民衆のフランス史


ジェラール・ノワリエル(Gérard Noiriel)

パリの社会科学高等研究院(EHESS)教授


訳:生野雄一


 百年戦争から現代にいたるまでのフランスの歴史上、中世、近代、現代のそれぞれにおいて、支配階級によって庶民階層がどのように扱われてきたかに焦点を当てて描き出す。[日本語版編集部]

(仏語版2018年8月号より)

Bibliothèque nationale de France, département des manuscrits, Paris.


中世

 王政史の愛好家は、百年戦争[1337年~1453年]について語るとき、たいていは統治権をめぐる王朝間の争いに言及するにとどまる。しかし実際は、この長きにわたる集団の暴力行為は14世紀初めからヨーロッパを揺るがした深刻な経済危機の結果でもあった。歴史家たちはこの不況をいくつかの要因で説明してきた。エドゥアール・ペロワ[1901年~1974年。歴史家]によれば、1314年~1316年の食糧危機が引き金となった(1)。これは、人口の激減、耕作地の減少、生産活動の後退をもたらした。最近の調査研究では、これに先立つ時期に経済が繁栄した結果、農民が貨幣経済に組み込まれていたことが明らかになっている。農民の多くが自らの農地から得られる収入を補うために、よその土地で働いたり、糸紡ぎや機織りのような北部やフランドルの田舎ですでに広がっていた手仕事をして賃金を得ていた。こうした交易の発達は農民をますます市場に依存させ、それによって、価格変動に晒されることになった(2)。西ヨーロッパの多くの地域で経済危機が急速に広がり、それが農民と都市の労働者階級を同時に襲ったという事実を、この現象が説明できるだろう。

 この不況で資産を奪われた領主たちは徴税強化に動いたので、それは同時に農民をより深刻な貧窮に陥れた。これらの経済的な要因が決定的な役割を果たし、ヨーロッパ大陸全域で暴力行為が爆発的に繰り広げられた。百年戦争はその最もわかりやすい表われだ。不況はあの恐るべき黒死病(ペスト)と同時期に頂点に達した。1347年~1352年の5年間で、この厄災は2,500万人を超える死者を出した。ヨーロッパの人口の3分の1がこの時期に失われたと推定されている。13世紀初めには1,600万人の人口を擁していたフランス王国は、1世紀後にはもはや1,200万人にまで減った。この危機はとりわけ農村の経済に影響を与えた。領主の収入は著しく落ち込み、その影響で小貴族の生活水準は悪化した。状況を立て直そうと地主たちはこれまで以上に農民の労働力を搾取した。こうして、13世紀と14世紀には領主は支配権を回復した。地域によって状況が大きく異なることはあっても、当時多くの地域で農奴制が強化された。形式上は神聖ローマ帝国に属していたジュラ県の広大な教会領であるサン=クロードの大修道院の農地では特にそうだった(3)。未開拓の森林を開墾するために作られた農民の小集団は、こうして自律性を失い、地域社会は有産者と農奴の二つに分かれて再構成された。

