ベルリンの壁崩壊から30年

東ドイツ併合の歴史


ラシェル・クナベル(Rachel Knaebel)

在ベルリン、ジャーナリスト 

ピエール・ランベール(Pierre Rimbert)

ジャーナリスト 

訳:村上好古


 ベルリンの壁が崩壊して30年を迎えるが、近年両ドイツの統一に関する様々な検証が行われている。東ドイツは政治的な自由を獲得し市場経済に組み込まれたが、その過程で大きな経済的、社会的代償を払った。西ドイツは東ドイツを「併合」し、巧みにこれを収奪したのだという議論が、ここでは展開されている。[日本語版編集部]

(仏語版2019年11月号より)

ブランデンブルク門(ベルリン)

 歓喜、自由、破壊された壁の前で演奏するチェロの名手、その他様々な喜びの情景、そして「薔薇色の光景(blühende Landschaften)」(1)の約束。これら1989年11月9日に起こったことは、多くの場合「喜びの歌」のメロディーにあわせて頌(たた)えられる。しかしここ数カ月、「再統一」の大合唱と、いわゆる「無血革命」に続く暴力的な行為とに食い違いがあることが露わにされている。旧東ドイツの複数の州(ラント)で極右政党の「ドイツのための選択肢」(AfD)が今年20%以上得票したこと、また「旧東ドイツの住民の58%が、国家の横暴からの保護が東ドイツの時より劣っていると感じている」(2019年10月3日付ディー・ツァイト紙)という調査、それに1990年代を「敗者」の視点から明らかにしたいくつもの著作物が売れていることなど、壁崩壊の記念日は、以前ほど晴れがましい様子がない。40年におよぶ共産党独裁の結果破たんした隣国にマルクと民主主義を提供した寛大なる西ドイツ、という輝かしい歴史の中で、何かがうまく行っていない。

 1989年秋、東ドイツの人々は自分たち自身の歴史を作った。外からの協力を受けず、ベルリン、ライプチヒ、ドレスデンで数々の大衆デモを行い、ドイツ社会主義統一党(SED)によって運営された政党国家とその政治警察、意のままになるメディア、これらを権力の座から引きずりおろした。壁の崩壊後数週間、反体制派の大多数は、統一ではなく東ドイツの民主化を熱望していた——シュピーゲル誌の調査(1989年12月17日付)では71%がそうだった。ベルリンのアレクサンダー広場での1989年11月4日の大集会で、ある牧師が語った次の言葉はこうした気分を表している。「我々もうひとつのドイツ人は、歴史に対しひとつの責任を負っている。それは、真の社会主義が可能であると示すことだ」(2)

 同じ論調が、作家のクリスタ・ヴォルフが11月26日に発表し、国営テレビで放送された「私たちの国のために」というアピール文に見られる。「私たちは西ドイツとは違った、別の社会主義を発展させる可能性をなお持っている」と断言するこの文面には、住民1,660万人のうち120万人の署名が寄せられた。国の「独立を保持し」憲法を起草するため、ポーランドとハンガリーを手本にして12月7日に設立された「円卓会議」には反政府運動組織と既存政党が集まり、民主的で環境保護的な社会主義の概要を示す草稿を描いた。しかし西ドイツの政治勢力が突然乱入し、すぐにこの動きは封じられた。

 当時西ドイツの首都であったボンの指導者たちは、当初こうした事態の進展を唖然として見ていたが、やがて隣国の選挙を征することに乗り出した。1990年3月18日の人民議会選挙は初めて政党国家とモスクワの影響を排したものであったが、これに対する彼らの介入は、元社会民主党出身の大臣で1970年代の両ドイツ接近の立役者であったエゴン・バールが、「自分が生涯知っている中で最も汚い選挙」(3)と語るほどであった。アメリカの支持を受け、また弱体化していたソ連が消極的であったことから、保守系のヘルムート・コール首相が率いる西ドイツは、数カ月のうちに、すさまじいまでの強権を行使した。ひとつの主権国家を併合し、その経済と制度を完全に解体し、自由主義にもとづく資本主義体制を移植したのだ。

