アメリカ人の情熱の物語

世界を征服したエアコン


ブノワ・ブレヴィル(Benoît Bréville)

ジャーナリスト、ル・モンド・ディプロマティーク副編集長


訳:村松恭平



 家庭でもオフィスでも、エアコンは日本社会にすでに広く浸透している。湿度が高く、気温が年々上がっている猛暑の夏をエアコンなしで過ごすことなどありえない —— 私たちの多くはそう考えるに違いない。ニューヨークの印刷所の依頼から生まれ、まず米国社会を制覇したこの装置は、それが導入された国々の生活様式を一変させた。[日本語版編集部]



 カナダのハミルトンでは毎年129日も気温が氷点下まで下がり、30℃を超える日数はたった18日しかない。ところが、50万人が住むこの街では82%の家庭がエアコンを所有している。[空気の温度や湿度を調節する]このテクノロジーを、市議会は健康問題に苦しむ住民たちに無料で提供しようとしている。米国ではエアコンを設置する金銭的余裕のない世帯向けの公的支援が考え出され、すでに行われているが、ハミルトンも同じような支援を実施するようだ(1)

 エアコンの設置に補助金を出す —— この措置は見かけよりは理に適っている。毎年夏、ネバダ州からフロリダ州まで多くの州で日中の気温が40℃を超え、息苦しい空気が広がる。夜間になっても気温はほとんど下がらない。エアコンなしでその土地に暮らせば呼吸できないほど暑い日々がひたすら続き、様々な体調不良 —— 高血圧症、肺機能不全、睡眠障害、頭痛など —— にも悩まされる。したがって、米国南部では97%の家庭にエアコンが備わっている。アリゾナ州などのいくつかの州では、大家は借家人たちに電気や水道と同様、きちんと作動するエアーコンディショニング・システムを提供しなければならない。

 だが、人工的に作られる冷気への米国人たちの愛着は、乾燥した不毛な地域あるいは亜熱帯地域だけに限られるものではない。猛暑の回数よりも雪が降ることのほうが多いバーモント州やモンタナ州を含む、米国全体に及んでいるのだ。家や車、レストラン、店、役所、交通機関、スタジアム、エレベーター、学校、スポーツ施設、教会など、エアコンはどこにでも存在し、季節や場所を問わず常に温度が20℃より少し上に保たれている。

 アフガニスタンに戦闘に向かう軍人たちでさえ、野営テントにエアコンを設置している。「エアコンが効いたオフィスの中で仕事をしている人間は、エアコンのない家をすぐに“耐えられない”と思うでしょう(2)」とジャーナリストのデヴィッド・オーウェンが指摘する。

 だが、エアコンに利用される冷媒が元となっている温室効果ガスの排出の観点からも[訳注1]、エネルギー消費の観点からも、こうしたエアコンへの依存は生態環境の面で多大なコストを伴っている。エアコンは毎年、その多くが石炭によって産み出されている米国の電気の6%、各家庭が支払う光熱費の20%を占めている。ほんの2年前には、米国において建物を冷やすために消費される電気量は、アフリカ全体で消費される電気量と同じ程度だった。さらに、車のエアコンを作動させるのに必要なエネルギーもそこに加えねばならない。年間260億から380億リットルもの石油がそのために使われているのだ(3)

 1960年7月、この技術は米国の家庭にはまだほとんど導入されていなかったが、Saturday Evening Postの一人のジャーナリストが「エアコンによる革命」を前にして驚いていた。ところが、実際は「革命」というよりも「ゆっくりと前進する、組織的な征服」であった。この征服は20世紀初頭に開始され、今日では世界全体に及んでいる。また、それは米国という国を再編成した。米国の地理、都市計画、娯楽、消費や社交性の形態、そして性生活をも変えたのだ。たとえば、エアコンが導入される前には、室内スポーツに取り組むには夏の暑さは厳しすぎると一般に考えられていた。あるいは、夏から9カ月後の4月、5月には出生数の大幅な減少が確認されていたが、室内温度が調整されるようになってからは季節ごとの出生率の変動がなくなった(4)

