蜂起する芸術


エヴリン・ピエイエ(Evelyne Pieiller)

本紙編集員/ジャーナリスト


訳:瀧川佐和子


 第一次世界大戦以前からすでにブルジョワ芸術との関係は断ち切られていた。ロシア革命以降、芸術家たちは革命の問題点を明らかにすることに腐心し、それが新たな美学の道を切り開くことになった。とはいえ、彼ら自身に矛盾がなかったわけではない。[日本語版編集部]


Giangiacomo Spadari. – « La Notte dei surrealismi » (La nuit des surréalismes), 1992
Olivier Pastor - Villa Tamaris Centre D’art, La Seyne-Sur-Mer


 1919年にベルリンのクラブ・ダダ[反芸術的なダダイズム運動の拠点]の活発なメンバー、ジョージ・グロスとジョン・ハートフィールドは「芸術家の肩書は冒涜だ」、というのも「“芸術”という言葉は人々の間の平等を破棄する言葉だからだ」と華々しく宣言した(1)。そういう彼らは二人ともまだ30歳足らずの“芸術家”だった。彼らは戦争を経験し、ナショナリズムへの嫌悪から彼らの名前(の読み方)をアメリカ風に変えるほどまでに戦争を憎み、創設したばかりのドイツ共産党に加入し、革命を目論んだスパルタクス団[訳注1]による反乱の破壊的な鎮圧を体験したばかりだった。グロスとハートフィールドはベルリンの“ダダイズムの13項目”に同意し、特に「急進的共産主義をベースとした全世界のクリエーターと知識人の革命的な国際連携」を推奨していた条項に賛同した。それは“口先だけの言葉”ではなく、激しい切望から生まれた表現行為であった(2)。1917年[のロシア革命]の歩みと、ドイツからオーストリア、そしてイタリアからハンガリーまでヨーロッパを揺さぶった蜂起の大きなうねりの中で、芸術的前衛[アヴァンギャルド]運動は政治的前衛[アヴァンギャルド]運動と結びつき、高揚した数年の間、この政治的運動に貢献しうる固有の作品を創作することを試みた。その取り組みの緊急性と実現の可能性は国によって異なるとはいえ、集団生活を設計するうえでの展望という、芸術や芸術家の役割そのものをめぐる問題提起は共通することになる。

 ブルジョワ芸術との断絶は、キュビズム・未来派・抽象主義・象徴主義などによって第一次世界大戦以前になされていた。今、この芸術運動の早暁において定義すべきなのは、まさに運動の意味である。芸術家たちは、何によって、どのように、どこまで、すでに起こった、あるいは起ころうとしている革命と人間の理想化に貢献することができるのであろうか? 10月革命が勃発して今や現実的となったこの問いに対して、もっとも革新的なロシアの芸術家たちは10年足らずの間に、時には権力の代表者たちとの前向きな緊張関係の中で激しい矛盾を引き起こしながらも、機知にとんだ大胆な答えを提案した。政治的闘争に基づいた前衛芸術運動が活発だったドイツとフランスの2カ国に限って言えば、彼らは独自の方法とリズムでその前衛性を獲得していった。

 第一の最も直接的な答えは、芸術は有用であるべきだ、であろう。そのもっとも単刀直入な実践方法は主義主張に奉仕すること、すなわちプロパガンダがそれだ。スローガンや解説や扇動を目立たせるために、ポスターが工場の壁や路面電車など人々がもっとも集まる場所に所狭しと貼られた。詩人で劇作家のウラジミール・マヤコフスキーは3メートル四方に近い大きさのポスターに最新情報を解説する『ロスタの窓』の制作に協力した。「芸術活動に携わるあらゆる人々の自由な連携」を唱える雑誌「芸術左派戦線(レフ)」を1923年に創刊したマヤコフスキーは、経済的な啓蒙あるいは官僚主義との闘いについて意欲的に著述し、公衆衛生のキャンペーンのスローガンを際立たせ、ソビエトのおしゃぶりの功績を讃えた[訳注2]。というのも「レフ」の信奉者たちは、ポスター・イラスト・宣伝広告・モンタージュ写真・シネモンタージュといった大量の作品を作り上げるのに役立つ、実利的で具象的な芸術の表現形式を認めさせるために闘っていたからだ(3)。ロシアを超えて多大な影響を与えることになる造形芸術家アレクサンドル・ロトチェンコ、画家マルク・シャガール、演出家フセヴォロド・メイエルホリドたちは、盛大な祝祭に参加し、そこで革命について賞賛し、自らの意見を表明した。

