新たな政治行動の形態

パレスチナの若者はくじけない


アクラム・ベルカイド&オリヴィエ・ピロネ
(Akram Belkaïd & Olivier Pironet)

ジャーナリスト


訳:生野雄一


 2017年12月6日にトランプ大統領がエルサレムをイスラエルの首都と認める決定を下して、イスラエル・パレスチナ問題の解決はますます遠のいた。終わりのないイスラエルの占領とパレスチナ住民への絶え間ない圧力、現状維持から踏み出さないパレスチナ自治政府、国内対立を続ける既存政党。こうして将来展望がみえないなかにあっても、パレスチナの若者たちは、あきらめていない。[日本語版編集部]

(仏語版2018年2月号より)

Mahmoud J. Alkurd. — « Hope » (Espoir), 2014
www.mahmoudkurd.com


 パレスチナ自治政府の本拠地ラマッラの近郊にあるビルゼイト大学の本通りに沿ってパレスチナの旗が風にはためいている。イスラエル軍に殺された28人の「殉死」学生を顕彰する碑から遠くないところで、隊列ができている。ひとりの公安機動隊員が各分隊の間を行き来して点検している。戦闘用ヘルメットに覆面姿で手榴弾と爆弾ベルトを巻いた迷彩服の彼は、カフィエ頭巾で顔を隠しオリーブ色の戦闘服を着た男女の若者たちに号令をかけている。全員が武力闘争をたたえるスローガンを叫んでいる。彼らは、パレスチナ自治政府の故ヤーセル・アラファト大統領(1929-2004)に敬意を表してファタハ[1957年にアラファトが創設したパレスチナの穏健路線政党]の色鮮やかな旗を振り、イスラーム抵抗運動(ハマス)[対イスラエル武力闘争路線を主張するパレスチナの政党]を創設したシェイク・アフマド・ヤーシーン(1937-2004)に敬意を表する吹き流しを振り回している。このパレードの主催者たちはマフムード・アッバース大統領の政党であるファタハ青年運動(Chabiba)のメンバーだ。彼らは、「和解」合意の実施に苦心しているパレスチナの二大政治勢力をこの集会で褒めたたえようとしていた。2017年10月に結ばれたこの合意は、10年を超える対立と内部抗争の転換点になると考えられているのだ。

 そこから離れたところで、社会学部の学生たちがこの光景を厳しい様子で見守っている。20歳のラミ・T(1)はこう漏らす。「あれは単なる見せ物でしかない。ファタハとパレスチナ自治政府が若者に提示するものがこんなことだ。みせかけのジェスチャーだ。真剣な政治行動なんてものじゃない。政府は、実際に結果につながるような集団行動を後押ししようとは考えていないのだ。何よりも若者の政治意識が高まって政権に異を唱えることを怖れている」。人口の70%が30歳未満なので、若者の政治勢力化は、いよいよ正当性が問われているパレスチナ政権の指導部にはとてもデリケートな問題だ。1993年のオスロ合意[ヨルダン川西岸地区とガザ地区でのパレスチナ暫定自治に関するイスラエル・パレスチナ間の協定]とそれに続くパレスチナ自治政府創設以前は、パレスチナ解放機構(PLO)に属する決定機関である「青年とスポーツの高等評議会」が、休暇キャンプや志願兵役等を組織してイデオロギー教育を請け負っていた。1993年には、「若者に経済、社会、政治面の実行力を身につけさせる」ために、青年スポーツ省が創設された。しかし、時が経つにつれてこうした訓練施策は廃止され、2013年には青年スポーツ省は休止となり、この役割はアッバース氏の支配下にある高等評議会に引き取られた。

