マッテオ・サルヴィーニはどうやってイタリアを征服したか 

ヨーロッパのナショナリストは自分たちのヒーローを見つけた


マッテオ・プッチャレッリ(Matteo Pucciarelli)

ジャーナリスト。著書にAnatomia di un populista. La vera storia di Matteo Salvini
[ポピュリストの分析、マッテオ・サルヴィーニの真実の姿], Feltrinelli, Milan, 2016
がある。この記事の詳細な原典は、New Left Review, no 116-117, Londres,
mars-juin 2019に発表された。 

訳:村上好古


 反EU、反移民を掲げるイタリアの政党「同盟」(Lega)は、先の欧州議会選挙(2019年5月)でも躍進が目覚ましい。その指導者マッテオ・サルヴィーニ氏は、今の連立政権副首相の座にとどまらず、ヨーロッパ主要国で最も政権に近い右翼ポピュリストと言われ、ヨーロッパ政界の台風の目となっている。この新しいカリスマ的な指導者の躍進の秘密と可能性を探る。[日本語版編集部]

(仏語版2019年6月号より)

photo credit: Lega Salvini Premier [CC BY 3.0], Matteo Salvini - Manifestazione Piazza Duomo - 24 Febbraio 2018.

 イタリアは新たな強い男、いや多くの者にとって新たな救世主を手にした。ローマで、本当に政府のトップにあるのは首相のジュゼッペ・コンテ氏でも、先の総選挙の勝者である五つ星運動(M5S)のリーダーであるルイジ・ディ・マイオ氏でもない。それは、内務相のマッテオ・サルヴィーニ氏である。ミラノの無名の市会議員、北部同盟の古くからの活動家、分離主義者として重ねてきた経験、こんな経歴を持つこの男は、瞬く間にこの国で最も権力を持つ人物となった。彼の手の中で、過去の遺物のようであったこの政党はイタリア、そしておそらくヨーロッパ政治の中心へと変身した。

 この驚くべき変身は、時間的というよりも空間的に大変遠いところに由来している。2014年以来、戦争と貧困のせいで何百万人ものアフリカや近東の住民が、職を、また自由と平和を求め、古くて豊か、ただしますます不平等なヨーロッパへと地中海を渡った。「古い大陸」は、目をそらし、あるいは他人の不幸が呼び起すある種の潜在的な欲望を都合よく利用することで、これに答えた。すなわち、助けもせず、敵対し、競うように侮蔑の的とした。世界の最下層と、最下層から二番目の層に取り残された人々は互いに対立しているが、もっとも恵まれた者たちは全く穏やかに繁栄を享受している。イタリアでは、サルヴィーニ氏が最下層から二番目の者たちが反旗を上げるのを主導した。特有の才能で、彼はどうやって彼らの本心に語りかければよいかを身につけた。

 北部同盟は1991年に創設されたが、第二次大戦後イタリアを支配してきたキリスト教民主党、共産党、社会党という3つの大衆政党が崩壊する前夜にあたる。「左翼でも右翼でもない」と唱えることで、ウンベルト・ボッシ氏のロンバルディア同盟(1980年代半ばに登場)と、この国の北部に根を下ろしたいくつかの地域主義勢力とが合同して生まれたものだ。彼らはある特別の目的のもとにつながっていた。すなわち、ポー川流域に広がると構想された国、パダーニアの独立である。勤勉で繁栄する北部は、後進的で他に依存する南部に資金をつぎ込むことに疲弊している、したがって、各々はそれぞれの道を進むべきだ、と言うのだ。

 この時期、キリスト教民主党と社会党は、タンジェントポリ(Tangentopoli[汚職の町])(1)という汚職事件に続いて崩壊した。北部同盟は1994年の総選挙で初めて躍進し、国全体で8.7%、ロンバルディア州では17%以上を得票した。次いで、シルヴィオ・ベルルスコーニ氏の率いる中道右派政権に参加した。しかし、豪放で一匹狼的なボッシ氏は、従属的な扱いを受けることに憤ってたちまち連立を離脱し、その途中でベルルスコーニ氏の政権を崩壊させた。続いて行われた選挙には単独で臨み、同盟は1996年に10%を得票した。もっとも1999年のヨーロッパ議会選挙では再び落ち込み4.5%にとどまった。

