経営者と労働者の勢力関係が覆るとき

フランス人民戦線を生み出した労働者階級


ジェラール・ノワリエル(Gérard Noiriel)

歴史家、フランス国立社会科学高等研究院(EHESS)研究長 

訳:菅野美奈子


 1カ月以上もつづいたフランスの年金制度改革に抗議するストライキは日本でも話題となった。政治家や経営者など権力者側の意向に対し、市民=労働者が自分たちの声を届けるためストやデモといった集団行動に出ることが、フランスでは民主主義の名のもとに広く認められているのだ。仏語版2016年6月号掲載の本論考は、第二次世界大戦前夜に誕生し、週40時間労働や有給休暇の導入などを実現した左派による連合政権である人民戦線の歴史を、労働運動の視点から読み直し、その意義を現代に問い直す。[日本語版編集部]

(仏語版2016年6月号より)

photo credit: フランス人民戦線のデモ。パリ・コミューン兵士の壁の前にて。(Agence Meurisse. 1936)François Rabelais

 2016年5月3日、シンポジウム「左派と権力(1)」の冒頭演説で、フランソワ・オランド氏はこのようなイベントをフランス人民戦線の勝利から80周年の記念日に実施した関係者に祝意を表した。彼によれば、それは「時間と空間を超えて有意義な比較を行い、今日のために教訓を導き出す」一つの有効な手段であった。

 1936年4月と5月の議会選挙を重視して人民戦線の記念行事を催すことには、何か思惑があるに違いない。こうすれば、民衆闘争の側面は軽視される反面、政党とその指導者たち、彼らの政策が果たした役割が強調される。それは下からではなく上から目線の歴史観だ。しかしながら、人民戦線は、社会の進歩が選挙綱領よりもはるかに民衆運動に左右されると証明したいとき、現代史から見いだせる最もよい例である。

 1936年5月の左派の勝利それだけでは、人民戦線にその歴史的重要性を与えるには不十分だ。急進社会党、フランス社会党、フランス共産党という3つの主要な政治勢力は、同じ旗印のもと共闘したが、僅差でしか勝利していない(絶対投票率は左派37.3%に対し、右派35.9%)。彼らは合意に至るために「パン、平和、自由」というスローガンに要約される、極めて控えめな選挙綱領しか採用しなかったし、社会政策に関する公約は減給なしの労働時間の短縮と国家失業基金の創設に限られていた。こうした消極性のせいで、共産党はレオン・ブルム率いる内閣への参加を拒んだとも考えられる。

 人民戦線政府はフランス現代史において特筆すべき一時期を画したが、それは何よりもまず、当時のヨーロッパで類を見ないほどの非常に大規模な集団運動から生まれ、その存在意義を同運動のうちに見いだしたからだ。

 このような庶民階級の蜂起が起こった理由を説明しようとするなら、フランスにおける労働者階級の長い歴史の中にこの事件を位置づけ直すことから始める必要がある(2)。イギリスで起こったことと異なり、フランスでは第一次産業革命が田舎社会との根本的な断絶をもたらさなかった。大工業は、商人=製造業者に支配されていた従来の経済モデルを存続させることで発展した。彼らは村に定着して家族経営を行っていた多くの職工=農民に原材料を支給し完成品に加工させた。他方で大都市、とりわけパリでは旧体制期の協同組合に由来する職工=職人が目立った。サン・キュロットの子孫である彼らは、1789年から1871年のパリ・コミューンまで、この都市を揺るがしたあらゆる革命運動で中心的な役割を果たしている。大きな断絶が、上記のように労働に携わる人々を二つに分けていた。この二つの異なる労働者層の併存が一つのまとまったアイデンティティを有する労働者階級の形成にブレーキをかけ、労働法の誕生を妨げ、請負や一括下請負(丸投げ)といった伝統的な法的形態を存続させた(3)

