アートマーケットの舞台裏

評価できないものの価値


フランツ・シュルタイス(Franz Schultheis)

社会学者


訳:沖田夏弥


 しばしば世界の注目を集めるアート作品の価格。素材的な観点や制作にかけた時間のみで判断されないその価格は、一体誰がどのように決めているのだろうか? オークション会場での暗黙のルールの存在や、投機が目的のコレクターとアーティストを支えるギャラリストの脳裏で巡らされる戦略。各都市で開催される大規模な国際アート見本市から新興国の台頭まで、今やアートマーケットは世界的な広がりを見せている。一般の市場とは異なるメカニズムを持つその舞台裏に迫る。[日本語版編集部]


Marija Šević. – « Alone With the Art Market » (Seule face au marché de l’art), 2010
http://www.marijasevic.com


 アートマーケットにおいて価格はどのように生まれるのだろうか? 例えば、アートプライス(Artprice)のような商業データベースに並んだ価格リストを見てみると、15億8000万ドル(2016年7月~2017年6月)の規模のその市場は、需要と供給の関係が働くだけで、グローバルで透明性があり、最適化された市場であるような印象を強烈に受ける。しかしながらこれらの「値段のつけられない」モノを何を基準にして評価するのか考えると、誰もが分厚い霧の奥深くに入り込んでしまう。それをより正確に把握するため、社会学者からなる我々のチームが3年間、この領域の代表的なイベントのひとつ、「アート・バーゼル」の参加者や関係者を対象に調査を実施した。この国際アート見本市は「アートのオリンピック」と呼ばれ、バーゼル、マイアミ・ビーチ、そして香港で毎年開催されている(1)

 アートマーケットの論理を把握するには、我々の視線をオークションの向こう側に ――あるいはむしろ裏側に ――向けなければならない。2017年5月にジャン=ミシェル・バスキア[訳注1]の絵が9900万ユーロで落札されたときのように、この分野の花形たちによって演出されるこうしたオークションは、派手で巨額の資金が動く。他の関係者にも関心を寄せなければならない。それはプライマリー市場(完成作品が最初の買い手を見つける市場で、主にギャラリストの仲介を経る)の大多数の「普通の」プロフェッショナル[訳注2]や、セカンダリー市場(特にオークションのような、転売に出すための市場)という下位の階層にいる人々である。後者に対して行われたインタビューによって、様々な暗黙のルールが見えてきた。

 まず、価格に交渉の余地はない。つまり、値引きも特別優待価格もないということだ。おしなべてプロがこのルールを喜んで受け入れているのは、それが彼らの利益になるからである。ある女性ギャラリストはこう証言している。「オーストリアの有名コレクターの例を挙げましょう。彼は自分自身の美術館を所有し、財を成した分野で用いたのと同じ方法でアート分野においても仕事をしています。彼のコレクションには三流、四流のカテゴリーの作品しかありません。なぜなら彼は画商に接するたびに30%の値下げを要求するからです。その結果、彼は売れ残った作品しか手に入れることができません。どんなギャラリストも画商も、別のところでもっと高値で売ることができるものをカタログの30%引きで安売りしようとはしませんから」

 それから、価格は決して下がってはならない。ドイツの私設美術館の女性ディレクターは、アート分野にも金融分野にも非常に多くの投機が行われていた2006年から2008年のピーク時にこう語っていた。「あらゆる人々が商品が売れないことを恐れていました。というのも、ある作品にオークションで買い手がつかないと、その作品はがらくた同然になってしまうからです……。画商の関心は自分のアーティストの相場を支えることにあるので、こう考えるでしょう。『もし誰も彼の絵を欲しがらないのであれば、私がそれらをオークションで買って保管し、2、3年後にまた売りに出そう』と。画商それぞれが自分のマーケットを守りたがっています」。これは、多くの画商によって広く行われている戦略である。

