我々は闘いの火を消さなかったが、時勢とかみあわなかった 

アメリカの民主社会主義者たち


バスカー・サンカラ(Bhaskar Sunkara)

『ジャコバン・マガジン』(ニューヨーク)創設者兼編集長。元アメリカ民主社会党副議長

訳:大竹秀子


 アメリカの社会主義者運動は、5年前であれば信奉者をせいぜい中規模のホールに集めるくらいの存在でしかなかったのだが、今や全米規模の政治勢力に返り咲き、国内左派として掲げるべき課題を創生するまでになった道筋をたどる。[日本語版編集部]

(英語版2019年6月号より)

photo credit: SS&SS

 「いったいいつの間に、誰も彼もが社会主義者になったのか?」——ニューヨーク誌の見出しだ。大勢のアメリカの若者たちには、「社会主義者を自称することが、ほかの何よりもセクシーに聞こえる」ようなのだ(1)。確かに奇妙な事態になっている。アメリカでは、この半世紀間、マゾヒストでもなければ社会主義者を自称するなどできなかった。そんなことをすれば、軽蔑かあざけりの的になるおそれがあったし、政治的には周縁に追いやられただろう。

 私がアメリカ民主社会主義者党(DSA)に入ったのは2007年、ティーンエイジャーの時だった。当時は、その手の組織としてはアメリカ最大で、「社会主義インターナショナル」を代表するアメリカでは唯一の団体だった(2017年に脱退)。だが、世界最大の資本主義国で、人口3億を超すアメリカで、我々の社会主義運動のメンバーは、わずか5000名にすぎなかった。

 私は、誰かの家だったか、あるいは無料で提供されるコミュニティスペースでのこじんまりとした集まりに出かけた。往々にして、出席者は10人たらず。私のような若者もいたが、大半は60歳を超していた。その中間の世代に属する人がいたためしがない。私たちは『インターナショナル』を習って歌い、「赤いおむつのベイビーたち」(親が共産党員か社会主義者党員だった子どもたち)や1960年代や70年代にニューレフトだったベテランたちの話を聴いた。私たちは、昔ながらの言語を使い昔ながらの論争を続けたが、社会的には何らの影響をもたない存在だった。私はひと夏、DSAの全米事務所で働いたが、事務所には冷水器を買うお金すらなかった。私たちは自分のコップをもって、同じビルで働く身なりのよいプロフェッショナルたちの間をぬって共同トイレまで行き、ニューヨークの生ぬるい水道水を飲んだものだ。

 アメリカの一握りの民主社会主義者たちは、運動を生き残った人たちだったが、それは私たちにとってなんら目新しい立ち場ではなかった。DSAは、かつては強力だったアメリカ社会党(SPA)がばらばらに分裂したあとの残存者によって作られた。SPAの最も高名な主導者は、ユージーン・デブスだった。しかし、1970年代初頭までには、SPAの党員数は、200~300人に減少し、ニューレフトとどう関わるか、民主党内で活動するか、そしてベトナム戦争に対してどのような立場を取るかについてすら、厳しい分断が起きた。

SPAの三派

 SPAは、1972年に三派に分裂した。右派が形成したアメリカ合衆国社会民主主義者(the Social Democrats, USA)は、公民権運動の活動家でかつてはマーティン・ルーサー・キングの相談相手でもあったバヤード・ラスティンを擁し、彼が初代の党首になった。この党はまもなく、タカ派の反共主義と連なるようになり、労働組合組織内部の的外れな圧力団体の域を出ることはなかった。SPAの左派は、デブスの流れを汲み、独立で選挙運動を続けた。それは、往々にして気高い試みではあったが、取るに足りない結果しか生まなかった。デブスの後継者たちの1976年の得票数は、わずか6,038票、2012年は4,430票にすぎなかった。