労働の拒否は神に対する罪

  この危機は主として農村を襲ったが、都市がそれを免れたわけではない。都市の住民はこの時期の厄災を直接に被っただけではなく、戦争や疫病そして飢えのために農村を追われた移民の大規模な流入にも直面せざるを得なかった。都市がこうした人々で溢れ返ったことによる主な結末の一つは、貧窮が突然目立つようになったことだ。11世紀までは、経済発展の弱さから大規模な貧窮が発生しても一定地域に限られていて、指導者たちは心配しなかった。中世の最後の2世紀になると、貧窮の表れ方が根本的に変容した。貧困は個人の不幸とはみなされなくなった。それは、社会的な災禍で犯罪となった。ミシェル・モラ[1911年~1996年。歴史家]が指摘するように、「14世紀あるいは15世紀初めの都市における30~40%の“貧乏人”の問題は、10世紀の農村の80%の“貧乏人”より深刻だった(4)」。よくあることだが、社会のあり方の大変動は言語に表れる。“beneficence”(善行、恩恵、慈善、施し)という言葉は(18世紀に“bienfaisance”という言葉のもとになったものだが)当時は慈善行為を宗教から切り離すために登場した。団体組織になっている都市社会ではそれぞれの団体が自らの縄張りを定めて自衛していたが、浮浪者たちの急激な流入が以前の貧者救済のシステムに深刻な危機をもたらした。数世紀前につくられた貧民救済のための教会の組織はすぐに手一杯になった。14世紀半ばからこれらの組織は衰退し、都市の組織がこれに取って代わった。都市の組織は、救済対象者の識別に基づいて選別を実施することで新たな社会の変化に応えた。この援助政策の実施者たちは貧しい人々に識別マーク(メダル、鉛のプレート、袖口や胸に縫い付けた十字架など)を着けさせ、援助の受給権者を識別する初期の形態を考案した。一方で、この合理化は労働能力に基づいた区別を設けることで「貧窮者」の概念をより明確に定義することに繋がった。

 実際に、14世紀半ばに貧窮者の新たな側面が現れてきた。良い貧者と悪い貧者をますます厳格に分けようとする動きがついには健常な浮浪者を犯罪人の範疇に追いやってしまう。乞食が増えてくると彼らを規律に従わせようとする動きがいたるところで起こった。労働を拒むことは神に対する罪であり、善良なキリスト教徒は絶対にしてはならないことだった。ヨーロッパ中で、この害悪を抑止するための対策が次々と採られた。為政者はカトリック教会に対して、「五体満足な者」に施しをしないように求めた。こうして、貧者の取り締まりが始まった。

 1351年、「善良王」と呼ばれたジャン2世は「パリ中の怠け者」を対象としたフランス王国で最初の王令を発布した。彼は、労働者が就業日に居酒屋に出入りすることおよび、より良い賃金を求めて仕事場を変えることを禁じた。1367年には、新たな王令によって失業者には王城の壕の修理を命じ、従わない者は鞭打ちの刑とした。法律の文章は古いフランス語で書かれていたが、とても明瞭だった。「3日間さいころ遊びに興じ物乞いをした怠け者は、4日間投獄されパンと水しか与えられないであろう。出獄後もなお働かず誠実な人に仕えず怠けている場合には晒し台に繋がれるであろう。再犯の場合は、烙印を押されその場から追放されるであろう(5)

 この王令は社会問題を解決する場合の強制力の重要な役割をよく示している。「司法制度や警察組織は何よりもまず、社会秩序の下級階層に対して向けられている」とブロニスワフ・ゲレメク[1932年~2008年。ポーランドの歴史家かつ政治家]は強調する(6)。だが、当時の機動隊はまだ初期的なもので社会から切り離された部隊ではなかったということは、はっきりさせておく必要がある。パリの警察の人員は、職人階層から雇った220人の警察官に、王室の衛兵に守られた高僧の私兵を加えたものだった。しかしながら、弾圧の過酷さは震撼させるものがあった。ゲレメクは、当時最も貧しい者は、耳を削がれ、主人のものを盗んだ廉で生き埋めにされた女性など「ぞっとするような状態に」置かれていたとみている。浮浪者を抑圧する手段は1473年のパリの議会で制度化された。烙印を押すことから追放刑にいたる刑罰の体系がこのときに出来上がった。(……)

近代

 18世紀のパリには500近くの小学校があった。典礼聖歌学校、小教区学校、寄宿学校がそれで、パリに住んでいる世帯の男子のほとんどとかなりな割合の女子が通っていた。修道会とりわけイエズス会が経営する中学校が増えたおかげで中等教育も大いに発展した。また、技術教育に特化した教育機関も生まれた。1737年設立のゴブラン織り製作所の見習いのためのデッサンの学校や、もう少し上のレベルでは、10年後に技術者とエンジニア養成のために設立された国立土木学校がそれだ。

