幸福で簡素な生活の勧め

ピエール・ラビのシステム


ジャン=バティスト・マレ(Jean-Baptiste Malet)

『トマト缶の黒い真実』(太田出版、2018年)(L’Empire de l’or rouge.
Enquête mondiale sur la tomate d’industrie, Fayard, Paris, 2017)の著者

訳:生野雄一


 合理主義的な現代社会のあり方を批判する農民思想家のピエール・ラビは、人々に自らが生き方を変えない限り社会は変わらないと、「幸福で簡素な生活」を勧め、ハチドリのようにコツコツと自分の役割を果たすことを訴える。物質主義、利益優先の社会に幻滅した人々は、精神性の探究と自然との親和を唱える彼の主張にますます共感を覚える。[日本語版編集部]

(仏語版2018年8月号より)

ハチドリ

 モンペリエのパレ・デ・コングレの大ホールで、千人ほどの観衆がスクリーンをじっと見つめるなかで、一人の男が舞台の端に控えめに立っている。不安を誘うバックグラウンドミュージックとともに、次々と映像が映し出される。交通渋滞、殺虫剤の散布、汚染された海岸、モクモクと煙を吐き出す工場、買い物客でごった返すスーパーマーケット、瀕死のシロクマ。「私たちはやっと目覚めるのだろうか?」と、インタータイトルは問いかける。映画は終わり、司会者の女性が皆の待つ講演者の名前を告げる。「みなさん、ご存知の……。彼こそは本当の農民です」

 スポットライトがこの人物の風采を照らし出す。小さなヤギひげ、チェックのシャツ、コ―デュロイのズボン、サスペンダー。ピエール・ラビは言う。「私は伝統的な意味での講演をしにきたのではありません。そうではなくて、私のちょっと変わった生き方を通じて、一つの経験をみなさんと共有しにきたのです」。彼は、2018年6月17日に開催されたこの「人間と地球の健康の将来展望」の主役なのだ。

 書店からビオ・サロンにいたるまで、合計販売数116万部にのぼる約30冊の本の著者である、この自然からの使者の柔和な眼差しから顔をそらすことは難しい(1)。 一年中サンダル履きのラビには、霊感に満ちた修行者のイメージがある。「問題の源は私たちのなかにあるのです。私たちが生き方を変えない限りは、社会は変わりません」と、この演者は断言する。

 60分過ぎたところで、彼は、ハチドリの成功譚を語る。森が火事になったとき、恐怖におびえる動物たちが無力感に打ちひしがれて惨状を見つめるなかで、小さなハチドリは、炎を消すために嘴を使って数滴の水を汲んで来ようとせっせと動きまわっている。「ハチドリよ、気でも狂ったの? そんな数滴の水では火は消せないよ」とアルマジロが言う。ハチドリが答えて言うには、「わかっているさ。でも、私は私の役割を果たしているんだ」と。ラビは全員に、ハチドリを真似て「自分の役割を果たそう」と促す。

 会場の聴衆は立ち上がって、この話に長い喝采で応える。「ピエール・ラビの話を聞きに来るのはこれで10回目です。彼はいつも同じ話をします。でも、飽きません」と、聴衆の女性は打ち明ける。そのそばにいた女性はスクリーンから目を離さないまま、こう付け加える。「彼に出会えてよかったわ。ピエールにはがっかりさせられることがないの」。 この熱気は隣のホールにも伝わっていて、物売り台の奥で、「活性水・再生水をつくる渦巻」器や「DNAの保護・修復」カプセル(3~6カ月療法)、あるいは8,000ユーロで売り出された「スカラー波医療器」の最新型を商人たちが売っている。

 パリでも、人々はラビを放っておかなかった。エドゥアール・フィリップ首相は「浪費防止プラン」(2018年4月23日)を発表したときにラビを引き合いに出した。[出版社Actes Sudの]元編集長で今や文化相のフランソワーズ・ニセンは、「彼は私の人生にまるで一筋の光明のようにやってきたのです」と断言する(2)。「ピエールは、私の意識を開花させ、はっきり自覚させてくれました。彼は私の意識を教化し育んでくれました。どこかで、彼は私の意識に啓示を与えてくれたのです」と付け加えるのは、環境連帯移行大臣のニコラ・ユロ氏[8月に辞任]だ(3)

