アイデンティティをめぐるフランスの論争

“統合”という大いなる妄想


ブノワ・ブレヴィル(Benoît Bréville)

ジャーナリスト、ル・モンド・ディプロマティーク副編集長

訳:村松恭平


 「イタリア人、ポルトガル人、ポーランド人は、マグレブ人やアフリカ人と比べると“違いがより小さい”ためフランス社会に同化しやすかった」 —— そんな主張がフランスで昨今広まったようだ。統合の問題は、民族や宗教といったアイデンティティの問題に結びつけられやすい。しかし、こうした解釈は問題の本質から目を逸らすことにつながる。フランスの移民と統合の歴史をいま一度振り返ろう。[日本語版編集部]


Valery Koshlyakov. — « Et la France fut leur mot de passe… », installation drapeau, 2013.
© Valery Koshlyakov

 2018年はアイデンティティに関する“派手な騒ぎ”で幕が開けた。レヴェイヨン[大晦日]早々にシャンピニー=シュル=マルヌ市で二人の警官がパーティー中に暴行を受け、この事件が郊外の暴力をめぐる論争を引き起こした[訳注1]。この問題は、フィガロ紙のジャーナリストが自身のツイッターアカウントに「シャンピニーのスラム街には一万人以上のポルトガル人が暮らしていたが、憎しみも暴力もなかった」というコメントを付け、泥遊びをする子供たちの写真を掲載した時に、移民統合をめぐる論戦へと変化した。この“素晴らしい”考えは、政治学者で「共和国の春」(Printemps républicain)の創設者でもあるローラン・ブヴェによって、直ちにテレビで繰り返されるようになった。彼は『ライシテ —— 脅かされた価値?』« La laïcité, une valeur menacée ? »という番組の中で、「1960年代、シャンピニーには郊外の多数の街と同じようにポルトガル人スラム街がありましたが、警察への襲撃は起こりませんでした」と断言した。その番組のテーマは一見したところ、この話とは大して関係がないようにみえるのだが(1)

 1月3日、ムスリムの共同体主義に脅える街トラップ[パリ南西郊]を調査した『共同体』(La Communauté, Albin Michel)という書籍を宣伝するため、ル・モンド紙のジャーナリストであるラファエル・バケとアリアンヌ・シュマンが大々的な“メディア出演ツアー”を開始した。その間、ジャン=ミシェル・ブランケール国民教育大臣は「ライシテに関する有識者会議」の創設を発表した。そこには特にローラン・ブヴェが加わる予定だ。女男平等担当副大臣のマルレーヌ・シアパに関して言えば、『ライシテ、それだけ!』(Laïcité, point !, L’Aube)というちょっとした本を出版したことで、彼女のロングインタビューがマリアンヌ誌に掲載されることになった。「テロから3年が経ちましたが、“今もなおシャーリー”でいることは、“今もなおライック[訳注2]”であることを意味するのでしょうか?」とルノー・デリが彼女に尋ねた(1月7日)。今年[2018年]の一週目が終わる頃、メディアは驚きと失望をもってフランス世論研究所(IFOP)のある調査を明るみに出した。その内容は、フランス人の48%が移民の流入を「一つの文明を他の文明に置き換えようとする政治的な計画」とみなしているというものだ。なぜそんな結果になったかは明らかだろう。

 ライシテ・宗教・共同体主義に関する果てのない多く議論の裏には、大抵の場合、同じ問いが隠れている。それは、“ムスリムの人々はフランス社会に溶け込めるのだろうか?”、“イスラーム教は共和国と両立し得るのだろうか?”、“「共和国モデル」はイタリア人、ポーランド人、スペイン人、あるいは他の国々の人々の統合を可能にしたが、それはマグレブ人やアフリカ人に対しても機能するのだろうか?”、といった問いだ。「ライシテをめぐる論争は、本質的な問題、すなわち同化の問題を隠してしまう煙幕でしかない」と、フィガロ紙、フィガロ・マガジン、RTLの論説記者であるエリック・ゼムールですら認めている。彼は、移民たちが「“郷に入っては郷に従え”という古い知恵」に従っていた時代を懐かしんでいる(2)

