ベネズエラ問題担当特使の恐ろしい経歴

米国務長官による「汚い戦争」への回帰


エリック・アルターマン(Eric Alterman)

ジャーナリスト


訳:大津乃子


 数年前からアメリカの新保守主義派であるエリオット・エイブラムス氏は、好んで賢者を自称している。外交の専門家である同氏は、しかし、中米での数々の違法行為や大量虐殺、中東での選挙工作に協力し、かつてイラン・コントラ事件の際には議会への情報開示を怠ったとして有罪となった危険な人物だ。ドナルド・トランプ大統領から「ベネズエラに民主主義を再建する」任務を得たエイブラムス氏は、再び表舞台に戻ってきた。同氏の経歴を考えると、ベネズエラの人々が不安を感じるのは無理のないことだ。[日本語版編集部]

(仏語版2019年3月号より)

Jonidel Mendoza. – « Desvanecerse entre las siluetas » (Se fondre parmi les silhouettes), 2017
Kellie Miller Arts, Brighton


 今年1月25日、米国務長官のマイク・ポンペオが行った発表をマスメディアは見過ごさなかった。ネオコン(新保守主義者)であるエリオット・エイブラムスをベネズエラ問題担当特使に任命する内容だ。マスメディアは、ニコラス・マドゥロ大統領を転覆させる任務をこの人物に任せる決断を、ポンペオ氏のドナルド・トランプ大統領に対する独立宣言だと報じた。ポンペオ氏の不運な前任者であるレックス・ティラーソン氏――エクソンモービルの元CEO――もエイブラムス氏を登用しようとした。しかし、トランプ氏は大口献金者で極右のシェルドン・アデルソン――同氏は欲しかったものを大統領から手に入れたと言われている――の陳情にもかかわらず、これを拒否した。拒否の理由は何か? 2016年の共和党予備選挙の時、エイブラムス氏は他のネオコンたちに協力してトランプ氏を批判していたのだ。大統領の娘婿のジャレッド・クシュナー氏の努力さえ効果はなかった。当時、大統領の上級顧問だったスティーブン・バノン氏が、エイブラムス氏の「世界連邦主義者」という評判は大統領の権威を失わせると言って、エイブラムス氏を用いないようホワイトハウスの居住者を説得したのだ。

 ブルームバーグ・ニュースによれば、この登用はある「転換」を表している。「彼の主張は、トランプが選挙中に嘲笑していた外交戦略だ。とりわけ大統領が以前から批判していたイラク戦争へのサポートがそうだ。しかし大統領とまったく同じように、エイブラムス氏は変わったようだ」(1)。この「人は変わる」という考えは、「イランゲート」のスキャンダル――ロナルド・レーガン大統領の政権がイランに極秘裏に武器を売却して得た資金で、ニカラグアの反サンディニスタのコントラを支援していた事件――において取るに足りないとした自分自身の役割を消し去るためにエイブラムス氏が行った説明でも同様に見られる。この事件に巻き込まれたエイブラムス氏は、しかしながら議会での情報の隠匿に関する2件の訴因について罪を認めなければならなかった。彼はジョージ・H・W・ブッシュ大統領に恩赦を受けるまで、コロンビア特別区の弁護士会から除名された。「私は大したことだとは思いません」と彼はコメントした。「我々は1980年代の出来事に興味はありません。2019年に起きていることに関心があるのです(2)

 エイブラムス氏の経歴から判断すれば、2019年はベネズエラの人々にとって酷い年になるおそれがある。彼は議会の下級補佐官を経て、レーガン政権で中米の人権に関する一連のポストに任命された。新たにジョージ・W・ブッシュ大統領の2期目の政権で職務を行い、その後、外交問題評議会というシンクタンクと、複数の保守的なユダヤ人の機関で活動家の役割を果たした。ヘンリー・キッシンジャー氏とリチャード・”ディック”・チェイニー氏を除いては、アメリカの高官で民主主義の名の下に拷問や大量殺人を奨励するためにあれほどのことをした者はほとんどいない。「イランゲート」の後、エイブラムス氏を尊敬に値する人物と紹介するメディアのおかげで、アメリカの外交政策を担う上層部で彼が昇進したことは、この小さな世界の現実と、とりわけアメリカの政治家が常に身をもって守ろうとしている価値に対する関心が彼に欠けていることを明らかにしている。