世論を探るスパイ

 死後財産目録の調査からパリの庶民階層の教育の向上が確認された。書籍を所有していた死亡者の割合が18世紀を通じて大いに増えており、とりわけ職人・商人層において著しいが使用人においてもそうだった(7)。同じ期間に、フランス王国の印刷所で印刷された書籍の量が4倍に増えていた。新聞雑誌は何倍にも増え、より定期的に発行されるようになり、予約購読者の数は増え続けた。書籍を買う資力がない人々のためにできた読書室があらゆる大都市に雨後の筍のように生まれた。農村では、行商人のネットワークを通じて万用歴の発行部数も急激に伸びた。1700年~1789年の間に、1,700種を超える万用歴が確認された。

 ロジェ・シャルティエ[1945年~。歴史学者]が指摘するように、啓蒙思想の哲学者たちの著作が庶民階層の勃興にどこまで影響し得たのかを正確に推測するのはとても難しい(8)。たとえば、著作をものする能力のある職人の先頭に立つ庶民のジャック=ルイ・メネトラ[1738年~1812年。ガラス職人、著作家]でさえ、彼らは自伝のなかでヴォルテールやジャン=ジャック・ルソーの著書を一度もきちんと読んだことがないと告白していた。新しい考え方は常日頃から庶民と接触して暮らしていた仲介商人のおかげで普及した。


Library of Congress, Washington, DC


  依然として宗教が果たしていた重要な役割を考えると、体制を転覆させる思想が最初はこの経路を通じて広められたことは驚くに当たらない。1685年の[プロテスタント信徒に信仰の自由を認めた]ナントの勅令の廃止も、プロテスタント教会に対する弾圧も、フランスカトリック教会内部の分離派に止めを刺すことすらできなかった。ルイ14世の治世下で、ヴァチカンの公式路線に敵対した宗派のジャンセニスムは小さな知的エリート集団として発展し、その中心的な一つがシトー修道会のポール=ロワイヤル修道院だった。ルイ14世がこの修道院を破壊しローマ教皇がその活動を断罪したにもかかわらず、ジャンセニスムは広がり続けた。当初その主張は宗教的なものだけだったが、弾圧が強まると信奉者たちは政治的な文書を書くようになり、王権や教会権力に対抗してすべての信者を糾合した一種のキリスト教共和国のようなものを擁護するようになった。1728年には、若きルイ15世の事実上の宰相アンドレ=エルキュール・ド・フルーリー枢機卿がジャンセニストに対する大掛かりな攻撃を仕掛けた。弾圧はとりわけ主任司祭の大多数がジャンセニストの主張に加わったパリでは熾烈を極めた。しかしながら、しばしば歴史にみられるように、迫害の犠牲者たちは庶民の眼には英雄となった。信念を曲げることなく貧困のうちに1727年に亡くなったパリの主任司祭は殉教者とみなされるようになった。彼の墓は巡礼と熱心な信仰の名所となった。ジャンセニストは人々のこの熱狂を利用してNouvelles ecclésiastiques[題意は「聖職者便り」]という雑誌を創刊し、これが庶民に発言の場を与える初めての刊行物となった。すなわち、初めて民衆の指導者が無名の群衆のなかから生まれ出たのだ(9)

 教会の人たちのほかに、警察官も庶民階層が文字に親しむための先駆的な役割を果たした。18世紀には「書類」に基づく身分証明技術が整備され、監視業務が合理化された。警察署長の上に立つ捜査官部隊が創設され、これを補完する“mouches”と呼ばれるスパイが大幅に増やされ、都市のあらゆる地区に配置されて世論の状況を窺っていた。