 エアコンが20世紀はじめに登場した時、それは人間の快適な生活を追い求めるためではなく、商品の保存を目的としていた。猛暑のせいで紙の印刷も保存もできないことに困っていたニューヨークのある印刷所が、室内の湿度と温度をコントロールできる装置をエンジニアのウィリス・キャリアに発注した。冷媒の入ったチューブに空気を[当てて]通す機械が1902年に完成した。その機械はすぐに成功を収めた。10年も経たないうちに、繊維、タバコ、パスタ類、チューインガム、小麦粉、チョコレートといった温度変化に弱い製品を製造するあらゆる産業がエアコンを導入した。

映画館の前にはホッキョクグマ

 結果は喜ばしいものだった。工場労働者たちがこの涼しい空気を歓迎したのだ。1921年、「[エアコンの導入によって]最大生産量が保たれ、労働者は見つけるのが困難などころか、キャリア社がエアコンを備え付けた工場での雇用を望むようになりました」と、その生産活動の一部をメキシコに移転させたばかりだったキャリア社の広告が誇らしげに語っている。その8年後、エアコンが備わった工場では「より健康的で気持ちのよい空気が最も望ましい労働者を引きつけ、労使間の対立をほとんど退けた(5)」と別の宣伝にはっきりと書かれている。だが、[上層部の]関心は従業員にとっての快適さよりも、むしろ利益のほうに向けられていた。猛暑の際には工場労働者たちの生産性が下がり、作業テンポは落ち、欠勤が増えたと当時の現場監督たちが指摘している。あるいは休憩時間を追加したり、仕事を朝早くから始めたり、生産を中断せざるをえないことも時折あったようだ。

 だが、テーラーリズム[米国の機械技師フレデリック・W・テーラーが20世紀初頭に提唱した工場管理の方式]と合理化の時代が到来していた。雇用主たちは最も高い効率性を確保しうる温度を測り始めた。連邦政府も同様に試験を実施し、夏にエアコンが使えない時にはタイピストの生産性が24%下がるということを明らかにした(6)。「最高の発明と、科学と工業の進化はどうして温帯地域からやって来るのか?」とキャリア社の広告が問いかけている。肌が日焼けし、地面にぐったり倒れ、顔の上にソンブレロ帽子を乗せた人物の姿がそこには描かれている。「なぜなら、数世紀の間、猛暑が人々からエネルギーとやる気を奪ってきたからです。エアコンは存在しませんでした。だから彼らは昼寝をしていたのです」。タイトルが「気温39℃、生産量ゼロ」とその意図を明確にしている(7)。かくして、エアコンはますます多くのオフィス、工場、行政機関を魅了していった。

 しかし、エアコンがまず労働と結び付いたとしても、映画館の例が示すように、娯楽やエンターテイメントもまた連想させる。19世紀の終わり頃、映画館はとりわけ冬に観客を引きつけていた。灼熱の太陽が照りつける閉ざされた場所に誰もすし詰めになりたくはなかったことから、晴れた日には、ホールは閉館にはならないにしてもガラガラだった。この状況を打開するため、映画館チェーンのバラバン&カッツが1917年から、シカゴにある彼らの施設を冷やすことを決めた。この戦略の成功を目の当たりにして —— エアコン設置のためにかかった費用は、一度の夏で得られた利益によって埋め合わせることができた —— ライバルたちがバラバン&カッツのやり方を真似するようになった。1936年以降、この街にあった256の映画館のうち、4分の3がエアコンを導入した。この動きは米国の他の主要都市にも広がった。それ以降、ホッキョクグマやアイスキューブ、あるいは雪の結晶といったイラストとともに「建物の中は涼しくなっています」、「いつも20℃に保たれています」という文句が書かれた看板が、ニューヨーク、ヒューストン、あるいはロサンゼルスにある映画館の入り口に飾られた。[エアコンのおかげで]夏はもはや閑散期ではなくなり、「夏の超大作」戦略の実施が可能となった。