 しかしながら、1949年に東ドイツが建国されてからの40年で、彼らには独特の国民性が形成されていた。これは一方で、労働、社会扶助、健康、教育、文化などの面における社会主義の浸透に特徴があり、他方では、専制的な政党国家に対するためらいがちな反感、私的生活への引きこもり、そして西側文化へのあこがれ、があった。「再統一」を構想していた者は、少し後になって、コンビナートを閉鎖するようには人々を解体することはできないと気づくことになる。

 公式な歴史を信じている者は東側には誰も、あるいはほとんどいないが、そこにある欠陥を理解するには、まさにそれを要約表現した歴史用語から離れる必要がある。「再統一」など決してなかったのだ。この点に関し、統一条約の交渉に当たった西ドイツ内相ウォルフガング・ショイブレ氏は、1990年の春に東ドイツの代表団に対し次のように明瞭に語っている。「友よ、問題になっているのは東ドイツが連邦共和国に入ることであって、その逆ではない。(……)ここで議論しているのはふたつの対等な国の統一ではないのだ」(4)。西ドイツの基本法(第146条)に基づくのでも、また市民運動の期待に沿って新たな憲法を両国民合同の選挙にかけるのでもなく、西ドイツ政府は隣国に純粋かつ単純な併合を押し付けたのだ。それは1957年にザール地方を連邦共和国が獲得するために使った不明瞭な手段に倣ったものだった。1990年8月31日に調印され、同10月3日に発効した両国統一に関する条約は、ひとつの国をいきなり消し去り、西ドイツの基本法を単にその時誕生した新たな5州に広げただけだった。その国のことは今や、融通が利かず横暴な警察と趣味の良くない衣料品、そしてトラバント(車)しか思い出すものがなくなってしまった。

急速な通貨統合の進展 

 その時、対等とは言い難いふたつの力がぶつかり合った。東ドイツの国民は、政治的な自由と繁栄を求めたが、彼らの社会が持つ特性を守ることもあきらめなかった。西ドイツ政府にとっては、Le Second Anschluss[ナチスドイツによるオーストリア併合に次ぐ「2度目の併合」という意味]と題する明快な研究を著したイタリア人の学者ウラディミロ・ジャッケが説明するように、「最も重要なことは東ドイツの完全な解体にあった」(5)

 最初のステップは、社会主義統一党の下での国家ではともにほとんど無視されていたふたつのこと、すなわち選挙で得票することと、収入の増大を同時に実現することにあった。1990年2月6日にコール首相は西ドイツのマルクを東側にも広げることを提案したが、このとき彼は複数の目的を持っていた。まず考えたのは、いかにも物わかりのいいミハエル・ゴルバチョフが万一モスクワで失脚するような場合に備えて、東ドイツをしっかりと西側につなぎとめておくことだった。しかし喫緊の課題は何と言っても、3月18日に東ドイツで予定される人民議会選挙を制することにあった。ところが世論調査では、新たに結成されたばかりの社会民主党(SPD)が、共産主義者の牛耳る政府に数十年にわたって参加していた東ドイツのキリスト教民主同盟(CDU)に大きく差をつけていた。「東ドイツ経済をドイツマルクの通貨・経済圏に早急に統合する」(6)という解決法は、このふたつの要請を両立させるものだった。通貨問題の専門家ティロ・ザラツィン——彼は20年以上あとになって、L'Allemagne disparaît[「ドイツは消える」という意味]という排外的な著作で有名になった——などの進言を受け、1990年1月にこの解決策が西ドイツ政府の財務省内に登場した。コール首相はその時まで懐疑的であったが、2月初には早急な通貨統合案の採用を決めた。理論上は独立性を有しているブンデスバンク(西ドイツの中央銀行)総裁は反対したが、いささかも耳を貸さなかった。同総裁はやがて言を改めることになる。