 ラビは半世紀以上にわたって、人前に登場するたびに自分の自伝的な話をほとんど文字通り繰り返しながら刻み込んでいく。それは、大衆の生活のなかに広がっていくとともに、1960年に行った個人的な選択をめぐる宣言、すなわち簡素、謙虚、真摯および徳という価値を尊重する「土への回帰」の宣言を表明することに繋がった。彼の著作は、彼自身のこと、彼の講演、対談に関するもので、これらすべてが彼の人生を語り、並外れた結果を生んでいた。すなわち、絶え間なく自分自身を語るこの人物は、彼を賛美する人々やジャーナリストたちの眼には謙虚さと節度感覚を身をもって示す人だと映った。街路、公園、コミュニティーセンター、小集落には、2017年にレジオンドヌール勲章のシュバリエに叙せられたこの在俗の聖人の名前が付けられている。『幸福で簡素な生活に向けて』(Vers la sobriété heureuse, Actes Sud, 2010)の著者ラビは、メディアでも人気者で、フランスの公共ラジオ局France Interは朝番組を彼の自宅からの生放送の特別番組(2014年3月13日)に替えてしまい、テレビチャンネルのフランス2(France 2)は2017年10月7日の昼食時の30分を使って「革命を主張する、農民、思想家、作家、哲学者そして詩人」である彼を褒めたたえるほどだった。

 ラビ像はその神話めいた姿から人気を得ている。つまり、百姓爺さんで、資本主義に打ち砕かれた村共同体に根を張る古老の賢人だが、その父祖伝来の知恵は、嵐が襲来したときにかけがえのないものであることがわかる。環境が破壊され絶え間なく消費が促される昨今において、彼が唱える質素な経済生活への誘いや生産本位主義的な農業への批判は、制御が利かなくなった現代に対して人々が抱いている感情に応える。こうした状況に対して、この「ハチドリ運動」の推進者は「良心の抵抗」、すなわち、精神の再生、自然と宇宙との調和、機械によらない有機農法という現地モデルを推奨する。この考え方は、「善きクライアント」に魅了されたメディアの中で広まるだけでなく、2006年にラビが創設し、小説家で映画監督のシリル・ディオンが2013年まで率いてきたハチドリ運動の活動をも通じて流布されていく。ディオンは、Actes Sudのシリーズ物の編集長で、2012年にはKaizen誌を創刊し、ハチドリ運動のパートナーでもある。2015年に女優メラニー・ロランと共同で、エコロジー運動の信条を描いた映画『TOMORROWパーマネントライフを探して』(原題Demain)を制作し、100万人以上の観客を動員した。

 ラビという人物と彼の講演の成功は、西洋社会の底流を映し、暴き出している。つまり、破壊的で心の通わない資本主義に幻滅し、しかし同様に、現代政治にも前世紀の労働運動を支えた合理主義にも親しめない、そのような一部の人々は伝統、真実性、精神的探究そして自然との本当の付き合いといった第三の道に希望を繋いでいる。

 「私のもともとの反抗は約40年前に遡りますが、政治的なものでした。しかし、伝統的な意味での政治の道は決して選びませんでした。私の最初の目的は私自身の生活(家族も含めて)をエコロジストとヒューマニストの価値観に適合したものにすることでした」と、ラビは2002年の大統領選挙キャンペーンのパンフレットで説明している。彼は、議員推薦が500票必要なところ、184票しか取れなかった。顔に黄金色の光を浴びて、「食品安全保障と砂漠化防止対策の国際的な専門家」と紹介されたこの大統領候補者は、麦畑のなかに立っている。北アフリカからブルキナファソを経由してセヴェンヌに至るまで、ラビの道程は政治色のないエコロジーの成功とともに苦難をも示している。

