ドイツ軍の塹壕(1914年)からノートル=ダム=デ=ランド(現代)まで

催涙ガス、そして流された金の泪


アンナ・ファイゲンバウム(Anna Feigenbaum)

ボーンマス大学(イギリス)研究者、
著書 Tear Gas, From the Battlefields of World War I to the streets of today,
Verso, Londres, 2017.


訳:村上好古


 フランスでは今、空港建設に反対するノートル=ダム=デ=ランドや、大学入学者選抜制度への反対運動が起こっているパリのナンテール大学などで催涙ガスが盛んに使われている。「平和のためのガス」と言われるこの化学製品が、業界の巧妙なマーケティングに後押しされて、暴動鎮圧用に世界中で使われるに至る歴史を探る。[日本語版編集部]

Danielle Tunstall. — « Gas Mask » (Masque à gaz), vers 2000
Creative Commons CC0 - pixabay.com

 他のマーケットとは違い、治安維持関連産業は社会不安や政治危機にも危惧を抱かない――いやむしろその逆だ。2011年の「アラブの春」の反乱や、近年世界を揺るがした数々の抗議運動のおかげで催涙ガスや暴動鎮圧用品の売り上げは爆発的に伸びた。注文帳を手にセールスマンが世界中を縦横にかけ巡っている。大勢の専門家が、製造業者と買手にその日のうまい儲け話を持ちかけようと、ほんのわずかな民衆の動きをも付きっきりで見張っている。催涙ガスは紛れもなく彼らの花形商品である。社会的抗議活動に対する最も信頼でき最も受け入れやすい無痛の治療薬、つまり騒乱に対する万能薬のように世界各国政府から考えられ、国境も競争もない。

 ガスを浴びた者にはどのようなダメージがあるのか? 人々の健康にはどのような問題がもたらされるのか? 誰もそれについて知らない、なぜなら誰もそのことを気に懸けないから。その被害者の数を調査する法的義務はどの国にもない。さらにガスの出荷、使用、生み出される収益、環境に対する毒性についてのデータを提供する義務もない。1世紀近くにわたり、人体に悪影響はない、目にしみるだけの煙霧だ、と私たちは繰り返し聞かされ続けている。これによって死人がでた時も――たとえば人権のための医師団(Physicians for Human Rights) は、2011~2012年にバーレーンで抗議運動が起こったとき催涙ガスの使用によって34人が死亡したとしている(1)――当局は単なる事故によるものだと反論した。

 催涙ガスは本来気体ではない。涙の溢出(いっしゅつ)を促す化学成分には、CS(クロロベンジリデン・マロノニトリル)、CN(クロロアセトフェノン)、CR(ジベンゾオキサゼピン)といういかにもいかめしい名前が付いている。これらはジェルや液体だけでなく気体にしておくこともできる刺激剤で、五感に同時に作用し生理的・精神的な損傷を与えるためのそれらの組合せが考案されている。催涙ガスがもたらす症状は、涙、やけど、視力障害、鼻汁、鼻腔および口腔の炎症、嚥下(えんげ)困難、よだれ、肺の圧迫、咳、息苦しさ、吐き気、嘔吐など、多岐にわたる。長期的な筋肉および呼吸器障害の原因になるとの疑いも持たれている(2)

国家暴力の「人道的な」形態

 化学兵器に初めて手が付けられたのは少なくとも古代にさかのぼる。ペロポネソス戦争中、交戦国は包囲した都市に対し硫化ガスを使っていた。しかし、科学の進歩がその使用について倫理的な議論を提起するようになったのは、19世紀半ばになってからのことだった。化学・生物兵器の使用制限に関する最初の試みは1899年と1907年のハーグ平和会議にさかのぼるが、定式化があいまいであったことからこの合意にはほとんど実効性がなかった。そして第一次世界大戦が新たな毒ガス開発の公開実験場となった。

 広く認められているように、1914年8月フランス軍部隊が前線でブロモ酢酸エチル――相手を無力化する刺激性の物質で、外気中で致死となる毒性はない──を詰め込んだ手榴弾を敵の塹壕に投げ込んだことが「催涙ガスの時代」の端緒となった。ドイツ軍は1915年4月に、より格段に致死性の強いマスタードガス、イペリットによってそれに応じ、これが塩素を使った化学兵器大量使用の歴史上で最初の出来事となった。

 アメリカは当初こうした新技術の開発競争に距離を置いていたが、すぐにその遅れを取り戻そうとした。まさに参戦のその日に、「戦争目的の毒性ガスおよびその製造、解毒剤に関する調査を行うための(3)」研究委員会、それに化学戦研究部(CWS:Chemical Warfare Service)を創設し、人員と財源を潤沢につぎ込んだ。1918年7月には2,000人近くの科学者がこの問題に専念していた。