 若い頃、民主党の上院議員であるヘンリー・”スクープ”・ジャクソンとダニエル・パトリック・モイニハンに仕えたエイブラムス氏は、1970年代に民主党を戦争介入主義に転向させるためのネオコンの努力に協力した。しかし、ジミー・カーター大統領の政権で高位のポストから遠ざけられて、彼らは結局政治的な意見を変えた。「我々は完全に締め出されていました」とエイブラムス氏は不満を漏らした。「我々は取るに足りないポストしか手にしませんでした。つまり特別交渉官です。ポリネシアでもマクロネシアでもなく、ミクロネシアのです(3)」。レーガン政権内部に快適な居場所を作った後、彼は国務省で出世の階段を駆け上がった。国際機関担当国務次官補を経て、かなり皮肉な話だが「人権担当」国務次官補になり、そして米州担当国務次官補になった。この最後のポストにある時、中央アメリカで一連の代理戦争を行うことで、彼はソビエト連邦との戦争を望んでいたレーガン支持者の激しい攻撃からジョージ・シュルツ国務長官を守った。

 ラテンアメリカの極右勢力にとって、エイブラムスほど強力な支持者をアメリカから得ることはほとんどないだろう。エルサルバドルやニカラグア、グアテマラもしくは(最後にはジョージ・H・W・ブッシュが侵攻した)パナマでの数百人、いや数千人の無実の農民の虐殺が問題になった時も、自分の責任を覆い隠すためのスケープゴートを常に見つけることができた。それはジャーナリスト、人権活動家、そして犠牲者のことさえあった。

 1982年3月、グアテマラのエフライン・リオス・モント将軍がクーデターにより政権を奪った。その時、人権担当国務次官補だったエイブラムス氏は、基本的権利の問題について「大きな進歩をもたらした」として、すぐに将軍に祝意を表した。彼は「殺害された無実の市民の数が徐々に減少している」事実を強調した(4)。しかし公開された文書によれば、同じ頃に国務省は「人里離れた地域での軍による先住民族の男性、女性、子どもの虐殺に関する根拠のある申し立て」を受け取っている。この件は、「進歩には褒賞を与え、奨励するべき」と主張するエイブラムス氏が議会に対して、グアテマラ軍に最新兵器を供与するように要求する妨げにはまったくならなかった。2013年、国連の援助の下に創設された歴史究明委員会は、リオス・モント将軍をキチェ県におけるマヤ系イシル族に対する集団虐殺行為で有罪だと認定することになる。

 1985年に米州担当国務次官補に任命されたエイブラムス氏は、独裁者であるリオス・モント将軍とその後継者であるオスカル・メヒア・ビクトレスやマルコ・ヴィニシオ・セレッソ・アレバロによる大量虐殺を告発した組織を非難し続けた。1985年4月、行方不明者の母親たちでつくる相互支援グループであるグルッポ・デ・アポヨ・ムチョの代表のマリア・ロザリオ・ゴドイ・デ・クエバスは、事故に遭った車の中で3歳の息子と兄とともに遺体で発見された。事故についての信憑性のない仮説を支持するだけでは飽き足らず、エイブラムス氏は調査を開始するよう要求した人々を裁判所に訴えた。報道機関が伝えていなかった、グアテマラシティで昼日中に行われた即決処刑を目撃した女性によって書かれた、大量虐殺に関する国務省の統計に異議を唱える公開状をニューヨーク・タイムズが掲載した時は、彼は編集長に対して手紙を書き、厚かましく嘘をついた。彼はこの殺人が実際はマスメディアによって報告されていたと証明するために、存在しない新聞に掲載された架空の記事を引用することまでした。

 1982年、ニューヨーク・タイムズとワシントン・ポストが、1年前にエルサルバドルのエルモソテ村の周辺でアメリカに訓練され武器を供与された一団が起こした虐殺を報道した。殺人犯たちを助けに飛んでいったエイブラムス氏は、上院のある委員会でそれらの記事に「信憑性はなく」そして「明らかに」ゲリラが「でっちあげた事件」だと言い放った。1993年、国連のエルサルバドルのための真実委員会は、エルモソテで5,000人の市民が「故意にそして組織的に」殺害されたと結論付けている。

 1985年、パナマの独裁者であるマヌエル・ノリエガがゲリラ兵のウゴ・スパダフォラの拷問と斬首による殺害を命じた時、エイブラムス氏は国務省と連邦議会で発言し、この件について言及しないことを求めた。「マヌエル・ノリエガは我々を大いに助けてくれます」と彼は説明した。「……本当に問題にはなりません……パナマ人たちは我々がコントラと戦うのを支援すると約束したのです。もしみなさんが彼を裁判所に訴えれば、我々はもう彼らを当てにできなくなるでしょう(5)