 ほぼ同じスキームにしたがって、エアコンは映画館の次に電車、レストラン、商店、ホテルを征服していった。「エアコンはまず大手チェーンの施設に導入され、次にローカルチェーンに広がりました。その後、個人事業の商店に及び、ついには街角にある小さな店へと達しました」と、この分野の専門家が1937年に詳しく述べている(8)。エアコンを備えたライバル店に対抗することは非常に難しかった。新しいものに目がなく、一時的に夏から逃れることに大喜びだった顧客たちは、店内が暑過ぎる店には行かなくなった。それに加え、エアコンには衛生上の効力もまた与えられた。様々な広告や行政当局は、エアコンの空気は澄んでおり健康に良いと繰り返し伝えた。電車内ではタバコの煙がエアコンによって「まるで魔法のように」消えると言い、妊婦にも良い効果がもたらされるとされた。それは、シカゴの保健委員がとにかく断言していたことだ。彼は1921年の夏の間、将来の母親になる女性たちに対し、バラバン&カッツの映画館に行くよう勧めていた。彼女たちはそこでコロラド州の山々の中にそびえる「パイクス・ピークよりもより清らかな」空気を発見するだろうと彼は主張していた。

 こうした評判に支えられ、エアコンは第二次世界大戦後に米国人家庭に浸透した。戦間期にはいくつかの企業が個人消費者向けのエアコン市場に参入していたが、彼らの試みは結局失敗に終わっていた。彼らが発表した器具には一握りの金持ちしか気を留めなかった。その後、1951年にキャリア社は据え付けが容易で費用も安い「窓用エアコン」を商品化した。エアコンへの人々の殺到が始まった。1960年には12%の家庭にエアコンが備わっていたが、その20年後には55%、2005年には82%、そして今日では約90%に達した。最初はブルジョア階級の占有物、その後に中流階級の象徴となったエアコンは、今日ではほとんどどの家にも設置されている。

ラスベガスのカジノに誰が焼かれに行くだろうか?

 エアコンは米国のあらゆる地域と社会階層に広がりながら、その必要性を増していった。長い間、南部は北部よりも都市化が進んでいなかった。20世紀の初めには南部の人口が減少し始め、1910年から1950年にかけて1,000万の人口がこの地域から失われた。特に黒人は人種差別的な法律や農業の機械化がもたらした雇用不足に嫌気が差し、仕事を求めてミッドウエスト[米国中西部]に移り住んだのだ。1960年代以降は人種差別的な法律や制度が正式に廃止され、状況が反転した。かつては息苦しい生活を送っていた南部の住民や企業が、魅力溢れる機械を享受することになった。それ以降、人々は暑さが生み出す様々な問題に悩まされることなく太陽の光を楽しめるようになり、企業はやっかいものの組合から解放された。サンベルト地帯に位置する諸州の人口の米国全体に占める割合は、1950年から2000年にかけて28%から40%に上昇した。「エアコンが存在しなければ、今日フロリダ州に1,850万人が暮らしているなど考えられないでしょう(9)」と歴史家のゲイリー・モルミノは指摘する。オーランドにあるウォルト・ディズニーの遊園地は、まるでオーブンのようだったと彼は語る。ネバダ州の広大な砂漠の真ん中に位置するラスベガスのカジノに焼かれに行くようなギャンブラーもいないだろう、とも。

 アリゾナ州の茂みの中にあるフェニックスでは、1930年には5万人が暮らしていた。この州都には今日150万人が住み、郊外地区は日に日にその範囲を拡大している。街を覆っているコンクリートとアスファルトが日中に熱を吸収し、日が沈むとその熱を放出する。そのため夜間になっても気温はなかなか下がらない。この街では1年に約30日、温度計が43℃を超える(1950年代には7日だけだった)。2017年6月には3日連続で気温が50℃に接近した。朝から夜まで数十万台のエアコンがぶんぶんと音を立て、大気中に熱を吐き出した。それによって気温は2℃上昇し、エアコンの設定温度をさらに下げる根拠となった(10)