 このためベルルスコーニ氏の連立政権に戻り、続く10年間は、連立の少数勢力で意見をがなりたてるが大抵は実効性がないという存在に見られていた。脳卒中で健康を害し、また汚職事件にも巻き込まれたことから、ボッシ氏は同盟でナンバー2の地位にあったロベルト・マローニ氏から追い出されることになり、同氏は2012年にトップの座に就いた。2013年の総選挙で同盟の得票は4.1%に落ち込み、泡沫的な存在と宣告されたも同然となった。ただそれでも地盤のロンバルディア州では、マローニ氏は地域の首長の座を獲得するのに成功した。彼はその時おそらく、党に国政レベルでの将来はなく、地域での任務を手に入れる方がよいと考え、書記長の職を辞す道を選んだ。

 2013年12月、北部同盟はマローニ氏の後任を指名するため第1回目の党内投票を行ったが、選挙は単に形だけのものと言ってよかった。党の前途はマローニ氏と彼が信頼をおく二人、すなわちサルヴィーニ氏と、ヴェローナ市長で人気のあるフラヴィオ・トージ氏との間の昼食会で決まった。ベルルスコーニ氏がますます信頼を失いその任を担えなくなったときに考えられる中道右派政権の旗手の役割をトージ氏にとっておくため、報われることのない党書記長のポストはサルヴィーニ氏に、ということだった。サルヴィーニ氏は82%以上の得票率でこの第1回目選挙を勝ち取った。当時イタリアの有権者にとって彼はほとんど無名だった。

 しかしながら、ミラノの活動家の間ではそうではなかった。彼は、企業家を父に持ち、1973年にこの町で生まれた。若き彼は、まだ高校生であった1990年にロンバルディア同盟に参加した。北部同盟の創設1年前のことだ。7年後には、市会議員になった。この時期彼はこの町の最も重要なコミュニティセンターであるレオンカヴァッロに通ったが、そこは、既存の型にはまらない急進的な戦闘集団が集まる場所であり、ミラノ左翼の様々なセクトと会える場所であった。彼はそこでビールを飲み、各種のショーを観て、無政府主義者である歌手ファブリツィオ・デ・アンドレに熱を上げた。当時の市長であり北部同盟のメンバーでもあったマルコ・フォルメンティーニ氏はこのセンターを解体しようとしたが、彼は市会議員として対立し、これを守った。また1997年に北部同盟が、自分たちが独立を唱える国の国会議員を疑似的に指名するため「パダーニアの選挙」を行ったときには、鎌とハンマーの飾りのある「パダーニア共産主義者」名簿のトップの座を占めた。

フェイスブックには300万人のフォロワー

 ミラノ市議会に議席を置いたおかげで、彼は自分の攻撃、とりわけ「ロマとイスラム教徒」それに治安問題について、その発信力を高めることができた。たとえば盗人に発砲した一家の父親を支援し、また移民による犯罪行為を通報する無料電話回線を設置する提案を行った。市場でお祭りがあれば参加を欠かさず、すぐに彼は地方テレビ局番組のレギュラー・ゲストとなった。同盟の傘下にある各種メディアにも活発に登場し、特に日刊紙ラ・パダーニアの執筆者、次いでラジオ・パダーニア・リベラのディレクターにもなった。かつてのイタリア共産党(PCI)のイメージに倣い、同盟は、幅広く各種任務にその活動家を配する組織だった。

 2004年、活力的なサルヴィーニ氏はついにブリュッセルを目指し、ミラノの貧しい郊外地域を中心に票を集め、同盟の一員としてヨーロッパ議会の議員となった。だが2006年にはミラノ市議会の同盟会派の長となるために辞職した。2009年には再びヨーロッパ議会の任に戻り、2012年にロンバルディア同盟の書記長となったが、北部同盟を率いるマローニ氏の当然の後継者候補として認められる存在になったのは、この時だった。