 中央権力の直接支配下に置かれた警察組織の増員によって、住民の動向に関するたくさんの情報を集中させることが可能になった。庶民の言説の動静はこうして文書に書きとめられ、このことが巷の言説の性質を根本的に変えた。私的な場所で生まれたはかなくとりとめもない話題が、公的な発言にされてしまう。パリの人々は警察力がこれまでになく密かに身近に及んでいる状況に慣れなければならなかった。検閲を逃れるために、人々は「手書き新聞」のような新たな手段を考案し、この新聞は当局を批判する話題を流布させるのに大いに役立った。密かに編集されノートに手書きされ生々しく伝えられるこうした庶民の情報提供は官報と張り合った。それは、宮廷のニュースを伝え、秘密を暴くと主張し、三面記事を言い広め、演劇や書物に関する情報を提供した。それらは庶民を対象としたものではなかったが、しばしば庶民、とりわけ大邸宅の使用人出身の情報提供者に依存していた。購読料が高かったので読者は社会のエリート層だった。しかしながら、こうした庶民情報は次第に人々の口の端に上り、真偽の確かめようもない展開を辿って噂を広めていく。

 都市の城壁は大衆の意見をコントロールしようとする支配者層との闘いのもうひとつの主戦場となった。書籍、新聞、万用歴がますます普及したにもかかわらず、パリの庶民は王室、議会、市または教会のはり紙から公式の情報を得ていた。これら支配者の言説に対する批判もまたパリの城壁に貼られた数多くのビラを通じて表明された。ほとんどいつも綴りが間違っていたが、匿名の庶民の文面が支配者の破綻や違反を告発して大衆の皮肉を表現していた。アルレット・ファルジュ[1941年~。歴史家]にとっては、異議を唱えるこうしたやり方は、語られたことと文字に書かれたものとビラを結びつけて1760年代から自律的に広まった。パリではこれらの要素が合わさって、庶民階層の解放プロセスが始まった。

現代

 1881年は、今日「移民問題」と称するものが始まった時期だと考えられる。6月17日、イタリアに勝ってチュニジアの支配権を獲得したフランス軍は意気揚々とマルセイユの町を行進した。しかし、フランス国歌が鳴り響いたとき、人々はイタリア人クラブがある建物から口笛のヤジが飛んでくるのを聞いた。その建物は襲撃され、イタリアとフランスの労働者の乱闘が始まり、それが6月20日まで続いて3人の死者を出した。「マルセイユの晩鐘事件」と呼ばれるこの事件が国中に知れわたったのは単に暴力沙汰が勃発したからだけではない。第二帝政下、多くのピエモンテ人がマルセイユに移住してきて、地元民との小競り合いは日常茶飯事だった。ブーシュ=デュ=ローヌ県の資料をざっと調査しただけでこのことは確認できる。警察の報告書では1850年代以降犯罪がコンスタントに増えていると指摘している。たとえば1857年~1858年に地元労働者とイタリア人労働者の諍いで数人が死んでいる。だが、政府の報告書では県知事は次のように言うだけだっだ。「これらの犯罪は人々の間に大きな衝撃を与えたが、今では全く平穏だ」。大衆の暴力行為は当時「危険な階層」のトレードマークのように認識されていた。エリートたちは自分たちと直接関係があるとは全く感じていなかった。そのため、この問題は政治問題化することもなく事件の当事者の国籍が問題視されることもなかった。


Les immigrants italiens à la gare Saint-Lazare, L’illustration, 28 mars 1896.