1933年、真の出発点

 19世紀末、歴史家たちから「大不況」と呼ばれる、資本主義社会最初の大規模な経済危機は、新たな産業革命を引き起こし、大工場時代が幕を開けた。こうした激動からまともに打撃を受けた労働者を構成する二つの主要なグループは、新秩序に対するさまざまな形のラディカルな闘争を開始した。ストライキやデモはしばしば流血のうちに鎮圧されるも、拡大していった。炭鉱員の存在が大衆に広まり、プロレタリアートを標榜する組合や政党(フランス労働総同盟(CGT)や フランス労働者党(POF)など)が生まれたのは、まさにこの時である。こうした大規模な運動によって、炭鉱の経営陣はフランスで初めての労働協約に署名することを余儀なくされた。また、それは社会法制の始まりでもあり、とりわけ週休の取り決めや労働者と農民の年金に関する法律が制定され、1910年に労働法典が誕生した(4)

 しかしながら、共和国政権は、オットー・フォン・ビスマルクが1880年代にドイツで反対者を押しきり実現させたものに匹敵するような社会保障の総合的な制度の創設に後ろ向きであった。自作農や小規模企業の経営者といった彼らの支持基盤である有権者を満足させるため、フランス共和国の首脳陣は商品と外国人労働に課税する経済的保護主義を選択した。「国内労働保護」法(1893年採択)が外国人労働者の身分の特定に関する措置に焦点を当てているのは偶然ではない。この保護主義は農村からの人口流入にブレーキをかけ、大工業における労働者不足を悪化させた。外国人に対する諸々の差別が増加したまさにその時に、大々的に移民の労働力に依存する必要が出てきたのである。

 第一次世界大戦とそれにつづく再建の時代は、労働者全体に新たな分裂をもたらした。最も保護された分野(鉄道、郵便、公共サービスなど)では、神聖連合[訳注1]のおかげで戦時中に制度化された国、経営陣、労働組合という三者による共同経営体制が存続した。CGTの改革派が大部分の組合員を募ったのはこうした分野においてである。

 他方で、大工業においては1919年から1920年にかけて行われたスト蜂起の容赦ない抑圧の後、労働運動が激減していた。エドワード・ショーターとチャールズ・ティリーが示したように、ストの後退が1920年代を通じて最も顕著だったのは、従業員500人以上の企業においてであり、そうした企業こそ1914年以前は労働組合の闘争意欲が最も激しかった(5)。闘志喪失には二つの理由がある。北部と東部における重工業では、戦死した労働者や罹災地帯から逃亡した労働者の穴を埋めるため多くの移民に頼ったがゆえに、それまでの数十年間に作り上げられた闘争の伝統はひどく弱体化した。また加工業では、新しい工場がとりわけ大都市の郊外に広がり、熟練労働者を引きつけた。彼らは、最も良い待遇を与えてくれる経営者に自身の労働力を売り込むため転職を繰り返し、個々人で問題を解決することを優先した。こうした不安定要因が増幅されることによって、フランス共産党やフランス統一労働総同盟(CGTU(6))の努力にもかかわらず、集団行動は阻害された。

 1929年10月にウォール街での株価大暴落から始まった資本主義の新たな危機は、2度にわたってフランスに直撃した。1933年までは、他国に比べてその影響がさほど顕著に現れてはいなかった。というのも、とくに影響を受けたのは産業社会の最も周縁に追いやられた者たちだったからである。数十万の移民労働者は母国に送り返され、当時のフランスにはまだ相当数いた職工=農民は農村環境で生活の糧を得ることで、失業基金に頼らなくなっていった。

 しかし、1933年以降、不景気はそれまでの時期に比べていっそう「フランス人」「男性」「熟練」「都市」の労働者に大打撃を与えた。失業は膨大な規模に達したが、失業補償制度は依然として古めかしいものであった。数多くの熟練労働者は転職先を見つけるのも難しく、ときにはかつて移民しか従事していなかったような職に就かざるをえなかった。経営陣は、手仕事の機械化を強化するための必要財源をもはや調達できないため「労働の合理化」を優先するようになった。歩合給制とライン生産方式が、とりわけ自動車産業において、瞬く間に普及した。

