散り散りになった国々で——旧ユーゴの大衆音楽


ロラン・ジェスラン&シモン・リコ(Laurent Geslin et Simon Rico)

ジャーナリスト


訳:川端聡子



 政治への苛立ちがつのるとき、イデオロギーの選択は音楽スタイルの選択からも見てとれる。パンク・ロックなど西側諸国の影響を受けた「ユーゴ版ニューウェイヴ」から、民族音楽を取り入れたターボ・フォークまで、旧ユーゴスラヴィアのロックは常にナショナリズムと対峙してきた。複数の民族が共存する社会主義国だったこの国の大衆音楽には、豊かな多様性と自由な表現があった。[日本語版編集部]




 1992年初頭。クロアチアでは、この1年ほどユーゴスラヴィア人民軍・セルビア人民兵とクロアチア独立国軍との対立が激化していた。当時、ユーゴでトップの人気を誇っていたのが、いずれもベオグラード出身のロック・バンド、エカテリーナ・ヴェリカ(Ekatarina Velika)、エレクトリチュニ・オルガザム(Elektricni Orgazam)、パトリプレイケルス(Partibrejkers)だ。この3つのバンドのメンバーは反戦を訴えるスーパーグループ、リムトゥティトゥキ(Rimtutituki)を結成し、彼らの曲はミロシェヴィッチ大統領のナショナリズムに果敢に反対するベオグラードの独立系ラジオ局「B92」によって広まることとなった。

 同年4月、パトリプレイケルスとエレクトリチュニ・オルガザムは、サラエヴォでラスト・コンサートを行なった。戦火が町に及びつつあったのだ。その2日後には包囲攻撃が開始された。当時のユーゴスラヴィアは、経済危機で大打撃を受けたうえ、慢性化した政治腐敗とチトー元帥の死(1980年)により政情不安にあった。そんなユーゴにとって、ベルリンの壁崩壊の影響やナショナリズムの政治利用は避けがたいものとなっていった。ユーゴ・ロックにおける音楽創作上の“同胞愛”は、終演を迎えたのである。

 ユーゴのミュージシャンたちは、体制側が引いた「レッド・ライン」を踏み越えない限り、ある程度の表現の自由を享受してきた。つまり、いかなる状況下においても各自がそれぞれの民族主義を煽ることは厳禁だった。それゆえ政府はロックの到来をいぶかりさえすれど、ロックを禁じなかったし、批判的でもなかったのだ。「ユーゴスラヴィアは旧ソビエト連邦国管理下の共産圏には属していませんでした。大衆文化が急速に『西側』化し、アメリカナイズされたのはそのためです」と歴史家でユーゴ・ロックの専門家でもあるイヴ・トミックは言う。60年代初頭、ユーゴスラヴィアの若者たちはツイストに熱狂した。輸入盤は難なく国内市場に流通し、ユーゴトン(ザグレブ)やRTB(ベオグラード)といった国内の主要レーベルから出されていた。

 70年代になると、ロックは大衆を惹きつけるようになった。サラエヴォ出身のメンバーから成るビィェロ・ドゥグメ(Bijelo Dugme、「白いボタン」の意味)は、ゴラン・ブレゴヴィッチが結成した最初のバンドだ(ブレゴヴィッチは後にエミール・クストリッツァ監督作品の音楽を担当して世界的成功を収める)。ロックとフォークロアを融合したビィェロ・ドゥグメは、10年間で国内最高のセールスを記録した。彼らが「ユーゴスラヴィアのビートルズ」と呼ばれる所以である。

 時を同じくして、ニューヨークとロンドンでパンク・ムーヴメントが爆発的に広まった。先頭に立ったのは「ノー・フューチャー!」と叫ぶ若者たちだった。当時、完全雇用で好景気にあったユーゴスラヴィアでは、こうした異議申し立ての文句は無縁のものかと思われた。ところがパンクはユーゴで市民権を得た。ユーゴスラヴィア社会主義連邦国のなかでもより西方の共和国2カ国を経由し、さらに東方の国々へと広まった。1978年、安穏としたスロヴェニアに衝撃を与えたのは、パンクルティ(Pankrti、「雑種」の意味)だ。彼らは「リュブリャナ(スロヴェニアの首都)は病んでいる!」とシャウトした。一方、クロアチアではParafが体制側が好んで聞く民謡〈Narodna Pjesma〉を[パンク風の]アレンジで演奏してみせた。パイオニアとなったこの2バンドによって、世界の最先端を行くアート・シーン、ユーゴ版ニューウェイヴ「ノヴィ・ヴァル」の到来が告げられた。その頃、ユーゴでも突如「現代の若者」が出現していた。「ダンディ・アーティ(芸術・ファッション志向)」の彼らがインスパイアされたのは、ドイツ表現主義や、ロシア構成主義とロシア未来主義といった、2度の世界大戦の間に起こったアヴァン=ギャルド芸術運動だ。「一番影響を受けたのはマヤコフスキーで、20年代のロシア・スタイルだ。デヴィッド・ボウイやグラム・ロックにも影響を受けたよ」。こう証言するのはザグレブの伝説的バンド、アウストール(Haustor)の元ヴォーカリスト、ダルコ・ルンデクだ。当時の彼は「ジギー」を彷彿させる出で立ちだった。「ジギー」とは、もちろんボウイの創り出した架空のスーパースター「ジギー・スターダスト」のことだ。俳優、ロック・スター、詩と文学の愛好家――ルンデクは、夜な夜なバーに集まる若者たちの、変幻自在な反抗の体現者だった。

