男女同権より国家の安全保障

進まないイスラエルの女性解放


ローラ・レム(Laura Raim)

ジャーナリスト


訳:生野雄一



 イスラエルでは、近隣諸国との戦争状態による軍事政策優先の国情とユダヤ教の保守的な宗派の存在が複雑に絡み合って、女性解放が思うように進まない。国民の社会的背景もさまざまに異なり、それによって女性たちの境遇にも格差が生じている。そうしたなかで、粘り強い解放運動が各方面で展開されている。[日本語版編集部]

(仏語版2017年11月号より)

©Julien Chatelin - Divergence
ハイファでおもちゃを売る女性, de la série « Israël borderline », 2005


 女性の戦闘機搭乗を容認した後、イスラエル軍は女性の戦車搭乗禁止の解除も検討している。兵役を男性だけに限っていないごく少数の国の一つであるイスラエルは、世界一倫理観の強いイスラエル軍に大きな影響を持つ女性兵士たちについて積極的に伝えている。「近東唯一の民主国家」イスラエルは、1969年にはすでにゴルダ・メイアをも女性首相[1969-1974]に選んだではないか。

 イスラエル軍のホームページには女性兵士に関するコラムがあり、国境線をパトロールする「勇猛な」女性戦闘員の「勇気」を誉めそやしている。歴史の教科書には、制服姿のたくましい女性兵士がウージー軽機関銃[イスラエルIMI社製の短機関銃]を肩から斜めに掛けて顔は迷彩模様で隈取った姿の写真が、キブツ[イスラエルの共同農場]で土地を耕し、道を舗装し、見張りに立つ女性開拓者の写真と対をなして載っている。男女平等で近代的なシオニズム[イスラエルに失われた祖国を再建する運動](1)という神話を語る一方で、これら2つの画像はどちらも部分的な側面しか写し出しておらず、イスラエルの女性たちの社会的な役割の相反する両面性(アンビバレンス)を見えなくしている。

 「初期のキブツ──存在感は薄れつつあるが──においてさえ、女性メンバーは戦場や工場よりも、厨房や菜園、託児所や集団洗濯場で数多く雇われていました」とハイファ・フェミニスト・センターで私たちと会ってくれたサライ・アハロニ研究員は回想する。1948年のイスラエル独立宣言や1951年の法律が男女平等の原則を謳ったものの、当時の創始者たちは決して女性解放論者ではなかった。建国の父たちにとって、国家建設中にあって女性の第一の義務はユダヤ民族の存続の確保だった。「最低4人の子供」を産まなければ「ユダヤ人女性の使命」を果たしたことにならない、とダヴィド・ベン=グリオン首相[1948-1954、1955-1963]は忠告した。彼は、10人目の子供を産んだ「英雄的な母」に与えられる褒賞を1949年に導入した人だ。しかも、1960年代までは、新聞の出産通知は「イスラエル軍の新たな兵士」の誕生を祝ったものだ。パレスチナと人口を競うなかで、出産せよという命令が絶えず繰り返され、その甲斐あってイスラエルの女性一人あたり平均3.1人の出産率を達成して、イスラエルは2015年にはOECD諸国のなかで最高の出産率を誇り、地中海周辺でもエジプトと並んでトップだった(2)

 女性は、「家庭戦線」で子供を産む役割ばかりを求められ、テオドール・ヘルツル[1860-1904。シオニズム運動の創始者の一人]の好戦的な演説には全く登場しなかった。このシオニズムの創始者は、日記のなかで「地味で、控え目で、小心者で、ゲットー[ユダヤ人指定居住地区]の産物である」ヨーロッパのユダヤ人は、自由と「男らしさ」の呼びかけを理解できるだろうか、と自問している。力強く筋肉たくましい新ユダヤ人の男らしさは、強力な市民軍での戦闘能力を通じて培われるものだ。女性に残されたものは、母であり戦士の愛情深い妻の座だった。