 1938年5月29日にアルジェリアのケナサ(サウラ地方)に生まれたラバ・ラビは、母親を4歳の頃に亡くし、女教師と技師の入植者カップルの養子となり、そこで西洋中産階級のカトリックの教育を受ける。この[アルジェリア北西部の都市]オランの青年は、オペラで「『魔笛』や『オテロ』あるいは有名な演奏家のソロを聴く」ことをこよなく愛した(4)。彼は、フランス文学を愛し、「モード誌の挿絵」の装いのようなみごとに裁断された衣裳を愛した。熱烈なカトリックで、17歳のときに洗礼名ピエールを名乗る。「私は罪の意識を抱いていましたが、それは先祖の信仰(イスラーム教)を捨てたからではなく、彼らのもとに神の子の信仰を広めに行かなかったからです」と彼は語る。アルジェリア戦争の間、「私は、街をパレードする車の窓から小旗を振りながら、“フラ-ンス-領-アル-ジェリ-ア”と警笛を鳴らしたものです」

 私たちとの対談で彼が詳しく語るには、1950年代の終わりにパリに向かい、ピュトー(オー=ド=セーヌ県)の農機具メーカーで倉庫係として働く。2万1000部以上売れた児童文学作品『ピエール・ラビ、砂漠の子』(Pierre Rabhi, l’enfant du desert, Plume de carotte, 2017)では流れ作業で働く労働者のように描かれているがそうではないという。この青年が1960年に将来の妻と出会ったのはこの会社でのことだ。同じ年、彼は人生を変えることになる手紙を出す。彼は、ピエール・リシャール医師にこう書く。「拝啓、私たちは貴方の住所をダルメ神父から知り、神父から貴方は自然保護に意を用いておられること、ヴァノワーズ国立公園の創設に積極的に関与しておられたこと、セヴェンヌ国立公園の創設を試みておられることを知りました。私たちはこれらの問題に関心を抱いており、貴方が守ろうとしている自然に帰って積極的な関与をしたく考えています」

 リシャールは、戦前に医学を学んで1940年に、エグアル山のヴィルマーニュ(ガール県)の鉱山近くの[ヴィシー政権下の教練のための]青年団の指導員になる(5)。ここでの衛生学者、国家主義者、軍隊式組織の経験が後々まで彼に影響を与える。1945年12月、彼は「明白な結論の決めつけ」を容認する医学論文を支持する。つまり、「人の健康、特に農民の健康が害され、そのはてに、国家の健康、民族の健康が損なわれる。身体、精神、物的財産、精神的財産の全ての健康が侵されるのだ(6)」とリシャールは書く。14年後の1959年に、リシャール医師はNuit blancheと題する農村賛美の宣伝映画で自ら田舎医師の役を演じて、そこで彼は、都市化、中央集権国家、缶詰の缶、農民を「根」なし草にする公営企業の採用方針を激しく非難する。

 1961年4月の結婚式の写真では、リシャール医師が新婦ミシェル・ラビに腕を貸し、ピエール・ラビは彼の腕をこの田舎医師の妻に差し出している。「ピエールとアンヌ=マリー・リシャールは、魔法使いが私たちのために決めてくれた両親です」とラビは自伝のなかで書いている(7)。「アルデッシュ県に着くや、彼は私を迎え入れてくれた。彼は私の指導者でした」と言い添える。

「救いの神のような人」

 間もなく、この農民見習いはアルデッシュの作家ギュスターブ・ティボンと出会う。1942年6月の[王党派右翼の]アクション・フランセーズ紙でシャルル・モーラスに「我らが若き綺羅星のなかでも、最も輝かしく、最も新しく、最も予想外の、最も望まれて最も心から敬意を抱かれている」と歓呼して迎えられたティボンは、ヴィシー政権の農業賛美イデオロギーの知性の源泉の一つだった。「父がペタン派だったのではなく、ペタンがティボン派だったのです」と彼の娘は断言する(8)。彼の追従者たちはティボンが1941年に哲学者シモーヌ・ヴェイユに宿を提供したことを思い起こさせるのを決して忘れないが、一徹なカトリック教徒で、筋金入りの反ドゴール派で、後にフランス領アルジェリアの支持者だったこの王政主義者は、いつも極右と共同戦線を張っていた。

 都会から農村に移住してきた若者ラビと保守的思想家ティボンの間には交流が生まれ、1990年代まで続いた。「ティボンのなかには地上的なものと宇宙的なものが分極して共存していた」と、ラビは詳しく語る。(……)「当時私は彼のようなキリスト教徒の哲学者に出会えてとても幸せだったし、彼が言うことには従った(9)」。フランスの論壇では、ティボンはラビの上位にいて、「土に根を張って」自然と接して精神的な探究を続ける農民作家の後見人の立場にあった(10)。ティボンが暮らしていたサン=マルセル=ダルデーシュの小村で、彼の秘書だったフランソワーズ・ショーヴァン氏は回想する。「ピエール・ラビはギュスターブ・ティボンに多くを負っています。彼はここに来ると、師匠を訪れた弟子のような態度でした」