 通説とは異なり、人民戦線を特徴づけるストライキ運動は、1936年5月3日の選挙における左派勝利の直後に始まったのではない。その真なる出発点は、大型製造工場で働く熟練労働者が経済危機の影響を直に受けた1933年に遡る。それはまさに共産党が企業における労働運動を重視する戦略から成果を見いだし始めた時期であった。端緒となる出来事を挙げるなら、ビヤンクールにあるルノーの工場で1933年2月6日に起きた事故がすぐに選ばれるだろう。ボイラーの爆発によって8名の死者と多くのけが人が出た。埋葬の際、経営者ルイ・ルノーと社会党所属の市長は「人殺し!人殺し!」と叫ぶ共産党議員、活動家、そして2000人に及ぶ労働者たちを味方につけていた遺族たちと対面した。ユマニテ紙(ジャン・ジョレスが創刊し、1920年に共産党の傘下に入った新聞)によって全国に報じられたこの悲劇的な出来事は、その後の年月において強化されつづける「我々」労働者という意識の確立の過程に大きく貢献した。

 そして政治情勢もまた、社会闘争の発展において大きな役割を果たすことになった。1934年2月6日、極右の同盟組織は大騒乱となるデモを企てた。クーデタになるかもしれないという脅威は、労働運動の再結集と反ファシスト戦線を軸にした左派勢力の結束を急き立て、これが人民戦線への道を開くことになった。このような一致団結した反応に後押しされた労働者たちは、集団行動の実行に踏み切った。ストライキは相次ぎ、さまざまな分野に影響を及ぼしたが、それまでとは異なり、これ以降はしばしば勝利を獲得した。女性たちもまた、こうした運動において重要な役割を果たし始めた。その証拠に、1935年5月、パリ地域の小規模な会社で働く2000人以上の既製服製造に従事する女性労働者が賃金削減に反対してストライキを開始し、勝利を得ている。

闘争に益あり

 こうした人民戦線の歴史における萌芽期は重要である。というのも、労働者たちが行動方式を考えだし、1936年5月、6月に普及することになった諸要求を練り上げたのは、まさにこの時期だからだ。1935年11月にサン=シャモンにあるオメクール製鉄所(フランス海軍のための資材を製造した工場)で起こった闘争の例は、この点で象徴的である。「労働の合理化」のための措置を拒否しようとして始まったストライキでは、初めて5週間にわたる工場の占拠も行われた。スト参加者は賃上げだけでなく、従業員の代表制度の導入と熟練度に応じて労働者を3つのカテゴリーに分類する制度を勝ち取っている。

 1936年5月の選挙での勝利は、火花に例えられるだろう。大工業の一部の熟練労働者が放った火から燃え広がった騒乱は、この火花のせいで激化した。占拠を伴うストライキ運動は1936年6月初めに最高潮に達する(150もの企業が占拠された)。経営陣は交渉の開始を受け入れ、6月8日にマティニョン合意(賃上げ、週40時間労働、有給休暇の導入、労働協約の一般化など)が成立した。しかし、こうした成果は労働運動を終結させるには不十分だったどころか、むしろ拡大させた。闘争に益ありと気づいた、組合や政治の活動と最も関わりのなかった人々が後につづいたのだ。ほとんどすべての業界にこの運動が及び、免れたのは最も保護された分野(公共サービス、公務員)に限られる。こうした分野は、CGT改革派が推奨する階級間協力に終始一貫していた。

 つまるところ、人民戦線から導き出せる重要な教訓とは、専門家、政治指導者、経営者が「空想的」「非現実的」さらには「自殺的」とまでみなしていた社会的要求は、被支配層が自分たちに有利な勢力関係を築ければ正当化されるということだ。たしかに1936年6月にこの闘いが終わったわけではなく、つづく歳月においてマティニョン合意は常に経営者側から攻撃を受け、フランスの法律に定着したのは第二次世界大戦の直後でしかなかった。いま起こっている労働法の破壊は、おそらくこの階級闘争の長い歴史における新しい局面である。