 エアコンなしで米国南部に住む、という光景ももちろん想像できなくはない。つい100年前には[エアコンは存在しなかったため]誰もそのことを問題にしなかった。だが、当時は人々の暮らしは気候に適応していた。最も気温が上がる時間帯に店は閉まり、息が詰まるほど暑くなった時には子供たちは学校に行かなくてもよかった。人々は昼食後にとかく昼寝をしていた。家の構造や位置もまた暑さに適応していた。たとえば、空気を循環させるために非常に大きな扉と窓が備え付けられ、部屋の間を仕切る壁は薄かった。太陽の光を遮るために大きなコーニス[建物の最上部にあって壁面より突出した装飾的な水平帯]が取り付けられ、床は地面よりも一段高く、ポーチには日陰が作られていた。もしそれでも十分でなければ、部屋の天井にはファンも設置されていた。エアコンと比べて10分の1から20分の1しかエネルギーを消費しない生活上の工夫だった。当時の人々は冷水の入ったボールに足を入れたり、濡れた布を首回りに巻いたりもした。

インターネットを作動させるのに不可欠なエアコン

 [エアコンが社会に浸透していった]1960年代以降にサンベルト地帯に新しく登場した住居は、ペンシルヴァニア州やインディアナ州に建てられていた住居と似通っていた。窓が小さなプレハブ式の一戸建ての家で、床は地面の上に直接置かれるようになった。セントラル空調システムを導入した近代的な建物や、窓を開けることすらできない高層ビルもまた建てられた。土地代が安かったため、街は延々と拡大していき、南部は北部よりもずっと車が必要な地域となった。こうしてエアコンは「南部のアメリカ化」、すなわち、地域的な特色の消失と米国の均質化を加速させたと歴史家のレイモンド・アーセノールトは指摘する(11)。それ以後、ルイジアナ州とアラバマ州では、学校も店もオフィスも日中に休むことはなくなった。隣人とお喋りをしながら日陰を楽しんでいたポーチはもはや存在しない。ニューヨークでは、夏に行商人から氷のかたまりを買う人がいなくなり、バルコニーや外階段の踊場にマットレスを置くこともなくなった。今では米国の北部でも南部でも、誰もがエアコンが備わった環境を享受しているのだ。

 米国人たちはいつでもどこでもエアコンを見つけられると思っている。外の気温が8℃を超えていない夜にでもシアトル住民がエアコンの付け方を説明してくれる一方、アラスカ州では約4分の1のホテルがこの快適な設備を提供している。この国の暑さへの耐性はついには失われ、今や米国人はほとんどの外国人観光客が寒すぎると感じるほどの室温を好むまでに至っている。高級ホテルや鉄道の一等車両内にしかエアコンがなかった時代と同様、「寒さ」はある種の洗練や気品にも結び付けられ続けている。2005年、ニューヨーク・タイムズの付録「モードとスタイル」(2005年6月26日付)によれば、ニューヨークの衣料品店は格式が高くなればなるほど低い室内温度を示していたという。たとえば、低価格ブランドのオールド・ネイビーの店内は26.8℃に保たれていたが、より高級なメイシーズはそれよりも4℃低く、高級ブティックのバーグドルフ・グッドマンの店内はおよそ7℃低かった。