 60年後、生徒から先生になったラビは、自分の「土に帰ろう」運動を思い出しながら「私は1958年に1968年の5月革命をやったよ!」と楽しそうに言う。1960年代および1970年代の知的世界は彼にはほとんど魅力がなかった。先駆的論文『エコロジーと政治』(Écologie et politique,1975)や『エコロジーと自由』(Écologie et liberté,1977)の著者である哲学者アンドレ・ゴルツの著作に言及すると、彼はイライラして言う。「私はずっと実存主義哲学者は嫌いでした。1960年代に、“なぜ私たちは地球に住んでいるのか”を考えもしないで、社会の仕組みからしか物事を考えない人がたくさんいました。でも私は、現実は形あるものだけからできているのではなく、それと違うものもあると感じていました」。彼は隠すことなくこう言う。「私は、現代社会に強く異を唱える者です」

 彼の世界観は5月革命後の自由主義的な農村回帰とは対照的だ。「同性婚を法的に認めるのは人類の将来を危うくするものだと思う。なぜなら、当然のことながら、この関係は子孫を産まないからだ」と、彼は対談集『希望を蒔く人:アグロエコロジーへの誘い』(Pierre Rabhi, semeur d’espoirs,Actes Sud, 2013)で説明する。男女の関係について彼の意見はこうだ。「平等を賛美してはいけないのではないか。私はむしろ、補い合う関係を主張したい。つまり、女性は女性で、男性は男性であり、愛が二人を結びつけるのだ(11)

 ヴィシー・アルデッシュ間の往来に加えて、知的な影響を受けた人たちのなかで、ラビは普遍アントロポゾフィー協会創設者のルドルフ・シュタイナー(1861年~1925年)(12)の名前を挙げる。彼が語るには、「ある日、リシャール医師が私のところに来て、誇らしげに、シュタイナーの弟子でドイツ人のエーレンフリート・ファイファーの『土の生産力』(Fécondité de la terre)という本を私に手渡した。私はシュタイナーの思想と、人智学の原理、なかでもバイオダイナミック農法に賛同していた。ルドルフ・シュタイナーは、農業をするときにはとても興味深い提案をしていた。そこで私は、スイスにバイオダイナミック農法の調合剤を注文し、農業実験に取りかかった」

 アルデッシュ県に着いて、農村の家庭で一年間の職業訓練を経た後、ラビは、石工として働いたり、農作業をしたり、詩を書いたり、小説の下書きをしたり、彫刻に没頭したりした。バイオダイナミック農法の発見は彼を大いに刺激し、1970年代からはこのテーマで懇談会や職業訓練を主催するほどだった。このとき彼に、一生忘れることのないある信念が芽生えた。それは、精神性と超自然の受容は持続性のある農業のモデルと不可分だということであり、そしてこのことがこれ以降、彼の関心事の中心を占めることになる。またもや、一通の手紙と、ある傑出した人物との出会いが彼の人生の道筋を変えることになる。

 1970年代から1980年代に冒険家たちによく知られたチャーター航空機会社ポワン・ミュルーズの創始者で、企業家のモーリス・フロイントは1983年12月にブルキナファソ北端のゴロムゴロムに旅行者用キャンプ場を開く。フロイントは、この「内庭を城壁で囲んだ伝統的な村のレプリカ(13)」を利用して、この地を「社会的連帯ツーリズム」[訳注1]の場にしようともくろむ。だが、悲しいかな! 数週間の後、「伝統的な」レストランがフォアグラとシャンパンを出していた。「この安らぎの場には、協同組合員だけでなく、外交官もくつろぎに来るからだ」と。