 さまざまな移民の波の統合を比較することは、ニュース解説者の間で常に大人気の“遊び”だった。1930年代、人口学者は外国人の「同化度」を測って楽しんでいた。戦後になると専門家たちが地中海地域のヨーロッパ人よりも北欧人のメリットを並べ立てた。ここ30年来は、フランス史において未曾有の「統合の危機」を分析することへの合意が得られているようだ。「人種差別、反ユダヤ主義、外国人嫌悪は存在していたが、移民の受け入れに前向きな姿勢のおかげでベルギー人、ポーランド人、中・東欧のユダヤ人、スペイン人、イタリア人、ポルトガル人などに対して有効だったものが、フランスの植民地・ポスト植民地からの移民労働者を受け入れ、後押しし、要求することになった途端にうまくいかなくなったようだ」とメディアパルトの編集長エドウィ・プレネルが分析する。彼はその行き詰まりの理由を、「フランスの左派を含め、人々の無意識の中には植民地関係が常に埋め込まれている」ことに置いている(3)。ローラン・ブヴェもまた、この「各世代の数百万の外国人がフランス人、つまりはフランスになることを可能にし、機能している統合(4)」を拠りどころにしている。しかし、彼が左派を痛烈に非難するのはプレネルとは反対の理由からだ。ブヴェは、1980年代から左派が推し進めた「差異への権利」というテーマによって、“共同体の権利要求”とアイデンティティの閉鎖的態度が生じたのだと非難している。

 このような歴史の提示は二つの前提を結び合わせている。一つ目の前提は、外国人は今よりも昔のほうがより簡単に、すぐに統合されていたと考えることにある。ムスリム移民の子孫たちは間違いなく今現在、雇用・住居・警察による身元確認といった面で多くの差別を被っている。しかし、彼らは本当に、自分たちの祖先が経験したよりも深刻な排斥に直面しているのだろうか? 外国人嫌悪に関して段階を設定することは無駄なようにみえるし、どの歴史家もそんなことに手を出そうとはしないだろう。しかし、排除のメカニズム(社会的排除、都市からの排除、[宗教的]シンボルの排除)が常に存在してきたこと、そして、外国人が常に汚名を着せられてきたことを多くの研究者が主張している。“粗暴、不潔、雇用泥棒、外国のスパイ” —— イタリア人、ポーランド人、ポルトガル人、スペイン人たちもまた、そうした汚名に耐え忍ばなければならなかった。彼らはキリスト教徒であったにもかかわらず、“信仰心が過ぎ、盲信的で、狂信的”だと思われていたのである(5)。排斥はときに何十年も続いた。イタリア人に対する人種差別が生まれたのは19世紀の第4四半期だったが、それが本当になくなったのは第二次世界大戦後のことである(6)

 あまり頻繁に議論されることのない二つ目の前提は、植民地から来た移民よりもヨーロッパ人移民のほうがフランス文化を完全に受け入れようとし「同化」し易かった、すなわち、彼らがもともと持っていたアイデンティティを放棄し易かった、というものだ。これはまったくもって間違っている。移民の各世代は自分たちの生来のアイデンティティを守り、それを子供たちに引き継ごうとしていたのだ。また、同化することを望んだ人々と自分の“個性”に熱心であり続けた人々の間で生じた分裂を、移民の各世代は経験した。

 19世紀末、イタリア人が彼らの子供を12歳まで母国に帰国させ、その後フランスに戻って来させていたことは珍しいことではなかった。パリ、モントルイユ[パリ東郊の工業都市]、マルセイユ、ニース、ノジャン=シュール=マルヌ[パリ東郊、ヴァンセンヌの森の東]のいくつかの地区には、イタリア産品を並べる小売店、新しくフランスにやって来た人々を迎えるカフェ兼ホテル、移民たちが集まる酒場が満ち溢れていた。酒場では、彼らは「モーラ」[イタリア式じゃんけん]で遊んだり、当時イタリアの典型的な楽器だったアコーディオンの演奏を聴いていた。1901年7月1日法[訳注3]の自由主義的な側面のおかげで、イタリア人は自国民を対象とした数十の文化団体、スポーツ団体、娯楽団体、慈善団体を設立し、仲間同士の関係を育むことができた。戸籍要件を満たすために —— 当時はフランスの暦上の名前を選ばなければならなかった —— 移民たちは自分の子供を確かに“アルベール”や“マリー”と呼んでいたが、彼らが学校から出るとすぐに“アルベルト”、“マリア”と呼んだのだった。

 1922年以降は、当時使われていた言葉で「イタリアニテ」[イタリア性]の保持がファシスト政権の目的となった。彼らはフランスによる自国民の同化を阻止したいと考えていた。したがって、イタリア政府はフランスの都市に200以上もの全国イタリア退役軍人会の支部を作ったり、イタリアの諸団体を領事館の管理下に置いたり、イタリアの銀行に頼っていた協同組合内に農家たちを再編成することによって、愛国的精神を強化することに尽力していた。それに対し、ファシズムに反対する者たちは民衆勢力側が推進する社会闘争や政治闘争に加わりながら、移民たちのフランス社会への統合を後押ししていた(7)