 ユセフ・M、22歳。彼も社会学部の学生だ。彼が言うには、「パレスチナ自治政府は、若者を現場の真の政治活動から遠ざけて、新たな政治行動の方法を模索するのを妨げたいのだ。2000年代の初めから、そしてオスロ・プロセス[オスロ合意とその後の一連の関連プロセス]の失敗以降、若者は目標への手がかりを失った状態だ。我々は憤っている。パレスチナ人民には政治的に何も得るものがなかった。ファタハとハマスの対立も腹立たしい。イスラエルによる占領は永続的な現実だ。我々は日々その残酷さを経験している。我々の社会的、経済的状況は不安定なままだ。こうした状況の全てが相俟って大規模な行動につながっていく」

異論を抑え込みたいパレスチナ自治政府

 最近の調査(2)によると、若者は、「死者、負傷者、逮捕者、拘留者の観点で、イスラエルによる占領との闘いの最大の犠牲者」で、2017年にイスラエル軍またはイスラエル人入植者によって殺された95人のパレスチナ人のうち約50人が25歳未満だった(3)。そして、彼らはこの地域の経済的困難もまともに被っている。国連によると(4)、失業率は推定27%(ヨルダン川西岸地区18%、ガザ地区42%)で、「世界で最も失業率が高い」地域のひとつで、「大恐慌以来、めったにない……ひどさ」だ。ヨルダン川西岸地区では、15~29歳のおよそ3分の1が失業していて(ガザ地区では56%)、しかもこの比率は、若い大学卒業者の過半を占める女性では、半数近くに上る。全国ではわずか40%の若者しか労働市場に組み込まれていない。パレスチナは大学進学率がアラブ世界で最も高い(ユネスコによると44%)国のひとつだが、卒業しても専門的な職業の就職口はごく少ない。彼らの大多数は、非公式の労働市場に向かわざるを得ず、そこでは、多くの場合パレスチナ自治政府が定めた最低賃金(時給2.4米ドル、約2ユーロ)を下回る賃金しか得られず、しかも何の社会保障もない。

 フーダ・A、20歳。ベツレヘム大学でジャーナリズムを専攻。同大学は、束の間の降誕教会巡りにイスラエルからやってくるツアーバスで混雑するベツレヘムの、丘の上にある緑の宝石箱のようなところだ。このカトリック系大学には3,500人の学生がいて、その4分の3がイスラーム教徒で、約80%が女性だ。彼女の出身地の東エルサレムではイスラエルがパレスチナ人の高等教育施設を禁止しているので、毎日、東エルサレムからベツレヘム大学までの6キロの道のりをイスラエルの通行遮断のために3時間かけて往復している。彼女によると状況は悪くなるばかりで、「イスラエルの占領は我々学生にも重くのしかかっています。占領のせいで、大学の選択も限られてきます。エルサレムに住んでいる場合、大学をビルゼイトにするかナーブルスにするか考えてしまいます。それも、本当はもっと考慮に入れなければいけないことがあるのに、イスラエルによる移動制限(5)のことだけを考えて迷ってしまうのです。でも、大学はこうした状況に対処するための政治について教育をしてくれたりはしません。先輩たちにとっては、大学に入ることは政党を選ぶことを意味し、組織活動に参加することを意味していました。でも、今日ではそうではありません」。取材した多くの学生と教師が嘆くのは、ファタハもハマスも、若者に行動を促すとか失速気味の国民運動の指揮を託すエリートを出現させるような政策がないことだ。