 このとき、ラビから彼にアルデッシュの住まいに来ないかという手紙が届く。フロイントは当初ラビのことをしつこい人だと思いつつ、アルデッシュの農家に赴いた。ところが、「ことばを交わす前から、彼のまなざしをみつめると、ピエールが救いの神のような人だとわかった」とフロイントは書いている。「ルドルフ・シュタイナーの人智学の著作から着想を得て、ピエール・ラビは有機肥料法を完成していたのだ。(……)彼はそれをサヘルの気候条件に適応させていた。彼は、枝や鳥の羽、ラクダの排泄物、キビの茎などを拾い集める。これらの廃物を集めて、堆肥を作り、土に返すのだ」と驚嘆する。フロイントは直ちにラビを宿泊用キャンプ場の隣のゴロムゴロムⅡのリーダーに据えて、ここで、この独学者はサヘルの農民たちにバイオダイナミック農法の太陰暦の読み方を教えた。

 1986年5月6日、公共放送局のアンテーヌ2[のちのフランス2]がラビを主役にした最初のルポルタージュを放送する(14)。「根本的に間違っているのです」とゴロムゴロムのラビはサイケデリックなBGMに乗って説明する。「私たちはいつも物質的な計画ばかりを気にかけていて、人を育成することをいちども根本的に考えていませんでした 。良心、そう、良心こそがそれを実現するのです」。働く農民像、伝統的衣裳のクローズアップ、神々しいまでの景色。それは、叙情あふれるルポルタージュだった。「豊かな北と貧しい南との間では、私のような人間をどう評価するか、まだ意見が一致していないと思います」とラビは結ぶ。作物の作り方の技術的な詳細の説明は一つもなかった。

 数カ月後の1986年末、フロイントが創設したポワン・ミュルーズ協会がサヘル地帯の農業問題に詳しい農学者ルネ・デュモン(15)に、ラビが経営するセンターの評価を依頼する。1974年の大統領選挙のエコロジスト候補デュモンは彼が目にしたものに驚く。デュモンは、ラビの堆肥作りは良しとするものの、彼の科学的知識の欠如を指摘し、アプローチ全体を非難する。つまり、「ピエール・ラビは堆肥を“魔法の水剤”であるかのように説明し、化学肥料や、厩肥や液肥までも非難した。彼は、星の振動や月の位相が農業には重要な役割を果たすとまで指導し、ルイ・パスツールを非難し、シュタイナーの反科学的な主張を普及させていた」と。

 デュモンにとって、こうした秘教的な原理は農民に対する一種の侮辱なのだ。「そのうえ、彼はアフリカ人に関して問題のある態度をとっていたので、私たちはポワン・ミュルーズの本部やブルキナファソ政府に私たちの意見を伝えることにした」(16)。双方の考え方は相容れなかった。というのも、デュモンは、国際主義の闘い、政治的エコロジー、農学の実践を切り離して考えなかったからだ。今日、ラビはそれを面白がって言う。「ルネ・デュモンはブルキナファソのトーマス・サンカラ大統領のところに行って、私が魔法使いだと伝えました」。デュモンは、ラビの職業訓練をすぐにもやめさせるべきだと進言さえした。だが、それは無駄だった。なぜなら、ラビはブルキナファソの大統領と親しいフロイントの助けを求めたからだ。だが、1987年10月15日にサンカラが暗殺されるとフロイントの政治的な後ろ盾がなくなり、ラビとフロイントは急いでブルキナファソを後にした。

 このエピソードはラビという人物の重要な一面を照らし出している。彼は折に触れ、農業問題の「国際的な専門家」と紹介され、『アグロエコロジーによる園芸マニュアル』(Manuel des jardins agroécologiques, Actes Sud, 2012)の序文を執筆したりするが、農学の著作や科学的記事は全く書いたことがなかった。それもそのはずで、「理性を認めた途端に、私たち人間はいわゆる啓蒙主義の合理性に支配されました。この合理主義は現代の反啓蒙主義とでもいうべき、新たな蒙昧主義を生んだのです」とラビはアルデッシュ県のラブラシェールの住まいのべランダに腰かけて非難する。「啓蒙主義とは、反啓蒙主義とみなされたすべての過去から逃れることでした。私が推奨する良心の反抗は、こうしたパラダイム万般に対する反抗なのです」

 ラビは、芸術家がその作品を通じてするように自然の美を賛美するだけでは満足しなかった。彼は自然、土仕事、それに農民らしさの喚起を、現代社会に対する反撃の道具とでもいうように動員する。この闘いは、いくつかのイデオロギーの隆盛の根底にある思い違いを明らかにしている。そうした現代のイデオロギーは、「金融の過剰」、「命の商品化」や富める強者または科学技術による災禍を非難するが、解決策としては隠遁すること、個人として禁欲することしか推奨せず、権力の構造を問題にしようとはしない。