 イスラエルの中心的な制度である軍隊の階級構造的で権威主義的な価値観は、退役将校が政府省庁、大企業、大学、さらには主要な平和運動にまでそのトップのポストに天下るに従って、あらゆる権力拠点に植え付けられていった。たとえば、[パレスチナとの平和共存を訴えるイスラエルのNGOである]ピース・ナウは300人の予備役将校によって創られた。「安全保障の観点である組織が信頼できるとみなされるためには、意見を表明する人は軍の上級者である必要がありました。男性しか裁判所に出す請願書に署名することができませんでした」とハンナ・サフラン氏は回想する。彼女は、[イスラエル北部の地中海沿いの都市]ハイファの、女性解放運動、女性同性愛者支援、反シオニスト運動の根気強い活動家で、イスラエルによるパレスチナ領土の占領に抗議して毎週金曜日にデモを行う「黒衣の女性たち」のメンバーだ。「女性が平和を求める自分たち自身の集団を作らなければならなかったのも、そうした理由からです」と彼女は説明する。「そしてまた、ある人たちは気付いたのです。1990年代の終わりにレバノン南部からの撤退を求めて闘った“4人の母”の運動のように、兵士の母として声を挙げた方がいいのだと……」

 1967年の6日間戦争の勝利とヨルダン川西岸地区とガザ地区の占領の後に勝ち誇った男性の支配力が急激に高まり、女性解放運動家たちは、イスラエルの占領地域で1987年の第一次インティファーダ[イスラエルのパレスチナ占領に反対するパレスチナ民衆の蜂起]を鎮圧した兵士の暴力は、いまだに年に20人ほどの女性が殺されている家庭内での男性の暴力と通じるものがあると感じている。「女性解放運動の最初の主張の一つは夫婦間暴力に対する闘いでした。というのも、まさにそれは男らしく保護者然とした男性の役割と相通ずるものだからです」と、イスラエル生まれのアメリカ人研究員ガリア・ゴラン氏は語る。彼女は、ヘブライ大学に1981年にイスラエルの女性研究の学部を最初に開設した人だ。

 1980年代の終わりから、女性研究者や活動家たちが提起した諸問題が制度として取り上げられていく。「1990年代は、女性解放の立法改革の10年間でした」と彼女は続ける。「クネセト[イスラエルの国会]では女性議員は今日の3分の1しかいませんでしたが、当時の彼女たちは女性解放論者でした」。とりわけ雇用と軍隊における平等に賛成しセクハラに反対する法律をはじめとして、100以上の法律が成立した。家庭内暴力に備えて緊急電話番号と避難所が設けられたことは世論の関心を呼んだ。1995年には、最高裁判所が空軍の戦闘機パイロット試験の受験を求めるアリス・ミラー氏の再審請求を認め、その後、軍隊の92%のポストが女性兵士に開放され、10年くらい前からは、3つの混成部隊に女性が加わる権利を得た。2001年に設けられた部隊では、参謀長に対してもはや「女性」問題ではなく「ジェンダー」の諸問題に関して諮問を行った。2016年にこのタイトルの変更が決定され、女性解放運動の世界における「使用すべき用語」の最先端のルールを示すこととなった。

 しかし、地上では、わずか7%の女性兵士しか攻撃部隊に参加できない。「私たちは戦闘員だ。戦闘員のイメージを守りたいのだ」と、去る11月にイスラエル・タイムズ紙にギー・ハッソン准将が戦車搭乗を男性に限る決定を正当化する主張を展開した。戦闘部隊はまさに最高階級への抜擢の舞台なので、戦闘部隊に加われない女性は階級を登っていくのに苦労する。ただ一人、オルナ・バルビヴァイ氏が、2014年に退役する前に階級制度の最上位から2番目の将官に昇進した。