 こうした非難を我々は何度も耳にすることになる。たとえば、ベツレヘム大学では、午前中の自由活動に出席してみると、この状況の持つ複雑さを垣間見ることができる。一方では、木陰の校庭で陽気に騒ぐ200人近くの学生たちが欧米の歌やレバノンのポップスに合わせてクイズゲームに興じている。他方では、アカデミックな雰囲気の人もまばらな大教室で約30人が、2017年6月にパレスチナ自治政府が決めた異論の多いインターネット犯罪に関する法律に関して議論を続けている。この法律は、表向きはインターネットやソーシャルネットワークの利用を規制するというものだが、「国家の威信、公共の秩序、さらには国内外のセキュリティー」を侵害したり「国民の一体性と社会平和(6)」を脅かす文書を書いたりするあらゆる市民を投獄することができる。この法律を市民社会の大部分は基本的権利に反するとみているが、同法は政権を中傷するジャーナリストや反対者、さらには、政権批判があふれているソーシャルネットワーク上で極めて活発に活動する運動家や若者を黙らせ処罰することを目的としている。その証拠に、去る9月にパレスチナの治安機関がイッサ・アムロ氏に職務尋問をしている。同氏は、ヘブロン(アラビア語でアル=ハリール)で設立された組織「入植に反対する若者」(La Jeunesse contre les colonies)の責任者であり、アッバース氏の退任を求めたジャーナリストの逮捕をフェイスブックで非難した人だ。アムロ氏は、すでに2016年2月に、入植反対の平和的デモを組織したことでイスラエル軍に逮捕された経歴があった(7)

Nabd、イスラエルによる占領と入植反対運動

 ヤシル・D、23歳。ジャーナリズム課程専攻。このネットワーク規制の議論を始めた人のひとり。自分自身に何よりもかかわりのあるこのテーマに学生が興味を示さないことや、この法律に反対する市民運動が起こらないことに驚いたりはしない。「我々の親は政府から消費するために借金をするように推奨されていて(8)、そのため、今の体制に異議を唱えることに躊躇がある。若者はといえば、生活環境がこんなだから遊びたがる。だから彼らは、ほかのどこででも同じようにそうすることができるという幻想を抱いている。彼らに政治意識がないというのではない。彼らはいかなる既存勢力にも所属しないだけだ」。サンプル調査によると、パレスチナの15~29歳の若者の73%はどの政党にも所属しておらず、既存体制に関して多大な不信感を表明している(9)

 マナル・J、22歳。コミュニケーション学専攻。彼女はこの議論にずっと参加している。彼女は作家でコラムニストのハムディ・ファラージュが「反対派の声を抑え込むことを狙った自由侵害防止法」を非難したときには彼を称賛し、政府に近いある弁護士が「現在の困難な状況においては自制と責任感が必要で、完全な表現の自由は可能でもなければ望ましくもない」と断言したときにはいら立ちを隠さなかった。しかし、彼女は政治活動に参加する用意はあるのだろうか? 彼女の答えは悩ましい。「その決意はあります。でも、事は簡単ではありません。若者ならだれでも知っていることがあるのです。つまり、政治活動をするということは、イスラエル人であろうがパレスチナ人であろうが、遅かれ早かれ投獄されるということです。女性にとって、それは重大な影響があります。投獄されることの身体的および精神的影響に加えて一生結婚できないリスクがあります。私たちの社会はとても保守的なので、あらゆる種類のうわさが投獄された女性の評判を傷つけるのです」。去る12月にイスラエルの2人の兵士を突き飛ばして投獄された16歳のアヘド・タミミは世界中のメディアの注目を浴びたが、逮捕されたすべての女性がそう上手くはいかない。1967年以来、80万人近くの占領地のパレスチナ人──成人の5人に2人──がイスラエルによって投獄され、それもしばしば、行政拘禁[政府が危険人物とみなした市民を令状もなく拘禁すること]の形で、取り調べも訴訟もなく投獄されるのだ。この80万人のうち、1万5,000人が女性だ。

