フランス・テレコム元経営者の裁判を控えて

社員を苦しめるマネジメント


アラン・ドゥノー(Alain Deneault)

国際哲学コレージュ教授


訳:生野雄一


 給与生活者は矛盾に満ちた環境を生きている。企業と労働契約を結んで働くことで、生計が安定し毎日を平穏に過ごせるかと言えばそうではない。採用されるや否や猛烈に働かされ、個人の創造力やイニシアティブを発揮することは期待されず、ひたすら収益を挙げるためだけに組織が定めたやり方に従うことを求められる。常に不合理な組織内競争にさらされて、出来が悪ければ嫌がらせの果てに追い出される始末だ。[日本語版編集部]

(仏語版2018年11月号より)

© Philippe Halsman - Andy Warhol


 この記事をうっかりして読むと、どこにでもあるような典型的な例なのに単発の特殊な事件だと見誤ってしまいかねない。去る6月、フランス・テレコム本体と、同社の元最高経営責任者[2005年~2010年]のディディエ・ロンバールがその右腕だったルイ=ピエール・ウェネス[元副社長]とオリビエ・バルベロ[元人事担当役員]とともに、モラルハラスメントの廉で2019年に法廷に出頭するように命じられた。2000年代末に数十人の従業員が自殺したことへの責任が問われるのだ。

 当時、フランス・テレコムは定款を変更し[民営化し]た。2004年以降、資本の50%以上が民間出資となり、通信業界全体が自由競争にさらされた。これによりフランス・テレコムは「企業統治」型の経営となり、とりわけ、役職員が「責任を負う」こととなった。

 従業員というより会社と直接の「パートナー」として、部下たちは、職場のチームメンバーを決める直属の上司にとって使える人材であろうとする術を身につけていく。現実離れした目標を達成し、品のない販売手法を展開し、社員研修に打ち込み、新しい組織のなかに自分の居場所を確保するために競い合い、新たな技能を身につけなければならず、それができなければ見捨てられてしまう。それに、これこそがこの人事戦略の目的の一つなのだ。すなわち、そのなかから2万人以上の人のやる気をくじき、正式な解雇の形をとることなく退職していくように仕向ける。2006年10月20日にフランス・テレコムの幹部たちに向かってロンバール氏が語った「窓からでもドアからでも、何とかして彼らを出て行かせるよ」という言葉が彼の考え方を端的に表している。

 そして、彼はそれをやり遂げた。フランソワ・シュバリエはその著書Dans La Société du mépris de soi[題意は「自らを貶める企業」]において、中間管理者がいない効率の良さに驚いている。個々人は、管理体制が曖昧なので、全ては自分次第であり上手くいかなければ自分を責めるしかないと信じ込んでしまう。「“虐げられた”人々、あるいは自分をそうだと思っている人々は、自分たちを完膚なきまでに貶める上司に対して、もはや抵抗しないばかりか彼らの方が正しいのだと思い、生殺与奪権を握る上司が自分たちを遠回しな方法で落伍者に仕立て上げようとするのを、さっさと自ら認めてしまう(1)

 フランス・テレコムのやり方は、大企業が今日でも行っているやり方と大差はない。2018年8月に、エールフランス-KLMが社員に対して情け容赦のないカナダ人のベンジャミン・スミスを最高経営責任者に指名したのは、そうしたやり方にフランスをもっと慣れさせるためだ。大統領の政党である“共和国前進”が躊躇なくマネジメント用語を用い、自らを「政治的事業」と称するに及んで、同社に14.3%の出資シェアを保有する政府は進んでこの決断を支持した。

 この「RH(人事)のスナイパー」は2つの記者チーム(2)と会見して、特に「強制的ランク付け」の手法について語った。彼の役割は、効率が良くないとされた人員の何パーセントかを、常に、組織的な方法で退職に追いやることだ。「彼らを追い出し、代替人員を採用する。当然のことだけど、まともな採用をすれば、辞めた人たちより良い人を雇うことができる」。経営者の合言葉はこれに尽きる。だが、さらにこうも言う。「定期的に人を辞めさせなければならない」とか、「2度目のチャンスは与えてはいけない」とか、または、「パフォーマンスが良くない人は一生良くないままだ」……。

 追い出しの理由は子供だましのようなものか完全な作り話だ。たとえば、その年のボーナス支給があったかなかったか、古い記録から引っ張り出してもとの文脈から切り離された昔の失敗、関係のないあれこれの事実の寄せ集め、などだ。それでも足りなければ、脅しが飛び出す。「抵抗しても無駄だ。会社は君より強いからね」。もう一人の古参幹部が自らを「やりすぎで毒のある中間管理者」と認めながら語るには、「再活性化する」という言葉は企業で使われるときには、ただ単に「解雇を意味する暗号(3)」なのだ。こうした隠語は、社員を密かに恐怖に陥れ経営者の感覚を麻痺させる一種のニュースピーク[ジョージ・オーウェルの小説に出てくる支配者に都合の良い新言語]だ。