 実際のところ、立法面では進展があったものの、社会的な次元では具体的な効果がまだあまり出ていない。たとえば、フルタイム労働者賃金の男女格差はイスラエル全体では22%だが、これはOECD諸国のなかで4番目に大きな格差だ。それでも「全体的には、女性の境遇は改善しています」とレイチェル・アザリア氏は言う。彼女は、現連立政権のメンバーである中道右派政党クラヌーの国会議員で、彼女が私たちを迎えてくれた事務所には、彼女がモデルとするヒラリー・クリントン氏の写真が堂々と飾られている。「クネセトでは初めて女性議員が4分の1以上を占め、カルニト・フルグは中央銀行を率い、ラケフェト・ルサク・アミノアシュは[イスラエルの大手銀行]レウミ銀行のトップです。男性しかいない政党は公然と非難を浴びています」と、エルサレムの元副市長のアザリア氏は断言する。彼女は、[女性の写真を公衆の場に掲示するのを認めない]超正統派の地区を運行するバスから彼女の[エルサレム市の評議会選挙の]選挙ポスターを撤去した運輸会社を相手取って、2008年に法廷で闘って有名になった。

 アザリア氏は、ユダヤ教の「現代」正統派[正統派のうち超正統派でない宗派]に属している。この宗派は、ユダヤ教の律法と慣習を厳格に守ることは、現代社会との融合やシオニズムと両立し得ると考えている。この宗派は、83万人の超正統派(ヘブライ語でハレーディーム)とは異なる。超正統派は、可能な限り社会や世俗の学問とのあらゆる接触を避けて特別な衣服を着用する決まりを守っている。アザリア氏は特に「正統派フェミニズム」と彼女が名付ける最近の飛躍を喜んでいる。「イスラエル国家建設以来、イスラエルの大長老職は常に正統派の──さらには超正統派の──きわめて不平等で祈りの権利の一部を男性にしか認めないハラーハー(ユダヤ法)アプローチを続けてきました」と彼女は説明する。「ところが、ここ数年来、Kolech[正統派の女性解放運動組織]のような女性解放団体がこれらの決まりの幾つかを変えることに成功しています。今日、女性たちはベト・ミドラシェ(学塾)[モーゼ五書の上級研究センター]やユダヤ教の集会所にあって以前より強力になっています。タルムード[ユダヤ教の聖典]を学ぶ権利や祈りの言葉を謳う権利を奪い取ろうという女性たちが増えています」と彼女は賞賛する。「2014年には、ハマス[イスラエルとの平和的共存に反対するパレスチナの過激派政党]に連れ去られて殺された青年たちの1人の母親で正統派のレイチェル・フレンケルが、その息子の埋葬のときに公然とカッディーシュ[礼拝の終わりに唱える頌栄]を唱えました。カッディーシュはこの地域社会では通常は男性しか唱えることができない哀悼の祈りです。そこにいた大長老たちはこれを拒むことはできませんでした。またこのようにして物事は前進するのです」。正統派女性解放運動家でエルサレムのシャハリート[朝の祈り]団体のメンバーでもあるトヒラ・フリードマン=ナハロン氏によれば、「大長老職による国家の独占を止めさせねばなりません。そして、祭式をオープンにしてより柔軟な改革派や保守派とせめて同等なくらいにしなければいけないし、アメリカのように個人が祭司を選べるようにすべきです」

 ハレーディーム(ヘブライ語で文字通りには「神を恐れる者たち」。ユダヤ教超正統派のこと)の間にあってさえ、「女性解放」を自称する宗派の誕生に接するようになる。「正統派の女性解放からは程遠いところで私たちの運動は始まりました」と、ドイツ人地区のカフェの辺りで出会った30才のラヘリ・イベンボイム氏は説明する。この地区は、今でもユダヤ教のあらゆるタイプの非信徒と信徒が行き交う数少ない地区の一つだ。彼女は、18才のときに後にも先にも20分しか会ったことがない男性の許婚にされ、メーアー・シェアーリーム地区の超正統派の街に住んでいて、自らの行動範囲の限界をとてもはっきりと認識している。「宗教上の行為について、たとえば祈りに関する男女平等を求める意見を表明することは全く考えられません。逆に、生活上の世俗的な側面、すなわち、超正統派の政党に女性が参加することや、教育における賃金の平等とか雇用に関しては闘えます」。2013年に、彼女はエルサレムの市議会選挙に立候補を望んだが、脅迫を受けて諦めた。「ハレーディームの男性の半分以上は働かずに、聖書研究に日々を費やします。さらに家族手当も減額されているため、妻たちが稼いでくるのです」と彼女は付け加える。「彼女たちの80%は仕事を持っていて、それは信徒でない女性たちと同じくらいの比率ですが、彼女たちの仕事はあまり熟練を要するポストではなく、雇い主も彼女たちの間の激しい求職競争につけ込んで、稼ぎは信徒でない女性たちより40%少ないのです。でも、昨日は家庭に閉じ込められていた女性たちが今日は興味深いキャリアのなかで花開いていると考えただけで、もうそれは大きな進歩です」。ハレーディームのほとんどの女性は小学校か幼稚園の教師になるしかなく、地域社会のなかに止まって世俗の生活様式に身を置くことがないので、ポストの不足によって彼女たちは、とりわけ高度な技術分野での研究を多様化させたり深めたりするようになる。「私の周囲では、私が自分の娘でなくてよかったと打ち明けながらも私に感謝するのです」