 戦後、軍部では立場が分かれた。化学兵器による惨状を自分の目で見た者は、それが増殖させた恐怖と不安とによって一層重大なものとなったその非人道性を非難した。そうでない者は、連続砲撃よりも死者は少なくて済むかもしれないという理由から、化学兵器にはある種の寛大さがあると考えた。ケンブリッジ大学の生化学者ジョン・バードン・サンダースン・ホールデンは、戦争ガスの有効性を論じ、「互いに戦うのに剣を使う」のなら「マスタードガスを使って」どこが悪い、と言って批判者を感傷的だと決めつけた。

 歴史家ジャン・パスカル・ザンダースによれば、第一次世界大戦の後に続いた論争によってふたつの遺産が残された(4)。ひとつは、かつてハーグ平和会議で議論になった「毒性ガス」と1914年から1918年の間に開発された新型化学兵器の区別を確立したこと。この微妙な区別は国際会議において何度となく登場し、一部の兵器を禁止する代わりに他の兵器を致死的ではないとして認めることを正当化した。催涙ガスが他の毒性剤より妥当な合法手段として利用されることになったのはこの理由による。もうひとつは、化学産業の発展につながる商業的利益が大きな関心事項になったこと。その創意を軍事分野に限ることは業界にとって耐えがたい損失ではないか、という100年後も変わらず議論される点だ。ベルサイユ条約(1919年)に始まりジュネーブ議定書(1925年)へと、連合国の経済的関心はこうして国際法に取り込まれていった。戦争の歴史は終わり、国境の内側で――そして国境の外側では植民地的属領内で――平和を維持することがアメリカとヨーロッパ諸国の優先課題になった。そこに催涙ガスへの関心が高まる理由があり、CWSと多数の勲章に輝くその部長、将軍エイモス・フライズが熱心な先兵となった。

 1920年代は催涙ガスの黄金時代となった。戦争中の化学兵器発展による成果をもとに、エイモス・フライズはこの毒を日常的な政治の道具に転換した。熱心なロビー活動で、もはや毒性兵器ではなく治安維持のための無害な道具として催涙ガスの新しいイメージを作り上げた。弁護士と将校を従え、「平和な時代用の戦争ガス」をメディアに売り込むために広告関係者、科学者、政治家の広範なネットワークをこの構想のもとに結集した。

 経済関係の出版物は当然ながら「平和のためのガス」というキャッチフレーズを広めるのに最も熱心であった。1921年11月6日付の雑誌Gas Age-Record はフライズ将軍の有頂天になった顔写真を掲載した。そこにはこう書かれていた。CWSの「精力的な部長は群衆と蛮行に立ち向かうためにガスと煙を使うことを詳しく研究した。彼は、警察官と植民地の行政官が治安維持と権威保持の道具としてガスに精通すれば、社会的な騒乱や無統制の反乱は減少し、終には完全になくなるだろうと本気で確信している。催涙ガスは個人を群集心理から隔離するのに素晴らしく適しているように思われる。(……)戦闘用ガスを柔和化したこの製品の優れた点は、ひとつには、群衆に対峙したとき警察官がこれを使うのをためらわずに済むだろうことにある」

 宣伝用パンフレットを先取りしたこの文面は、無痛という特性を称え上げながら製品の騒擾鎮圧効果を謳う、という微妙なバランスをとっている。その時まで警棒や銃だけのものだった市場が催涙ガスを求めて熱狂したのは、[ガスに対する]反感を弱めるその巧妙さによるところが大きい。ガスは蒸発する。警察は血痕や青あざを残すことなく「最も評判を損なわない方法(5)」で結局デモを退散させることができる。肉体的・精神的な拷問と受け取られるのでなく、催涙ガスは国家暴力の「人道的な」方法として認知された。

 ラジオや新聞での活動のほか、フライズ将軍と彼の部隊は公開実演を行った。1921年7月のある日、フライズの古くからの友人であり同僚でもあるスティーブン・J.・デ・ラ・ノイはフィラデルフィア中心部近くの実演場に積荷のガスを持って配置についた。彼はその武器の効果を分りやすく説明するために市の警察官たちを商品テストに招いていた。そして大勢の記者が、制服姿の200人が正面からガスを浴びているシーンを写真に収めに来ていたのだった。