 公衆に対し、この構想はきわめて強力な選挙運動の材料になった。当時西ドイツのマルクは東ドイツマルクで4.4マルクの価値があったが、1対1で直ちに交換するという約束は、常にあらゆるものが不足状態にあった東側の住民を狂喜させた。そして両国の統一問題が選挙の中心テーマになった。キリスト教民主同盟とその同盟勢力は劣勢を挽回し、48%以上を得票して選挙で勝利した。社会民主党は21%、民主社会主義党(PDS、社会主義統一党から分派した)は16%だった。しかし、東ドイツのキリスト教民主同盟の党首であり選挙の大いなる勝利者であるロタール・デメジエール氏が称えた「ドイツ連邦共和国の寛大な政治的措置」の裏には、ある政治的な決定が隠されていた。「マルクを利用して東ドイツの西ドイツへの早期併合を確実なものにする」ということであり、1989年11月18日から1990年3月18日まで経済大臣であったクリスタ・ルフト氏が後にそのことを指摘した(7)

社会の解体という選択 

 通貨だけでなく、東ドイツには市場経済が突然丸ごと移植された。「経済体制の完全な移行との引き換えでなければ、ドイツマルクを手渡すことはできなかった」とザラツィン氏は記憶にとどめている。5月18日に署名された条約の文言は、体制の変更を確認している。「経済の統合は、条約両当事国に共通する経済秩序としての社会的市場経済に基礎を置く。これは特に私的所有、競争、自由な価格形成によって定義され、労働力、資本、財およびサービスの基本的に自由な移動によっても同様である」(第1条)。政治上の自由主義、自由貿易、また「土地および生産手段への投資者の私的所有権と対立するときには、ドイツ民主共和国憲法の社会および国家に係る従前の社会主義的な基礎に立つ規定は適用されない」(第2条)。

 1990年7月1日に条約が発効して程なく、そして銀行へ人々が殺到すると、東ドイツの人々は幻想から覚めた。消費者が熱狂して西側の商品に向かう一方で、東側で生産される財やサービスに付された価格は実質上一気に300~400%上昇し[訳注1]、企業は一挙に全く競争力を失った。欧米企業に吸い取られて国内の市場を失ったばかりか、東ドイツの輸出の60~80%を占める東側諸国(特にソ連)の顧客をも失ったのだ。いみじくもブンデスバンクのカール・オットー・ペール元総裁が認めるように、この国はこの時、「どんな経済でも耐えられそうもない馬用の薬を飲んだ(荒療治を受けた)」のだ(8)。モリエールの医者が瀉血の効き目を確信しきっていたのと同じように、西ドイツ政府の交渉担当者は、支援のためのどんな支援対策を講ずることも拒否した(段階的な為替レートの調整、東側製造業への補助金、西側製品への追加課税、など)。

 東ドイツは、西ドイツが戦後10年を要した経済の自由化を、一夜のうちに達成したのだ。1990年の7月に工業生産は前年比で43.7%低下し、8月には51.9%、年末には70%近く低下した。一方、公式の失業者数は1990年1月にはせいぜい7,500人であったところ、1992年同月には140万人へと急上昇することになった——さらに、疑似就業者[訳注2]や、転職途中、早期退職者などを含めるとその倍以上になる。その後ソ連の衛星国から脱したどの中・東欧諸国もこれよりひどい状況になることはなかった……。