 宗教上の束縛はテルアビブで西洋流の世俗的な「あぶく」のなかで暮らす人にはわからないが、エルサレムの幾つかの地区や他の地域では重苦しいものになってきており、女性の「慎み深さ」と男女分離の決まりが段々厳しくなっている。「テルアビブに暮らしていれば多文化主義者になって寛容になるのは簡単なことで、超正統派も快い異国情緒にみえるでしょう」とアザリア氏は皮肉る。窮屈な家父長的な決まりを強いるハレーディームを誰もが非難するが、問題の根っこは、左派であれ右派であれどの政府も一度も国家と宗教を完全に分離しようとはしなかったという事実だ。しかし、どうすればそれができるのだろうか? ユダヤ人がパレスチナに「帰る権利」を主張するシオニズムの計画は聖書にも書かれているので、イスラエル建国の父たちは(きわめて普通のユダヤ教徒でしかなかったものの)常にユダヤ人の伝統との繋がりを維持し、宗教的権威を保証し、超正統派の小さな社会には、女性をさまざまな禁忌に従わせるのは仕方がないと覚悟して、ある程度彼らのやり方にまかせようと腐心した。

 大政党は小さい宗教政党の協力なくしては安定した連立を組むことができないので、彼らはさまざまな条件と引き換えにほとんどすべての政権に参加している。1947年には早くもベン=グリオンが[超正統派の]アグダット・イスラエル党に、イスラエルを国家として認めて貰う代わりに提示した条件のなかには、オスマン帝国のミレット制度[オスマン帝国が自国内に非トルコ系非ムスリム系住民の保護と支配を兼ねて設けた特殊な宗教自治体の制度]の伝統を引き継いで、家族法に関する宗教裁判所の管轄権を継続することが含まれていた。2001年以来、子供の監護や扶養年金を巡る訴訟は祭祀裁判所と同じような管轄権を持つ世俗の機関でも取り扱うことができるが、超正統派に支配されている祭司裁判所だけがユダヤ人の結婚と離婚に関する判決を下すことができる。それらの裁判所は完全に男性だけの世界で、女性は祭司になることができないので、祭司判事になることができず、証人として証言することもできない。さらに悪いことに、離婚証明書は夫の同意なしには得られず、夫は妻から有利な離婚条件を無理やり引き出すための恐るべき脅迫手段を持つことになる。夫が拒めば妻は再婚もできない。もし新しい夫との間に子供ができれば、その子供たちはヘブライ語でいうマムゼール、すなわち私生児とみなされる。バル=イラン大学の研究員ルース・ハルぺリン=カッダーリによると、今日、約10万人の「束縛された人たち」が離婚を諦めるか不当な離婚条件を甘受している。