 歴史的な流れもこの栄進に幸いした。明らかに、EU創設者の一人で大陸を連邦化することを熱烈に支持したアルティエロ・スピネッリの夢は実現していなかった。逆だった。EUの上層部はますます官僚化し、民主的な制度に基づく任期を気にすることのない彼らが、選挙で選ばれた政府に自分たちの政策を押し付け、他の道をとることを望んでいるかもしれないすべての国に、破局が訪れると脅しながら新自由主義の緊縮政策を押し付けていた。

 他の国にもましてマーストリヒト条約のもたらした結果に苦しんでいたイタリアでは、戦後最も横暴と思われる政府のひとつが2014年に出現した。政府の行政命令で労働法を破るだけでなく、一段の権力を自らに集中するため、1947年憲法の要となるいくつもの規定を破棄しようとしたのだ。マッテオ・レンツィ氏は2014年2月に首相の座に就いたが、彼はそこに至るまで国会の代議士にすらなっていなかった。彼は民主党を掌握し、この間、左派の立場をとるという党の伝統的な主張を葬り去り、ベルルスコーニ氏と協定を結んだ。大統領、最大の経営者団体、銀行、多国籍企業、それにメディアからさえ無条件の支持を受け、レンツィ氏は、これら諸点の憲法改正について国民投票に打って出るのに十分な国民の支持があると信じ込んだ。しかし全政治勢力が彼に反対し、選挙民は彼に痛烈な敗北を見舞った(2)。自らが代表していると彼が思っていた若年層は、80%が「ノン」を選んだ。その選挙の晩の多くの勝利者の中でサルヴィーニ氏は、改革案に対し激しい反対運動を展開したことで、全国レベルの地位を獲得した。

 ここに至るためにこの同盟のリーダーは、ふたつの大きな変更を行わなければならなかった。選挙戦略の刷新と、デジタル技術の革新的な利用である。ボッシ氏によって創設された分離主義運動である北部同盟は、ふたつの敵を名指ししていた。官僚の汚職の中心であるローマと、怠惰で依存症の土地である南部のことだ。2010年代の初めには、この戦略の行き詰まりが明らかになっていた。分離は起こっていなかったし、起こりそうでもなかった。世論調査では投票の支持率が3~4%の間を上下し、党の存続の問題が生じていた。書記長となったサルヴィーニ氏はそこで新たな方針を示した。ローマよりもむしろブリュッセルを、南部の住民よりも移民を攻撃するのだ。こうすることで彼は、これ以降すべてのイタリア人、国全体の名で、圧制者と侵入者を非難することになる。ふたつのイタリアの間の対立問題から離れることで、同盟は、プーリア州の農民、シチリア島の漁民、ヴェネチアの店主、ロンバルディアの上級管理職、つまり、遠くにいて冷淡な権力の犠牲となり、異国民の大波に直面している人々を皆、結集できることになった。

 サルヴィーニ氏はEUに対する不満を利用することから始めた。イタリアでは、予算はいちいちヨーロッパ委員会の承認を受けなければならず、委員会からは犠牲に次ぐ犠牲を、そして中道右派、中道左派双方の同意が求められていた。彼の就任演説が基調を定めた。「EUの中で我々が失っていた経済的な主権を、我々は取り戻さなければならない。あいつらにはうんざりだ(……)。これはもうヨーロッパの連合ではない、ソビエト連合であり強制収容所だ。同じことをしようとしている者なら誰とでも一緒になって、ここを抜け出すのだ」。2014年のヨーロッパ議会選挙が近づいたが、彼はブリュッセルに対する攻撃を続け、イタリアにユーロから離脱するよう呼びかけた。それまで左翼からも右翼からも政策論の隅っこに追いやられていた議論だった。しかしこの主張は大衆を立ち上がらせはしなかった。得票は改善するどころか、同盟はヨーロッパ議会の9議席のうち3議席を失った。