 ラビが断言するには、「裕福であれ、貧乏であれ、私たちは全面的に自然に依存しています。自然はいのちのリズムを整えてくれます(17)」。『土に頼む』(Recours à la terre, Terre du ciel, 1995)のなかで、そもそも彼は貧しいことを称え、「惨めさとは反対だ」と言う。彼は、1990年代に職業訓練のたびに、貧しいことを「安らぎの値打ち」だと説明する。数年後、この固い信念は文字通り「幸福で簡素な生活(18)」の賞賛へと脱皮していく。社会保障すら咎むべき贅沢とする意図をカモフラージュするには絶好の表現だ。ラビが説明するには、「多くの人々が社会的な救済を享受していますが、一人でも多くの人を救済するためには、富を生産しなければなりません。そういうことをずうっと続けることができるでしょうか?」。社会の関係に関するこうした考え方は、この質素なヤギひげおじさんが着想し創設したいろいろな組織の機能の仕方や、多国籍企業やそれらの経営者たちに対する彼の寛大さをおそらく説明付けるものだ。

 「ピエール・ラビの友(Les Amis de Pierre Rabhi)」の名前で1994年に創設された「土地とヒューマニズム(Terre et humanisme)」協会は、その予算の3分の1は信用組合の「Agir」という金融商品からの寄付[訳注2]に拠っている(年間45万ユーロ以上)が、ラビがブルキナファソで始めた仕組みを活かしてマリ、セネガル、トーゴで職業訓練を推進し、フランスでもラブラシェールで、「ボーリュの農家」と呼ぶ1ヘクタールの土地を耕作してバイオダイナミック農法を行っている。2004年から2016年の間に、2350人の“volonterres”[volontaireボランティアとterre農地の合成語]と呼ばれるボランティアがこの地に来て、食事とテントでの宿泊を見返りに数週間働いている。

 「アマナン(Les Amanins)」(ラ・ロシュ=シュル=グラーヌ、ドゥローム県)は、ラビと、このプロジェクトに450万ユーロの私財を投じた企業家ミシェル・ヴァランタン(2012年逝去)との出会いから2003年に生まれたアグリツーリズムの施設で、55ヘクタールの敷地に広がる。企業のセミナーやバカンス客の他に、野菜栽培を習いたいという人たちも受け入れている。野菜の生産は、二人のパートタイム従業員(それぞれ週28時間)に依存し、それを市民用役[訳注3]の志願者あるいはボランティアの働き手の一団や、ウーファー(wwoofers, World-Wide Opportunities on Organic Farmsの頭文字からとったことばで、“世界中の有機農場で働きたい人”の意)が支えている。「ウーファーたちは、ねぐらと食事と引き換えに、一日に5時間働きます。社会保険料は払っていませんが、それは合法です」とアマナンの本部は説明する。

 私たちが訪れたときにそこに居合わせた4人のボランティアの働き手のうちの一人が、瞑想の訓練が終わると、ここのバイオ農法による食事を褒めたたえ、こう打ち明けた。「実際には一日5時間以上働いていますが、宿泊施設はとても快適です。ここにいると、大事なことに気が付きます」。農場の規模の大きさや豊富な労働力にもかかわらず、アマナンは食料を自給できず、野菜の20%を買っていると言う。「土地とヒューマニズム」協会が経営している「ボーリュの農家」とアマナンの両方でボランティアとして働いていたアリアンヌ・レスペ氏が言うには、「これは搾取だと不満を述べてドアをピシャリと閉めて出ていく人たちがいます。でも私は、彼らはピエール・ラビのメッセージを理解しなかったのだと思います。現行のシステムから抜け出すこと、人間的な交流を発見すること、それがお金以外のもののために働くことを受け容れるということであり、与えることを良しとすることなのです」

 農民で唱道者のラビは、この事業からいっさいの金銭的利益を得てはいない。だが、大した経験も農学の知識もなく「ポチョムキン農場」[訳注4]を耕している園芸家見習いたちの姿は、ラビの別の一面として、経済的に持続可能な有機農業経営というテレビ映えするイメージを与えている。実際は、これらの農場は売上のかなりな部分を職業訓練代金から得ているというのに。