 1881年6月の事件のあとの訴訟の際に、イタリア人を攻撃した暴徒は仕事のない若いごろつきどもだったことが明らかになった。にもかかわらず、その後注目されたのは、事件の当時者たちが属する社会階層ではなく、国籍だった。実際のところ、やっと始まったばかりの第三共和政の市民権は支配者と被支配者との間では自明のことであり、これがエリートと庶民階層の共通点を作り出していた。公的紙面の大衆化もエリートのものとされていた雑誌に自分の考え方を表明する専門家の数が大きく増えるという効果をもたらした。この時代の最も代表的な例は、間違いなく自由政治科学学院[現在のパリ政治学院]の教授でミシェル・シュヴァリエの後を継いでコレージュ・ド・フランスの教授となったポール・ルロワ=ボーリュー[1843年~1916年]だった。自由主義経済学者のリーダーであり、植民地政策の支持者であるルロワ=ボーリューは、例のマルセイユ事件に関する幾つかの記事を発表して、「愛国的心情を共有するより愛国心を侮辱しがちな」イタリア人移民を非難した。彼はまたla Revue politique et littéraire[雑誌。題意は「政治経済評論」]で、マルセイユの労働者は「同じ現場で働くすべてのイタリア人の追放」を求めたと主張した。

 内務大臣はブーシュ=デュ=ローヌ県の知事に調査を求めたが、その調査結果は、ルロワ=ボーリューの診立てを無効にするものだった。マルセイユには当時すでに人口の16%にあたる6万人のイタリア人がいたが、仏伊両地域住民の関係は総じて良好で、6月17~20日の衝突の直後には労働組合がフランス人とイタリア人の労働者に連帯を呼びかけさえした。(……)

移民の自由な移動の終焉

 この公式の否定にもかかわらず、ルロワ=ボーリューの意見は物を言った。彼は実は調査するために現地に赴く必要を感じなかった。ニュースの「ゴシップ記事」から得られる新たな情報源を利用して実在の個人を典型的な人物像に仕立て上げるだけでよかった。彼の筆によって、この乱闘に参加した数十人の労働者は仏伊それぞれの地域住民の代表に変身させられた。そして、イタリア人がフランス国歌に対して口笛を吹いて侮辱したという事実は彼らがフランスを愛していないという紛れもない印となった。この事件は外交的な展開を辿った。というのは、ドイツとの同盟を働きかけていたイタリアの国粋主義者たちもまたこの流血を伴う三面記事的事件を素早くとらえてフランスを非難する材料にしたからだ。

 県知事の調査は仏伊の労働者の対立という見かたを否定したが、フランス政府はこの手の三面記事的事件が再発した場合に無策の誹りを受けるのを恐れた。「移民問題」に真剣に取り組んでいることを示すために、共和国政府はフランス領土内に居住する外国人の身元確認という大掛かりな政策を打ち出した。エリートたちがこれまで庶民階層の国籍にほとんど関心を持たなかった証拠に、フランスに住み着いた外国からの移民には何の登録義務もなかった。労働者は行政当局から何らの制限を課されることなく、フランス国内を自由に行き来し、居住し、あるいは出国することができるほど、自由放任主義は浸透していた。この「不備」はアン県の急進派議員クリストフ・プラドンによって暴かれ、彼はこれを国の恥と主張した。

 当時、フランスの労働者の不幸は外国人が密かにフランスに押し寄せたせいだとされた。その後の数十年間に、商品に課税するのと同じく移民労働者に課税しようとする約50の法案が下院[現在の国民議会]に上程されたが、どれも陽の目をみなかった。フランスが多くの諸外国と締結している通商条約に反するからだ。しかしながら、外国人労働者に就労先の自治体での登録を義務付ける措置によって通商条約による制約は迂回できた。納税と引換えに首長は納税証明書を交付し、警察から職務質問を受けたときにそれを提示するようにした。1888年の政府決定によるこの措置は1893年には、国民の労働保護に関する法律──この呼称は偶然ではない──という法律によって正式なものになった。これが、その後の外国人の滞在許可証に関するすべての政策の出発点となった。

  • *執筆者は9月19日にEditions Agone社から出版された『民衆のフランス史──百年戦争から現代まで』の著者で、本記事は同書の抜粋


(ル・モンド・ディプロマティーク 仏語版2018年8月号より)