 この時、ルカ・モリージ氏が登場する。45歳のこのITの専門家は、もう一人の仲間とともにシステマ・イントラネットという企業を経営していた。従業員はいなかったが、機関投資家の顧客が大勢いた。彼はサルヴィーニ氏の面倒をみることにしたが、そのときすでにサルヴィーニ氏はタブレットから離れられなくなっていた。ただ、主にツイッターを使いフェイスブックにはほとんど投稿していなかった。彼の新たなデジタル指南役は、戦略を変えるよう命じた。ツイッターでは世界が広がらない、と彼は言った。彼によれば、このプラットホームは本質的に自分の言いたいことだけを発信するのに適しており、賛同の意思表示だけが集まりがちだ。「人々はフェイスブックを使っている。そして、そこが我々のいるべき場所だ」と主張した。ソーシャルネットワーク担当のチームができあがった。これはたちまち同盟の最も重要な業務になった。

 モリージ氏は、党首が従わなければならない十か条を言い渡した。フェイスブックの彼のページのメッセージはサルヴィーニ氏自身によって、あるいはそう思わせるように書かれねばならない。毎日、一年中投稿されねばならないし、発生したばかりの出来事にもコメントしなければいけない。句読点等は正確に、文面は簡潔に、行動への呼びかけは何度も繰り返すこと。また同様に、人称代名詞はより一層読者との一体感を高める「私たち」をできるだけ使い、人々の意見を探るため読者のコメントをよく読み、ときどきそれに返信すること、とモリージ氏は勧めた。

 結果はどうなったか。サルヴィーニ氏のフェイスブックのページは日刊新聞のような役割を果たした。とりわけla Bestia[ラ・べスティーア。獣、乱暴者、ばか者といった意味がある]という名で知られる内製の広報システムによるところが大きい。その内容は定時に掲載され、これが次から次へとシェアされ、他の無数のアカウントに拡散して行った。モリージ氏とその仲間は、1週間で80~90件の記事を配布したが、当時首相であったレンツィ氏とそのチームの配信は10件を越えなかった。購読者を囲い込むためモリージ氏はもうひとつの策を思いついた。昔ながらの政治家のイメージではなくバーのカウンターの常連に見えるよう、同じ言葉を何度も繰り返すこと、とアドバイスしたのだった。

 メッセージのトーンは、横柄、攻撃的、誘惑的なものだった。同盟のこの指導者は、その読者を、「密入国者」、腐敗した行政・司法官、民主党、EUなど当面の敵に反抗するよう仕向け、その次には、海、食事、さらに彼自身が活動家に抱擁の挨拶をしていたり、釣りをしている写真を載せた。サルヴィーニ氏がヌテラ[イタリアのフェレロ社が発売するパンなどに塗って食べるスプレッドの商品名]を食べ、トルテッリーニを料理し、オレンジをかじり、音楽を聴きテレビを見ている画像が間断なく流れ、これを見て大衆の意見が出来上がって行く。公私は常に互いに入り交じるものなのだという戦略をもとに、毎日、彼の生活の断面がこうして何百万人ものイタリア人のもとに届けられる。この公私両面を合わせて訴えるやり方には、彼に人間らしく安心できるというイメージを与える目的があり、このことが他方で彼が挑発的な言動を続ける余地を与えた。「私のことを反動的な怪物、不真面目なポピュリストとみなす固定観念があるかもしれないが、私は誠実な人間で、こんな風にしゃべるしあなた方と同じだ。どうか信頼していただきたい」というのが彼のメッセージなのだ。

 モリージ氏の戦略は、「メディア横断的」でもある。フェイスブックで発信を続けながらテレビに出演し、リアルタイムのコメントからより分けたものを放送中に引用する。放送が終わるとその要約を作成しフェイスブックに載せる……。サルヴィーニ氏が得意とするこの方法はたちまち成果をもたらした。2015年1月半ばから2月半ばまでの間に、彼はレンツィ氏の2倍以上の放送時間を現に獲得した。2013年には18,000人しかいなかったフェイスブックのフォロワーが2015年には150万人になり、今ではヨーロッパの政治指導者の中では最高の300万人以上に達している。

