政治の非政治化

企業国家の時代


ピエール・ミュソ(Pierre Musso)

ナント高等研究所教授、
Le Temps de l’État-entreprise. Berlusconi, Trump, Macron(Fayard, Paris, 2019)の著者。


訳:生野雄一


 欧米の選挙ではリベラル対ポピュリストというお決まりの見方が好まれる。フランスのエマニュエル・マクロン大統領と米国のドナルド・トランプ大統領という2人の人物がこの対立構造を象徴している。ところが、この2人はしばしば大げさに報じられるような違いにもかかわらず、あたかも企業を経営するように政治をマネジメントするという共通の思想を体現している。この現象は政治の非政治化と裏腹の関係にあり、これには歴史的な背景がある。[日本語版編集部]

(仏語版2019年5月号より)


President Trump and President Macron of France


 シルヴィオ・ベルルスコーニ氏は1994年、ドナルド・トランプ氏は2016年、そしてエマニュエル・マクロン氏は2017年に、それぞれ、初めての選挙戦で勝利し西側の大国のトップにのし上がる。この3人の「既存の価値基準を打ち砕くような」政治家たちは、それぞれの人柄、精神構造、年齢および彼らが政界に参入してきた文脈はかなり異なるが、1つの共通点がある。それは、彼らが政治の世界にマネジメントの手法を持ち込んで、企業での彼らの輝かしい成功物語を誇っていることだ。彼らは「企業国家」のトップなのだ。このモデルによる指導者は彼らだけではなく、もっと幅広いようだ。たとえば、アルゼンチンのマウリシオ・マクリ[大統領2015年~]、「国家を家族企業のように経営する」というチェコ共和国のアンドレイ・バビシュ[首相2017年~]、あるいはまた「トルコを企業のように経営」したいというレジェップ・タイイップ・エルドアン[首相2003年~]を挙げることができよう(1)

 よくあるようにイタリアは実験の場であり、ベルルスコーニ氏は先駆的な人物だった。つまり、彼は、みずからそう名乗るように、経営者大統領像を体現した最初の人だ。1990年代の初めにはすでにイタリアは、東側ブロックといわゆる「自由」世界がもはや相争わない新たな世界秩序という問いに対する答えを出した。それは、民放テレビと不動産業界出身の「新」人による政界への登場だった。

 何年か後には、企業が作り出すブランドのような他の要素が、一方の世界から他の世界へと浸透する。たとえば、トランプというブランドは、トランプ・オーガナイゼーションからホワイトハウスへという具合に。また、マクロン氏は生粋の企業出身ではないが、将来中央行政府──なかでも経済・財務省──に奉職することが約束されている高級官僚の部隊である財政監査官の出身であり、短い官僚のキャリアの後、4年間銀行業界に身を置いた(2)。彼もまた、企業の用語、話し方、イメージを国家のトップとして用いて、自身の行動を意思決定が明確で効率的な大企業グループの経営者の行動になぞらえる。

文化的主導権

 効率性は有用性とともに、政治性を消し去ろうとするマネジメントの生みの親であるエンジニアリングから来た考え方だ。効率性の名のもとに、政治は企業の支配およびマネジメントの技術を採り入れる。政治学者リュシアン・スフェーズの言によれば、もはや政治は「信条とか法的に有効な覚書とか、言い換えればシンボル」の世界ではない(3)。こうして政治は効率的な行動を約束する経営者大統領のカリスマ性だけになってしまう。1つの組織と見立てられた国家は、企業と競合したり目的を一にしたりする。このときから、政治は技術となり、ドイツの法学者カール・シュミットが『政治神学』(1922)において作り出した用語でいう、意思決定の1つのやり方を指す「決定主義」に成り下がる。すなわち、権威と決定力であり、そのもたらす結果にはお構いなしだ。単なる「決定の瞬間」に成り下がった政治はついには「正統性の観念を失って」しまう。この非シンボル化は、政治から国家、そして国家からそのトップへと意思決定者を単純化してカスケードダウンしていく。あたかも一方では国家が技術的合理性に貶められ、他方では大企業が新たに正統性を付与されて主導権と規範性を発揮し政治の亀裂を穴埋めするかのようだ。権力の神聖性は引き続き存在しているが、それはバラバラになり、国家のものではなくなり、数多くのフィクション、とりわけ、コミュニケーション、マネジメント、技術・科学・経済の専門家によって作られた技術的なフィクションに分散していく。

