封じ込められたアルジェリア内戦の記憶


ピエール・ドーム(Pierre Daum)

ジャーナリスト


訳:川端聡子



 1990年代はアルジェリアにとって暗黒の10年だ。なかでも1997年の夏は最悪だった。何度も市民が大量虐殺の標的にされ、国中が悲しみにうち沈んだ。政府軍と武装イスラーム・グループの対立はすでに過去のものとなったが、2005年に制定された大赦法と、凄惨を極めた内戦の記憶を封印したい政府により、人々は心の傷を癒せないでいる。内戦のトラウマをいまだ抱えるアルジェリアの現状のルポルタージュ。[日本語版編集部]

(仏語版2017年8月号より)

©️Nadjib BOUZNAD


 1997年9月22日夜、ベンタルハ。アルジェ郊外との境に位置するこの小さな農村集落で、村民400人が武装イスラーム集団(GIA)の男たちに殺された。わずか数時間の出来事だった。その翌日、フランス通信社のカメラマン、オシーヌ・ザウラルは、家族を殺された女性の身を裂かれるような苦しみをカメラに収めた。キリスト教のイコンを思わせる『La Madone de Bentalha(ベンタルハの聖母)』と題されたこの写真は世界中の新聞に掲載され、5年以上前からアルジェリアを引き裂いてきた暴力の象徴となった。この事件の3週間前、ベンタルハから数キロ離れた村、ライスでも同様の事件が村を血に染め、1000人近い死者が出ていた。その後、殺戮が広がっていくのを前にして政府はなす術もなかった。翌月には南オランのシグで死者50名、12月には(レリザンヌ県、ウアルセニ山脈に位置する)アミ・ムサで死者400名。1998年1月には(同じくウアルセニ山脈にある)ハド・シェカラで死者1000名超。さらにその数日後には(ミティジャ平原にある)シディ・ハメドで死者103名などの事件が続いた。当初は軍人・役人・知識人・外国人を標的として暴力が吹き荒れたアルジェリア内戦だが、数年を経て全く別な様相を呈していた。それは、国内外に大きな衝撃を与えることとなった、おぞましい一般市民の大量殺戮だった。

 2017年春、ベンタルハ。かつて農村地だった名残はみじんもない。ミティジャ平原の容赦ない都市化が、この古い村落の屋根の低い家々へと続く路地を覆いつくしていた。この20年ほどで各家屋は赤煉瓦か灰色のコンクリートブロックを積み上げた2階建てになり、通りは、現在アルジェリアの都市でみられる典型的な赤と灰色の醜い姿をさらしている。哀しい景観のたったひとつの美点は、この地区の入り口にそびえる新しいモスクだ。女たちはみな出かける際は必ずスカーフできっちりと髪を隠し、くすんだ色のコートに身を包んでいる。公共の場所を独占しているのは男たちで、その多くがあご髭をはやしカミス(ムスリムが礼拝のとき着用するジュラバ)を着ている。

 「その夜、私の叔父の家族は全員殺されました。ただひとり従兄弟だけが生き残りましたが、その後引っ越しました」。こう語るのは、取材に応じてくれたラシッド(30歳)だ。インタヴューは人目を避けるため私たちの車の中で行われた。ラシッドは「記事が政府の目にとまる可能性があります。やっかいごとは嫌なんです」と言い、本名を教えることを拒否した。まともな職に就かずにカフェで不法就労している。一日の仕事が終わると店主が1000ディナール(10ユーロたらず)を彼に払う。ラシッドは、叔父とその家族を殺した者たちを恨んでいるのだろうか。もしその後、始末されたのでなければ、殺人者たちのほとんどはアルジェリア国内を自由に出歩いている。彼らの一部はこのベンタルハにもいるかもしれないのだ。「いや、許しているよ。誰もが過ちを犯す。僕にとって、彼らはテロリストですらない。自分たちの宗教を理解していない馬鹿だよ。真のムスリムならば人殺しは許されないのだから!」。外では、スピーカーのスイッチが入り、祈りの時を告げる係が力強い声で一人ひとりに礼拝にくるよう呼びかけている。礼拝服姿の男性の群が車の前を通り過ぎ、モスクへと向かう。「アッラーが私を満たしてくださる。アッラーこそわが最良の管理者」。ラシッドは私たちにイスラームの祈りを唱えてから、会話を打ち切り人波に合流していった。