 極左シンパのウイッサム・J、26歳。ビルゼイト大学の社会学部在籍。彼も同大学の多くの学生たちと同様の理由で投獄を経験した。この大学は、パレスチナでの活動家の坩堝(るつぼ)のひとつと目されている(彼らのうち約60人が現在イスラエルで拘置されており、約10年間で約800人がイスラエル軍に逮捕された)。ウイッサムは、イスラエルの牢獄で3年間を過ごしたのち2015年に釈放され、その分だけ彼の学業は遅れてしまった。何の理由で彼は投獄されたのか?「私は、“積極的な活動”の廉で逮捕され、有罪になりました」と、彼は恥じ入るような笑みを浮かべながら我々に答えて、それ以上詳しくは話さなかった。彼の大学同輩のラミやユセフと同様に、ウイッサムはNabd(アラビア語で「鼓動」を意味する)というイスラエルの占領と入植に反対して闘う若者の組織で活動している。ユセフは、「我々は同時に、パレスチナ自治政府、パレスチナ内部での政治的分裂、さらには、幾つかのNGO(非政府組織)と政権の有力者たちが後押するイスラエルとの“関係正常化”の動きとも戦っている」とたたきつけるように言う。「3月15日集団」がイスラエルに対してパレスチナ国民の団結を求めて起こした大衆の抗議運動を踏襲して、Nabdは2011年にラマッラで生まれ、「大政党からの独立」を保とうとしているとユセフは言う。さらにこう付け加える。「だが、我々は、限界を露呈している伝統的な政治の枠組みの外に身を置いているとはいえ、彼ら大政党と対立しているわけではない」

 ラミが我々に打ち明けるように「左」と目されているこの運動は、また何人かのメンバーはイスラーム宗派の出身で、ヨルダン川西岸地区のいくつかの町に広がり、ガザ地区の若者たちともつながりを持とうとしている。この運動は大衆教育にも力を入れ、「世界銀行と西側諸国の影響を受けたパレスチナ自治政府の新自由主義的な政治は社会の分断化を助長しており、そうした脅威に晒されているパレスチナ人のアイデンティティー、歴史、集団としての記憶を再構築しよう」とつとめている。Nabdの活動家たちは、とりわけ、領土がバラバラになるのを防ごうとしている。ヨルダン川西岸地区の主要な町々が離れ離れになって──孤立しているガザ地区もなおざりにせず──「独立した都市の群れ」といったパレスチナのイメージが定着しないようにと戦っているのだ。「我々は、文化的、芸術的な活動も提案している。たとえば、難民キャンプで巡回劇団が生まれている。この国の大衆文化を蘇生させるためだ」とウイッサムは付け加える。

「オスロ世代」に将来展望を

 「彼ら活動家たちは政治を既存のものとは“違う”ものにしたいのだ」と、パレスチナ人社会学者でエクス=マルセイユ大学の研究員であるスベイ・スベイは分析する。彼は、この運動の展開をつぶさにフォローしている。「政権の指導部が説く“経済発展”、“国家建設”、“和平”という議論に対して、彼らはイスラエルへの抵抗というモデルを持ち出す。また、経済、政治、教育、文化の各面においても、崇高な目的の名のもとに、全パレスチナの解放ということを持ち出す。まさにそのために、イスラエル政府とパレスチナ自治政府の両方の治安機関から、既成秩序に異を唱えるものとして標的にされている」。イスラエルはその点について見方を誤らなかった。Nabd創設者のひとりは、昨年逮捕され、「行政拘禁」という形で今でも監禁されている。この運動のシンパであるバセル・アル・アラジュはといえば、彼は、長期の追跡の挙句に、2017年3月6日にアル=ビレで殺された。アル・ワラジャ(ベツレヘム)出身の33歳のこの薬剤師は、──抗議運動の現場にも大衆教育の現場にも常に身を置き続けた──、殺されるちょっと前にパレスチナの治安部隊から釈放されていた。この部隊は彼を2016年4月に「テロ行為の準備」の廉で告発し、6カ月間投獄していたのだ。多くの人は彼の死をパレスチナとイスラエルの情報機関による共謀の結果だとみており、これらの情報機関はパレスチナの人々から大いに非難を浴びた(10)