 エイブラムス氏はさまざまなレベルで「イランゲート」のスキャンダルにかかわっている。1986年、あるアメリカの傭兵パイロットの操縦する飛行機が、ニカラグアのコントラへ違法な武器を輸送中に撃墜された。その際、エイブラムス氏はCNNに出演し、アメリカ政府はこれらのフライトには一切関係ないと明言した。「それは違法でしょう」と彼は説明した。「我々にはそうしたことをする権利はありませんし、そんなことはしません。アメリカ政府の作戦だったことは断じてありません……こんなことが起こるのは、アメリカ人が殺害され、アメリカの飛行機が撃墜されるのは、議会がコントラへの資金援助のために動かないからです」。そして彼は議会の2つの委員会で、その飛行機は「アメリカによって準備されたものでも、命令されたものでも、資金を提供されたものでもない」と繰り返した。彼は何度も議会で「コントラ支援に関する国務省の役割は、資金集めではなく、議会から資金を得られるよう努めることです」と断言した。毎回、彼は嘘をついた。武器の輸送には、オリバー・ノース中佐とCIAが資金を出していた。この発言をした時、エイブラムス氏はコントラのための資金集めをしていたブルネイから帰ったばかりだった。1991年、これらの偽証が暴露され、議会への情報開示を怠ったとして彼は有罪を宣告された。

 その後、エイブラムス氏はウィリアム・クリントン氏の政権には入り込めなかったが、彼の後任のジョージ・W・ブッシュ氏に、米国の国家安全保障会議のイスラエルとパレスチナ問題担当として雇用された。この時代の彼の最大の成功は、『ヴァニティ・フェア』でデイビット・ローズに暴露されたように、ハマスとファタハの連立政権発足に道を開いた2006年の評議会選挙で、ファタハと共謀して妨害工作に関与したことだ。それはハマスに支配された、選挙で選ばれた政府をガザ地区に引きこもらせるためのものだった(6)。この策謀は、この2つの組織の間でいつ終わるかわからない分裂を確実なものにした。今となっては、ハマスもファタハもイスラエルと継続的な和平について交渉する能力はない(本当にイスラエルにそのつもりがあるとしても)。最後に、イギリスのガーディアン紙によれば(7)、エイブラムス氏は2002年にベネズエラで、民主的に選ばれたウゴ・チャベスの政権に対する軍事クーデターを支援したようだ(クーデターはその後大規模な民衆運動により失敗した)。

 こうしたエイブラムス氏の数々の“戦功”は、外交問題評議会が2009年に同氏をシニアフェローとして迎える妨げにはならなかった。こうして彼は「専門家」としての正当性を与えられた。この名高いシンクタンクは、彼らの新しいメンバーが、チャック・ヘーゲル氏を国防長官に任命したバラク・オバマ大統領を非難した時も、いくらかの困惑を示しただけだ。エイブラムス氏によればヘーゲル氏は「反ユダヤ主義」で「ユダヤ人と問題があるようだ」というのだ(2013年1月7日のナショナル・パブリック・ラジオ)。外交問題評議会会長のリチャード・ハース氏はこの発言を「ばかげている」と評価した(2013年1月13日のABC)。その一方で、エイブラムス氏が選挙工作や大量殺戮、集団大虐殺に協力したことに不安を感じていそうなメンバーはいない。エイブラムス氏の外交問題評議会への、そして今日のベネズエラ問題担当特使への任命は、アメリカの外交政策における保守派の影響力を示すものだ。



  • (1) Jennifer Jacobs et Nick Wadhams, « “Never Trumpers” can get State Department jobs with Pompeo there », Bloomberg, New York, 31 janvier 2019.
  • (2) Cité dans Grace Segers, « US envoy to Venezuela Elliott Abrams says his history with Iran-Contra isn’t an issue », CBS News, 30 janvier 2019.
  • (3) Cité dans Sidney Blumenthal, The Rise of the Counter-Establishment. The Conservative Ascent to Political Power, Union Square Press, New York, 2008 (1re éd. : 1988).
  • (4) Elisabeth Malkin, « Trial on Guatemalan civil war carnage leaves out U.S. role », The New York Times, 16 mai 2013.
  • (5) Cité dans Stephen Kinzer, Overthrow : America’s Century of Regime Change From Hawaii to Iraq, Times Books, New York, 2006.
  • (6) David Rose, « The Gaza bombshell », Hive, 3 mars 2008.
  • (7) Ed Vulliamy, « Venezuela coup linked to Bush team », The Guardian, Londres, 21 avril 2002.

(ル・モンド・ディプロマティーク 仏語版2019年3月号より)