 第一次世界大戦後にフランスにやって来たポーランド人は、彼らの「ポロニテ」をさらに強く保持しようとしていた。彼らはポーランド人同士で結婚し、帰化も[他国の風習の]移入も拒否し、子供たちには家でフランス語を話すことを禁じていた。パ=ド=カレ県のいくつかの街には二つのサッカークラブがあったが、一つはポーランド人のためのクラブで、もう一つはフランス人と他の外国人のためのクラブだった(8)。戦間期、ポーランド人コミュニティの人々は大規模な宗教行事が開催された際に伝統衣装を身につけ、賛美歌を歌いながら通りを練り歩き、そのことが地元の住民を常に不快にさせていた。

 ポーランド人聖職者はフランスを“不敬虔な土地”とみなし、信者たちには自分自身のアイデンティティを育むことを奨励した。一方、フランス人の支援者は慈悲深いまなざしで彼らを見守り、司祭館や教会の建設費用だけでなく、ポーランドからやって来た牧師たちの旅費と給料までも負担していた。労働者の騒乱や、いわゆる“プロレタリアートの堕落”に対しては、司祭の存在が最も強力な歯止めとなった。主任司祭は(ポーランド語での)説教の際、祖国をもっぱら賛美していた。彼らはフランスへの帰化を求めた人々を“裏切り者”と呼び、フランスの反道徳性と同化の狙いを事あるごとに批判していた。1926年、ノール県の礼拝堂付き司祭が「フランス人教師に対する若い信徒たちの怒りを大いにかき立てたため、その生徒たちは教師を罵倒するまでに至り、それがちょっとした物議を醸した(9)」と歴史家のラルフ・ショールが語っている。

 移民の子供たちのアイデンティティへの愛着は徐々に薄れていったが、それでも世代を超えて引き継がれた。1978年にヨハネ・パウロ2世が教皇になった時、またその2年後に「連帯」[1980年にポーランドで誕生した独立労働組合]が生み出した希望を目の当たりにした時、戦間期にフランスへやって来たポーランド人の孫たちの多くが感動をあらわにした。ベジエ[フランス南西部]にある「在外スペイン人の会」(Colonie espagnole)のように、移民の第一世代が設立したスペインの文化施設がまだいくつも存在している。サン=ドニで1922年に開設された「スペイン人の家」(El Hogar de los Españoles)の目的は、「人々の共生と文化間・世代間の交流の場を残すことによって、スペイン人コミュニティがますます豊かな社会生活を送れるようにする」ことだ。2016年7月にはサッカー欧州選手権の夜の決勝でポルトガルがフランスを打ち破り、数百人がシャンゼリゼ通りでその勝利を祝った。赤と緑の国旗が勢いよく振られる中、そこでは誰一人として[フランスの]国民的統合に対する脅威を感じることはなかった。同様に、2017年に新生児に付けられたトップ50の名前の中にマテオ、エンゾ、エステバン、あるいはジュリアやエレナがランクインしたことについても、気を悪くしている者は誰もいない。そのリストにはアラブ起源の名前は入ってはいないが、文化を越えて普及しているアダムとイネスは含まれている。

 一部の者たちが幻想を抱いている“同化”とはほど遠い「フランス式の統合」は、むしろ「不可視性 —— それは差異の消滅ではなく、移民を歓迎する人々による“受け入れ”を意味し、そこでは差異について気にかける者はいない(10)——」への歩みに近い。だが、この「透明性への道(11)」は、本省通達・大学のシンポジウム・メディアで放送された大げさで空疎な討論番組のいずれによっても描かれることはなかった。それは、マイノリティーの人々と彼らの統合を助ける人々—— 大抵の場合は街の住民、一般大衆、労働者たち —— の日々の触れ合いと交流の結果だった。

 こうした統合の道に、歴史がたくさんの道しるべを立ててきた。労働に関していえば、労働者たちの連帯や職業的な帰属意識、階級意識が強かった時代があった。兵役と二つの世界大戦は、同じ旗の下でフランス人と外国人の子孫を一つにした。学校はかつて、移民の子供たちにとってはフランス文化に適応する場所であり、社会的上昇の手段だった。カトリック教会は外国人信者を支援し、慈善奉仕活動を行うことで彼らを招き入れようとしていた。社会闘争と左派組織内の運動においては、フランス共産党、労働総同盟(CGT)、そして彼らを取り巻く様々な団体([人道支援組織である]フランス人民救済会、フランス女性同盟、“観光と労働”など)が、この時はまだ「統合のための装置」(12)として役立っていた。かつての庶民街は社会階層間・民族間のある種の混合を生み出し、その活気に溢れた路上があらゆる出自の人々の出会いを促進していた。