 SPAの「中道派」はマイケル・ハリントンの指揮の下、民主社会主義者組織委員会(DSOC)を設立した。反民主主義的な性格をもつ米国選挙法やその他の障害のために「第三党」の選挙運動は不毛にされていると、ハリントンは考えていた。選挙運動の代わりとして彼が力を入れた活動は、社会民主連合ということばすら知られていないアメリカ国内で、社会運動(学生団体、連合)や、労働組合、民主党幹部を欧州スタイルの社会民主連合に結集させることだった。結局、DSOCは、「ニュー・アメリカン・ムーブメント」という名のポスト・ニューレフト団体と合併し、1983年にDSAの結成にいたった。しかし、タイミングがはずれていた。新党は、完全雇用法案のキャンペーンを行い、反アパルトヘイト運動に参加し、フランスとギリシャにおける社会民主党の勝利に喝采を送ったが、こうしたことは民主党にまったく何の影響を及ぼすことなく、民主党は1980年代になると、激しく右旋回し、ニューディールの精神を失い、福祉国家伸長の推進力であることを放棄した。

 ドイツ社会民主党党首のウィリー・ブラントに言わせると、ハリントンはヨーロッパであれば一国の元首にもなれる存在だった。だが、保守派ジャーナリストのウィリアム・F・バックリーは、アメリカで最も卓越した社会主義者であるとは、「カンザス州トピカで一番高いビルだ」と自慢するようなものだと言ってのけた(2)。1989年のベルリンの壁崩壊の2~3カ月前にハリントンが逝去した時には、アメリカの政治地図からは社会主義そして社会民主主義ですら消え去っていた。とはいうものの、指導者を決めず新たな党員を募ることもないまま、DSAはかろうじて生きのびた。

 我々のこじんまりしたニューヨーク・オフィスから2~300マイル北で、別の抵抗者たちも生き残った。バーニー・サンダースの政治生命もハリントン同様、SPAの残党の中でひっそりと始まった。1960年代に一学生として、彼はニューヨークの労働者たちと共に、労働運動と公民権運動を闘ったが、結局、生地ブルックリンを離れて農村州バーモントに移り住んだ。初めて選挙政治に進出したのは、1972年の州上院議員の特別選挙だったが、アメリカの左派の定例通り、結果は得票率2.2%で終わった。

ヒラリーの対抗馬になるまでは無名

 だが、サンダースはめげなかった。彼が送るメッセージは単純明快で、「リチャード・ニクソンならびにニクソンが代表する億万長者たちの世界」を非難した。当時ですらサンダースは、「アメリカで個人が保持する富の3分の1以上を人口の2%が所有している」と有権者に問うていた(3)。彼のことばは明瞭で、反響を呼ばずにはいられなかった。はじめにあれこれのキャリアを試みて失敗に終わった後、彼は1981年に「独立系社会主義者」としてバーリントン市長に立候補し、当選を果たした。その後30年間、彼の訴えの中核に変わりはない。アメリカの不平等の亀裂を閉じることができるのは、労働者の連合だけだ、という訴えだ。

 サンダースのメッセージは彼を地元の人気者にし、彼を下院議員(1991年-2007年)として、そしてのちには上院議員(2007年以降)首都ワシントンに送りこむことになった。だが彼は2016年の民主党予備選にヒラリー・クリントンの対抗馬として出馬するまでは、国政レベルではまだほとんど無名に近かった。彼は不平等に対する自らの闘いを、国民皆保険プログラム、大学の学費無料化、時給15ドルの全米最低賃金につなげ、何百万ものアメリカ人の支持を勝ち得た。大半の人たちは社会主義についてはほとんど何も知らなかったが、自分たちの必要を真っ先に優先する政治への準備はできていた。サンダースは1100万票を獲得したが、予備選に敗れた。2~3カ月後に彼は、階級闘争と労働者階級を基盤にするという根源に戻って、アメリカの社会主義を冬眠状態から目覚めさせていた。

 社会的文脈がこのルネサンスのカギとなった。2008年の金融危機以来、企業の権力と賃金の停滞に対する怒りは、ウィスコンシンでの公務員たちの長期間ストライキや2011年の「オキュパイ・ウォールストリート」運動、2018年の教師と看護師のストライキなど、大衆抗議運動への回帰で火をつけられていた。ジャコバン誌などの出版物は、民主党左派が一貫した政治姿勢を設定する一助となっている。(ジャコバン誌の購読者層は、2016年のサンダースの選挙戦の間に3倍になり、1万5000に達した)。新規購読者の大半は20歳代で、上級管理職やプロフェッショナルを親にもつが自らは親のステータスから外れた子供たちが多い。彼らは腹を立てていた。こうした社会主義への新たな改宗者たちが、社会主義運動の一員であることに示すためにバラの絵文字を使って民主党と主流メディアをオンラインで攻撃しているのを目にするのは、日常茶飯事になった。