 しかし、より広くは、革命に大衆を動員することの貢献以外にも芸術家たちに別の役割が舞い込んできた。それはプロフェッショナルな芸術家として、大衆に芸術の歴史・規範・実践について初歩的な知識を教えることである。作家たちは講義を行い(アンドレ・ビエルイ)、古典作品の編集をし(アレクサンドル・ブローク)、造形作家たちは1920年に創設された国立高等美術工芸工房(ヴフテマス)で教えることになった。抽象絵画の創始者で画家のワシリー・カンディンスキーの提案に基づくそこでの5年の教育課程は、この国[ソ連]が必要としていた芸術的・技術的な求めに応えたいという野望をもっていた。この国の希望はそうして具体化されていった。同様の勢いで、多くの場合アマチュアで構成された、アジプロ演劇[訳注3]の活力あふれる劇団は、メイエルホルドやマヤコフスキーや、のちに『戦艦ポチョムキン』(1925年)(4)を撮ることになる若き日のセルゲイ・エイゼンシュタインと関係を持つことになる。

自説を捨てることなく、社会変革の実現に努める前衛芸術

 驚くのはもちろん、主義主張を掲げたからといって、芸術面での仕事の重要性が弱まることはなかったことだ。今や前衛芸術は、節を曲げることなく自ら選んだ社会変革手段としての機能を果たす方法を見出したばかりか、前衛芸術としての自己実現をさえおそらくは成し遂げた。というのも、当初から大胆かつ、“無邪気に”様式化された、最も活き活きとしたグラフィックの革新性をみじんも捨てることないプロパガンダのポスターが証明するように、実験芸術と大衆芸術はそれぞれの表現力を結びつけようとしたからだ。同様に、個に対する集団の優位性や革命の争点を明らかにする必要性は、芸術的表現力の考案に貢献した。それには、エイゼンシュタインから『母』のフゼヴォルド・プドフキンまで、典型的なモンタージュの手法を用いた当時の映画のきらめきと、型にはまった規範を徹底的に拒否して、ミュージックホールやサーカス、シネマなどの大衆娯楽を統合し、「窮屈な劇場」から飛び出そうとした演劇の自由奔放さを思い出せば充分だ。

 しかし、社会と芸術が互いに高めあうには相当な困難がつきまとう。それはおそらく社会が求める枠組みと芸術に特有の動きと緊張関係に内在するものだった。もし、芸術が究極の優先課題として社会的要求を認識するならば、その仕事は職人仕事・手仕事とされてしまっても良いのだろうか? 芸術家は専門的な技術者になってしまうしかないのだろうか? ヴフテマスで教えるアレクサンドル・ロトチェンコ、ウラジーミル・タトリン、カジミール・マレーヴィチは構成主義[訳注4]の継承者である。キュビズム、未来派と結びついたこの運動は、幾何学的形象を用いて具象的でない芸術を生み出した。この運動には様々な思想が一貫して流れていた。ひとつは建築、デザイン、活版印刷で開花した機能美の追求と、もうひとつは純粋なフォルムの最優先だ。実利的な作品の制作と結びついた素材と技術の研究が美術学校で最重要課題となり、今やヴフテマスは大量生産の要求を満たす場となった。それはどこまでいくのだろうか? 構成主義の芸術家たちのある者はこの展開を是認し、共同生活から切り離されたものとしての芸術の死を望むカンディンスキーのような他の人々は[変化を認めず]去った。より広い意味では感情を表現することと、個の内面性との問題なのだ。「自我」にはいかなる居場所があるのか?「構成主義でない」表現にはいかなる権利があるのだろうか? もはや芸術家は人民の代弁者でしかないのか、そしてその詩が理解されることを要求されるのか?「これがつまり私の国だ/私はなんと大口を叩いてきたことか/私の詩句では友であるはずの人民に不満をぶつけることで/私の詩は最早ここでは誰の役にも立たない/そのうえ私もだ」(5)。詩人のセルゲイ・エセニンの1925年の死は殺人か自殺かの疑いがあるにしても、彼が苦しみ、これらの矛盾と闘った挙句ということには疑問の余地がない。1930年に自殺したマイヤコフスキーの死の理由をたったひとつにすることは出来ないであろう。しかしながら、自らを曲げることなく党の片隅に身をおいて革命に従った彼は、いくつかの作品が党の無理解にさらされたが、自分が立役者であった英雄的な時代はもう終わっていることを知っていた。彼の最後の手紙にあった言葉を再び用いると「同志であるはずの政府」は、芸術家たちの自由な創造を受け入れることはもはやなかった。