 アルジェリアで虐殺が続いた1992年~2000年代初頭の「暗黒の10年」のなかでも、1997年はもっとも痛ましい年だ。この年以降、政府当局によってその活動が「残存するテロリズム」と指定されたイスラーム武装勢力は、主として山岳地域と南部に潜伏し続けた。1997年の大量殺戮には共通したいくつかの特徴があった。政府による捜査がまったく行われず、メディアの介入が禁止され、犠牲者の数に疑義が残ったという点だ。殺人者たちの身元について不審な点もあった。ベンタルハの事件については、多くのアルジェリア人が——何の根拠もなく——「大虐殺を計画したのは軍だ!」と信じ込んでいる。

 ブガラもこうした「受難の町」のひとつだ。ミティジャ平原の真ん中にある大きな農村集落で、ベンタルハから20キロほどのところにある。低所得層の人々が暮らすダラス団地の1階に35年前から住むアブダラ・アグゥン医師は、この町のホーム・ドクターだ。「たくさんの私の患者がテロリストになるのを見てきました。そして、テロリストにならなかった多くの者たちは彼らに殺されたり、負傷させられたりしました」。アグゥン医師は、私たちが負傷した人とコンタクトをとるのを繋いでくれるだろうか? すると彼は言った。「絶対無理です! もしあなた方が彼らについて聞きまわったりすれば警察に連行されることになりますよ!」。目立たないようにしてもだめだろうか?「冗談でしょう? そこらじゅうに密告者がいるんですよ!」せめて犠牲者の遺族を紹介してはくれないだろうか?「だめです! あの時期、人々はあまりにもつらい思いをしました。内戦は20年前に終わったのに、今もその苦しみは続いています。彼らは話したがりませんよ」


©️Nadjib BOUZNAD

 そこで、私たちは単独でブガラの中心からはずれた地区、Haouch Bourelaf Khemistiへと足を運んだ。1997年4月22日、この地区で夜明け前に約100名の人々が殺されているのが発見された。当時ヌリアは24歳だった。目の前でふたりの姉妹と姪が殺されるのを見た。「お話ししましょう。私は元気そうに見えるでしょうが、心の内はぼろぼろです」。武装グループの元メンバーに対する大赦と、政府軍に殺された遺族への資金援助を与える「平和と国民和解のための憲章」が2005年、国民投票で決まった。この憲章に彼女は賛成なのだろうか。「2005年以降、いろんな物事が正常に戻りました。国はいいことをしたんです。それから、神の讃えられんことを! 今では水もガスもあるんですから!」。ヌリアの甥、ハレドがこちらへやって来た。彼は母親が死んだとき、11歳だった。「僕はこんな法律には反対だ! 人を殺したのに自由の身だって? そんなの異常だよ!」。まだ独身のハレドは、惨劇が繰り広げられた家で伯母とともに暮らしている。「中心街で時々、元テロリストとすれ違う。僕は道を変えるよ」。彼は仕事もなく、自分の土地もない。「声がかかれば他人の土地でも働くよ。1日1200ディナール[10ユーロ]のためにね」。ハレドは、政府が行なっている若者の就労ための融資を受けようとはしなかったのだろうか。「絶対にない! こうした援助はハラーム[イスラーム教における禁止行為]だ! 返済には利息がつくんだから」。三言ことばを交わすうち、イスラーム教が会話の中心テーマとなった。「僕は[敬虔な]イスラーム教徒だ。毎日5回、それもほとんどはモスクで礼拝している。あんたはムスリムか?」。違います、と私が答えると、彼が「少なくとも神を信じているのか?」と問う。そうではない、と私が答えると、彼は怒りで顔をひきつらせた。「さっさと家から出て行け! もう何も言うことはない!」