 社会を解体するという選択は、熟慮の末のものだった。何十もの報告がそれによって引き起こされる結末について詳細に論じていた。「半ば破たんした経済状態でずっとソヴィエト圏にとどまるよりも、経済が破たんしても統一にたどり着く方がましだ」と、社会民主党の理論家リヒャルト・シュレーダーは考えていた(9)。だが彼の願いが成就された、と言うだけでは足りない。東ドイツの住民の頭の中には、「皆殺しの天使」がある名前を付けられて実在していた。「トロイハント」という名で、トロイハントアンシュタルト(「信託公社」)を縮約したものだ。1990年3月1日に設立され、かつての東ドイツを資本主義に転換するための道具になった。トロイハントは、「人民の財産」——1990年7月1日にトロイハントが所有権を取得した旧国家所有の企業や財産に付けられた名前——のほとんどすべてを民営化したり清算したりする任務を遂行した。製鉄所から街の食料品店、映画館、さらに林間学校まで3万2,000の事業所を持つ8,000の会社やコンビナート、また東ドイツの57%に相当する面積の土地、さらに不動産業を手中に収め、この組織は一夜にして世界最大のコングロマリットになった。そして就業人口の45%に相当する410万人の従業員の命運を任された。1994年12月31日の解散時には、大部分の資産の民営化あるいは清算を終え、現代の経済史の中で比類のない「成果」を誇った。すなわち旧東ドイツを非工業化し、250万人の雇用を廃した。そして1990年10月に総裁が自ら6,000億マルクと見積もった当初の純資産は、なんとその損失が2,560億マルクに上ったのだ!(10)

 自由主義がなせるこの驚異は、東ドイツで最後の経済大臣であったルフト氏の目には「生産資本の平時で最大の破壊行為」(11)と映った。研究者のウォルフガング・デュムケとフリッツ・フィルマーとは彼らの研究で、東ドイツが服した構造上の植民地主義の最たるものがここにあった、と考察した(12)。西ドイツの投資家と企業が東ドイツの生産拠点の85%を買収し、東ドイツ方はわずかに6%を取得したに過ぎなかった。

 隣国の計画経済に対し電撃戦で臨むという考えは、1950年代にさかのぼる。トロイハントの全てを取り扱った著作を2018年に著した歴史家のマルクス・ベイックは、この奇妙な官僚組織が、戦後期の経済大臣でありオルド自由主義[秩序自由主義とも言う]の守護神であるルートヴィッヒ・エアハルトの知的産物であるとした。1953年に出版した「再統一に伴う経済面の問題」と題する未来を展望した試論の中で、エアハルトは早期の通貨統合を主張し、ベイックが言うには、「他に方法がないわけではないとしながら、『ショック療法』のモデル」を提示していた(13)

 歴史のいたずらになるが、1990年3月に生まれ出たトロイハントは、当初、経済の民営化を狙ったものではなかった。反体制派のグループや市民運動の中で考案されたこの「東ドイツ国民が受け継いできた財産に対する東ドイツ市民の権利を保全するための信託会社」は、国有企業を細分して国民に再配分するはずだった。労組のIGメタル[金属産業労組の意味]は、彼らの立場から、その所有権を直接従業員に譲渡することを提案していた。しかしながら3月18日の東ドイツの選挙で保守派が勝利したことで、白紙になった。通貨統合が発効する7月1日の2週間前、東ドイツの国会である人民議会は急きょ「人民財産の民営化と組織化のための法律」を採択した。こうして壁の崩壊以来東ドイツの改革派の経済思想を賑わせていた社会主義と資本主義の妥協を図るための模索が終わった。半世紀も前に考案された「ショック療法」が表に出てきたのだ。

 数週間で設立されたトロイハントは、準備不足のままその仕事にとりかかった。両ドイツに共通の電話網がなかったことから、東ベルリンにいる職員は、西側の相手と話をするためにいつも決まった時間に西ベルリンの電話ボックスに出かけた(14)。こうした工夫を要しはしたが、企業再編成の専門家の意見にふさわしいと西ドイツが考えたものはすべて、臨終を迎えている組織体に持ち込まれた。その最初の総裁ライナー・マーリア・ゴールケ氏はドイツIBMの社長だった人物であり、1990年8月にその後を継いだデトレフ・カルステン・ローヴェダーは冶金業ヘッシュ・グループの社長であった。監査役会の会長はジェンス・オドゥワルド氏で、コール首相に近く、西ドイツの百貨店チェ-ン、カウフホフの社長であったが、後にアレクサンダー広場での旨味のある商権を手にする。1990年の夏以降は、西ドイツ政府がその運営を監督した。財務省はトロイハントの社長の下にKPMG、マッキンゼー、ローランド・ベルガーといったコンサルタント会社出身の管理者を集めた部局を設置し、再編を求められている企業が直ちに民営化されるべきか清算されるべきか、明確な基準もないまま評価することになった(15)