ライバルの無力化

 彼の敵対者たちは、この男を反抗的な変わり者で、ただメディア受けする身振りに長けたヤツ、と考えてきた。しかし、際立って個性的であることが重んじられるイタリアの政界では(3)、同盟のこの書記長は大きな切り札を持っていることになった。ベルルスコーニ氏はアルコーレ[ロンバルディア州のコミューン]の別荘の大きな書斎から自分のテレビ局の電波に載せて国民に語りかけ、レンツィ氏はフィレンツェでメディア向けの行事を企画し作家や著名な音楽家と一緒の姿を見せつけた。ジュゼッペ(ベッペ)・グリッロ氏といえば、コメディアン時代には辛辣な才気を放ち、大規模な大衆集会を開くことができた。そしてM5Sを創設して以降は影に引きこもり自分の運動を遠くから操縦するのを好むようになった。サルヴィーニ氏はここに、民衆の仲間、まじめで、大衆と交わることほど好きなことはないという人間として登場した。ディスコでグラスを手に、活動家や、写真に写るチャンスを窺っている興味深げな支持者たちに取り囲まれて踊っている姿を見れば、もう十分だ。どんなイタリアの指導者もこれほど自然にこんなイメージを演出することはできそうもない。

 左翼、あるいはその残りの勢力が、過去の夢へと逃避し、分裂し、内部抗争に明け暮れているその間に、サルヴィーニ氏はいつもテレビ・カメラの列を引き連れながら、工場の前で労働者たちと会っていた。彼は、何十年もにわたり注目を浴びることのなかった彼らに再びメディアの目を向けさせた。また左派が、統一への呼びかけをむなしく繰り返し、協定や連合を重ねながら自分の小さな得票母体をやりくりしているその間、彼は、工場の海外移転に対する怒りをまくしたて、労働者の権利を踏みにじる各国の不当な競争に対する保護手段を要求した。その結果はすぐに表れた。2016年に同盟は、人口の多い郊外地域で最高の票を獲得し、「赤いトスカーナ」[訳注]で第2党となった。かつてイタリア共産党(PCI)に忠実な地域であったエミリア・ロマーニャ州、ウンブリア州、またマルケ州でも勢力を伸ばした。

 2018年3月4日の総選挙は決定的な節目になった。ベルルスコーニ氏と、戦後のネオファシズムの残党である「イタリアの兄弟」と連立を組み、選挙中に党名から「北部」という言葉を外した「同盟」は、得票を4倍に増やし、得票率は17.3%になった。基盤はなお北部にあったが、いまや南部にも根を下ろした。ベルルスコーニ氏の政党であるフォルツァ・イタリアを初めて上回った。中道右派連合は37%を得票し中道左派の2倍の議席を得た。もっとも、ナポリ出身で30歳のディ・マイオ氏が率いるM5Sが本当の勝利者であり、その得票率は32%と他の政党を大きく引き離していた。

 3つのグループのいずれもが議会で過半数を占めることができず、「打算的な結婚」で結着しなければならなかった。3カ月に及ぶはったりと裏工作のあと、M5Sと「同盟」は最終的に「政府についての契約」で合意したが、そこには非常に大まかな表現でそれぞれの受持ち分野が記されていた。6月に政府が成立した。サルヴィーニ氏とディ・マイオ氏が副首相となり、政府の長のポストには、M5Sメンバーの法学教授で一般には無名のコンテ氏が就いた。それぞれの党の色から「黄色と緑」と呼ばれるM5Sと「同盟」の連立が成立したのを見て、いかなる形の「ポピュリズム」も毛嫌いする主要メディアは一種の卒中症状を呈した。さて、ふたつのポピュリズムの代表が連立を組むとどうなるのか……。