 ハレドやラシッドのように強い信仰心を持つ者は珍しくはない。アルジェリアの至るところ——小学校や大学、あらゆる路上やマンションの周りに存在する。「2000年代の初めにテロが終息したとき、イスラーム原理主義者たちは圧力をゆるめました。私たちは自由な数年を過ごしたんです。でもその後、髭の男たち[イスラーム原理主義者たち]が勢いを盛り返し、彼らの掟を強制するようになったんです」とアグゥン医師は振り返る。この20年で、1万弱だったモスクの数は政府の同意を得て2万以上に増えた(1)。今日、政府は主要なプロジェクトとして、サウジアラビアのメッカとメディナにあるモスクに次ぐ「世界最大のモスク」をアルジェに建立しようと計画している。12万人の信者を収容できるこのモスクはみなが「ブーテフリカ・モスク」と呼んでおり、今年末までには落成式が行われるだろう。アグゥン医師のような多くの一般のムスリムから見ると、「イスラーム原理主義者は戦いには敗れたが、人々の心を勝ち取った」のだ。アルジェの知識人や芸術家たちの限られた世界は別として、今日では無神論者であると告白することなどありえないし、信心深さを誇示しなくてはならない状況から抜け出すことすら不可能だ。「私は59歳です。この地区でたったひとり、髪を隠さずに外を出歩く女性です」とハシバは語る。彼女はジジェルの大学で人類学の教授をしている。「毎日、隣近所の女性たちの誹謗中傷に耐えています。彼女たちは、私のことをはしたないと思っているんです。想像してください。彼女たちに私が神を信じていないと知られたらどうなるか。引っ越すしかなくなるのは確実です」。ハシバの夫は共産主義者で、夫妻宅に来たアルジェの同志をもてなす際はワインを開けることもある。「そういう時はドアも雨戸もカーテンも、なにもかも閉じます。共産党が禁じられて、秘密の集会が行なわれていた時代よりひどい状況です!」と、彼女の夫が冗談めかして言う。多くの地方都市がそうであるようにジジェルでもアルコールを出すレストランは少しずつ店を閉めている。地方自治体の長から直接命令が下されたり、あるいは店主が営業許可証の更新についてたびたび妨害を受けたためである。「アルジェでレストランに行くときは、夫は一人で飲んでいます。他人の視線にはうんざりです」と、ハシバが続ける。

 一見、こうした過剰な信仰心は驚くべきことと思われる。イスラーム原理主義によってあれほど苦しめられた社会が、いったいどのようにしてイスラームの戒律をここまで受け入れることができたのだろうか。精神分析学者のハレド・アイト・シドゥムはアルジェにある診察室で、1990年代の後遺症に苦しむ数多くの患者を診ている。彼は、「熱心なイスラーム信仰への回帰は、何もアルジェリアに限らない」という点を特に強調した。これは「世界的な現象」なのだと言う。だが、アルジェリア人独特の事情があるのではないか、と問うと、彼はこう答えた。「ええ。20年前の暴力——植民地化という暴力、そしてさらには独立戦争という暴力に輪をかけるような——はトラウマを引き起こし、そのため今でもみな苦しんでいます。イスラーム教は痛みを和らげてくれる薬として作用します。問題なのは、そうした鎮痛剤のなかには、強い依存症を引き起こすものがあることです。宗教がそれです。この“ドラッグ”を進んで売るのが国家であれば、なおさらです」

 鎮痛剤というのは、普通ならば患者が根本治療を受けるまでのあいだ痛みを和らげるものだ。ところが、トラウマを取り除くための根本治療の計画は皆無である。犠牲者または加害者となったアルジェリア人が、心を深く傷つけられたあのおぞましい虐殺について語れるように政府が配慮したことなど、一度としてない。ブルギバとベン=アリの独裁政権後にチュニジアで行われたような「真実・尊厳委員会」(2)も、モロッコでハッサン2世統治時代後に行われたような「公正和解委員会」も、一度として開かれていない。2005年、アブデルアズィーズ・ブーテフリカ大統領は、(殺人を犯した抵抗運動のメンバーや拷問を行った警察も)すべての人々を「許し」、恩赦を与えれば済む、それで平和が戻り、暴力を忘れて前へ進むのだと国民を説得した。「過去は死んだ」——あたかもこの諺のように。「でも過去は決して消せません」とハレド・アイト・シドゥムは言う。「2005年の『平和と国民和解のための憲章』にはぞっとします。人々の抱えるトラウマを治療せずに隠蔽し、被害者に加害者を赦すことを強要するものだからです。たとえしようと思っても、加害者と友達になるなど、人間の心理ではできないことです」

 アルジェリアには精神分析学者が5名しかおらず、心理学者たちの連携も弱い(3)。重度の患者の場合は精神病院へ送られ、施されるのは薬物療法、身体拘束、電気ショック療法だけだ(4)。「テロにより精神的障害を抱えて苦しんでいる患者がいても、その患者をどこへ連れていけばいいのかすらわかりません」とアグゥン医師はこぼす。「最悪なのは、そうした患者が除霊者(raqi)のところへ行くことです!」。初期イスラーム教の流れを汲む悪魔払いの儀式、ラキア(raqia)では、精神を病んだ者の心には邪悪な魔物・ジンがとり憑いているとみなす。そして、除霊者は、病人の肉体からジンを取り除くためにスーラ[コーランの章。114章ある]を何章か唱え、動物を生贄に捧げたり、病人にさまざまな秘薬を調合して飲ませる。このため患者たちが死に至ることもある。