 他の決まりもある。セールの利益は、大抵、単なる口約束に基づいてアーティストとギャラリストの間で均等に分けられる。しかし「無名のアーティストが急に名声を得ると、『今や自分の作品は認められているのに、なぜ私の稼ぎの半分をギャラリストに贈らなければならないのだ?』と考えるのは珍しくないことです」と、チューリヒのギャラリストは言う。パリやチューリヒ、ロンドンでの大規模な国際アート見本市を席巻している作品の高価な価格は、とても注目を集めているとはいえ、世界の取引総額の氷山のほんの一角でしかない。ドイツ最大手のオークション会社の支配人によると、オークション会場で取引されたりギャラリーで販売されたりする作品の平均額は、3000ユーロを超えないそうだ(2)。金額を決定するのは第一に嗅覚と経験である。ある女性コラボレーターも言っているように「説明するのは難しいのです…… 。結局は第六感的なものを磨くことにつきる」のだ。

 アーティストのアトリエから出てきたばかりの「評価できない」モノの価格を見積もろうとする人は、多種多様な評価基準を持っている。まずは物質的なデータだ。つまり素材と、その作品を作るのに費やされた時間である。「絵画を制作するのに1日6時間から8時間ずつ丸2週間かけたとすると、その時間単価から全体の価値をおおよそ計算することはできます」と、ある画家は指摘する。「しかしそれではあまりにも少ないのです。その上に原材料の価格を加えます。それから、作品全てに注がれたアイデアの価値も考慮されますが、それこそ誰もあなたに支払わないものです」

 同じひとりのアーティストの場合、価格の違いは、供給でも需要でも作品の質でさえもなく、ただそのサイズによってのみ決まる。あるスイスのギャラリストは、「絵画の大きさが同じなら、価格もまたほぼ同じはずです。そのことに気をつけなければならないのは私自身です。実際、ある係数が存在しているんですよ。高さに横幅を掛けると面積が出ますが、その面積に(さらに)各アーティスト固有の係数を掛けるのです」と明かす。

 今日では厄介な問題が提起されている。それは、新興諸国のプレーヤーがますます大きな地位を占めるグローバル市場において、価格レベルをどのように調整するかということだ。パリの国際コンテンポラリーアートフェア(FIAC)に初めて参加した際、あるメキシコ人の女性ギャラリストは価格を見て「唖然」とした。「メキシコに戻ってから、私はこう言いました。『もしあの場に参加したいと思うなら、私は自分が所有している作品の価格を3倍にしなくてはならないわ』とね。価格は非常に高いレベルに引き上げなくてはならないのです。当初5000ドルだったアーティストに、3年後には10万ドルの価値がつけられるなんて、馬鹿げていますよね。我々にとっては、ローカルマーケットを持っているだけにいっそう事情は複雑なのです。私が抱えているアーティストたちに、突然10万ドルの値がついたのよなんて、やはり言えません。今や、誰に一番高い価格がつけられるかという競争になっています。これはゲームなのです。我々が重要なプレーヤーの仲間入りをしていなければ、彼らと戦うことは難しいのです」。この女性ギャラリストは、新興地域からやってきた多くのプレーヤーたちのように、世界規模で隆盛しているアートマーケットのパラドックスを乗り越えて道を切り開くのに今もなお苦労している。彼女が言うところのこの「逆さまの世界」では、法外な価格が作品の質を保証していることになる。

 価格形成について、買い手側はどう考えているのか? そこにどんな論理を見出しているのだろうか? 我々はこれらの質問を様々なコレクターたちに投げかけた。「ええ、私もとても知りたいです」と、その中のひとりは微笑みながら言う。「実は、私もさっぱり理解していないのです。しばらく前に私はある人の絵画を入手しました。当時それは30万ユーロでしたが、今日では150万ユーロの価格がついています。私がそれを購入したのは、高価だったからではありません。誰もそれを欲しがらなかったからです。私はまた別の作家の木彫作品を購入しました。2000ユーロだったと思います。それからニューヨークで展示があって、今やそれは3万6000ユーロの値がついています」