解体された企業 

 トロイハント、保守派の政府、それに西ドイツの経営者が結託しているということ、そしてまた一連の馬鹿げた決定は、トロイハントは西ドイツ企業の利益を減らす恐れのあるすべての競争を市場から取り除くことを第一に活動したのだ、という確信を生んだ。このことはかつて反証されたことがない。たとえば、不振に陥り競争力の劣っていた東ドイツ経済にもいくつかの花形企業があったのだが、再統一の前夜である1990年10月2日、トロイハントの経営陣はドレスデンにあるカメラメーカー、ペンタコンの工場を閉鎖することを決定した。この企業は5,700人を雇用し、プラクチカという製品を多くの西側諸国に輸出していたのだった。

 環境保護に関して東ドイツが実現したまれなもののひとつに、リサイクルと素材の再利用を行う国有企業セロがあった。各自治体はこれを地方公営企業の連合組織に転換させるよう要望したが、トロイハントは、西側企業グループの利益になるよう分割して売り出すことを優先し、これを拒否した。航空路線の利用と空港の使用に関する権利を競争相手のルフトハンザ航空に無償で移そうと、楽に利益を生む体質にあったインターフルーク航空を解体しようとした彼らの熱中ぶりは茶番そのものだった。チューリンゲン州ビショファーオーデという鉱山の村では、自由で公正な競争原理というものを住民に信じ込ませるのはもはや困難だろう。1990年にトロイハントはここのすべての岩塩鉱山を単一の事業体に集約したうえ、K+Sという西ドイツの競争相手の企業に譲渡したが、同社はすぐにこれら鉱山の操業停止を決めた。「ビショファーオーデは競争力がありながら、西ドイツ企業と競合しているため閉鎖された企業の代表例です」と左派政党である左翼党(Die Linke)議員のディートマ・バルチュ氏は私たちに語ってくれた。「東ドイツは終わった、そこにはもはや何の価値もない、ということを見せつける必要があったのです」

 数十万人におよぶ人員削減に対し抗議が起こった。1991年3月、解雇の危機にさらされたザクセン州シェムニッツの繊維工場の2万人の労働者、ザクセン=アンハルトの自分たちの化学工場を占拠した労働者2万5,000人、IGメタルやプロテスタント教会各派それにかつての反体制派からの呼びかけに応じてデモを行った6万人、彼らは今や政治的な自由を求めてではなく、経済の自由主義に対して闘っていた。3月30日には一団がトロイハントのベルリン事務所に火をつけ、その翌日にはそのローヴェダー総裁が銃で撃ち殺された。そしてコンサルタント会社ローランド・ベルガーに雇われていたキリスト教民主同盟党員で民営化の急先鋒であったビルギット・ブロイエル氏が、すぐにその後任に収まった。

 素人の利権屋、いかさま師、組織化した詐欺師たちは、トロイハントが、その保有する資産を買おうと希望する者なら誰にでも公的資金をばらまく機能を担っている、とすぐに見抜いた。この組織体は購入志願者の犯罪歴や身元を確認しなかったため、スキャンダルが蔓延した。1991年に起こったエルフ=アキテーヌ[フランスの石油会社、合併を経て現トタル]へのロイナ製油所の売却に関する補助金の横領、ハレ代理店で1993年に明らかになった幹部の汚職、ロストックとヴィスマールの造船所の再編——結局1万5,000人が解雇された——のために西ドイツのブレーマー・ヴルカン[造船業]に手渡された数億万マルクの流用、など。こうした不正行為が一向に減ることなく絶えず起こったため、「犯罪の統一」という特別な言葉が現れたほどだった。1998年に議会の委員会は、その額が30億から60億マルクに上ると見積もったが(16)、さらに清算人への有り余るほどの報酬(民営化1件につき4万4,000マルク、債務超過となっている案件の場合は8万8,000マルク)、コンサルタントへの途方もない報酬——トロイハントの外部協力者は、4年の活動で13億マルクを稼ぎ、1992年にはたった1年間で4億6,000万マルクを手にした(17)——も加えてしかるべきかもしれない。