 「ベオグラードのバンドを集めたオムニバス・アルバム『Paket Aranzman』には、VISイドリ(VIS Idoli)、サルロ・アクロバタ(Sarlo Akrobata)、エレクトリチュニ・オルガザムの曲が収められています。このアルバムはノヴィ・ヴァルの創始者のマニフェストです」と、内紛勃発までサラエヴォのラジオで音楽評論をしていた作家のヴェリボール・チョリッチは力説する。「ユーゴスラヴィアで初めて、外国の音楽よりも自国のミュージシャンの音楽が聞かれるようになったんだ」。こう振り返るのは、VISイドリのヴォーカリスト、ヴラディミール・ディヴリャンだ。ザグレブのバンド、FILMが歌ったヒット曲のように、都市部の若者は「リズムに乗って、踊って、違った生き方を夢見た」のである。

 アズラ(Azra)など、絶対的権力を持つSKJ(ユーゴスラヴィア共産主義者同盟)をあえて批判的に風刺するバンドもいたが、さして問題視されることはなかった。むしろ政府当局は寛大で、圧力がかかることは滅多になかった。ルンデクはこう語ってくれた。「一度だけ、〈The Working Class Goes to Heaven(労働者階級は天国へ行く)〉に対しては圧力があったよ。タイトルが嫌味たっぷりだったからね。消費社会がユーゴスラヴィアを征圧してしまったことを嘲笑するタイトルだった。当時コソヴォが緊張状態にあったし、コソヴォを独立させないように圧力があったんだ(1)」。1977年に文化教育連邦委員会がとった対策は、「有害レコード」には誰も買えないような重税を課する、というものだった。

 だが実際には、ノヴィ・ヴァルが求めていたのはダイレクトに政治的なことではなく、どちらかといえば今をエンジョイし、体制側の綻びから生まれたチャンスを享受することだった。「時代は変わり、人々はより自由を実感していた。学生はより自由な発言ができることを実感してたんだ。政治もチトーも政党も、そんなものまったく関係なかったよ」(2)と、ザグレブ出身のバンド、パトローラ(Patrola)のレナト・メテッシは当時を振り返る。

 だが、1982年からユーゴスラヴィアは危機的状況になっていく。連邦国中央政権の弱体化は深刻だった。ロックは死んではいなかったが、新たに台頭した「ターボ・フォーク」というジャンルによって、ノヴィ・ヴァルは少しずつ廃れていった。ターボ・フォークは自らの土着文化にそのルーツを探求しようとする音楽だ。特にミロシェヴィッチ政権が1987年に到来すると、セルビア共和国でもクロアチアでもナショナリズムが前面に噴出し、そんな中で伝統的旋律の復権が起こったのである。伝統的旋律が現代風にアレンジされ、リズムボックスとシンセサイザーを用いたディスコ調の味付けがほどこされた。「ターボ・フォークは民衆の心に火を点ける/あらゆる煽動で民衆を動かすのがターボ・フォーク/(……)ターボ・フォークは音楽ではない……ターボ・フォークは麻薬で、ターボ・フォークはナショナリズムだ(……)/私はターボ・フォークの生みの親ではない/ただ名付け親なだけ」(3)。1987年、唯一無二の歌手、ランボー・アマデウス(本名、アントニィエ・プシッチ)はこう歌っている。彼はユーロヴィジョン・ソング・コンテスト2012にモンテネグロ代表として出場し、世界的に名を知られることになるが、同コンテストで歌われた〈Euro Neuro〉はEUの金融危機を風刺した曲だ(4)

 「ターボ・フォーク」への返答として、ロック・シーンの政治へのコミットが始まった。1986年、ビィェロ・ドゥグメはユーゴ統一の立場をとった予言的な曲、〈Pljuni i zapjevaj moja Jugoslavijo〉をレコーディングする――「この曲に耳を傾けようとしない人々は、激しい嵐に巻き込まれるだろう」。その2年後、サラエヴォの人気グループ、プラヴィ・オルケスタル(Plavi Orkestar)が、第二次世界大戦のパルチザンのスローガンをタイトルにしたアルバム『ファシズムに死を――民衆に自由を』を発売した。しかし、1991年にクロアチアとスロヴェニアはユーゴスラヴィア社会主義連邦国からの独立を宣言し、1992年1月に独立が承認される。4月にはマケドニアとボスニア=ヘルツェゴビナが、セルビア、モンテネグロ両国との同盟関係を拒否した。セルビアとモンテネグロはミロシェヴィッチがユーゴスラヴィア連邦共和国として構成していたからだ。それぞれの民族のナショナリズムの炎が燃え上がった。