 実験段階から実用に移るまでにはなお数年を要した。その機会は1932年7月28日にやってきた。国家警備隊はワシントンの国会議事堂の前に集まった数千人の第一次世界大戦の退役軍人を退散させるよう命じられた。「ボーナス・アーミー」と呼ばれたこれらの元兵士は、政府が支給を渋る残存給与の支払いを求め家族とともにその場所を占拠していた。催涙ガス弾の雨が群衆を襲い、パニックを引き起こした。避難時の激しい混乱で死者4人、負傷者55人、流産1人という結末になった。犠牲者の中には攻撃の数時間後に死んだ子供1名もいたが、公式には病気が原因とされた。ただ病院の広報担当者は後に、毒気のあるガスを吸ったという事実は「確かに好ましくなかった」と語っている。

 退散させられた退役軍人の間で催涙ガスは、彼らに軍隊を差し向けたハーバート・フーバー大統領(1929-1933年)にあてつけて「フーバーからの配給」と呼ばれた。それはまた同時に、この国で拡大していた社会格差を暗示したものでもあった。逆に警察の幹部、業界、その代表者にとっては、この作戦は成功であった。議事堂前で使われたガスの製造元であるレイク・エリー・ケミカル(Lake Erie Chemical)の販売担当部門は、血まみれの退去の写真を満足気にカタログに載せた。その後そのカタログには、オハイオ州とヴァージニア州のスト参加者がガスの霧の中を逃げる画像も加えられた。「たった一人の“化学戦争”ガスを装備した男が、武装した千人を退散させた」というスローガンが誇らかに広告板を飾った。この製造業者は、「目がくらみ息苦しくなるという苦痛を否応なく激発させる」製品であることと同時に、「あとに残る損傷」がないと保証する製品であることを自慢した――両方のバランスをとったいつものマーケティング手法だ。1930年代、大恐慌時代のアメリカは、社会的抗議活動を抑えるためにますます催涙ガスに頼った。上院のある委員会によれば、1933年から1937年まで催涙ガスは「主としてストの際、あるいはそれに備えて」購入され、その額は125万ドル(現在の価値で2,100万ドル、1,700万ユーロに相当)にのぼった。

 「目がくらみ息苦しくなる苦痛」に関わる業界のもうひとつの有望な販路、それは植民地だった。1933年11月イギリスの駐パレスチナ高等弁務官アーサー・ウォチョップ卿は、この驚異の製品を自分にも回すように要求した。植民地省にあてた書簡の中でこう述べている。「催涙ガスは、パレスチナで警察が手にすれば、不法集会や暴動まがいの群衆を退散させるのに大いに有効な薬剤のように思われる。特に古い市街地の狭くて曲がりくねった道で火器を使用すれば、はね返り弾で非常に多くの人が命を落とす可能性があるからだ」

退散させること、意気阻喪させること

 同様の要請が1935年、シエラレオネから寄せられた。そこでは植民地の行政官が賃金引き上げを求めるストに直面していた。次はセイロン、のちのスリランカの番だった。イギリス植民地担当の新国務大臣マルコム・マクドナルドには、催涙ガスに関する総合的な政策を立案するよう指示が出された。彼はそうした目的で、この武器が有効性を発揮した場所の調査リストを手にした。それによれば、たとえば、ドイツでは1933年にハンブルグでのストに対して使われ、オーストリアでは1929年に共産主義者に対して素晴らしい成果を挙げ、イタリアでは治安部隊の基本装備とされたばかりであり、そしてフランスにおいてはその使用がすでに広がっていた。

 こうして催涙ガスは、各国国内それに植民地的属領において、変革を求める要求を阻止する道具として重用されるようになった。その二様の機能、すなわち物理的な機能(退散させること)と精神的な機能(意気喪失させること)とは、不評を買う施策に対する反対運動を抑え込むのに申し分ないものと考えられた。おまけにそれ以来、暴力に訴えず、平和的に活動しているデモ参加者にも全く正当にガスを浴びせられるようになったことから、権力者は非暴力的な集団抗議を不安視する必要がなくなった。催涙ガスはデモ行進を止めるだけでなく、あらゆる形態の市民的不服従をうち崩す多機能武器として不可欠のものとなった。

 そうした政治的機能は今日まで続いてきた。戦争におけるすべての化学兵器の使用が国際条約によって禁止される一方、国家レベルで、治安部隊にはかつてないほど個人あるいは行列に意のままに毒性ガスを浴びせる権限が与えられている。したがって警察官はベルトに公然と催涙ガススプレーを装着できるが、兵士にはその権限がない。この矛盾をほぼすべての人が受容しているということが治安維持関連産業の繁栄に大いに貢献している。そして世界中の抗議活動を行う人々が流す涙の原因にもなっている。



(ル・モンド・ディプロマティーク 仏語版2018年5月号より)