 実際のところ、ふたつの党の共通点は、政策内容よりも行動の仕方にあった。ひるむことのない感情表現の激しさ、反体制的な弁論術、内外の敵への頻繁な言及、「国民」の神聖視、縦型の組織、どんなテーマでもスローガンや趣味の悪い冗談に換えてしまう嫌いのある攻撃的なネット上の活動、など。思想上の最大の共通点は、ブリュッセルに対する敵意、それにイタリアの経済停滞と緊縮政策の元凶とされる単一通貨に対する懐疑的な姿勢である。しかし、それぞれがこれら両者を結ぶきずなを打ち壊してでも実現しようとしているプログラムは、政策の大きな違いを物語る。「同盟」は、フラット・タックス(比例的な課税制度)の導入を期待しているが、これは右派の伝統的な主張であり、北部での社会的な支持基盤となっている小企業者を惹きつけるものである。M5Sの方は、失業者、臨時雇用者、貧困層――とりわけ南部の――を支援するための最低収入保証制度の創設を期している。所得の再分配に関するこのふたつの正反対の施策が行き着く先は結局、伝統的な左右の対立の線に沿ってふたつの党の間を分断する線を描くことになる。

 政府の中では、M5Sが社会・経済的に重要性の高い大臣職を占め、「同盟」は象徴的あるいは国民のアイデンティティに関するような大臣職を獲得した。新しい大臣のうち90%は、指名を受けるまで行政権を行使したことが全くなかった。サルヴィーニ氏は内務相となり、ディ・マイオ氏は経済発展、労働、社会福祉政策を統括することになった。一見すると、選挙の勝者であるM5Sがよりよいポスト、特にインフラ、健康、文化といった有権者により大きな影響力を持つポストを手に入れた。

 しかしながら政府のこの構成は、当初からイタリアの「深層国家」の監視に服することになった。すなわち、共和国の大統領(セルジオ・マッタレッラ氏)、イタリア銀行、証券取引所、それに特に欧州中央銀行(ECB)のことである。この深層国家は、経済問題(財政とヨーロッパ問題)を実際に担当する大臣がふたつの政党の影響を免れるよう、注意を払った。たとえば、EUに対しあまり従順でないとマッタレッラ氏が考える候補者を連立政権が提示した時、大統領はこれを阻むためためらわず拒否権を行使した。M5Sの財政政策に関する影響力は、こうしてたちまちほとんど無力化された。最低収入保証制度や年金支給開始年齢の引き下げといったM5Sあるいは「同盟」の提案が法律化される恐れがあるとすぐに、欧州委員会とその内部の担当者たちが介入してきたのも、驚くに値しない。数カ月対立が続いたあと、施策は緩和されその意味が骨抜きにされて結着した。こうしたことからディ・マイオ氏は今のところ政府の成績表に載せるべき成果が何もない。

政治の「『同盟』化」

 一方、サルヴィーニ氏はその存在感を最大限に高めた。内務相として彼は、ほとんどいつも警察官あるいは憲兵の制服を身に着け、まるでよき保安官のようだった。メディアに強いインパクトのあるメッセージを発するためのもうひとつの最高の舞台である家族問題相は、自分の右腕に任せた。彼自身は、「誠実な政府」にとってより重要である倫理的な責任に関する問題を引き受けた。不法移民に対するキャンペーンがそれであり、地中海で何人もの人を救助したNGOの船の入港拒否というかたちになって現れた。M5Sは不法移民の「侵入」に反対する宣伝活動を何年も展開していたせいで今、ことのほか見苦しい外人排斥活動に対してはむなしく非難を加えるが、仕方なくかつての道を「同盟」のあとに随っている。