 だが、エアコンの広がりには様々な落とし穴も待ち構えていた。それが登場した当初から、店や映画館の中が寒すぎることに不満を訴えようと客たちが怒りに満ちた手紙を送っていた。南部の一部の住民たちはこの技術を好まなかった。彼らはエアコンを、暑さに弱い人間が暮らす北部からの輸入品とみなしていた。フランクリン・ルーズベルト大統領は、彼の前任者が設置したこの機械を嫌っていた。「彼はエアコンに対して強い嫌悪感を抱き、エアコンを堂々と拒否していました。メディアに向かって発していた彼の極めて激しい批判はエアコン導入の逆風となりました」とキャリア社の幹部が1931年に指摘していた(12)。作家のヘンリー・ミラーから歴史家のルイス・マンフォードまで、多くの知識人たちがエアコンに抗う人々に加わった。ミラーは米国人と自然の対立の象徴をそこに見て取り(『冷房装置の悪夢』、1945年)、マンフォードは自らの環境を完全にコントロールしようとする人類の意思を批判していた(『権力のペンタゴン―機械の神話第二部』、1970年)。

 さらに今日では環境保護活動家たちがエアコンによる環境被害を糾弾している。肥満の増加を説明する際、科学者たちはエアコンを非難する。人は涼しい時により多く食べる傾向があり、部屋に閉じこもってデスクワークにますます励み、身体が体温を温めたり冷やしたりするためのカロリー消費をしなくなると彼らは論じている。フェミニストはエアコンが女性差別的に使用されていると強く非難している。オフィス内ではズボンにネクタイ、シャツを着た男性にはちょうどいい温度に常に調整され、ワンピースを着てサンダルを履いた女性たちを凍えさせているというわけだ(13)。したがって、毎年の夏、寒さに対処するためにセーターや毛布、あるいはコートを持って行かなければならないと不満を訴える女性たちの —— 時に男性たちの —— メッセージがソーシャル・ネットワーク上に溢れている。

 しかし、こうした抵抗もエアコン技術の進行を阻むことはまったくできなかった。行政当局は1960年代からエアコンを備えた家庭に好条件の貸付を行い、金融機関はエアコンのない物件の購入に高い金利を提示し、不動産開発業者は住居計画にはじめからエアコンを組み込んだ。ゼネラル・エレクトロニックのようなエネルギー関連の巨大企業も、こうした新たな需要に大喜びだった。こうして、エアコンはますます促進された。

 もっとも、エアコンが生み出したのは問題ばかりではない。快適さを提供したほかにも、エアコンはかつてマラリアや黄熱といった熱帯病が広がっていた米国南部の衛生状態を改善したし(たとえば、人が蚊に刺される機会が少なくなったことでマラリアの感染件数が減った)、夏の時期の死者数を減らすことにも貢献した。1979年から1992年までの間、つまりは貧しい人々がエアコンの恩恵にまだ恵まれていなかった時代、5,000人以上が猛暑のせいで死亡した。さらに、シカゴだけで500人以上が命を落とした1995年の熱波による犠牲者もその数字に加えなければならない(14)。今では猛暑は大量の犠牲者を生むものではなくなっている。エアコンは病院や手術施設において不可欠となり、さらには、温度コントロールが要求される医薬品の製造にも必要となっている。最後に、エアコンはインターネットを作動させるためのデータセンターを冷却もしている。

 それゆえ、米国では誰もエアコンの使用を抑制しようとはしていない。2008年、国連はニューヨーク本部内の温度を3℃上げることで模範を示そうとしたが、このイニシアチブが広がっていくことはほとんどなかった。ある程度のエアコンの使い過ぎに歯止めをかけるため、いくつかの街が消極的な措置を採るだけにとどまった。2015年、ニューヨーク市は店に対してエアコンを稼働させながらドアを開けっ放しにしておくことを禁止した。それは、涼しい風を送ることによって通行人を引き寄せようとする古くからのテクニックだった。

 2011年には、ある国が節制を強いられる状況に陥っていた。フクシマの原発事故後、日本人は電気の消費量、つまりエアコンの使用量を徹底的に減らさなければならなくなったのだ。当時、東京にある早稲田大学の教授がオフィスワーカーの生産性がどれほど減少するかを計った結果、一日当たり30分の労働損失があったことが分かった(15)。米国の雇用主たちが国連の模範に従おうとはしないのは、こうした理由からなのだろう。





(ル・モンド・ディプロマティーク 仏語版2017年8月号より)