 企業国家トップの出現は、18世紀半ばに始まり哲学者ミシェル・フーコーが「国家の大恐怖症(4)」と名付けたリベラルな統治性(gouvernementalité)の長い歴史的な過程において重大な時期を画す。17世紀に絶対主義国家が勝利して間もなく、工業化の著しい勃興とともに反国家の反動が始まる。国家恐怖症と非常に大きな企業またはコーポレートの勝利という正反対の2つの運動は、1980年代にそれぞれが絶頂期に達するまでは長い間の準備期間があった。現在の「代表制政治の危機」は、繰り返し言われる決まり文句だが、実際のところ意味深い現象、すなわち弱体化する国民国家から技術経済的・マネジメント的な合理性を備えて力を強めるコーポレートへの体制の移行を意味している。まさに現代においては、この2つの制度は絡み合っている、というのも企業はひび割れた国家に3重の恩恵をもたらしているからだ。すなわち、マネジメントの教理、効率的行動の物語および企業のトップ像がそれだ。こうして、1つの新種の制度が形成される。この移行は、一方では国家に空洞化、自己規制、あるいは非政治化をもたらし行政事務と管理に押し込めてしまい、他方では企業が政治化し古典的な生産活動を超えてその権力の及ぶ範囲を拡大させる。

 何が起こっているのかを理解するためには、経営者大統領の出現を歴史的な視座のなかに位置付けて、そこから政治の意味深い転換を洞察する必要がある。歴史的な系譜をたどることで初めて政治の現状から過去の緩やかな歩みを振り返ることができる。制度としての企業国家の時代は遠く中世の教会国家に遡る。国家と企業は、実は12~13世紀にカトリック教会という同じ制度的母体から「派生した2つの所産」を代表しているのだ(5)。それ以降、歴史的には主として3つの国家の変貌をみてきた。つまり、最初に、グレゴリウス改革(11~12世紀)から生まれた宗教国家で、教皇の精神的な権威と皇帝の世俗的な権威を分離し序列づけた。そして16~17世紀の諸革命、ドイツの宗教改革、イギリスの清教徒革命と結びついて主権国家が生まれ、そしてついには、19~20世紀の産業革命および経営革命の所産である企業国家が出現した。

 19世紀末、とりわけ経営革命とともに、大企業はその活動範囲を広げ、国家が主権を獲得するために神学・宗教陣営を屈服させたように、文化的主導権を握るために政治の分野に入っていく。当初はカトリック教会の神聖性の恩恵を被った国家が、今度は立場が変わって非神聖化され単なる技術的・管理的制度に貶められていく。社会学者ソースティン・ヴェブレン[1857~1929]は20世紀初頭からすでに企業を資本主義の枢要な経済体制とみていた(6)。ところで、国家と企業というこれら2つの体制は単に経済技術的権力のみならず文化的・社会的な力をも構成している。哲学者ヴァンサン・デコンブ[1943~]が指摘するように「これらの体制は行動様式であるとともに思考方法でもある(7)」。それゆえに、産業革命が進むにつれて社会の知的生産は1つの体制から別の体制へと移っていく。「産業社会の政治勢力は非政治化する一方で、産業優先主義において非政治的であったものが政治化していく」と社会学者ウルリッヒ・ベック[1942~]は総括する(8)

 第二次世界大戦後は、政治指導者たちが再び犯罪的で破滅的な悪夢を惹き起こすのを避けるために、サイバネティックスとマネジメントが一つになって、より一層「効率的」な、制御可能な権力案を擁護する。それ以降、若きエルネスト・ルナン[1823~1892]が1848年に宣言したように、人間というものは「科学的に組織」できるとする(9)。社会を機械のように統治するということは、人がついにはプログラムによって制御可能な存在になるということを肯定するものだ。1948年には、ドミニコ会神父のドミニク・デュバルル[1907~1987]がサイバネティックスに関して次のように書いている。「慣れ親しんだ政治の指導者や仕組みにおいて今日あきらかに足らざるところ(……)を統治機械が補ってくれる日がいつか来ることを夢みることができる(10)」。デュバルル神父が国家のサイバー・リヴァイアサンとして思い描いていたものは、今日たとえばグーグル、アマゾン、フェイスブック、アップルあるいはマイクロソフトのような大企業グループの形で実現しつつある。それはジャーナリストのフィリップ・ヴィオン=デュリが総括するように、シリコンバレーの政治的プロジェクトだともいえる。すなわち、「このカリフォルニア流の出来合いの思考が提示するものは、アルゴリズム装置によって自己制御する自動操縦の社会だ(11)」。シリコンバレーの教祖的存在の1人であるティム・オライリは「アルゴリズム制御」の時代が到来しており、政府は「ビッグデータの時代に入る」に違いないと宣言した(12)

 政治の技術化は、かつて国家自身がカトリック教会をそうしたように、大企業が国家から武器を取り上げて国家の無力化、非政治化を招く。サイバネティックスとマネジメントとリベラリズムが交差するところで、国家管理主義批判の絶頂期を画するベルリンの壁の崩壊のあとに企業国家が姿を現わす。その後、企業国家は、3つの局面を統合しながら発展していく。すなわち、数によるガバナンスとアルゴリズムの統治性を実現するためのテクノロジー(13)、効率的行動という名目のネオマネジメント、そして、フリードリッヒ・ハイエク、モンペルラン・ソサイエティー[自由主義経済を唱導する経済学者たちの集まり]、シカゴ学派と続く運動において国家恐怖症を広めたネオリベラリズムだ。ハイエクはすでに、市場のいわゆる「自然な」秩序の名のもとに「政治を王座から引きずり落とす」ことを呼びかけていた。「政治は重要な地位を占め過ぎ、余りにも多くの精神的なエネルギーと物質的な資源を使い過ぎて、余りにもコストがかかり有害になった」(14)。こうして企業に軍配が挙がるしかなくなる。ビルダーバーグ会議[訳注1]と三極委員会[訳注2]の創始者であるデイヴィッド・ロックフェラー[1915~2017]は1999年に次のように認めた。「近年、世界中の多くの地域で民主主義と市場経済が普及する傾向がある。このことは、政府の役割を狭め、実業界はこれを良しとしている(……)。しかし、裏返して言えば、誰かが政府の代わりを務めなければならず、ビジネス界がこの役割を果たすのが自然だと私には思われる(15)」。