 「黄色と緑」連立政権が成立して数カ月すると、どちらの色が支配的であるかいささかの疑いもなくなった(4)。得票はその相手方の半分しかなかったが、「同盟」はあたかも相手の2倍の票を得たかのように主導権を握った。2019年の1月から4月までに行われた3つの地方選挙で、この逆転は冷徹な政治上の現実となった。そのすべてが、2018年にM5Sを支持する大波が起こった南部での出来事だった。アブルッツォ州では、M5Sの得票率が39.8%から19.7%へと落ちたのに対し、「同盟」は13.8%から27.5%に跳ね上がった。サルディニア州では、M5Sが総崩れとなった(42.4%から9.7%へ)のに対しサルヴィーニ氏の党はわずかではあるが増加した(10.8%から11.4%へ)。最後のバシリカータ州では、ディ・マイオ氏の党は得票率を半減させた(44.3%から20.3%へ)が「同盟」は3倍になった(6.3%から19.1%へ)。フォルツァ・イタリア、「イタリアの兄弟」それにその他諸党と連立を組み、「同盟」はこの3つの地域を掌握した。地方ではフォルツァ・イタリアや極右勢力と手を結ぶ一方ローマではM5Sとの連立を保ち、すべての場面をこの党が手に入れたのだ。

 今や「同盟」はイタリアの政治シーンの中心を占めている。サルヴィーニ氏がカードを配りゲームのルールを決め、約束だとか、挑発、「良識」など彼が話すことをメディアに盲従的に追いかけさせる。彼の「良識」は、何年にもわたりテレビで、新聞、ネットで広められ本当にひとつの良識になったように見える。イタリアの政治は「『同盟』化」(leghizzazione)を甘受した。NGOの一部を、密航手配者と結託した「海上タクシー」と糾弾することは今や普通のことになったし、それは中道左派の間でも同じだ。市民は何よりも安全を求めていると明言することや、移民は問題でしかないと見ることも同様だ。かつては「同盟」と新国粋主義者仲間の専売特許であった数々の主張が、ほとんど反対する者もなく受け容れられている。

 EU主要国のユーロに懐疑的な右派指導者の中でサルヴィーニ氏は、政権を運営する期待を抱かせることのできる唯一の存在である。確かに彼は大きな切り札を持っている。イタリアでは長きにわたってネオファシズムが政治制度の中に取り込まれてきた。このことは「同盟」が彼らとは「違う」と主張することを可能にした。彼は急進的な右翼に属しているが、思想の上では、半ばもともと左翼出身であることをこの指導者は決して否定してこなかった。「私のことをファシストだと言う人がいると、笑ってしまいます」と、彼は今明言している。「ロベルト・マローニは私のことを『同盟』の中にいる共産主義者だと疑っていました。それは私がいくつもの点で彼らに最も近い人間だったからです。服装を含めてね」。ついこのあいだ2015年には、彼はまだギリシャの左翼政党であるシリザSyrizaを褒め称えていた。そして彼は、公立の投資銀行の必要性だとか年金制度に関する新自由主義的な改革の廃止だとか、かつては左翼を特徴づけていたいくつもの主張を今も公約にちりばめている。

 サルヴィーニ氏は、改革派であれ急進派であれ左翼がほとんど姿を消した中で動き回れるという有利さを持っている。フランス、スペイン、イギリス、それにドイツにおいてさえ、権力についての既成概念(ドクサ)に反抗するいくつもの大衆勢力が、常に政治の世界の左翼にいる。イタリアでは全くそうではない。

 社会経済的事情や地理的な事情も同じように影響した。イタリア以上にユーロの桎梏に苦しんだ国はどのEUの主要国にもなかった。イタリアの国民一人当たりの所得はこの単一通貨が導入されて以降ほとんど増えておらず(5)、その経済成長率は惨めなものだった。加えてEU各国の中で最も長い連続した海岸線を擁するイタリア半島は、移民の交差点になった。この状況は、伝統的に移民を送り出す側にあり、世界に大きな人口移動の流れを生み出してきたこの国が経験したことのないものだった。また、経済が下降する局面、つまり職や社会扶助を求める競争が厳しさを加えている局面で、この状況は不意にやってきたのだった。こうした緊張がますますその電荷を高める中で、サルヴィーニ氏はいわば理想的な避雷針として登場し、階層間の対立のエネルギーを削ぎ、これを貧しい者同士の争いにすり換えたのだ。

