポジションは、次第に抽象へと向かっていった。若手画家であったナディアは、レジェと仕事をする以前、まずオザンファンやピュリスム(対象の処理を抽象へと推し進めていくことでキュビスムを乗り越えようとする)運動の近くにいた。彼女はポーランド出身の詩人で、ストゥシェミンスキと一緒に「グループa.r.(artistes révolutionnaires:革命的芸術家)」を設立したヤン・ジェンコフスキーと『アール・コンテンポラン』誌を創刊した(1929年から1930年の間に3冊刊行)。いわゆる「ブローカー」として暗躍し、フランスに滞在しつつもソ連の国籍を保持していたナディアの同胞イリヤ・エレンブルグ(3)のように、彼女自身もとりわけポーランドで、ヨーロッパの芸術グループ関係の人脈を広げていった。ナディアはそうして「抽象=創造(アプストラクシオン=クレアシオン)」、「円と正方形(セルクル・エ・カレ)」、「具体芸術(アール・コンクレ)」といったグループとの交流を繋ぎ、これらの芸術団体はストゥシェミンスキが編成したウッチ[ポーランド第3の都市]の現代美術コレクションの充実に貢献した。

 ナディア・ホドシェヴィッチが自身にとって決定的とも言える画風の一つを確立したのは、レジェのアトリエにおいてであった。それ以前に制作された作品からはほとんど決別しており、スプレマチズム時代の作品も師の教えを忠実に守っていたに過ぎない。あまつさえ、ナディアは1960年代から70年代にかけてスプレマチズム的モチーフに回帰したり、ときには実際の制作年より前の年号を書き込んだり、失われた作品を再び制作したりすることで、多少なりとも自身の軌跡をあやふやにしていた。[レジェのアトリエ時代の作品において、]色彩はレジェが特に好んでいたような静けさや純粋さから遠ざかり、色むらのある表現となっている。より独創的な歩みが始まったのは、平面図形のような構成と非幾何学的な形態のエスキスのおかげであり、こうしたアプローチはリアリズム、ほかならぬ社会主義リアリズムへの回帰を含む、彼女が後年に制作した作品の大部分における表現を豊かにした。

 彼女はとりわけ、スモレンスクにいた頃に嘆いていたイーゼル絵画からの逸脱を許容していった。師匠レジェは生涯ずっと描きつづけたが、こうした「脱却」を実践することも止めなかった。例えば、壁画、建築との融合、イラストレーション、演劇や映画における舞台装飾や衣装も手がけた。ナディア・ホドシェヴィッチは彼女なりに、1930年代および1950年代に湧き上がった社会芸術やリアリズムの問題に関する議論を機に、活動の幅を広げていった。共同作業場であったレジェのアトリエは、さまざまな変化が入り混じる坩堝となった。

 壮大なフレスコ画、セラミックないしモザイクによる壁面図案、そしてタピスリーや「写真壁画」(4)訳注2]までもが、20世紀の美術史において幾分否定されつつも重要な部分を構成している(5)。このような実践は、ディエゴ・リベラやダヴィッド・シケイロスといったメキシコ壁画運動の画家たちによる輝かしい例に加え、国家が芸術家に数多の注文を行なっていたニューディール政策下のアメリカや、短命に終わった人民戦線時代のフランスでも、芸術と政治、芸術と社会の関係における決定的な役割を果たした。例えば、1937年のパリ万博の際、レジェ、シャルロット・ペリアン、リュシアン・マゼノ、ル・コルビュジエらは、いくつかのパヴィリオンのために巨大なフォトモンタージュを構想した。レジェのアトリエでは、ナディア・ホドシェヴィッチとボーキエが指揮し、弟子たち(のちに「コブラ」や「シチュアシオニスト・インターナショナル」に参画するアスガー・ヨルンもいた)が、レジェ作《動力輸送(Le Transport des forces)》など、1937年のパレ・ド・ラ・デクーヴェルト[科学技術博物館]開館のために注文された作品群の制作に携わった。彼らはまた、労働組合や人民戦線の文化団体の後援により、1万5000人の観客を収容できるヴェロドローム・ディヴェー[競輪用のスタジアム]にて上演されたジャン=リシャール・ブロックの演劇『ある都市の誕生』の舞台装飾の仕事も行った。