 超工業化とそれにともなう世界展望、すなわちまさに産業信仰の時代にあって、コーポレートは新たな政治文化の勢力になりつつある。企業国家の出現、それは政治の核分裂だ。それゆえに、政治システムは企業寄りに重心を移すことで自らを否定する結果を生んでいる。この時期にあって、反政治的な政治家たちは、間違いなく受動的革命(アントニオ・グラムシ)を推し進めている。すなわち、もっと巧く体制を維持するための建て直し革命だ。彼らは、政治批判を政治に向けることでそれを行っている。政治の非政治化と国家の無力化は企業の政治化、さらには「企業主義」へと道を拓く。社会学者コリン・クラウチによれば、それは「ポスト民主主義の進展」であり、それは「企業が政治権力をますます獲得していくこと」を意味する(16)。それゆえに、政治が政治性を取り戻すためには、公的領域を超えて、とりわけ企業に市民権を拡げることでしかそれは実現しないだろうと思われる。



  • (1) « Andrej Babiš : “L’Europe à deux vitesses, ça me fait rigoler” », Le Monde, 6 décembre 2017 ; propos de M. Erdoğan rapportés par le politiste turc Ismet Akça, France 24, 14 juillet 2018.
  • (2) Lire François Denord et Paul Lagneau-Ymonet, « Les vieux habits de l’homme neuf », Le Monde diplomatique, mars 2017.
  • (3) Lucien Sfez, La Symbolique politique, Presses universitaires de France, coll. « Quadrige », Paris, 1988.
  • (4) Michel Foucault, Naissance de la biopolitique. Cours au Collège de France, 1978-1979, Ehess-Gallimard-Seuil, coll. « Hautes études », Paris, 2004.
  • (5) Pierre Legendre, Argumenta & dogmatica, Mille et une nuits, Paris, 2012.
  • (6) Thorstein Veblen, The Theory of Business Enterprise, C. Scribner’s Sons, New York, 1904.
  • (7) Vincent Descombes, Les Institutions du sens, Éditions de Minuit, coll. « Critique », Paris, 1996.
  • (8) Ulrich Beck, The Reinvention of Politics : Rethinking Modernity in the Global Social Order, Polity Press, Cambridge, 1997.
  • (9) Ernest Renan, L’Avenir de la science. pensées de 1848, Calmann-Lévy, Paris, 1890.
  • (10) Dominique Dubarle, « Vers la machine à gouverner », Le Monde, 28 décembre 1948.
  • (11) Philippe Vion-Dury, La Nouvelle Servitude volontaire. Enquête sur le projet politique de la Silicon Valley, FYP Éditions, Limoges, 2016.
  • (12) Tim O’Reilly, « Open data and algorithmic regulation », dans Beyond Transparency : Open Data and the Future of Civic Innovation.
  • (13) Lire Alain Supiot, « Le rêve de l’harmonie par le calcul », Le Monde diplomatique, février 2015 ; Antoinette Rouvroy et Thomas Berns, « Gouvernementalité algorithmique et perspectives d’émancipation », Réseaux, no 177, Paris, 2013.
  • (14) Friedrich Hayek, Droit, législation et liberté, Presses universitaires de France, coll. « Quadrige », 2013 (1re éd. : 1979).
  • (15) « David Rockefeller : “Looking for new leadership” », Newsweek, New York, 1er février 1999.
  • (16) Colin Crouch, Post-démocratie, Diaphanes, Zurich-Berlin, 2005.

  • 訳注1]ビルダーバーグ会議:1954年以来、毎年1回開催され、欧米の有力者が招待されて世界が直面している重要問題について話し合う完全非公開の会議(ナショナルジオグラフィック)

  • 訳注2]三極委員会:1973年に日本・北米・欧州の各界を代表する民間指導者が集まり、「日米欧委員会」として発足した民間非営利の政策協議グループ(日本国際交流センター)

*本記事中の以下の記述について修正いたしました。(2019年8月24日)
「国家と企業は、実は17~18世紀にカトリック教会という同じ制度的母体から「派生した2つの所産」を代表しているのだ」→「国家と企業は、実は12~13世紀にカトリック教会という同じ制度的母体から「派生した2つの所産」を代表しているのだ」

(ル・モンド・ディプロマティーク 仏語版2019年5月号より)