せっかちな観客


ジェラール・モルディラ(Gérard Mordillat)

作家、映画監督
著書(La Tour abolie, Albin Michel, Paris, 2017)、
映画作品(Mélancolie ouvrière, Arte 2018年8月)

訳:樫山はるか


(仏語版2018年7月号より)
photo credit: Kenneth Lu Watching a blank screen

 今日、映画館で観客は男性も女性も先を急いでいる。映画は、最初の映像からアクションシーンで始まり、機関銃のような速さでシークエンスがつながり、ハチドリの羽ばたきのごときテンポで次々とカットが展開されなければならず、現代の観客は、映像や音声が少しでも気に入らないと、泣いて地団駄踏む甘やかされた子供と同じで、すぐにおしゃぶりをくわえさせるか、ガラガラで気をそらせて(あるいはその両方で)黙らせなければならない。あえて言えば、今日、大半の映画はおしゃぶりやガラガラ、つまり大音響のドルビーステレオや合成映像による特殊効果技術を利用して、核による惨劇や宇宙戦争、死に至る伝染病、モンスターや超自然現象が演出されている。

 映画は、点滅するランプ、フランツ・メスメルが患者に催眠術をかけるのに使ったのと似たクルクル回る鏡に変貌した。つまり映画が観客の目を何も見えないほどいっぱいにし、耳を何も聞こえないほどいっぱいにするのだ。バルーフ・スピノザが見抜いていたように「像はより多くの対象に関係すればするほど、それだけ頻繁に現れる。なぜなら、像(あるいは感情)がより多くの対象に関係するならば、それをよび起こし促進する原因がそれだけ多くなる」(エチカ)[訳注1]。その時、せっかちさゆえの焦慮に代わって、感覚が支配し、知性と感情が消滅する。

 イヴ・ロベールは、ルネ・クレールがカットごとの撮影を少ない回数で、すなわち1テイクかまれに2テイクで撮影していたと語っている。ジェラール・フィリップ出演の『夜の騎士道』で、2テイク目の撮影の後、監督が「撮り直し!」と要求するのを聞いて俳優たちがどんなに驚いたことか。彼らが何がよくなかったか監督に尋ねると、つっけんどんに「もっと速く演じてくれ!」という答えが返ってきた。映画――英語でムービー(moving「動き」に由来する)――は作曲と同じように巧みなリズムの上に成り立っている。だが、このテンポ、映画そのものであるこの動きは、俳優たちの演技によるか、カットの長さによって決まる。そのカットの長さはどんどん短くなっている。1930年には平均12秒だったが、今日では2.5秒かそれ以下かもしれない(1)。その「もっと速く演じてくれ!」という要求は俳優たちにではなく、すっかりカメラワークや編集に任されるようになった。カットの多用は画像の豪華さや視覚的豊かさを象徴する。観客は、映画上映中にがつがつ食べる巨大なカップ入りポップコーンと同じように、[盛り沢山のカットを見て]もとが取れたと思うに違いないが、結果は相反する。なぜなら、一見このスクリーンからの贈り物がせっかちな観客を満足させたとしても、実際には、上映されているものに親近感がなく、観ている対象にリアリティーが感じられず面白みが失われているからだ。だから多くの映画の中で(またビデオゲームの中で)描かれているバイオレンスは、バイオレンスの作り物、凝ったお飾りであり、花火のように降り注ぐ血しぶきや闘いはあっても、そこには観客が食欲を無くすような痛み、苦悩、恐怖はない。

 技術の発達、特にテレビと同様に映画でも、ステディカム(どんなセットでも手持ちカメラでの移動撮影をスムーズにするためのスタビライザー装置)の使用拡大が観客を「アクションの真っ只中」に居る感覚にさせる。しかし、そうなってみると、観客は自分がはまり込んでいる状態のなかでは、もはやアクションを観ることはできない。映像が与える感覚に支配されてしまい、距離を置いて見ることができなくなる。これを政治的な面に移し換えてみると、こうした[映像による感覚の]支配はせっかちな観客をイメージに囚われた市民、新奇さという甘味を腹いっぱい詰め込まれた消費者にしてしまう。それは(イデオロギーや政策を)もはや見ることも理解することも求めず、(毎週、評論家が新しい「眩惑される」映画をほめそやすように)政治家によって投影されたイメージによって眩惑されている市民のことだ。

 映画的手法においても政治においても、このことは札当て[3枚のカードを裏返し、よく切ってから特定のカードを当てさせる街頭賭博]のやり口と似ている。スクリーン上のテイクやテレビでの方針演説のように、テーブル上でカードを目まぐるしく動かして、だまされやすい人(観客や有権者)を楽しませるからだ。そして毎回人々が負ける。映画も、それがジェットコースターや幽霊列車に変貌するとき本来の意味を見失っている(そして政治について話すのはやめましょう)。台詞(あるいはスピーチ)に関しては短いことが最もよく、「ちょっとした一言」やツイート、スローガンが拡散する。ロジャー・ムーアは彼の最後の『ジェームズ・ボンド』撮影時に、記者が今回の映画の中で最も特別な見せ場について質問したとき、彼はふざけて答えた「ぼくが2行の台詞を言うシーンがあるよ!」