 人民戦線はまた、社会の集合表象[訳注2]は労働者階級が自分たちの声を聞き入れさせたときに一変することを示している。ベル・エポックの時代、社会運動は世間一般に北部の炭鉱労働者の存在を知らしめた。1936年、彼らの後を引き継いだのは「ビヤンクールの鉄工たち」であった。映画『我等の仲間』でジャン・ギャバンが演じたこの新たな人物像は、この時期に起こった非常に大規模な民衆運動において女性、移民、植民地出身の労働者が果たした役割を見えなくしてしまうのは確かである。しかしながら、ビヤンクールの鉄工たちが闘う民衆の一部しか代表していないとしても、その存在は民衆全体に対する尊敬の念を起こさせた。右派と極右は、ストライキはモスクワからボルシェヴィキたちによって操られていたと主張して労働運動の評判を落とそうとしたが、レオン・ブルムはこの言説に決して賛同しなかった。

 半世紀後、フランス社会は新たに大工業の拠点の崩壊を招くほどの経済危機に直面した。1981年5月、フランソワ・ミッテランの勝利によって庶民階級の間に希望が広がり、自動車産業において一般工(ouvriers spécialisés, OS)[訳注3]たちの後押しにより「労働組合の春」が訪れた。しかし、彼らは自分たちの後につづくよう他の労働者層の人々を導くことができなかった。その勢力関係は、世間的にみて労働運動に正当性を与えるには不十分であった。職場で礼拝を行うイスラム教徒の報道を過熱させるメディアの影響で、1983年1月、社会党所属のピエール・モロワ首相はついに次のような発言をした。「いまだ存在している主要な困難は、移民労働者たちが原因である。彼らはフランス社会の現実とほとんど無関係な決まり事に従って行動する(7)」。スト参加者を外国から金で雇われた扇動者とみなして社会闘争の評判を落とそうとする右派の伝統的な言説が、ここでは1936年のレオン・ブルムと同じ政党、同じ役職に就いている人物によって支持された。

 この日、フランス人民戦線は完全に息絶えた。


  • (1) ジャン・ジョレス財団、欧州進歩研究財団(FEPS)、テラ・ノヴァ(シンクタンク)による共同主催シンポジウム。

  • (2) 詳細な分析は、拙著 Les Ouvriers dans la société française, XIXe-XXe siècle, Seuil, Paris, 1986 を参照。

  • (3) 「一括下請負」とは、仲介人または「下請け業者」が工場労働者の仕事を一括して他の雇用者に転売する慣行を意味する。

  • (4) Claude Didry, L’Institution du travail. Droit et salariat dans l’histoire, La Dispute, Paris, 2016.

  • (5) Edward Shorter et Charles Tilly, Strikes in France, 1830-1968, Cambridge University Press, 1974.

  • (6) 1921年から1936年の間に存在した、フランス労働総同盟の一分派から生まれた組合。

  • (7) Nicolas Hatzfeld et Jean-Louis Loubet, « Les conflits Talbot, du printemps syndical au tournant de la rigueur (1982-1984) », Vingtième Siècle, no 84, Paris, 2004 に引用されている。


  • [訳注1]第一次世界大戦開戦時、当時の大統領ポアンカレが全政党の団結を呼びかけたもの。

  • [訳注2]フランスの社会学者デュルケムの用いた概念の一つ。個々人の意識内に形成される個人表象とは異なり、一つの社会集団において客観的な事実として確認され、かつ個人に内面化されている認識の働き。個人に外在し、個人を拘束する一種の心意であり、宗教、道徳、思想、知識などが該当する。

  • [訳注3]専門的な技量を必要としない労働に従事する人々のことを指す。単能工。


(ル・モンド・ディプロマティーク 仏語版2016年6月号より)