 2005年の憲章は、こうしたトラウマや、その原因を作った責任の所在を見えなくしている。憲章の条文では「テロリズム」という文言は消えてしまい、「国家的悲劇」に置き換えられている。「悲劇」にしてしまえば、その責任を負うべきは神々か、あるいは運命だけということになる。「私は自分が犠牲者だと思っています」とオマール・シキ氏は打ち明ける。シキ氏は、当時ジャメル・ジトゥーニ率いるGIAに属する武装グループ「死のファランジュ[軍隊]」のメンバーだった。残酷なことで知られるジトゥーニは、わけてもティビリヌの修道士誘拐および殺人事件(1996年春)を引き起こしたことで告発されたが、1996年7月に世を去った。「政府軍に兄をひとり殺されました。私自身も6年間家族や愛する人と離れ、マキ[抵抗運動のための地下組織]での生活を強いられました」と言う。元「テロリスト」たちは、渋々ながらもこうした話を私たちジャーナリストに語ってくれた。彼らに話を聞いたのは、夜、名もない通りに停めた車の中でのことだった。国の恩赦で訴追を逃れても、警察の嫌がらせから逃れることはできない。このことは、すべてのアルジェリア人がわかっているように彼らもわかっている。シキ氏の発言のとおり、みな自分は犠牲者だと考えているのだ。

 「私は運が良かったのです。誰も殺さずにすみました。良心に恥じるところはありません!」。サイード・Cはきっぱりと言う。元GIA地域指揮官の彼は、1998年にハサン・ハッターブとともにGSPC(宣教と戦闘のためのサラフィスト・グループ)を創設した。GIAと、FIA(イスラーム救国戦線)から枝分かれしたAIS(イスラーム救国軍)と連携をとっていたグループだ。ずっと強い信仰心を持ち続けてきたサイード・Cは、自身が暮らすアルジェ郊外の地区、ビルトゥタのモスクでシャイフ(5)を務めている。「父がしてきたことはすべて知っています。父を誇りに思います!」。こう語るのは、当時、もうひとりの大物「テロリスト」だったアブデラック・レイヤダ氏の息子、アドレーヌだ。現在、彼はバラキに住んで建築資材のビジネスを営んでいる。「父はテロリストではなく、政治家でした。政府に対して批判的で、武器をとって政治的主張をしたというだけです。そもそもブーテフリカ自身が、1992年当時自分も若ければマキに加わっていただろうと言っているんです。大統領がこう言うのに、私の父が犯罪者なんてことありますか?」。私たちがアブデラック・レイヤダ氏に会う約束を取り付けたことを聞きつけ、アルジェリア保安局がレイヤダ氏に会うのを妨害してきた。息子のアドレーヌにインタヴューを始めて数分後、私服警官がやってきて打ち切られた。その後、私たちはアルジェの警察署で2時間の尋問を受け、釈放された。

 「平和と国民和解のための憲章」が制定されて10年以上経ったが、アルジェリア人社会に和解がもたらされたとは決して言えない。各人が暴力の責任を他人になすりつけている。FISは1992年3月に解体されるが、1989年からその時点まで選挙でFISを支持した多くの人たちはなにひとつ悔いていない。「そうです! FISに入れましたよ。この国の90パーセントの人と同じにね」と、バブ・エル=ウエドのエス=スンナ・モスク近辺にある宗教本専門書店の店員であるサイードは言う。当時この地区の通りは、このモスクのスピーカーからFISのカリスマ的指導者、アリ=ベルハージ氏の「イスラーム教国家のために戦い、死にゆくのだ!」という熱弁が聞こえると神に祈りを捧げる男たちでいっぱいになった。サイードは多くの近所の人々同様、得意気に濃いあご髭をたくわえ、常にカミス姿だ。「当時、FISはまさに平和的に権力を握りつつありました。政府が恐れたのは暴力の火蓋を切った彼だったんです」。現在、サイードはアルジェリアがイスラーム教国家になることを望み続けている。「だけど、暴力によってそれを実現しようとは思いません。私はサラフィー主義者です。サラフィー主義の真髄は善と徳なのですから」

