「試験の女王」に君臨する哲学への提言  

岐路に立つフランスの哲学教育 


セルジュ・コスペレック(Serge Cospérec)

哲学教師 

フレデリク・ル・プレンヌ(Frédéric Le Plaine)

哲学教師、哲学教育研究機関の創立のための協会(Acireph)会長 

訳:清田智代


 フランスでは哲学が思考を鍛えるための重要な学問とみなされているが、教育現場では長らく変化が厭われ、今や現状にそぐわない部分が浮き彫りになっている。生徒が真の批判精神を養うためにはどうあるべきかを考察する。[日本語版編集部]

(仏語版2019年9月号より)

photo credit: Alan Levine

 哲学は民主主義の典型的な象徴のようにみなされることが多々ある。それはどこまでもわけ隔てなく、あまねく自由であり、批判精神の万能な体現者であろうとする。アナトール・ド・モンジー公教育・芸術大臣によって100年も前の1925年に出され、現在もなお廃止されていない「通達」には次のように謳われている。「生徒たちは、哲学の授業の中で繰り返し熟考することを通じて、自由というものを体得できるのである。私たちはこうも言うことができよう。この自由の体得こそが哲学教育本来の、そして本質的な目的である、と(1)」。しかし哲学を教えるとなると、この通達の趣旨と現実の間に大きな差があることを認めざるを得ない。

 哲学入門を履修する生徒数は、フランスのある年齢階層の半数とかつてないほど増えている。それでも半数でしかない、というのはバカロレア[大学入学資格試験]合格者の28%を占める職業リセ[訳注]の生徒や哲学の授業を受ける学年に達する前に学校教育から逸脱する生徒は除かれるためだ(2)。それにもかかわらずこの層の半数の子どもたちが哲学の手ほどきを受けるというのだから大したもので、高校生はこうして最終学年で、今まで接したことのない新しいものの見方を発見する機会を得るのだ。それは彼らにとって不安や好奇心をかきたて、また彼らの多くにとって最初で最後の哲学との出会いとなるであろう。

 高校生は哲学教育から何を得ているのであろうか? 哲学教育の監察総監による最新の報告書は、作成されたのは10年以上前に遡るものの、どちらかといえば現状を満足させることが求められる報告書の型を破り、その明晰さが際立っている(3)。たとえば教師の質や、時に非常に困難な状況に適応するための彼らの取り組みや努力を強調しつつ、「かなり多くの生徒、とりわけ特定のグループの生徒は、哲学がもつ自由な一面に全く無関心で、彼らはあらゆる点で哲学の授業で時間を無駄にしていると考えている」と指摘している。科学技術系の教育課程はその最たるものだ。哲学の試験では、進路選択の余地がなかったほど成績が悪い、またこのタイプの問題で良い成績を収めるに必要とされるはずの教養の、とりわけ言語的な素養に欠ける生徒に小論文を書かせることが今なお求められている。この小論文は1世紀以上前から続く試験の女王だ。

 この報告書はほとんど哲学教育界の注意を引かなかったが、次のように結論する。「哲学の教育はこのように、岐路に立たされている。哲学教育がもつ一定のイメージに拘泥したまま、それ自体の『あり方』、つまり『教え方』を変えなければ、おそらくこの教科は消えてなくなるだろう」。それから10年以上経ったが、何も変わっていない。

 なぜこのような事態になったのか? これを考えるには過去を顧みる必要がある。今日の哲学教育では、教師は1年という短い学習期間で生徒に型にはまった哲学知識や思考方法を習得させなければならず、教師と生徒は苦労している。これはあらゆる改革への試みが常に否定されてきたためだ。1988年にリオネル・ジョスパン国民教育大臣は社会学者のピエール・ブルデューと科学者のフランソワ・グロがとりまとめたグループに教育内容の検討を命じた。[共に哲学者の]ジャック・ブーヴレスとジャック・デリダが率いる哲学及び認識論の部会は、1989年6月に報告書を提出した(4)。その報告書の内容は決然としたものであり、分析や提案は30年経ってもなお少しも古びていないが、哲学教育者の間で一度も真剣かつ筋のとおった議論の対象にはならなかった。哲学教育現場の一部からの圧力により、大臣はこれを公表するのを断念したからだ(5)。今日哲学教師の大部分は、この報告書の存在を知らない。