 超正統派の男女差別と女性の「慎み」に関する要求は高まるばかりだ。1990年代の終わりにハレーディームの集団が大挙してやってきて人口バランスが崩れたベト・シェメシュ[エルサレムの30キロ西にある都市]のケースでは、原理主義者グループのエダ・ハレディッドの過激派の何人かが通学途上の8才の少女を襲った事件が2011年に大々的にメディアに報道された。カナダ出身の5人の子供の母であるニリ・フィリップ氏が感情を高ぶらせて私たちに語るには、彼女が、生まれ育ったこの町で走ったり自転車を漕いだりしていると石を投げつけられたり唾を吐きかけられたりしたというのだ。「私自身、現代正統派で、挑発的な服装はしていませんでしたし、スカーフを被り、ショートパンツをはいてもいませんでした。でも、女性が走っているというだけで彼らには許しがたいのです」。彼女は四輪駆動車を運転して、私たちを「黒衣の男性たち」で「独占」されている地区に連れて行って、建物に吊るされている看板を指差した。そこには、女はズボンをはくな、歩道を「うろつく」な、と書いてある。彼女が法の力に訴えて粘り強く市当局にこうした掲示板の撤去を求めた結果、2015年に裁判所がこれらを違法とした。それ以来フィリップ氏はもはやスカーフを被ることもない。「私が襲われたときハレーディームは誰も助けてくれなかったので、自分の身は自分で守るしかないと考えました。彼らが家父長主義者でありたいのならば、彼らは私たちを守るべきです。もしそれができないのなら、私におとなしい女性のままでいろとは言えないのです」

 しかし、日常生活において宗教の影響力がますます強くなっているのは、人口の11%を占める超正統派だけのせいではない。人口の約10%を占める宗教的民族主義者は、確かにもっと社会にとけ込んでいる。毎日聖書研究に明け暮れているわけではなく、世俗のユダヤ人と同じように働き兵役にも服している。だが、彼らは信仰の実践において段々と厳格になってきており、娘たちにはハレーディームと同じくらい丈の長いスカートをはくように仕向け、学校、スーパーマーケットでの列、保健センター、バスの中、そして軍隊においても男女分離を課している(3)。軍の組織は男女平等を大きく進展させる舞台ではあったものの、それはまた正統派の祭司職にとって格好の攻撃目標でもあった。彼らは、男性の信徒兵士が、見張り中でも車のなかでも女性と決して1対1にならないよう、また彼らが女性教官から教わることがないよう、そして完全に男性だけの部隊で服役できるように約束を取りつけた。

 実のところ、イスラエルではアザリア氏ほどに確信を持って女性の境遇が改善しているとは言い難い。それほどまでに、国民は種々雑多な社会的背景を持ち、保守的な力が働いているのだ。「一般的に言って、ヨーロッパ生まれのアシュケナジ[ドイツ語圏や東欧に住むユダヤ人]で都会に住んでいる女性は周辺地域に住むミズラヒム[中東、カフカス以東に住むユダヤ人]の女性(4)に比べて常に恵まれていました。そして、ミズラヒムの女性はパレスチナ人女性より恵まれています」とバル・イラン大学の研究員のオルリ・ベンジャミンは回想する。実際、1990年代以降の軍隊、政界、宗教界では女性の権利と存在感は間違いなく高まっており、それは、大多数の女性たちがますます不安定になっているのと軌を一にしている。リクード[イスラエルの二大政党の一つ]が1977年に政権に就くとすぐさま着手した自由化と緊縮財政政策は1985年にはインフレ対策の名の下に強化され、まさにそれは、ロシアとエチオピアから大波のように押し寄せた移民の影響で公共サービスへの要求が爆発的に高まったときだった。オスロ合意(5)によって1990年代中盤から高成長の時代が始まったときに、外交的雪解けによって、ミズラヒムの女性とパレスチナ人女性はその犠牲になったが、とりわけイスラエルは直ちにグローバリゼーションに乗じてかつての敵国に繊維生産の移転を果たした。すなわち、イスラエル北部ガリラヤでパレスチナ人女性を雇用し南部のネゲヴでミズラヒムの女性を雇用していた工場はヨルダンとエジプトに再び戻ったのだ。外国人労働者が大量に流入し、キブツで家政婦、介護士または農婦として働いていた多くのイスラエル国籍のパレスチナ人女性たちは、第一次インティファーダ以来彼女たちより信頼できるとみられたフィリピンやタイの移民女性にとって代わられてしまった。その結果、イスラエル国籍のパレスチナ人女性(イスラエル女性の20%を占める)の雇用率は、──在俗のユダヤ人女性の場合の79%に対して──31%と世界で最も低い水準となった。