 「我々が今失敗すれば、20年、30年先まで責任を問われることになる」とトロイハントの役員は1990年7月にすでに認めていた(18)。ザクセン州のグロースドゥブラウという小さな村では、真剣な買取希望者がいたにもかかわらずKPMG監査法人に勧告されて製陶工場が清算されたことが、強く記憶に残されている。2019年9月1日の地方選挙では、有権者の45%以上が「ドイツのための選択肢」に投票した。ザクセン州の同権・社会統合大臣ペトラ・ケッピング氏(社会民主党)はここには因果関係があると言う。「トロイハントのおかげで何が起こったか、人々に説明しなければならない。すぐにだ」として、「真実究明委員会」の立ち上げの必要を提唱している。

記憶の中のゾンビ 

 1993年から1994年にかけて、また1998年に、議会のふたつの調査委員会は、財務省が文書や契約書の閲覧を拒否して妨害したにもかかわらず、その氷山の一角を明らかにした。1994年8月に社会民主党議員たちは、「政府と信託公社は議会の監督権を排除した。1945年以降、正当で民主的な政府にはとてもできなかったことだ」と非難した(19)。ところがこの問題はやがて公の議論から姿を消した。要するに、西側が言う「愚痴ばかり言う東の奴ら」のことを一体誰が心配したりするのか、ということだ。

 数年来、トロイハントの亡霊が再び現れてきている。ケッピング氏は言う。「かつて人々にはまだ希望があった。『もう一度やってみよう、職業訓練を受け、転職もして』と人々は互いに話していた。こうした状況が長く続いた。しかし、一旦年金生活に入ると、自分たちのことを統一後の国家建設に関った世代だと思っていた人たちが、下手をすると500ユーロしか年金がないことに気づいた。自分たちが国を変えるためにやり遂げたことを全く理解してもらっていない、とよく分ったのだ」。歴史家のマルクス・ベイックはトロイハントを「記憶の中のゾンビ」になぞらえる。それはドイツ統一に伴うすべての「負の遺産」、すなわち壊滅した産業、地方の過疎化、不平等、かつて他のどこよりも労働が社会的ステータスとなっていた国で発生している大量の失業、などのことを言い表している。左翼党は、1990年に秘密に付された書類を調べることもできる議会の新たな調査委員会を要求しているが、「ドイツのための選択肢」を除くすべての連邦議会の政党はこれに反対している。45キロメートルにおよぶ書類を精査することを考えると、最近雇われた7人の資料保管担当官には、東ドイツの秘密警察シュタージでは資料整理に1,400人が割り当てられていたことがうらやまれるだろう。

 その結論を待つにしても、すでに、東ドイツの併合についてふたつの結果が分っている。ひとつは、ドイツの指導者たちが喜んでいると思われることだが、1990年代にドイツが中心的な地位を回復し、EUがゲルマン流の謹厳さに基づいて政治および通貨の統合を促進させたことである。もっとも、ドイツ統一条約に遅れて生まれたその成果であるマーストリヒト条約は、ヨーロッパに何百万人もの失業を招くことになった。もうひとつの結果は、幻滅と言うに近い。政治的な自由とインフラの発達の代償に、東ドイツの国民は、首に重石をつけて資本主義の波間に放り出されたのだ。かつて政党国家に敵対したエーデルベルト・リヒターは1998年になって、「統一のパラドックスは、東ドイツ国民の民主主義と社会的市場経済への統合が、彼らが労働あるいは所有権といったその根本となるものからほとんど疎外されるのと同時に行われたということにある」と観取している(20)

 かつて工業化が進み輸出国であった東ドイツ経済は、今や国内需要と連邦国家から渡される社会的な援助に依存している。経営者にとって併合は好循環をもたらした。新たな州への公的資金の移転は、西側企業で生産された財やサービスの購入資金となったし、利益にもなった。元ハンブルク市長のヘニング・ヴォシェラウ(社会民主党)は1996年に、「5年間の『東側の建設』(21)計画は、実のところ西ドイツにとって未曾有にして最大の富国策であった」と認めている。それがまた、毎年11月9日に西側の資産家が記念して祝っているものでもあるのだ。


  • (1) 1990年にヘルムート・コール首相が使った表現。

  • (2) Cité par Sonia Combe, La Loyauté à tout prix. Les floués du « socialisme réel », Le Bord de l’eau, Lormont, 2019.

