ナレンドラ・モディ首相の憲法による強権発動

カシミール、ヒンドゥー教の白刃


ヴァイジュ・ナラバネ(Vaiju Naravane)

アショーカ大学(インド)、メディア、映画学科教授
    社会と行動のチェンジセンター事務局長


訳:瀧川佐和子


 ナレンドラ・モディインド首相はイスラム教徒に対する攻撃を強めている。アッサム地方では、8月31日に彼らのうち190万人の国籍がはく奪された。その3週間前にはジャンム・カシミール州が二分割され、その特別な地位に終止符が打たれた。筆者は「ジャンム・カシミール州の自治の撤回は、事実上の併合に酷似している」と分析する。[日本語版編集部]

(仏語版2019年10月号より)


カシミール国境地帯
©Cécile Marin & Fanny Privat, ル・モンド・ディプロマティーク日本語版

 ジャンム・カシミール州の自治を保証していたインド憲法370条の廃止は、盛夏の8月5日、大統領令によって密かにおこなわれた。その策略はある種の「憲法によるクーデターで、あたかもカシミールの人民と連邦憲法に対する完璧な裏切(1)」のようだ、とエッセイストでジャーナリストのプレム・シャンカー・ジャは強調する。

 その強権発動は入念に準備されていた。その数日前に、いわゆる「安全に対する脅威」を口実に、カシミール渓谷にいた外国人旅行者や、ヒマラヤのアマルナスに向かうヒンドゥー教の巡礼者たちを避難させた。数千人の兵士が、その地方にすでに配置されていた50万人に加わった。潜在的な「騒乱の扇動者」と見なされて逮捕されたおよそ4000人の中には親インド派を含む政治指導者、活動家や弁護士、大学教員、ジャーナリスト、実業家、そして未成年者を含む一般の市民がいた。

 大統領令の発令直前に、交通網と電話やインターネットなどの通信網が遮断され、学校の閉鎖、5人以上の集会の禁止、そして外出も制限された。このように外の世界と切り離されたジャンム・カシミール州とは9月半ばまで連絡がとれないでいた。インド政府の主張と相反して、状況は正常とは程遠い。

 大統領令の発令まで、このジャンム・カシミール州は、独自の選挙による議会、憲法、そして州旗を持っていた。さらに、35A条でカシミール人以外は州内に不動産を取得することや、公職に就くことを禁じられていた。これらの特別措置を廃止して、インド政府はこの地域の人口構成を変えるつもりでいる。ナレンドラ・モディ首相は、パレスチナ人をガザ地区とヨルダン川西岸地区に見事なやり方で封じ込めたイスラエルに敬服し、見倣いたいと明言している。「我々はカシミールをパレスチナに変貌させたくはない」と主要な対立組織、国民議会党の幹部のマニッシ・テワリ氏は反論する。

かつての藩王国[訳注

 ジャンム・カシミール州の最初の女性指導者メボーバ・マフティ氏は、自宅監禁中の8月初めにイギリスのBBCのインタビューに応じることが出来た。「この決定はインドをジャンム・カシミール州の占領軍にするでしょう⋯⋯。州を解体し、我々の権利を不法に奪って、彼らはカシミールに関する紛争を複雑にしたのです。彼らは、我々イスラム教徒を多数派から少数派に追いやることによって、この州を他の州と同じ扱いにしたいのです(2)」。この発言の後、メボーバ・マフティ氏とは連絡が取れなくなっている。

 モディ首相が語る「単なる国内問題」の国際的影響は、2つの強大な核保有国インドとパキスタンが相争う不安定なこの地域においては、重要な紛争あるいは戦争にさえなりかねないものだ。この両国は1947年にイギリスから勝ち取った彼らの独立以来対立し、すでに3度交戦している。1947年~1948年と1965年は今も争いの種が残っているカシミールで、そして、1971年にはその後バングラディッシュになる東パキスタンで。シアチェン氷河の掌握をめぐって、1984年から散発的な闘いも起きている。

 インドがヒンドゥー教の中心国家であるという信念に沿ったモディ首相の強権的な決定は、ヒマラヤ地域を大混乱と不安定な状態に陥れた。この決定はヒンドゥー教の超国家主義とアイデンティティ政策が功を奏しているこの国では広く支持されている。多数派のヒンドゥー教徒は、特にカシミール地方の少数派のイスラム教徒が、懐柔のために用意された途方もない贈り物の恩恵を受けたと思っている。そして、今やこの被害者意識がヒンドゥー教徒の間に広められている。体制側の論者によると、カシミールはインドの一部であり、他のどんな州とも同様に扱われるべきである。彼らは独立の時にこの領土はインドのものでも、ましてやパキスタンのものでもなかったことを忘れている。