 2003年にはイスラエルはかつてない景気後退に見舞われた。ベンヤミン・ネタニヤフ財務大臣は構造改革を一層進めた。国家が国防や[占領した領土への]入植と[ヨルダン川西岸地区との境界に沿った]分離壁の建設には気前よく出費する一方で、社会保障に関する支出の予算は過酷なまでに削減された。「スタートアップ国」という表の顔に隠れて、イスラエルは経済的不平等が最も大きい先進国になった。今日、5世帯中1世帯が貧困ラインを下回る生活をしている。「イスラエルはユダヤ人男性にとってすら暮らしやすい国ではないのです」と女性解放活動家のレヴィタル・マダール氏は総括する。「投資家か銀行家でなければ、生活は厳しいのです」と。福祉国家の崩壊は3つの点で女性を直撃している。第一に、そのおかげで母親たちが少なくともパートタイムで働くことができていた託児所制度の改悪だ。3才未満の50万人の子供たちのわずか20%しか補助金の出る公的な託児所に行くことができない。第二に、とりわけシングルマザーにとってパートタイム労働の給与を補っていた家族手当の減額だ。シングルマザーの81%が就労しているが、4分の1が貧困ラインを下回る生活をしている。最後に、優良な公職の削減だ。1980年代初めには70%の現役の女性が国のために働いていたが、2013年には17%しか働いていなかった。

 どうして女性解放運動家たちは、こうした事態の悪化を予想しないでいられたのだろうか? 「イスラエルの女性解放運動の最初のグループは特に中・上流階級のアシュケナジが多かったのです。代表的人物は軍や政界のエリートの妻や娘たちで、たとえば、ヤエル・ダヤンは、元参謀総長で大物政治家のモーシェ・ダヤン[1915-1981]の娘です。しばしば平和運動で活躍した彼女たちは、ミズラヒム女性の社会問題よりもパレスチナ女性の方に関心があったのです。しかし、人口の半分を占めるミズラヒムの女性は、常にアシュケナジのエリートの階級意識と家父長制度に苦しめられてきました」と分析するのは、[イスラエル南部の都市]ベエルシェバのベン=グリオン大学の研究員ヘンリエッテ・ダハン=カレヴだ。彼女は、自由主義の女性解放運動から「忘れられた人たち」であるミズラヒムの女性と、さらに、エチオピア、パレスチナ、ベドウィンの女性たち及びアフリカ諸国からの移民女性たちの窮状を訴えるために1999年に創設された女性解放運動グループであるミズラヒムの「Achoti」(わが妹)のメンバーなのだ。「2003年の家族手当削減に対する抗議運動はアシュケナジのインテリ女性によって起こされたのではなく、イスラエル南部の[イスラエルのネゲヴ砂漠にある町]ミツぺ・ラモンの労働者用共同住宅地区のミズラムのシングルマザーであるヴィッキー・ナフォーによって率いられたのです」と、彼女は続ける。パートタイム料理人の収入を補っていた家族手当がほぼ半分に減額されると知った彼女は、200キロの道のりを歩いてエルサレムのネタニヤフ氏に掛け合いに行くことを計画するのだ。「今日、アシュケナジの女性解放運動家は宗教界での男女平等を求めて闘い、女性祭司になり、聖書を研究する余裕がありますが、ミズラヒムの女性は、学問をし、仕事に就き、住居と正当な保障を獲得するために、いまだに経済的・社会的なレベルで闘い、グローバリゼーションの被害と闘わなければなりません」とダハン=カレヴは指摘する。