 1990年代初頭のセルビアでは、政治マフィアたちが結束していた。彼らはナショナリズムを利用して力を保持し、ターボ・フォークのスターたちを取り込んた。そのスターたちは金や尻軽女、マチズモや大型車を誉めそやす歌をうたった。セルビアの準軍事組織がターボ・フォークで踊りヴコヴァル陥落を祝う映像が、世界中を駆け巡った。3年後、歌手のレパ・ブレナが故郷のボスニアで物議をかもした。理由は〈Ljubav Je(これが愛)〉のビデオ・クリップだった。映像の中で彼女はラトコ・ムラディッチ総司令官率いるボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人民共和国軍の軍服を着用していたのだ。ムラディッチ総司令官といえば、1995年7月に起こった「スレブレニツァの虐殺」でのちに糾弾される人物である。一方、バルカン諸国全域で何百万枚ものアルバムを売り上げるという華々しい実績をもつ歌手、ツェツァは、将来夫となるアルカンことジェリコ・ラズジュナトヴィッチにスター客として集会に招かれた。アルカンは、極右政党「セルビア統一党」の党首であり、「タイガー」の司令官でもあった。「タイガー」とは、セルビア政府の軍事活動を支援した民兵組織で、彼らはボスニアとクロアチアで恐怖をまき散らした。「あなた方も私みたいに幸せになれるわ。セルビア統一党に入党しさえすればいいの」。集会に招かれた際、そう彼女は言い放っている。

 何人かのロック・ミュージシャン(ダルコ・ルンデクやゴラン・ブレゴヴィッチなど)は亡命の道を選んだ。残った者は愛国ロックに埋没したり(プルリャヴォ・カザリシュテなど)、それどころかセルビアのバンド、元ブリャ・チョルバ(Riblja Corba)のボラ・ドルデヴィッチのようにウルトラ・ナショナリズムに耽溺してしまった者もいる。ボラは今でもライヴ活動を続けている。また、クロアチアでは、「トンプソン」(第二次世界大戦で米軍が開発した短機関銃の名)のニックネームで通っているマルコ・ペルコヴィッチが過激なナショナリズムを表明し、1990年代から2000年にかけて自国のスターとなった。〈Jasenovac i Stara Gradiska(ヤセノヴァッツとスタラ・グラディシュカ)〉――この歌のタイトルとなっているのは、第二次世界大戦時のふたつの強制収容所の名前だ。この曲で、彼は第三帝国、つまりナチス・ドイツ帝国を賞賛すらしている。それでも、ある者たちは抵抗した。ランボー・アマデウスは、1992年末に行なわれたベオグラードのコンサートで次のように怒りをあらわにした。「いったいどうしたんだ。糞いまいましい大馬鹿野郎の市民たち? おまえら、ドゥブロヴニクやヴコヴァルやツズラが爆撃されてるあいだも楽しんだんだろ」

 それでも大衆はかつてのアイドルたちを忘れてはいなかった。ルンデクはこう教えてくれた。「内戦後、2000年に初めてベオグラードを再訪したんだ。すごく懐かしかったよ。誰もが僕をヒーロー扱いしてくれた。空港でタクシー運転手にこう言われたんだ。『みなあなたを待ちわびていました、ようこそ』とね」。分裂後のユーゴでコンサート会場を満員にする「往年のスター」は彼だけではない。パトリブレイケルス、プラヴィ・オルケスタル、ビイェロ・ドゥグメ、エレクトリチュニ・オルガザムなど多くのバンドが再結成し、ツアーを続行している。

 ユーゴスラヴィア・ニューウェイヴ(ノヴァ・ヴァル)の再評価は、とりわけインターネットによるところが大きいといえるだろう。旧ユーゴ連邦国家の分裂から20年以上を経た今、ヴァーチャルな旧ユーゴが再現され、失われた黄金時代を賞賛するネット掲示板やブログ、コミュニティ・サイトが存在する。ノヴァ・ヴァルはこうした「ユーゴノスタルジー」(5)の重要な一要素となっているのだ。ルンデクはこうした現象に苛立っている。「こんな伝説化は、あまりに現実とかけ離れている。過去を振り返っちゃいけないんだ。なぜなら新たな才能の台頭を妨害してしまうからね。いずれにしろ、今一番強力にみんなを結びつけているのはとにかくターボ・フォークだよ!」。まったくその通りだ。ターボ・フォークには今もスターが存在している。たとえばブロンドのイェレナ・カルレウシャだ。彼女はセックスやアルコールや金、そして同性愛者の権利擁護についても歌う。ターボ・フォークは、それぞれの国独自の音楽表現にあわせて形を変えながらバルカン半島全体を席巻しているのだ(6)





(ル・モンド・ディプロマティーク 仏語版2014年1月号より)