「試験の女王」からの降臨 

 この報告書は何を唱えていたのだろうか? それはこれまでのように哲学教育を神聖視することをやめることだった。学校教育にふさわしく、段階的で、エリート主義ではなく生徒の育成により配慮する、といった哲学の特質をふまえるものでなければならない。その中でもとりわけ2つの提案が議論にもちこまれた。一つ目の提案はこの教科を最終学年次のたった1年で完結させるのではなく、高校2年で入門を学び、高校3年で教養を積み、高等教育の段階で理解を深めるといった数年にわたる必修課程を創設することだ。哲学はもはやあらゆる教科に君臨するものではなく、他の教科に並んで関連づけられるものと考えられた。そして生徒が哲学を習得するにつれて、自らの教養に一体性や批判精神を養うことを促すとされた。

 二つ目の提案はカリキュラムを明確にして出題範囲を定めることだ。それによって試験では、生徒は学校の授業で学び得たものだけで評価されるようにするのだ。そうでなければ生徒の評価は学校外で習得される能力で決定づけられ、そうした学外教育は社会的にみて公平に与えられていないことが明らかだからだ。1973年以来、カリキュラムには自由、幸福、国家、芸術といった概念が用いられている。ところが同じ概念でもさまざまな角度からアプローチすることができる。教師は、理論的には自由にテーマを決め、好みの著書を用いて授業を展開することができる。しかし実際は、ひとつの概念についてすらあらゆる面から掘り下げるだけの時間がなく、生徒は1年間の哲学の授業で学ぶことのなかった、もしくはほんの少ししか触れなかったテーマにバカロレアの試験で直面する可能性がある。

 たとえば「自由」をテーマにすれば、自由意志(決定論と対置される自由)の存在について、あるいは政治的自由について出題できる。別の例として、過去30年にバカロレアで出題された芸術についての課題をいくつも並べてみると、受験生はおよそ15種類の問題提起に応えるよう求められていることが分かる。たとえば「芸術作品の特質」に関するもの(「芸術作品となんでもない物の違いは何か」)、「芸術と真実の関係」に関するもの(「芸術作品は、他の方法ではたどり着くことのできない真実に我々を導いてくれるか」)、または「芸術と歴史の関係」に関するもの(「芸術作品は時代に従属しているか」)、などだ。

 現行のカリキュラムには教師の自由が保証されているようにみえるが、実際はその逆の結果をもたらしている。カリキュラムの内容に裁量の余地があるからといって、教師がより自由に授業を進められるわけではない。むしろその逆である。カリキュラムがいくつかの課題、すなわち生徒が試験で試される可能性のあるものがより一層絞り込まれれば、教師は生徒ともども、より一層深みと幅をもってこれらに取り組む時間と自由を持つことになる。

 このデリダ=ブーヴレス報告書が葬り去られたというエピソードはその後30年の哲学教育の基調をなした。学習対象となる概念を限定し、生徒が期待されている答えをより明らかにできるようカリキュラムとバカロレアの試験を改革の試みがあるたびに、哲学教師という職の神話性を断固として崩すまいとする保守派が繰り返しまとまって抵抗した。カリキュラムにまつわる戦いは、結果として現状維持にとどまった。つまり高校2年次、職業リセと高等教育において哲学を導入することは依然として真剣に議論されたことはなく、バカロレアの試験は変わらないままである。

喫緊の課題を抱える教育現場 

 真の哲学という名のもとに、本来の教育的な思考や実践は、教師それぞれの「ちょっとした手慰み」の領域に貶められている。これらは不信と軽蔑でしか見られていないのだ。社会学者のルイ・ピントが1983年に既に指摘したとおりであるが、「哲学の学校教育は、究極の思考、つまり思考とは何かと考える思考を職業として独占している人たちには領域侵害と受け取られ、非難されるだけである(6)」。つまり全ての教育の中心的な側面であるはずの教育方法は、哲学教員養成課程においては以前より入門からその後の段階にいたるまで除外されている。つまり[教育方法について何も教えられることなく]もっぱら学術的な内容に終わるのだ。「選抜試験、そして特にアグレガシオン[中・高等教育における教員資格]は『哲学の成績優等証書』、哲学の教員という職業への入口というよりもむしろ『哲学者』でいるための手段として考案され、運用されている」と「哲学教育研究機関の創立のための協会(Acireph)」の設立趣意書である「哲学教育のためのマニフェスト」が非難してから、まもなく20年が経つ。

 ところが哲学教育の一般化のための考えはいくらでもある(7)。その筆頭となるのは、哲学教育を高校の最終学年というたった1年に限った状態から脱却し、高校の3年間に段階的かつ一貫した履修課程を導入することだ。高校の3年間で構想された新しいカリキュラムでは、分析や調査、合理的な議論を教えることができるようにする必要があろう。授業内容や実践については、論理や立論に関する基礎知識(必要条件と十分条件、議論と詭弁、演繹と帰納など)、それぞれの概念や問題についての語彙的・概念的判断基準、与えられた問題と対をなす哲学的な潮流に関する文化的知識、そして現代世界についての重要問題に関して、生徒が習得することに重点がおかれるべきだろう。