 「イスラエルがほとんどいつも近隣諸国と戦争状態にあって、軍事的、民族的、植民地主義的に強国であろうとする限り、国家の安全保障が優先され、環境保護や社会問題や女性解放といったその他の配慮は常に二の次に置かれるのです」とマダール氏は指摘する。この「包囲された城砦」の強迫観念は、女性の安寧が国家安全保障上の価値と直接に矛盾する場面でとりわけはっきりしてくる。たとえば、軍隊でのセクハラ事件が刑事裁判所で裁かれることは極めて稀である。直近の事件としては、2002年の「防衛の盾」作戦で勲功のあったオフェク・ブクリス准将が2016年に2人の女性志願兵から暴行の廉で訴えられて大佐に降格された件がある。准将の弁護に立ったガーション・ハコーヘン少将は厚顔にも聖書を引き合いに出して、ブクリス氏をダヴィデにたとえて、バト・シェバ[ヒッタイト人ウリアの妻で、後にイスラエルのダヴィデ王の妻、ダヴィデの跡を継いだソロモン王の母]に暴行を働いたにも拘わらずイスラエルの王となったと述べた。「強姦者である前に国家的英雄なのです」とマダール氏は締め括る。

 夫婦間暴力を政治的に取り扱うのも、国家の安全保障の観点から女性の立場を軽視するもう一つの例だ。テロの脅威からやむなく多くの民兵は銃器を携帯しているが、ときとしてそれが配偶者に向けられる。2002年から2003年の間に、33人(うち18人が女性)がこうして殺された。「キッチンテーブルでの銃器禁止」の女性解放キャンペーンで生まれた法律によって2013年には家庭内に武器の持ち込みができなくなり、死者がゼロになった。しかし、これもつかの間の例外現象だった。2015年に「ナイフのインティファーダ」[イスラエル各地で次々に発生したナイフによる殺傷事件]が起きてから、政府は再びイスラエル国民に武器の携行を奨励し、クネセトは2016年3月には[家庭内に武器の持ち込みを禁じた]あの法律を取り消す修正案を可決した。とりわけて、イスラエルとパレスチナの対立によって女性たちはジレンマに打ちのめされた。特にイスラエル国籍のパレスチナ人女性たちは、人口の10%でしかないのに2009年から2013年に夫に殺された女性の4分の1を占めていたが、警察に訴え出ることにはきわめて消極的だった。1994年にパレスチナ人女性たちが「名誉殺人」[婚前・婚外交渉を行った女性を家族がその名誉を守るために殺害する風習]のタブーを打ち壊すためにアル・ファナル(「ランプ」)運動を起こしたときに、裏切り者呼ばわりされたのだ。夫婦間暴力やセクハラと同様に、女性の経済的・社会的な窮状は二義的な問題と判断されてしまう。メディアも、ナフォー氏の抗議の行進を報道したが、それもパレスチナ人の自爆テロが大々的に報じられる日までのことだった。シングルマザーたちの主張は葬り去られてしまい、彼女たちは何も得るところがなかった。

 イスラエルで女性の境遇が改善していると認めるのが難しいのは、どういう基準でみるのかにもよるからだ。兵役に就いた女性は目覚ましい職業的キャリアを歩むチャンスはあるが、何らかの重大な性的攻撃を被るリスクは大きい。2013年の議会報告によると8人に1人がそうした攻撃の犠牲になっているのだ。さらに、彼女はイスラエル社会の軍国主義政策を非難することを諦めることにもなるのだ……。だが、ほかに選択肢があるだろうか?

 「女性のための法律面での最大の前進が『オスロ合意の時期』とイスラエル社会で軍国主義が一定程度緩和したことと軌を一にしたのは偶然ではありません。国家の安全保障以外のことを語ることができたのです」とサフラン氏は分析する。事実、多くの女性活動家たちは、女性解放と[イスラエルによるパレスチナ領土の]占領に抗議する闘争を結び付けている。サフラン氏にとって、この二つの闘いは不可分なのだ。彼女の息子が兵役を希望したとき、彼女は息子の制服の洗濯はしないと宣言する記事を寄稿した。





(ル・モンド・ディプロマティーク 仏語版2017年11月号より)