  • (3) Cité par Ralph Hartmann, Die Liquidatoren. Der Reichskommissar und das wiedergewonnene Vaterland, Edition Ost, Berlin, 2008.

  • (4) Wolfgang Schäuble, Der Vertrag. Wie ich über die deutsche Einheit verhandelte, DVA, Stuttgart, 1991.

  • (5) Vladimiro Giacché, Le Second Anschluss. L’annexion de la RDA, éditions Delga, Paris, 2015.

  • (6) Thilo Sarrazin, « Die Entstehung und Umsetzung des Konzepts der deutschen Wirtschafts- und Währungsunion », dans Theo Waigel et Manfred Schell, Tage, die Deutschland und die Welt veränderten, Ferenczi bei Bruckmann, Munich, 1994.

  • (7) Christa Luft, Zwischen WEnde und Ende, Aufbau, Berlin, 1991.

  • (8) Cité par Vladimiro Giacché, Le Second Anschluss, op. cit.

  • (9) Richard Schröder, Die wichtigsten Irrtümer über die deutsche Einheit, Herder, Fribourg-en-Brisgau, 2007.

  • (10) Der Spiegel, Hambourg, 19 décembre 1994。インフレを考慮すると、1990年の1,000マルクは今日のおよそ300ユーロに相当する。

  • (11) Marcus Böick, Die Treuhand. Idee-Praxis-Erfahrung, 1990-1994, Wallstein Verlag, Göttingen, 2018.

  • (12) Wolfgang Dümcke et Fritz Vilmar (sous la dir. de), Kolonialisierung der DDR. Kritische Analysen und Alternativen des Einigungsprozesses, Agenda Verlag, Münster, 1996.

  • (13) Marcus Böick, Die Treuhand, op. cit.

  • (14) Ibid.

  • (15) « Beschlußempfehlung und Bericht des 2. Untersuchungsausschusses “Treuhandanstalt” » (PDF), Bundestag, Berlin, 1994.

  • (16) Die Welt, Berlin, 2 octobre 2010.

  • (17) Ralph Hartmann, Die Liquidatoren, op. cit.

  • (18) Cité par Marcus Böick, Die Treuhand, op. cit.

  • (19) Dirk Laabs, Der Deutsche Goldrausch. Die wahre Geschichte der Treuhand, Pantheon Verlag, Munich, 2012.

  • (20) Cité par Fritz Vilmar et Gislaine Guittard, La Face cachée de l’unification allemande, L’Atelier, Paris, 1999.

  • (21) Cité par Vladimiro Giacché, Le Second Anschluss, op. cit.「東側の建設」は、新たな州の財政計画を意味している。


  • [訳注1]統一後、東ドイツの物価は一般に、西側からの安価な商品の流入よって、その上昇が抑えられたと言われている(本邦経済企画庁平成2年世界年次経済報告など)。ただし、東西マルクの実勢交換比率が1:4.4(本文第9段)であったとされる中で1:1の通貨統合が行われると、理論上、西側からみると東側の商品は4.4倍の価格がついていることになり、これは東ドイツ製品の国際競争力を大きく阻害することになる。

  • [訳注2]当時東ドイツには、産業再編に伴い解雇予定であるが、労働協約によりそれまでの間働かずに短時間労働分の一定割合の賃金保証を受けていた者が多数いた(制度上は短時間労働者に分類される)と言われる。


(ル・モンド・ディプロマティーク 仏語版2019年11月号より)