 先進的な経営とその政治的側面である「企業統治」は、かつてフレデリック・ウィンズロー・テイラーが完成した分業の技法を超えて(4)、働き手の分割を考案する。働き手は、肉体労働、認識能力、倫理面、そして心理面に関する一連の資質に引き裂かれ、細分化され、切り刻まれて、どれも結局は自分のものにはならず、組織が編成した、いわく言い難い労働衝動に身をゆだねることになる。経営がやりたい放題の時代にあって、「機能統合による解決」は「プロセスの適確性」と同様に、働き手を管理するというより彼らを分解する(to process)ことを意味する。

 それは具体的には、社員の意識を粉砕して、一連の装置、能力、機能、効率に完全に単純化するに等しい。こうした考えに基づいて、彼らに「労働市場」で「自らを売り込む」「機会」を与えるために、すぐに「求職者」に「志望動機書」を書かせること自体がもうすでに廉潔な求職者たちを傷つける。一旦採用プロセスに身を投じてしまった彼らは、意味も重要性もわからない一連の経験を強いられる。彼らはグループ分けされ集団面接され、人事の専門家たちは彼らのボディーランゲージを分析し、心理類型を識別し、あるいは無意識の表現を見つける。

 このような状況において、就職志願者たちは面接官たちが自分のなかに何を発見したかもその理由ももはや知ることはない。問われているのは自分たちの意識や理性ではない。知らないうちに自分たちの資質が検討されているのだ。従事しようとしている仕事とは関係のないテーマに関してロールプレイングをさせられる。ジャン=ロベール・ヴィアレの映画 La Mise à mort du travail [題意は「労働という死刑」]の1シーンでは(5)、就職志願者たちに自分たちがどの村にバカンスに行くかについて討論をするよう求められる。この管理された模擬討論を観察している中間管理者たちの会議に参加すると、この手法の狙いが、嫌な顔もせず指示に従い、組織の階層を上手に登っていくためには同僚を売ることすら厭わない無能な追従者を選抜するためだとわかる。誰一人として自分が採用され、または採用されなかった理由を明確に説明することができない。

 一旦社員として採用されると、ろくに教育もされずにあわただしく次々と仕事をさせられるのはよくあることだ。自己実現を可能にする方法は自分自身で見つけなければならない。表向きの説明で自慢げに言われていたのとは違って、創造力やイニシアティブまたは責任感を発揮するのではなくて、会社がまさに自分たちに求めているものは何かを察して見抜くことだ。会社は自分の指示したことに責任を取らない。もっと熱心に理解しようとする者には、屈辱的な評価と自己批判の場が待っている。

 採用した社員を、会社が費用を負担する従業員というより、「パートナー」や「仲間」とみなすと決めたからには、ときには自らの制服や仕事道具のいくつかは自分で支払うことになる。リベラリズムの考え方は彼らを企業と取引関係を結んだ自立した個人とみなしており、企業は、両者の関係の観念的な構造上では単なる契約の当事者だ。

 こうした状況は以前にはみられなかった精神面での影響を生じさせる。もはや、社員は職務において自らの感情を抑えることしか期待されていない。彼らは「黙れ。給料を支払っているのは私だ」という暗黙または明示的な命令に従うのみだ。不平、恨み、異論そして不満を自分のなかに閉じ込めておく仕事の仕方ではもはや今時のマネジメントは満足しない。社員は今や仕事に積極的に打ち込まなければならない。経営者は社員たちが強制された指示事項を守り通すことでは満足せず、それらを夢中になって我がものとし、真に望むべき対象としなければならない。ドキュメンタリー映画Attention danger travail[題意は「仕事に気をつけろ」]で撮影されたドミノピザの典型的な研修をみてみよう。マネジメントの新造語と英語からの借用語だらけで、情緒に訴える脅迫が会社中で幅を利かせている(6)。給料の低い従業員は執拗に「ドミノピザのナンバーワン」になることを望むべきであり、それはナンバーワンになれば「気持ちがいい」からだ。こうして、このフランチャイズ店はそこの下層労働者を「狂ったように仕事に全力投球」させようとする。オースチン[米国テキサス州の都市]であれ、パリであれ、またビーレフェルト[ドイツの都市]であれ、仕事の仕方も外見も同社の販売員はどこでも入替えが利くものでなければならないからだといいながら。マリー=クロード・エリー=モランはその著書La Dictature du bonheur[題意は「幸福の独裁」]のなかでカナダのアパレル企業ルルレモンの女性社員が同僚の一人によって殺害されたことに言及している。殺人者の女性は、人間形成と癒しの技法に関する研修とこの会社の「ニューエイジ」[訳注]的言説にあまりに従わなければならなかったために頭がおかしくなってしまった(7)