 高等学校の第1学年からバカロレアまで共通した教育を行うために、全ての課程に共通の時間割を考案することは可能だろう。実際、普通課程で週4時間、対して技術課程ではたった2時間、職業リセにおいては履修なしという現在の時間割の配分は正当化できない。この状態はばかげている。基礎教育が最も不十分で進路選択の余地のなかった生徒たちこそが、この点でより手厚い教育を必要としているにもかかわらず、彼らの哲学の授業時間は最も少ないのだ。

 今日進められている改革は予算的な都合に否応なく左右されており、残念ながら先に触れた二つの提案の実現に向かって進んでいるわけではない。授業時間数や費用の問題――緊縮財政の中で削減はされていないにしても、せいぜい現状維持――に加え、国民教育相のジャン=ミシェル・ブランケール氏は「カリキュラムに関する高等委員会(CSP)」の委員長に保守派を自認する女性を指名した(8)。このスアド・アヤダ氏は、案の定「カリキュラム案作成グループ(GEPP)」を監視し、教育関係の協会や組合、その他専門家と接することを禁じた。しかしこれは、「2013年7月24日の政令にしたがい、GEPPは、その意見が参考になると思われる専門家や関係者に意見を求める」とするCSPを規定する憲章に反するものである。これから出てくる新しいカリキュラムは、驚くことではないが、これまでと同様に曖昧さを残したものになるだろう。

 今かつてないほど必要とされているのは、保守的な反改革とも、「生徒への要求水準に差を設けること」とも逆のものだ。後者のように多くの場合良かれと思って要求水準に差をつけると、成績の悪い生徒には哲学をしっかり学ぶことをさほど求めないため、このような生徒の学習時間を減らすことになってしまう(9)。そうではなくて、哲学を学ぶ生徒を教育し評価する現場の方法を刷新し、これによって批判的に思考するための方法を本当に身につける手段を彼らに与えることが必要なのだ。これによって、バカロレアの試験内容も求められる内容が明確で分かりやすくなり、かつレベルの高いものに改めることができるだろう。特に喫緊の課題を抱えているのは技術課程である。何しろ試験で何を書くべきかが曖昧でお手上げ状態の受験生の多くは、4時間続くものと想定されている試験を1時間で終わらせてしまうのだ。


  • (1) 1925年の「通達」は、哲学者のブルーノ・プセの大著で復元された。Enseigner la philosophie. Histoire d’une discipline scolaire, 1860-1990, CNRS Éditions, Paris, 1999.

  • (2) Cf. Pierre Bourdieu et Patrick Champagne, « Les exclus de l’intérieur »,Actes de la recherche en sciences sociales, no 91-92, Paris, mars 1992.

  • (3) Jean-Louis Poirier, « État de l’enseignement de la philosophie en 2007-2008 » (PDF), inspection générale de l’éducation nationale (IGEN), ministère de l’éducation nationale, Paris, septembre 2008.

  • (4) «  Rapport de la commission de philosophie et d’épistémologie », Paris, 15 juin 1989.

  • (5) Supplément au numéro de septembre-octobre 1989 de la revue L’Enseignement philosophique, organe de l’Association des professeurs de philosophie de l’enseignement public (Appep).

  • (6) Louis Pinto, « L’école des philosophes. La dissertation de philosophie au baccalauréat », Actes de la recherche en sciences sociales, no 47-48, juin 1983.

  • (7) Cf. Sébastien Charbonnier, Que peut la philosophie ? Être le plus nombreux possible à penser le plus possible, Seuil, Paris, 2013.

  • (8) « À la tête du Conseil des programmes, Souâd Ayada, une philosophe au conservatisme assumé », Le Monde, 2 février 2018.

  • (9) Cf. Jean-Pierre Terrail, Pour une école de l’exigence intellectuelle, La Dispute, coll. « L’enjeu scolaire », Paris, 2016 ; Groupe de recherche sur la démocratisation scolaire (GRDS), L’École commune. Propositions pour une refondation du système éducatif, La Dispute, coll. « L’enjeu scolaire », 2012.


  • [訳注]フランスの後期中等教育機関で日本の高等学校に相当する。卒業後就職を前提とした2年制の職業リセ、大学進学を前提とした3年制のリセ等がある。


(ル・モンド・ディプロマティーク 仏語版2019年9月号より)