 こうした統合の道の大部分は、今日では遮られてしまっている。庶民階級が直面している大量失業と全面化した競争という状況において、労働は今では“歩み寄り”ではなく“分断”の役割を担っている。教会のベンチには誰も座っておらず、進歩派の団体の会員数は激減してしまった。庶民階層が住む郊外では、社会階級間・民族間の分離がますます大きくなっている。そうした分離は、学区制度によって(すなわち、最も裕福な家庭による学区の選択回避によって)学校に及んでいる。移民の子孫たちの出自を「統合の問題」のただ一つの原因とすることによって、こうした統合の社会的文脈はないがしろにされる。そして、雇用・学校・警察・司法・住居・自分の宗教を実践する(あるいはしない)権利に関する平等のように、その大部分が根本的には社会的なものである要求を、アイデンティティをめぐる問いに変えてしまうことになる。


  • (1) « 28 minutes », Arte, 4 janvier 2018.
  • (2) Éric Zemmour, « Prêchi-prêcha Plenel », Le Figaro, Paris, 1er octobre 2014.
  • (3) Edwy Plenel, Dire non, Don Quichotte, Paris, 2014.
  • (4) Laurent Bouvet, L’Insécurité culturelle, Fayard, Paris, 2015.
  • (5) Cf. à ce sujet « Étrangers, immigrés, Français », Vingtième Siècle, n° 7, juillet-septembre 1985, ou, plus récemment, Gérard Noiriel, Immigration, antisémitisme et racisme en France (XIXe - XXe siècle). Discours publics, humiliations privées, Fayard, 2007.
  • (6) GPierre Milza, Voyage en Ritalie, Payot & Rivages, Paris, 2004.
  • (7) Pierre Guillen, « L’antifascisme, facteur d’intégration des Italiens en France dans l’entre-deux- guerres », dans Francesca Taddei (sous la dir. de), L’emigrazione socialista nella lotta contro il fascismo (1926-1939), Sansoni, Florence, 1982.
  • (8) Janine Ponty, Polonais méconnus. Histoire des travailleurs immigrés en France dans l’entre-deux- guerres, Éditions de la Sorbonne, Paris, 2005.
  • (9) Ralph Schor, « Le facteur religieux et l’intégration des étrangers en France (1919-1939) », dans Vingtième Siècle, op. cit.
  • (10) Marie-Claude Blanc-Chaléard, En finir avec les bidonvilles. Immigration et politique du logement dans la France des Trente Glorieuses, Éditions de la Sorbonne, 2016.
  • (11) Judith Rainhorn, Paris, New York : des migrants italiens. Années 1880 - années 1930, CNRS Éditions, Paris, 2005.
  • (12) Patrick R. Ireland, « Race, immigration and the politics of hate », dans Anthony Daley (sous la dir. de), The Mitterrand Era. Policy Alternatives and Political Mobilization in France, Palgrave Macmillan, Basingstoke, 1996.

  • [訳注1]「パリ東郊シャンピニーシュルマルヌ市(バルドマルヌ県)で1月1日未明、警察官2名が暴行を受ける事件が発生した。その模様を写した動画がインターネットで出回ったこともあり、事件は大きな反響を呼んだ。(......)事件は、“フェイスブラック”を名乗る団体が主催した大晦日のパーティー会場前で発生した。安い入場料(男性15ユーロ、女性5ユーロ)につられて多くの若者たちが集まり、主催者側は入場規制を行ったが深夜前から衝突が発生。その後に警察が介入し、その際に警官2人が群衆に囲まれ、足蹴にされるなどの暴行を受けた。事件に至る経緯については発表されていない」
    「パリ郊外で警察官暴行事件、警察官組合が抗議行動」(2018年1月3日、Paris et toi
  • [訳注2]“laïque”は仏和辞書には「聖職者でない」「非宗教の」「世俗の」といった訳語が記載されているが、フランス独特の文脈を考慮して“laïcité”を「ライシテ」と訳すことがあるように、“laïque”も「ライック」とした。今回の議論の前提を掴む上では上智大学の伊達聖伸准教授による以下の記述が参考になる ——「2015年1月7日、風刺新聞『シャルリ・エブド』本社が襲撃された。1月11日にはフランス全土で370万人もの人々が「私はシャルリ」を合言葉にして犠牲者を追悼するデモ行進を行った。このとき首相だったマニュエル・ヴァルスは、フランス共和国の価値の筆頭に「ライシテ」を挙げ、教育においてもっとも重要なのが「ライシテ、ライシテ、ライシテ」なのだと、力を込めて3回この言葉を繰り返した」ことからもわかるように、あの襲撃事件以降、「私はシャルリ」と掲げることの中には、ライックであるという意味が込められている。」(伊達聖伸『ライシテから読む現代フランス』、岩波書店)
  • [訳注3]「アソシエーション法」とも呼ばれ、「一方ではアソシエーションの自由な結成を認めたが、他方では修道会に厳しい規制を加えるものだった」とされる。(同書より)

(ル・モンド・ディプロマティーク 仏語版2018年2月号より)