 長く複雑で曲折したカシミールの歴史は、大部分がイギリスとその植民地時代の遺産に起因する政治的、軍事的な一連の激動によって形成されている。イギリス人たちがこの亜大陸から撤退した時、彼らが支配していたのはイギリス領インドだけだった。残りは大小のラージャ・地方総督・大豪族(マハラジャ)よって統治されていた565の藩王国で出来ていた。幾つかは巨大な王国を支配し、他はほんのいくつかの村を治めていた。その中でもっとも広汎で、言語や文化の面で多様性に富んでいるのがカシミールだった。

 チャンドラセカール・ダスグプタはその詳細な資料に基づく著作で「スリナガルの町を取り巻く中央渓谷で、多数派のイスラム教徒と少数派のヒンドゥー教徒に同じように広く話されていたのはカシミール語だった。南にはジャンム地方が広がり、その主に西に住むイスラム教徒と東に住むヒンドゥー教徒たちからなる住民によって最も話されていたのはドグリ語だった。北東の高地、ラダック地方は、隣国のチベットと宗教と言語に多くの共通点をもつ仏教徒が住んでいる。その西のバルティスタン地域はラダック地方と民族的には近いが、主としてシーア派イスラム教徒が占めていた。より北の住民が少ないギルギットの山岳地帯では、実に様々な文化や方言が受け入れられていた。最後に、州の西方はパキスタンと民族や言語を共有する地域が広がっていた。これらの地域の住民は大半がイスラム教徒で、さらに少数派だけれども少なくはないヒンドゥー教徒やシーク教徒はとりわけミルプールに住んでいた(3)」と書いている。イスラム教徒が過半数を占める、ばらばらに広がったこれらの地域で唯一の共通点は、藩王(それもヒンドゥー教の)以外のなにものでもなかった。

 イギリス人たちはインドを去るとき、その地域の藩王たちに、彼らが主権を取り戻して“インドかパキスタンに帰属する” 選択があるだろうと告げるという、底意地の悪いプレゼントをした。カシミール地方はこの2国と隣接しているのだ。イスラム教徒を迎え入れることを主張するパキスタンは、自国がカシミール地方を併合するのが正当だと考えていた。しかしながら、インド政府も同じように領有権を主張した。カシミールのマハラジャ、ハリ・シングは決断できず、猶予を求めた。パキスタンは聞く耳を持たず、正規軍兵士の支援を受けたパシュトゥーン族の傭兵をカシミールに送って事態を掌握する決心をした。包囲されたハリ・シングは、インドの軍隊に援助を要請し、インドに亡命、そして1947年10月26日にカシミールをインドに譲渡する文書に署名した。

 その当時のインドの首相ジャワハルラール・ネールが国連安全保障理事会に解決を訴えた時、国連はパキスタンとインドにそれぞれの軍隊の引き揚げと、カシミールが帰属先を自主決定するための住民投票を組織することを決議した。パキスタンは占領していた土地からの撤退を拒否し、インドも同様に軍隊をとどめ、住民投票は一度も行われなかった。事態は硬直した。1962年、インドに対する軍事的な勝利の後で、今度は中国がカシミールの一部を占領した。

 立憲主義を擁護する弁護士アマン・ヒンゴラニが説明するように、「インド連邦に加わったすべての藩王国は防衛・外交・通信の3つの重要な分野における彼らの特権と、さほど重要でないその他の特権も放棄した。一部の国は追加協定に署名したが、ジャンム・カシミール州は拒否した。これらの3分野に属さないものに関してはインド連邦はジャンム・カシミール州の同意を求めなければならなかった……。インド憲法370条に反映されているのはこの状況だ(4)

 カシミール州の住民は、他の旧藩主国の住民たちとは異なり、インドの支配に決して屈せず、連邦への帰属感情も全く持たなかった。1987年にカシミール地方選挙でインド政府がインド支持の候補者たちを勝たせるためにおこなった裏工作は、反乱を引き起こした(5)。パキスタンはこの怒りの爆発を好機と捉え、そうして悪循環が始まる。インド軍の弾圧が、カシミール地方出身であろうとパキスタンの強力な諜報機関ISIによって押し進められていようと、テロ行為との戦いという名目で活動家たちに襲い掛かった。パキスタンはインド領土内でのテロ行為に資金を提供し、あるいは黙認している。

 95%がイスラム教徒のスリナグラ地域では、ますます専制的なインド当局に対する失望が全体に広がっている。1989年以来、ジャンム・カシミール州は、時期によって激しさの変動はあったが反インドの蜂起を経験している。戦いはインドを含め、ジャンム・カシミール旧藩王国、そして反乱への精神的、物質的そして財政的な援助をもたらすパキスタンの三つ巴だ。

 現在、モディ首相の力づくの行為の後、パキスタンは国際的なレベルでインドが断罪されることを期待し、おそらくそのことが緊張関係を助長している。スリナガルに樹立されたジャンム・カシミール市民社会同盟(JKCCS)は、2018年だけで紛争による死者は586人に達し、その中には267人の武装集団のメンバー、治安部隊の159人、そして160人の市民がいたと報告している。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで比較国際政治学を教えるスマントラ・ボズ教授は、1989年以降殺された人の数は、4万人と見積もる(6)。1947年からだと7万人になるという人もいる。インド政府側は人数を示すことを拒否している。