 ハチドリ運動は農場を経営していない。しかし、現支配人のマチュー・ラボンヌ氏はグリーンフレンズと連携している。これは、アンマの名でより知られている、インドのヒンズー教指導者マーター・アムリターナンダマイーの創設した慈善活動組織のエンブレイシング・ザ・ワールド(ETW)の環境プロジェクトのヨーロッパネットワークだ(19)。その任務は、アンマのフランスの修養場(ashram)に「エコサイト・モデル」を拡げることだ。プレシスの農場(ポングアン、ウール=エ=ロワール県)やル・パラドゥ(トゥルヴ、ヴァール県)がそれだ。プレシスの農場(6ヘクタール)にあるETWフランス協会の2017年の決算書によると、全活動合計で84万3710ユーロに相当するボランティアの労働奉仕を受けている(20)。ル・パラドゥ(3ヘクタール)を管理しているMAM協会は、1万6346時間(21) の無償奉仕(seva)を受けている。これは「特にアンマが勧める精神的な実践の一つで、良心において無私の労働で、行動的瞑想とも呼ばれているものです。台所、庭仕事、家事、作業、裁縫など仕事の内容は多様です」と修養場のインターネットサイトには記載されている。毎年アンマがフランスを訪れたときや、ETWの農場やハチドリ運動の出版物などにおいて、アンマのネットワークとハチドリ運動は定期的に交流している。2015年3月のKaizen誌ではアンマがなんと巻頭を飾った。

ハチドリ経営者の情熱

 2009年はハチドリ運動の創始者ラビが[フランスの最高経営責任者の団体である]フランス企業運動(Medef)の夏期大学に参加した特筆すべき年だが、この年から、彼はヴェオリア、HSBC、GE、クラランス、イヴロシェ、ヴェレダなどの大企業の経営者たちと出会って彼らを感化することになる。ハチドリ協会の活動報告を読むと、この時期、「ハチドリ経営者の実験場」を作り「企業家たちを動員し連帯させ、良識と一貫性を探求させる」ことが挙げられている。「社長、組合員、母親、農民、議員、芸術家が手をつなぎ、彼らが自分だけでは決して思いつかないような解決策をみつけるために団結する」と書いている。

 こうした発想を刺激しようと、ラビはここ数年で、億万長者のジャック=アントワーヌ・グランジョン、ダノングループの社長エマニュエル・ファベール、さらにマクドナルドのフランスでの最高責任者でこの多国籍企業の経営陣の一員であるジャン=ピエール・プチ氏を自宅に招いたりもした。「私はピエール・ラビを敬愛している。(……)私は彼の講演にはすべて参加している」と語るのは電線メーカー、ネクサンス・ヨーロッパ(従業員2万6000人)の社長であるクリストファー・ゲラン氏だ。彼はこうした発言と同時に、「2年間でヨーロッパ工場の営業利益率を3倍に」改善したと自慢する(フィガロ、2018年6月4日)。ラビは、大統領選挙キャンペーン期間中にエマニュエル・マクロン氏とも昼食をともにしている。ラビ曰く「かわいそうに、マクロンは、できることはやっているが、ことはそう簡単ではない。彼は、やる気に溢れているが体制が複雑でやりたいようにはできない」

 根気強くやってきた甲斐があって、「良心」が目覚める。2018年5月8日に、ミラノでの農産物加工品サロン、シーズ・アンド・チップス(Seeds & Chips)で、イタリアカルフールのトップ、ステファン・コーム氏がジャーナリストと実業家たちの一団に向かって弁じたてる。カルフール本社社長のアレクサンドル・ボンパール氏が20億ユーロの経費節減と273店舗の閉鎖と2400人の人員削減を発表してほとんど3カ月も経たないうちに、コーム氏は、ある話を繰り広げる。突然、スクリーンに「全地球のヒューマニズム」の到来を求める文字が、ほっとさせるような笑顔とともに現れる。「6年前、私はピエール・ラビを読み始めました」と、このハチドリ経営者は表明する。「変化をもたらすには、一人ひとりが“自分の役割を果たす”ことが必要です。今日、世の中を変えたいという人は多いですが、それはカルフールの願いでもあります」。大規模販売網と環境配慮の両立、多額の財産と禁欲的な精神の調和、つまり、幸福で簡素な生活はまさに柔軟な考え方だ。