 Nabdだけがパレスチナの活動的な若者の組織ではない。(スポーツ、文化、連帯……等の)伝統的な組織への加入は別として、15~29歳の若者の40%近くがNabdと似たような運動に参加しており、近年では、「パレスチナ人民の団結」を合言葉に掲げる数多くの集団、委員会、団体が出現している。たとえば、Gaza Youth Breaks Out (GYBO)やJabal Al-Mukabir Local Youth Initiativeがそれだ。前者はガザのブロガーによって2010年に設立され、イスラエルによる占領、政界指導部の腐敗、主要政党の無力、を非難している。東エルサレムにある後者は、2014年3月16日にユダヤ人の入植に抗議してパレスチナのアイデンティティーを再確認するために、エルサレムの城壁を囲んで人間の輪を組織して有名になった。「我々の世代は新しいことをしたいのだ。従来の政治議論を見直したい。その結果、文化、社会問題、政治活動、芸術を全部包含するような自主的な運動が急増している」と、 ベツレヘム出身の研究者で作家のカリム・カッタンは分析する。若い芸術家、研究者、作家たちに、パレスチナ人であろうが外国人であろうが、ジェリコに住んで創作活動をするよう働きかけている「エル・アトラル(廃墟)」プロジェクトのメンバーである彼は、クリエイティブな手段に訴えることが「人々を動かす新しいやり方のひとつになる」と考えている。またそれは、彼によると西側諸国とパレスチナの連帯の絆を改めて考えてみることにもなる。「ここにやってきて3カ月過ごして仕事をし終えたように思って去っていくNGOの時代は終わった。外国人、とりわけフランス人は、我々の“世話をしに”来るのではなく我々とともに働くために来るべきだ。そして、我々が彼らから学ぶように彼らも我々から学ぶのだ」

 だが、こうした運動の影響力、社会におけるインパクトはどうだろうか? ビルゼイト大学の社会学教授のアバヘル・エルサカによると、「彼らの影響力を過大評価してはいけない。彼らの限られた活動範囲や、複雑な権力構造からくるさまざまな制約、そして、もちろん、イスラエルによる弾圧を踏まえれば、その影響力は比較的限られている。しかし、Nabdのような運動は活力を産み、いつか訪れる社会政治学的に重要な変化の下地になり得る。間違いのないことは、社会で意思決定の役割を担えず将来展望がなく幻滅に襲われているパレスチナの若者たちに、集団で社会と取り組むというひとつの解決策を提供していることだ。若者の多くは、見捨てられたと感じて、どの政党も全て拒否し自分のなかに閉じこもっている。そのうちの一部が暴力的な行動に向かうリスクがある」。2015~2016年の反乱の時が特にそのケースだった。脈絡のない単独の攻撃が増えて、ときには占領地域のイスラエル軍兵士や入植者にナイフ一つで立ち向かうこともあった。こうした攻撃は主として25歳未満の若者たちの仕業で、政党等は関係なく、何らの主張も持たないものだった(11)。結局それは、容赦ない弾圧を招き、2015年10月から2016年2月の間に174人のパレスチナ人が殺されてしまった。

 我々が取材した人たちの多くはこうした絶望的な行動を理解できるといい、非難することはしなかった。アニサ・D、25歳。ジェニンの難民キャンプに暮らす。そこでは、1万3,000人の70%が失業している。子供の頃、2002年4月にイスラエルがキャンプを攻撃してきたのを覚えている。パレスチナ人(住民によれば、少なくとも200人はいた)のうち公式発表では52人が死んだ。彼女は、特段の職業資格がないので町の北にあるホテル施設でメイドとして働いている。お客は主としてイスラエルのパレスチナ人だ。彼女は、しばしば暴力に訴えようと思うことがあると告白する。「でも私は我慢します。というのも、イスラエルが私の家族全員を処罰するでしょうし、反乱者はすべて高い代償を払わされるからです。かと言って、私は我々国民のこの運命を我慢できません。諦めるわけにはいかないのです。私たちの大義に身を捧げた人たちに敬意を表します」。ベツレヘム大学のジャーナリズム専攻のフーダにとっては、「通行遮断所の兵士に向けられた個人による攻撃は、イスラエルの占領に抵抗し、イスラエルが行使してきた暴力に対する力による抵抗のひとつの手段です」。ビルゼイト大学のユセフは、「こうした過激な行動は、長く続く入植、検問所で毎日経験するイスラエル兵士の横暴な振舞い、将来展望を完全に封じられていることへの大いなる不満の表れだ」という。 ナーブルスの旧市街の食料品店で20年ばかり働いている店員のモフセン・Bが、もっとぶっきらぼうに我々に向かって言うには、「生まれてこのかた、イスラエルは私がエルサレムに行くのを一度しか許可してくれなかった。ここで自分の国に閉じ込められて窒息する思いだ。私には貯えもなく、妻もおらず、高等教育も受けていない。ここにいて自分は祖国のために犠牲になったが、今となってはひとつだけ願いがある。それは、国外に出ていくことだ。それだけだ。さもなければ、通行遮断所の兵士を襲うだけだ……」。我々が取材した人たちの大多数と同じように、モフセンは、アルカイーダやイスラーム国(IS)のような武力活動には何らの共感も感じていない。