 物質的価値が内在しないモノを所有し、それを厳密に数値化することに対する自尊心は、我々がインタビューを行った大多数の人々と同様彼にもある。実質的な価値のない資産の取引所においては勝者よりも敗者の方が多く、「アートに投資し10年が過ぎると、大勢の人が利益をあげることなく自分のコレクションを再度売りに出しています。もし直感で作品を購入するならば、お金持ちにはなれませんね」と、あるオランダ人コンサルタントは強調する。というのも、「アートマーケットは大物ギャンブラーたちによって操作されています。彼らはどのように市場に介入し、そしてどこに金をかければいいのか知っている」からだ。「一般人が全く理解できないような市場操作をしているのです。これはとある人[フランスの有名な実業家でコレクター]のケースですが、ある日彼は若いアーティストに賭けることに決めました。アーティストから15点の作品を購入し、そこからすぐにマーケットに出す1点を選びました。クリスティーズの大規模なセールがその人の狙いだったのです。トリックは、彼がある友人に、オークションで高値をつけるよう頼んだことです。彼は友人に『できるだけ価格を吊り上げるんだ。そしたら金は私が払うから』と言ったのです。結果、1万ユーロだった初期作品は20万ユーロになりました。常連たちは何かおかしいと非常に疑っていましたが、他の人たちは『ちくしょう、去年ならこのアーティストの作品は1万ユーロで買えたというのに、今日は20倍だというのか……』と考えていました。したがって彼らはそのアーティストのところに殺到しました。そうして、自己実現的予言[訳注3]が成し遂げられたのです」。たとえこの話が現代アートの神話や伝説の一端でしかないとしても、このような証言は不透明あるいは怪しげな商習慣の存在を伝えている。そうした証言は、彼らがどこの国で活動していようが、アートマーケットにおいてどんなポジションにいようが、我々が話を聞いた人たちの口から何度も発せられた。このため、その言葉にはある程度信頼を置きたいという気にさせられる。

 これらの話の中で明らかになったメカニズムは、セールよりも前の段階においてさえ、多くの場合極めて巧妙に作用する。これは全く副次的な現象ではなく、極めて特殊な市場において独特のしきたりが機能している、完全に典型的な例である。そこでは仲間内とよそ者を区別する古い社会形態の残滓が顔を見せている。「これほど知りたがられているこの世界の『カルチャー』[訳注4]は、どこかで売られているものではなく、仲間うちのものにとどまり、その中で伝えられるものです。それが今日において起こっていることです」と、あるスイス人コレクターはきっぱりと言い切る。「このカルチャーに帰属するための基準を満たすには、完全にシステムの一員にならなければなりません。さもないと自分自身で、あなた自身の鑑識眼による作品評価額を支払うしかありません。それがオークションにおける、ある程度の価格を説明しています。買い手はこの場合、そのシステムには属していません。買い手たちをアート作品が激しく奪い合っているのです」。彼はこうしたよそ者の排除が実践されていることを、『あるしきたりの中に置かれたアート作品を購入しようとする者は、そのしきたりを身に付けていなければならない』という自らが編み出した格言で正当化することになる。

 ということは結局、カルチャーは「お金だけでは買えないもの」なのだろうか? いずれにせよ、ギャラリストの間では、顧客を選別するという方針をとることに賛意を示す意見が多くある。かくしてロンドンの権威あるギャラリーのオーナーは、アートマーケットにおける正当なプレーヤーと正当でないプレーヤーを区別することの妥当性を訴える。「私に会いに来てくれた人に、作品を売るのを拒否することがあるかですって? もちろん、ありますよ。プライマリー市場での価格は一般的にセカンダリー市場よりも非常に安く、コレクターの中には純粋に投機を目的としてこうした[有利な]価格から利益を得る者もいるのです。なぜ自分が所有している作品を彼らに売らなければならないか、わかりませんね」

 一般的な市場は、マックス・ウェーバーにとって「物だけを考慮し、人はまったく考慮されない」(3)世界であるが、アートマーケットについては事情が全く異なっている。そこでは逆に、買い手が常に注目を浴びているのだ。支払い能力があることに加え、信用に値する態度を示していること、慎重に選択を行なっていること、作品を入手したがる理由が単なる金儲け以外であることもまた、買い手には期待されている。例えば、購入したばかりの絵画を急いでオークションに出品し、高値で転売する意図がないかどうかクライアントに確認するのが、ギャラリストにとってもアーティストにとっても重要である。最悪なのは、クライアントが買い手を見つけるのに失敗し、アーティストの評価をひどく傷つける危険を冒すことだ。



(ル・モンド・ディプロマティーク 仏語版2017年12月号より)