  • (1) Résultats GfK, juin 2018.
  • (2) Entretien avec Mme Nyssen, « Pierre Rabhi, la terre au cœur », Kaizen, hors-série spécial anniversaire, Paris, mars 2018.
  • (3) Entretien avec M. Hulot, « Pierre Rabhi, la terre au cœur », op. cit.
  • (4) Pierre Rabhi, Du Sahara aux Cévennes ou la Reconquête du songe, Albin Michel, Paris, 1995 (1re éd. : 1983). Les trois citations suivantes en sont tirées.
  • (5) Karine-Larissa Basset, « Richard Pierre (1918-1968) », Histoire de la protection de la nature et de l’environnement, octobre 2010.
  • (6) Pierre-Claude-Roger Richard, « Considérations sur le rôle social du médecin de campagne », thèse de doctorat en médecine soutenue le 13 décembre 1945.
  • (7) Pierre Rabhi, Du Sahara aux Cévennes…, op. cit.
  • (8) Correspondance de l’auteur avec Philippe Barthelet, coordinateur de Gustave Thibon, L’Âge d’homme, coll. « Les dossiers H », Lausanne, 2012.
  • (9) Entretien avec Pierre Rabhi, Ultreïa !, n° 1, Éditions Hozhoni, La Chapelle-sous-Aubenas, automne 2014.
  • (10) Lire Evelyne Pieiller, « Le terroir ne ment pas », Le Monde diplomatique, juin 2018.
  • (11) « Pierre Rabhi : “Le féminin est au cœur du changement” », Kaizen, 28 mai 2018.
  • (12) Lire « L’anthroposophie, discrète multinationale de l’ésotérisme », Le Monde diplomatique, juillet 2018.
  • (13) Maurice Freund, Charters interdits. Quinze ans d’aventures pour la liberté du ciel, Bueb & Reumaux, Strasbourg, 1987.
  • (14) « Aujourd’hui la vie », émission spéciale Afrique, Antenne 2, 6 mai 1986.
  • (15) Lire René Dumont, « L’agriculture voltaïque dans le piège de la dépendance », Le Monde diplomatique, mars 1978.
  • (16) René Dumont, Un monde intolérable. Le libéralisme en question, Seuil, coll. « L’histoire immédiate », Paris, 1988.
  • (17) Pierre Rabhi et Juliette Duquesne, Les Excès de la finance ou l’Art de la prédation légalisée, Presses du Châtelet, coll. « Carnets d’alerte », Paris, 2017.
  • (18) Pierre Rabhi, Vers la sobriété heureuse, Actes Sud, Arles, 2010, dont plus de 400 000 exemplaires ont été vendus tous formats confondus.
  • (19) Lire Jean-Baptiste Malet, Amma, l’empire du câlin », Le Monde diplomatique, novembre 2016.
  • (20) « Rapport du commissaire aux comptes sur les comptes annuels. Exercice clos le 31 décembre 2017 » (PDF), Embracing the World - PKF Audit Conseil, Journal officiel, 22 juin 2018.
  • (21) « Rapport du commissaire aux comptes sur les comptes annuels. Exercice clos le 31 décembre 2017 » (PDF), MAM - PKF Audit Conseil, 16 mai 2018.

  • [訳注1]社会的連帯ツーリズム(tourisme solidaire)。ここで社会的連帯とは、人や地球環境にも配慮した活動をさす。
  • [訳注2]預金者が運用収益の半分を自分が指定する非営利組織に自動的に寄付する仕組み。
  • [訳注3]失業者などの若者を、若干の給与で自治体や公的機関が組織する各種ボランティアとして起用する制度。2010年に発足。
  • [訳注4]「ポチョムキン農場」とは、18世紀帝政ロシアの政治家のグリゴリ・ポチョムキンが視察に訪れたエカチェリーナ女帝の歓心を買うために貧村をうわべだけつくろって立派な村に見せかけた「ポチョムキン村」の逸話から取った表現と思われる。

(ル・モンド・ディプロマティーク 仏語版2018年8月号より)