 人はもはや自分が何をしているかさえわかっていない! 薬物学者は自分が病気だと思い込んでいるお金持ち向けに薬を開発しようと苦労している。営業部員は意識がはっきりしない年老いた女性に必要もない家具をクレジット販売する。フリーのジャーナリストは自分の部屋にこもって、ついに全体を読むこともない文書の断片をせっせと翻訳する。お店では、幹部社員は経営者が余剰人員と判断したレジ係が仕事を嫌になるようにモラルハラスメントを仕掛けなければならない。エンジニアは買い替えを促進するために器具が故障するようなプログラムを研究している。ITを使った職務行為の監視は、今や医療機関にも街の小さなカフェにも導入されていて、どんな小さな所作も分析可能な変数に分解される。当事者自身が予期しない事態に狼狽することもある。ジャック・コタとパスカル・マルタンによるドキュメンタリーDans le secret du burn-out [題意は「燃え尽き症候群の全て」]が示唆するフランス国鉄(SNCF)の幹部職員の悲痛な話がその例だ(8)。この男性はこの国営企業に幹部として採用され、つまりは公共福祉のために働く能力ありと認められた。ところが結局、主として資源を節減し、部署を統合し、収益を叩き出すのが任務となり、まさに民間部門で働くのと同様で、彼が大いに嘆くように、会社の嫌われ者になった。マネジメントの詩的なフレーズは、社員が置かれている不条理な状況と妥協する能力を指す表現を創り出しさえした。それは、「両義性のある状況にも耐えうると示すことだ」

 社会学者リュック・ボルタンスキーの1970年代の幹部社員に関する初期の研究から始まりデイビッド・グレイバーの『官僚制度のユートピア』(酒井隆史訳、以文社、2017年)を経てここに引用した数々のドキュメンタリーからわかることは (9)、明確な指針がない場合やルールが不合理で矛盾している場合は、経営者がこれらの指針やルールが求める責任を果たさないで済ますことができるということだ。グレイバーがある大きなレストランのケースを挙げている。ある晩どんな失敗が実際に起こったのかを知らないまま、経営者は事務所から降りてきてチームのシェフだろうがただの新入りだろうが最初に出くわした人を叱りつけて、事務所に戻っていった。そのあと、どうしてその失敗が起こったのか、チェスの一勝負が終わったあとのチェスプレーヤーたちのように、理由を解明したのは部下たちだった。経営者たちは、ベストパフォーマーの成果だけを取り出して彼らを模範者に祭り上げて、他の者たちに「成果を出す」ように求めさえすればよい。

 実業界と労働法は政治支配の秩序において巨大な例外状況を成している。憲法の過半はそこではかすんでしまい、労働法と商事法という新たな秩序に関する法律が優先する。組織に従属するか抵抗するかの2つに1つの考え方によって、労働者が要求を表明する自由はかなり制約され、結社の自由は労働組合に関する法律だけに限られてしまう。労働者の真の自主性は排除され、経営者の脅しの力はほとんど絶対的だ(10)。この閉じられた世界にあっては、労働者には政治的な力も実情を外部に知らせる権利もほとんどないに等しい。

 フランス・テレコムで多数の自殺者が出たこのケースは他のケースより人目を惹く劇的なものだった点が特徴だった。そのため、この分野の問題についての理解がお粗末な司法制度が(部分的ではあるが)法廷でこの事件を事実と認定した。だが、数多くの同様の事例によってじわじわと壊されている命はどうなるのだろうか?

  • *本著者には、Gouvernance. Le management totalitaire, Lux, Montréal, 2013.の著作がある。

 


  • (1) François Chevallier, La Société du mépris de soi. De L’Urinoir de Duchamp aux suicidés de France Télécom, Gallimard, Paris, 2010.
  • (2) Leila Djitli et Clémence Gross, « Didier Bille, le sniper des RH », « Les pieds sur terre », France Culture, 11 avril 2018 ; Virginie Vilar et Laura Aguirre de Carcer, « “L’exécuteur”. Confessions d’un DRH », « Envoyé spécial », France 2, 8 mars 2018.
  • (3) Lucia Sanchez et Emmanuel Geoffroy, « Petits chefs : les repentis », « Les pieds sur terre », France Culture, 18 janvier 2018.
  • (4) Frederick Winslow Taylor, La Direction scientifique des entreprises, Dunod, Paris, 1957 (1re éd. : 1911).
  • (5) Jean-Robert Viallet, La Mise à mort du travail. 2. L’Aliénation, Yami 2 Productions, France, 2009.
  • (6) Pierre Carles, Christophe Coello et Stéphane Goxe, Attention danger travail, CP Productions, France, 2003.
  • (7) Marie-Claude Élie-Morin, La Dictature du bonheur, VLB Éditeur, Montréal, 2015.
  • (8) Jacques Cotta et Pascal Martin, Dans le secret du burn-out, France 2, 2016, 52 min.
  • (9) Luc Boltanski, Les Cadres. La formation d’un groupe social, Éditions de Minuit, coll. « Le sens commun », Paris, 1982 ; David Graeber, Bureaucratie. L’utopie des règles, Les Liens qui libèrent, Paris, 2015.
  • (10) Lire Danièle Linhart, « Imaginer un salariat sans subordination », Le Monde diplomatique, juillet 2017.

  • 訳注]宇宙や生命という大きな存在と自己とのつながりや、人間のもつ無限の潜在能力を強調し、個人の霊性・精神性を向上させることを目指す思想・実践。

(ル・モンド・ディプロマティーク 仏語版2018年11月号より)