 ジャンム・カシミール州の自治の撤回は、事実上の併合に酷似しており、同地域全体の占領に繋がりかねない。ラダックの住民は、カールギル地域のシーア派イスラム教徒たちを除いて、今やカシミールのイスラム教徒から彼らの領土が分離されることにむしろ満足している。しかしラダックの住民もカシミールのイスラム教徒も同じ危惧を抱いている。それは、インド人の実業家たちが巨額の投資をしてくるだろうこと、そしてすでに大量の旅行者で台無しになっている彼らの土地をごっそり買収するだろうということだ。インドでは、いくつかの圧力団体が、あの大統領令の合憲性に異議を唱えて訴訟手続き始めた。訴訟は最高裁判所の手中にある。

 その間、パキスタンによる批難と北京からの批判を除いて“国際社会”はうんざりする程沈黙している。モディ首相が8月22日にフランスを訪れた時、マクロン首相は戦闘機ラファールの新規売却やその他のうまみのある取引契約の見込みに気をよくして、公民的自由の制約と政治指導者の不法な拘留、報道の全面的な検閲について、「インドとパキスタンの両国間の紛争は二国間で解決すべき問題だ」として口出しすることを控えた。

 9月9日に、国連人権高等弁務官ミチェル・バチェレ氏はインドに対し現在の統制解除と夜間外出禁止令の軽減、基本的な公共サービスへのアクセスそして拘留されている人々すべてに対する公正な訴訟を受ける権利の尊重を求める特別な呼びかけを行ったことを公表した。ようやく批難が表明されたが、軽くピシャッとやった程度のものだった。

メディアの沈黙

 独立系ニュースウェブサイト“ザ・ワイヤー”(thewire.in)の創設者、シッダルータ・バラーダジャンによると、「この“きわめて危険な状況”は3つのレベルで著しくネガティブな影響をもたらすに違いない。まず、カシミール州内の人権侵害の観点。次に国際社会でのインドの地位に関する事、すなわちモディ氏は自国インドの民主主義の威信を損なった。最後に、このことは民主主義国家が機能するために深刻な問題を提起している。なぜなら、言うことを聞かない、あるいは政府に反対すると認識された州に対しては、同様の措置がとられる可能性がある」——こうした州は自治を失い、インド政府に直接統治され「連邦の領地」になりかねない。

 メディアの沈黙と現政権に迎合的なジャーナリストが編集するインド寄りの記事にもかかわらず、街頭運動、銃撃戦、拷問、そして警察によってなされたあらゆる方面での拘留について、さらには機動隊による鉛の銃弾によって盲目になったデモの参加者についての報道が届き始めていた。当局は死者は2人としているが、非公式筋は16人と伝えている。

 「状況が重大になるにつれ、その時まで反乱の周辺にとどまっていた数千人のカシミールの若者が集団に加わっている。イスラム国(IS)の声明を信頼するならば、中東から来ている、そしておそらくヨーロッパからも来ている過激派戦士達は治安警察の警戒にもかかわらずカシミールの渓谷に入り込む可能性がある。強まる人々の圧力に押されて、パキスタンは彼らを引き留めることは出来ないと主張して、過激派戦士のグループを野放しにしかねない。そうなると、弱点に事欠かないインドの他の場所にテロリズムが広がる、長く血みどろの戦争が始まり、インドはこれに対応するために、警察国家になるのだろう。巧妙に仕組まれた嘘の闘いは増え続けるだろう。イスラム教徒がその主な犠牲者になるだろう。我々が今日まで知っているインドにとっては、それは終わりの始まりだろう」と冒頭のジャーナリスト、プレム・シャンカーは締めくくる。展望はとても暗い。



     
  • (1) 特記なき限り、全て著者との会談から引用した。cf. Prem Shankar Jha,Kashmir 1947. Rival Versions of History, Oxford University Press, 1996.
  • (2) BBC, 6 août 2019.
  • (3) Chandrashekhar Dasgupta,War and Diplomacy in Kashmir 1947-1948, Sage Publications, New Delhi, 2002.
  • (4) cf. Aman Hingorani, Unravelling the Kashmir Knot, Sage Publications, 2016.
  • (5) Lire Alexandre Dastarac et M. Levent,« Montée des périls au Cachemire » Le Monde diplomatique, mars 1990.
  • (6) Sumantra Bose, Kashmir. Roots of Conflict, Paths to Peace, Harvard University Press, Cambridge, 2005

  • 訳注]イギリスがインドを植民地支配した時期に、直轄領とならず、旧来の支配者が一定の自治権を認められた地域をいう。

(ル・モンド・ディプロマティーク 仏語版2019年10月号より)