 映画のもっとも真正で深遠な表現は、瞑想的な芸術である。ジャック・タチの『プレイタイム』、スタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』、ブレイク・エドワーズの『パーティ』、ヌリ・ビルゲ・ジェイラン『雪の轍(わだち)』、アンドレイ・タルコフスキーの数々の映画、さらにイングマル・ベルイマンの『聖体拝領者たち』では少なくとも5分はあるプロテスタントのミサシーンから始まるのだ! しかし今日どの映画スタジオがこれらの映画に、1ユーロあるいは1ドルでも金を賭けるだろうか。こうした映画は、私たちに見ること聞くことを教え、私たちのまなざしを呼び覚まし、時間と空間の扱いに長けており、決して私たちに陳腐なドラマや映画グッズを売り込むことなく、スクリーンから姿を消していく。この正当で、たゆまぬ注意力を要求し、心身に灯をともす映画が、観客を追い返す、と人は説明する。テンポが遅いとき、コメンテーターや映画スタジオは口を揃えて言う、「これは冗長です!」。この長さ――主題からそれること、時間と空間の感覚――は現代の観客にとって大きな悪なのだ。すなわち、現代の観客を映画館から逃げ出させ、ついにはテレビ画面からも遠ざける悪魔なのだ。

 それでもなお、テレビや映画において、時間の長さが問題にならないジャンルが2つある。ツール・ド・フランスの全区間生中継(「人々が働いているのを観る唯一の時間」とジャン=リュック・ゴダールは言っていた)と、ポルノ映画だ。そこでは朝の体操教室みたいに、視聴者が発想を得たり真似をする時間を持つために、たっぷりと性行為が続く。

 せっかちな観客は、広告業者、すなわち売ることへの激しい欲求の産物でもある。そして売るためには、よだれを垂らさせ、楽しませなければならない。それはイワン・パブロフの犬の訓練と同様、単純なやり方だ。ちょっとの間〝ブツ〟(超大作あるいは選挙の立候補者)を見せびらかして、観客や有権者がパブロフの犬のようによだれを垂らしたら、次いで、フラストレーションや欲求を引き起こすためにすぐに彼らの視界から〝ブツ〟を隠すというやり方だ。どんな食品や日用品、サービスにも当てはまるのと同じ方法が、今や映画、テレビ、政治にも当てはまる。

 四枢要徳[正義、賢明、節制、剛毅という四つの徳のこと]の尊さにまで達したこのせっかちさは、現代のマネージメントの影響力をも反映している。休憩、小休止、仕事に関する省察はもう終わった。尊ぶべきは生産性ということで、仕事中の男性も女性も一日中顔を上げることも、ディスプレイから目を離すこともしてはいけない(映画のスクリーンでは広告[鑑賞]の義務、パソコンの画面では生産効率の義務が課せられる)。勤め人も有権者も観客も大急ぎで手なずけられる。

 テレビ番組編成者にとって厄介なもの、それはリモコンだ。視聴者がソファーから離れることなくチャンネルを変えられるこの恐るべき道具に、広告主たち(および政治の責任者たち)は頭を抱えている。しかし彼らにおかまいなく、現代の視聴者――この慢性的にせっかちな人たち――はチャンネルを休みなく変える。まるで同じ画像の前にいること、それを見たり、分析したり、楽しんだりすることが耐え難いかのように。とりわけ他のチャンネルでやっていることを見逃すのは嫌だ。たとえそれがテレビ番組325チャンネルの加入料を取り戻すためだけに過ぎないとしても。現代の観客はすべてを見なければ気が済まず、そしてすべてを見ているのに、民放でも公共放送でもあらゆる編集方針の基軸であり背骨である広告(映像やメッセージ)以外は何も見ず、聞かず、理解していない。パトリック・ル・レイ氏(TF1の経営者)は、彼の放送事業を、視聴者の「脳を利用可能な状態に戻しておくこと」、「つまり2つのメッセージ[広告]の間に、楽しませ、くつろがせて次のメッセージ[広告]に備えさせること」と明言してスキャンダルになった。放送局の責任者が珍しくストレートに話しをしたのだから、人々は少なくとも彼の率直さに拍手喝采すべきだった。

 現代の観客に取り憑いているように思われるこのせっかちさは、あらゆる大陸で増大する紛争、気候変動の脅威、恒常的な貧困、死、これらを前にした不安のしるしである。『人類最期の日々』(カール・クラウス)が来る前に、すべてがすばやく進み、目いっぱい(たらふく)飲み食いし、できる限りたくさんの映像やストーリーをむさぼりたいのだ。しかも多くの映画が終末を語っているのは暗示的だ。使徒パウロの時代、生きている時間の終わりが分かったと確信したテッサロニキ人は、同じ精神状態になっていた。使徒パウロをひどく嘆かせたのは、明日全てが終わることを恐れた彼らが、我を忘れて放蕩三昧に耽り、浴びるほど飲み、もはや働かず、笑い踊って最後の瞬間を待っていたことだ。西暦50年代のテッサロニキ人と同様に、現代の観客も時間をつぶす必要があるのだ。神は死んだ、だから、今日、世界の終わりを予告する映像が容赦なく映し出されるスクリーンを前に時間を潰すこと以上に良いことなどないのだ。




(ル・モンド・ディプロマティーク 仏語版2018年7月号より)