 ドイツの前衛芸術は、ワイマール共和国(1919-1933)初期の数年間、闘う芸術の有用性と有効性という同様の問題に直面することになる。タダイストでコミュニストでありアジプロ演劇で鍛えられたエルヴィン・ピスカトール——ある観点からみれば、ベルトルト・ブレヒトは後にピスカトールの天才的な後継者になるのだが——は、イデオロギーの解放の手段と考えられていたプロレタリアート劇団で活動する。必要であればボクシングの試合やキャバレーの寸劇を取り入れたその舞台は、とりわけ階級闘争の演出に好都合ないくつかの演劇シーンに分けられていた。クロスやオットー・ディックスのような造形芸術家たちは、「虐げられた人々に彼らの支配者たちの本当の姿を示す」ために醜悪さと誇張と歪みの「美学」を実践した(6)。ハートフィールドはフォトモンタージュという強力な武器を編み出した。これらはいずれも現政権の基盤を揺るがすための表現形式だった。ヴフテマスの流れをくむバウハウスはヴァルター・グロピウスによって設立され1919年に発展を遂げた。教育機関であったバウハウスは、前衛芸術により良い社会の具体的な構成要素を考案し、つくり出すことを提案した。そして「機能主義」のスタイルを採用するにあたり、造形芸術と手仕事、産業を統合する手法で、住居と建築を調査研究した。前衛芸術は職業化し、構成主義は経済的な正当性を掴み取り、バウハウスの純化した美学は世界的な名声を獲得したが、その政治的な方向性は徐々に弱まり姿を消した……(7)

 フランスで最も衝撃的な前衛運動が1924年に「宣言」を発表して出現した。シュールレアリスムだ。とりわけ個々の創造性を解き放つことによって世界を変え、生活を変えるという基本的な計画によって生まれたそのグループは10月革命の約束を目にしただけだった。その[10月革命の]理想と共産主義の実現との彼らの関係は、様々に変化することになった。しかしながら、シュールレアリスムの精神そのものは、1930年に出たある雑誌のタイトルが示すように「革命に役立つもの」であった(8)。詩的表現を社会主義化し、(自動筆記・夢の物語・ことばつなぎ遊び[一枚の紙に数人で次々と文の要素を書き足していく遊び])などの数々の道具を誰もが手の届く範囲で生み出していくという前衛の意志は、ロートレアモンの表現によれば、詩はまさしく「一人でなく万人によって」つくられるためのものだが、それ自体が秩序と大混乱を引き起こすものだった。

 こうした「情熱的な年月」(9)において、蜂起から革命に変化することの重要性を知り抜いている芸術家たちは英雄であるとともに先駆者でもあった。彼らは[アヴァンギャルドの]闘争を二つの戦線に導く勇気を持っていた。ひとつは孤立した無力な個に閉じこもっている境界を取り除き芸術を解放する戦線と、もうひとつは虐げられた人々を解放する戦線だ。彼らが身をもって体験した矛盾も彼らが作り出した様式も、感動的であると同時に痛ましさを覚えさせるものとしていまなお問題にすべき心情の動きでありつづけ、いまなお探究すべき分野であり続けている。



(ル・モンド・ディプロマティーク 仏語版2017年10月号より)