 クリントンは予備選の最終段階でツケを払うことになった。私も含めて数十人のDSAメンバーは、クリントンがドナルド・トランプとの対決に直面する数日前の2016年11月4日に、クリントンから離脱した。私たちは以下のような文書を作成し、署名した。「クリントンの選挙運動は、彼女と彼女の党が多くのことをやるために動くと人々に思い込ませている。――金融ビジネスを攻撃し、悪しき自由貿易交渉に反対し、全国で最低賃金を時給15ドルに引き上げ、社会保障制度を守り拡大するなどだ。だが、彼らはそんなことを実行しそうにない。社会主義者たちはこの取り組みに加担すべきではない。なぜなら、選挙後に基盤を構築しようとする我々の努力が損なわれる可能性があるからだ。『民主党に責任を負わせる』という約束された筈の努力が実を結ばないことがあまりにも多い」(4)。この立場は、左派で激しい論争の的になった。アメリカ共産党(the Communist Party USA)は、トランプに反対する必要性から左派はクリントンを支持しなければならないと論じた。

選挙が終わって

 選挙後の空気は、予想外だった。我々はクリントン敗北の責めを問われることを怖れていたが、それどころかDSAへの新規参加の申し込みが殺到し、あっというまにメンバーは5万人になった(ジャコバン誌の購読者数は、2カ月間で1万7000から3万6000に伸びた)。ソーシャルメディア上での我々メンバーのメディア・プロファイルと過剰なまでの登場が、これに貢献した。

 DSAには誰でも加入できるし、申請はオンラインでできる。DSAは、アナキスト、コミュニスト、サンダース支援者の避難所になった。ゆるやかな構造をとっていて、地方支部に自治の権限を与えているため、関与の形態もきわめて多様だ。DSAは借家人組合を支援したこともあれば、コミュニティの貧困メンバーが車のブレーキ・ライトを取り替えられるよう支援もし、国民皆保険をめざす「すべての人にメディケアを」のような大規模な全米キャンペーンをしかけたこともある。

 DSAはまた、選挙が有効な脅威となることも証明した。シカゴでは、市議会議員50人中6人が社会主義者だ。社会主義者は、バージニアとニューヨークの州議会議員に選出されている。全国規模では、DSAは2018年の中間選挙でニューヨーク州から連邦下院議員に選出されたアレクサンドリア・オカシオ=コルテス(通称‘AOC’)はじめ、選挙で左派民主党に新しい一画を作り出すことに貢献した。AOCは、大半のDSAメンバーよりは民主党に近いが、自らの社会主義者としての政治理念を声にし、ソーシャルメディアを巧みに使う才能とカリスマを駆使して広大な基盤を構築している。サンダースの2016年の選挙戦以来、こんな風に何百万人ものアメリカ人が、我々の理念を知ることになった。

 とはいうものの、メディア駆使の技法にたけているということだけで達成できることは、限界に達し始めている。アメリカでは、不平等に反対する大衆運動が成長しているが、それはDSAが支援するものではない。サンダースは、DSAとほとんどつながりがないし、AOCは民主党を内部から変革しようと試みている。DSAは概して、白人のミドルクラスにとどまったままだ。

 現在の目標は、我々自身を階級運動内部に根付かせることだ。DSAのオーガナイザーたちは、2018年から2019年にかけての看護師と教師たちのストライキの指導を支援し、労働組合やその他の人々とのさらなる取り組みを通して労働者の間で影響力を増したいと望んでいる。現在、何百万人ものアメリカ人にとって広範囲に及ぶ変革が必要なのは明らかだ。アメリカの社会主義運動は、生命維持装置に頼らなくても済むようにはなった。だが、回復への道は始まったばかりだ。



(ル・モンド・ディプロマティーク 英語版2019年6月号より)