ヘブロン、コンクリートの壁と金属探知ゲート

 マジディ・A、28歳。ベツレヘムのドハイシャ難民キャンプの住人の一人だが、ここから出ていくことは選択肢にはない。ヨルダン川西岸地区で最大のキャンプのひとつであるここでは、1万5,000人が住んでおり、若者たちが、全く無為に過ごしている。「ドハイシャはイスラエル軍に常に狙われている。彼らは、他のほとんどのキャンプと同様に、ここを頻繁に襲ってくる。逮捕された者の大多数は若者で、フェイスブックで暴力行為を呼びかけたとか兵士に投石したという理由だ。この6カ月間の衝突で、100人以上が負傷した。しかも、(2017年には)21歳と18歳のふたりが死亡、約80人の少年がわざと脚を狙われて障害を負った」。イスラエルによる占領やパレスチナ自治政府の政治に反対する若者たちに、のしかかる脅威が怖くないのかと質問すると、彼は率直にこう答えた。「我々は抗議することもできなければ、権力が許す以外の政治活動をすることもできない。我々は、両方から圧力を受けている。ただひとつできることは平和的に活動することだ。たとえば私は、ここに残って外国にも行かず、社会・文化活動を通じて地域のために尽くすことを選んだ。私は、ここで命を落とすことになろうとも、我々の権利を守るためにここに残る」

 パレスチナに留まることがスムド(「粘り強さ」というアラビア語)に属する抵抗活動だとすると、パレスチナに戻ってくることも同様だ。マヘル・L、26歳はその意見だ。彼は、マクペラの洞穴(アラビア語ではアブラハムのモスク)[ヘブロンにある宗教史跡]から数鰱(れん)[昔の距離の単位。1鰱は約200m]のヘブロンの旧市街で商売をしている。この歴史ある町のパレスチナ人はこの20年間で半減した。残っている6,000人の住民は、とりわけ攻撃的な800人の入植者と約3,000人の兵士から絶え間ない抑圧を受けている。コンクリートの壁、検問所、通路を通るたびにくぐる回転ドア、監視カメラ、イスラエル軍が設置した金属探知ゲート、入植者が階上から投げ捨てるごみなどをよけるために数少ない営業中の店に商店主が取り付けた金網、入植者に壊されたパレスチナ人の家屋。ここに暮らすことは地獄だ。顔に皺のあるマヘルはそれを知っているが、外国で3年間暮らしてきた今は自分の国を出たいとは言わない。「私はドイツに逃げていたが、祖国が私を呼ぶ声が強くなってきたんだ。再び国外に行こうと思えば行ける。入植者たちとその支援組織は私たちがこの国を出ていくように仕向けている。そのためならお金を出そうという者すらいる。私の商売は危機に瀕しているし、危険を冒して私の店に買い物に来るような酔狂な人はめったにいないから、もっけの幸いではある。でも私は、売れなくても、何があろうともここに残るつもりだ。私は待つ。時間は我々の味方だ」


(ル・モンド・ディプロマティーク 仏語版2018年2月号より)