 もし彼がキジ宮(首相官邸)を奪取することになると、その大言壮語にもかかわらずさほど大きな変革は行わなかった新たなベルルスコーニになるのだろうか。彼のEUに関する姿勢が決定的な試金石になる。「カヴァリエーレ」[騎士勲章、ベルルスコーニ氏のこと]は、欧州委員会では不品行よりも数々の失態で目立ったが、サルヴィーニ氏は彼よりも冷徹であり、よりイデオロギー的である。彼は2019年の欧州議会選挙で、右派ポピュリスト連合の出現を約してキャンペーンを行った。かつてアメリカのドナルド・トランプ大統領の顧問であったスティーブン・バノン氏が構想した「主権主義者のインターナショナル」である。彼はまた長くウラディミール・プーティン氏の称賛者であったが、アメリカはロシアよりも重要であり、スタイルの点でも人柄の点でも、クレムリンよりもホワイトハウスの住人との間での方が親和性はずっと大きい。このことはとりわけ、トランプ氏が中国を屈服させようとしていることと歩調が一致していることを意味する。これと対照的にディ・マイオ氏は、サルヴィーニ氏が遺憾に思ったことであるが、新シルクロードに関連した土産を腕いっぱいに抱えた習近平主席をイタリアに歓迎したのだった。

ブリュッセルへの妥協

 両者の違いはEU内のことがらについても目に付く。M5Sのリーダーがより急進的なアプローチをとり、フランスの「黄色いベスト」運動に熱い支援を表明したが、サルヴィーニ氏は破壊活動を行う乱暴者と考えた。

 EUに関しては、この「同盟」のリーダーは、[イタリアが閉じ込められている]ブリュッセルの檻の柵をたたくだけで満足し、これを壊そうとはしなかった。また、結局は委員会の「助言」に沿ったイタリアの現行予算を是認した。言葉の上ではともかく、ヨーロッパと制度面での対立に具体的に入って行くようなことにはなりそうもない。それよりも、実際的に現状に即応して行くのだ。「同盟」の社会的な支持基盤はおそらく大銀行、EUの規則、多国籍企業に敵対的だが、その立場は間違いなく資本主義的である。かつてリーダーであった当時、ボッシ氏もまたブリュッセルを糾弾してやまなかったが、そのことで北部同盟がマーストリヒト条約とリスボン条約に賛成票を投じることが妨げられはしなかった。

 サルヴィーニ氏にとって単一通貨は彼の躍進に有用なひとつの脅しだったが、一旦上に立つと、それはしまい込んでもよいものになった。「ザルのような国境」を告発することは、引き続き権力への真のパスポートになっている。そしてEUはこの点について彼に何の異議をはさむこともできない。


  • (1) 1992年に突発したタンジェントポリ事件は、政治指導者と企業の賄賂授受の巨大な仕組みに関するものであった。この事件のあと「Mani pulite」(清潔な手)と呼ばれる司法上の汚職捜査が行われた。

  • (2) Lire Raffaele Laudani, « Matteo Renzi, un certain goût pour la casse » et « Matteo Renzi se rêve en Phénix », Le Monde diplomatique, respectivement juillet 2014 et janvier 2017.

  • (3) Cf. Mauro Calise, La Democrazia del leader, Laterza, Rome-Bari, 2016.

  • (4) Lire Stefano Palombarini, « En Italie, une fronde antieuropéenne ? », Le Monde diplomatique, novembre 2018.

  • (5) 平均賃金(税、保険料等控除前)は、実質で、2001年が28,939ユーロ、2017年が29,214ユーロとなっている。


  • [訳注] イタリア中部のトスカーナは、エミリア・ロマーニャ、ウンブリア、マルケの各地域とともにかつて共産党が拠点にし、伝統的に左派が強いことから「赤いトスカーナ」(Toscana rossa)と呼ばれ、これら4地域あわせて「赤い地域」(zona rossa)とも称される。


(ル・モンド・ディプロマティーク 仏語版2019年6月号より)