 戦時中、FTP-MOI(Francs-tireurs et partisans:義勇遊撃隊、Main-d’œuvre immigrée:移民労働力)[MOIから派生したFTPの下部組織]に所属していたナディア・レジェは、戦後、1945年の第10回フランス共産党(PCF)大会のような政治的デモのために膨大な数の肖像を大きな帆布に描いた。こうした肖像画においては、1970年代に広まる写真に倣った絵画表現と、人物と背景が対立ではなく一体化するような表面の処理とが統合されている。1933年より仏共産党の党員であった彼女は、1947年から1953年まで党によって定められた[社会主義]リアリズムへの回帰を支持したが、これは独自の解釈を示すためであり、自身が行なっていた抽象の探求を否定するものではない。第12回フランス共産党大会(1950年)でのモーリス・トレーズの演説の中で端的に示されたリアリズム指示への対応の複雑さや多様さはしばしば無視されてきたのだ。仏共産党書記長であった彼は、次のように主張していた。「我々の作家、我々の思想家、我々の画家、我々の芸術家」は「解放闘争において」労働者を助けるために「労働者階級のイデオロギーや政治的な立場を背負って闘う」べきであると。発言内容は攻撃的であるが、時代もまたそうであった。核の脅威と独裁主義の再来が支配し、市民戦争が水面下に潜んでいるような雰囲気の中、植民地戦争に懐疑的なあらゆる者に対する抑圧、時に流血沙汰となる社会的抑圧(炭鉱員、港湾労働者、工員のストライキ)などが絶えなかった。

 芸術家によるアンガージュマン[政治や社会の問題に参加すること]の仕方といった問題は熱しやすく、議論は激しいものになる。レジェはパブロ・ピカソのように、社会的政治的闘争に身を投じたが、1938年以降は「芸術家にはいつも自由な道を残しておく必要があり」、「芸術作品が闘争に参加すべきでないし(……)、それは何も表明しようとしない(6)」と強調した。フランスにおける社会主義リアリズムの象徴と見なされるようになるアンドレ・フージュロンの他にも、ジェラール・シンガー、ボリス・タズリツキー、ミレイユ・ミアイユ、ボーキエといった、大半はレジスタンス出身で、そのうち何人かは強制収容を経験した若手画家たちが、絵筆と鉛筆を手に、社会参加することを決めた。ナディア・レジェは労働者、魚売り、妊娠中の女性を描いたが、労働環境の悲劇よりも幸福への期待を表現していた。彼女はおそらく、レジェのアトリエで行なわれた匿名の装飾事業や共同で行う仕事を通して、より正面から社会問題に取り組んだ。とりわけ色彩の対比を多用したこれらの仕事は、アンリ・クエコ、エロ、エドゥアルド・アロヨなどが示したようなポップアートや1960年代のナラティヴ表現をたしかに予告するものであった。

 しかしながら、このアヴァンギャルドの偉大な人物は没後、彼女を讃える今日の本の題名から借用するところの「影」に隠れてしまった。この影は、レジェの影ではない。ナディアは彼が亡くなる3年前の1952年に結婚したが、それぞれが画家としてのキャリアを築いていく中で彼と夫婦になったと考えるのは軽率だろう。この影はそういうものではなく、この時代と、ナディアのようにアートマーケットと無関係の芸術家たちが行なったアンガージュマンの仕方、そして彼らが引き受けることに決めた社会的な機能、これらすべてを覆い隠してしまっている影のことなのだ。今日、彼女の「再評価」はキッチュ[訳注3]として認識されるようなイメージの名のもとに行なわれるべきではないだろう。



(ル・モンド・ディプロマティーク 仏語版2019年11月号より)