 1992年に、シャリーア(イスラーム法)に縛られた国家で生きていくよりは軍事クーデターのほうを選んだ人々も、まったく悔恨の気持ちがない。「なぜこんなに苦しんだのか、それは頭に何も被らずに街を歩く権利を得るためだったのです!」。もしあのクーデターがなければ、20万という死人(一般的に正しいとされている見積もりであり、確かな数字は不明)は出なかったのでは?——この仮定を投げかけるやいなや、シェリファ・ケダルはすぐさま苛立ちを見せた。1996年の夜に兄弟姉妹を目の前で殺されたも同然の彼女は、現在は「テロ」の犠牲者の権利のために戦う会社、Djazaïrouna(「私たちのアルジェリア」の意)の社長だ。「政府軍がテロに抗う唯一の砦だったんです。でも現在、私たちは白い目で見られます。私たちがデモをすると警察に連行されるんですよ!」。非宗教的な仲間内の集まり(フランス語話者たちの集まりであることが多い)では、1992年の(反イスラーム原理主義の)将軍たちが権力を掌握したことについては肯定的だが現政権には批判的だ。現体制を確立してきたのは同じ[彼らが肯定する]将軍たちなのだが、あまりにも「反民主主義的」という意見が多い。


©️Nadjib BOUZNAD

 だが、次の点においてはみな同じ見解だ。20年前の虐殺は「怪物」の成せる業だった、という見解だ。カリーマ・ラザリは、パリとアルジェで診察にあたるアルジェリア人精神分析学者だ。彼女は「あの時いったいなぜ私たちがあのような状況に陥ったのか、それを知るため過去を総体的に見つめ直すこと。私たちにはそれができていません」と、残念そうに話す。「このアルジェリア社会において、誰があのような暴力を誘発したのでしょうか? “怪物”などというイメージ像を作り出してしまったことで、私たちが自己を振り返る道は遮断されてしまいました。でも、殺害を実行した者たちはアルジェリア社会が作り出した“人間”なんです。彼らから何かを学ぶという大前提に立ってスタートしなければ、決してトラウマは乗り越えられないでしょう。それもせずに怪物を作り出し、戸棚に閉じ込める。怪物たちは戸棚が大好きです! そして戸棚は閉じられ、怪物たちは肥え太る。最後には、怪物たちが戸棚から噴き出します」

 私たちが取材した多くの人たちが、カリーマ・ラザリのように再び暴力が吹き荒れることを懸念する。[怪物を閉じ込めた]戸棚が壊れる予感のなか、アルジェリア人たちは日々怯えながら暮らしているのだ。アルジェリアの社会を内部から侵食するようにして恐怖心は広がった。そして、体調が極めて思わしくないブーテフリカ大統領の後継問題という政治不安によって、恐怖心はいよいよ膨らんでいる。たとえば、ひとりで外出する時間が長すぎる女性たちが抱いている恐怖。彼女たちは、出かけること、あるいは日が暮れてもまだ外にいることに恐怖を感じている。警察、諜報員や密告者に対する恐怖もある。知らないというだけで、見かけない他人を見れば誰も彼も敵対者だとみなす。活動中の武装イスラーム・グループに対する恐怖もある。こうした組織のメンバーが軍に射殺されたニュースに新聞が毎日のように紙面を割いている(6)。そして「悔悟」したすべての元マキザード[マキの一員。地下に潜ったゲリラ戦士たち]は彼らを告訴してやろうという市民たちから法律で守られているのだが、その元マキザードたちをも恐れている。バラキでは、私たちがアブデラック・レイヤダ氏の住所を何人かの通行人に尋ねると、彼らは必ずといっていいほど恐怖に怯える目をしていた。「彼がどこに住んでいるか、みな知っていても教えませんよ! 危険すぎます!」

 ブーテフリカ大統領が脳血管障害で最後に発作を起こしたのは2013年だ。それ以降、アルジェリア人たちは麻痺で話すことも歩くこともできない老人に統治されている。今年5月の国民議会選挙では、内務省は投票率が38パーセントだったとしている——だが、この数字が本当であるかは疑わしく、高めに操作されていることもありうる。私たちはアガ駅のホームで若い英語教師、タレクに出会った。彼ははこう言った。「今日、国民は政府がオイル・マネーを横取りしていることなど無関心です。彼らは怯えているんです。再び恐ろしいことが起こらないよう、ただそれだけを願っています」





(ル・モンド・ディプロマティーク 仏語版2017年8月号より)