時代はSFを越えたのか?


カトリーヌ・デュフール(Catherine Dufour)

作家


訳:福田正知



 今という時の中に隠された可能性の蓋を開き、現在に密やかな影響を与える来たるべき未来を夢見ること、それがサイエンス・フィクション(以下、SF)の重要な役割である。とりとめもない少年少女向け小説の源と長くみなされてきたSFは、今日では未来予測としての価値を認められている。しかし科学技術が未来予測に追い付いた今、SFに予測できることとは一体何か?[フランス語版編集部]


James Rosenquist. – « U-Turn into Tomorrow », 1974
© Estate of James Rosenquist/ADAGP, Paris, 2017


 SFの定義は困難だ。SFの巨匠の一人、アイザック・アシモフは思い切って、「科学技術の進歩に対する人間存在の答えを気に掛ける文学の一分野」(1)と明言した。はるか昔に生まれ、紀元前18世紀のギルガメッシュ叙事詩に既にその面影を現しているSFは、19世紀初めになって技術進歩の加速を反映して爆発的に拡大する。

 まず、このジャンルに見られる二つのアプローチ、すなわち冒険小説的SFと近未来SFとを区別しなければならない。後者の近年のものは「サイバーパンク」とも呼ばれている。冒険小説的SFは、フランク・ハーバート『デューン/砂の惑星』(1965年)を代表例とするスペース・オペラから、アラン・ダマシオ『鎧戸の集団』(≪La Horde Du Contrevent≫、2004年、未邦訳)やコーマック・マッカーシー『ザ・ロード』(2006年)のような「終末もの」まで、「しばしば『ここではない他の場所で、明日に』(宇宙探索、あるいは遠い未来)という表現で説明される」ものである。他方、「サイバーパンクは今の世界、その暴力性、そして新興の科学技術について語りたがる」(2)。私たちを私たち自身から、そしてこの世界から遠いところへ導いてくれる冒険小説的SFは、今なおも前途洋洋である。しかし、私たちがまさに今日待ち構えている近未来を描き出す、SFのもう一つの流れについてはどうだろう?

 SFのこの別の系統とは「馴化(じゅんか)」の文学である。つまり、近未来SFとは進歩をそれが起こる前に飼いならそうとし、我々の生活のなかで実現するよりも前に、頭のなかで先取りしようとするものである。作家たちは、実験室でまだ研究中の科学的発見を掴み出し、それを幻灯機の如く社会という布の上に映写する。映し出された影を見て、読者たちは未来についてそろって考え始める。かつて偉大な預言的作品があった。まさに絵に描いたような技術発展に希望を託しつつ、偉大な作品は未来のパラダイム・シフトをずっと以前から予見することができた。ジョージ・オーウェル『1984』(1949年)と、そこで描かれた遍在するスクリーンがその例に挙げられよう(当時のフランスには4000しかテレビ受像機はなかった)。抗生物質も無い時代に、バイオ・テクノロジーによって人々が審判を受けるさまを描いたオルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』(1932年)、あるいは「インターネットが約千台のコンピュータの通信網」(3)でしかなかった時代に「サイバースペース[訳註1]と多国籍企業に対するハッカーたちの戦い」を描いたウィリアム・ギブソン『ニューロマンサー』(1984年)を挙げてもよい。

 こうした予知能力があるのに反し、一般的にSFは十分な評価を得てはいない。もしくは、少なくとも真面目に取り扱われていない。「SFに浸かり切っている」という表現(ここでの「SF」という言葉は「千切りキャベツ」と同じ使われ方をしている)はひとつの常套句となっている。夢想者やへぼ作家、前衛作家たちが逃げ込む境目の中の、「理解されない青春の本棚に追いやられてしまった薄暗いジャンルだと見なされ」(4)た辺縁に、SFは位置付けられている。これらの事情に通じたミシェル・ウェルベックも、2001年にすでにこう認めている。「軽率にも『通俗文学』として作品を発表し、それによってやむなく極端な批評的難解さを孕んでしまう、そんな才能豊かで不器用な同僚たちを人々に知らしめることは『一般文学』作家の義務である」(5)と。

 しかし今日、SFファンであったかつての青少年は大人になり、ビル・ゲイツやスティーヴ・ジョブズ、マーク・ザッカーバーグもそうだったとなると、SFをアウトサイダーとして論じることは難しくなる。学位を得た読者たちは、彼らの電気の夢を堂々と追っている。彼らはサロンやフェスティバル、科学シンクタンクを立ち上げ、そこでとりわけSF作家たちと意気投合している。未来の素材の話をするために2015年にトーマス・デイとジェラール・クラインを招致した環境・エネルギー制御庁から、この2年間に作家アラン・ダマシオとノルベール・メルヤナンを招待した「コンテンツとコミュニティのインキュベーターであり集合体」であるヨーロピアン・ラボ、そして2017年に編集者ステファニー・ニコを呼んだ生命倫理フォーラムに至るまで、その例は豊富にある。

 逆にまた、毎年盛大に開かれるフェスティバル〈ユートピアル・ナント〉では、現在宇宙物理学者のロラン・ルオックが会長を、作家ジャンヌ=ア・ドバがアートディレクターを務めており、芸術家たちの他にも多くの科学者たちを毎回招待している。そこでは作家のピエール・ボルダージュやシルヴィ・ドゥニが、物理学者(且つSF小説家)のエリック・ピコルや宇宙工学者エリーザ・クリッケ=モレノと対話する光景が見られる。大学界もこの傾向の例外ではありえない。リヨン大学をはじめいくつもの大学がSFと関連した科学的で社会的な研究を行っている。一般文学さえも軋み音をあげている。ミシェル・ウェルベックの『ある島の可能性』(2005年)に描かれるクローン人間によって、SFはほとんど正統文学的なものになった。辺縁から抜け出したSFは、今や「技術に関する警告の発信」(6)のための「社会進歩の真なるツール」として見られるようになった。ようやくSFが備える未来予測の真価や、現実を把握する力が認識されるようになったのだ。しかし、前衛または辺縁から支配的地位へとSFが移行したことは、それが持っていた予測力の衰えを意味してはいまいか?

 今日、『1984』に出てくるモニターはあらゆる家庭にある。『すばらしい新世界』に描かれている遺伝子操作技術にも、多国籍企業による大規模な投資が行われている。その他にも、グーグルはアンチエイジングのバイオ事業Calicoを創設した。アリエル・キルーは「雇用なき仕事の再発明」(7)というテキストで、「とりわけアングロ・サクソン系言語の文章作成プログラムに終止符を打つ『自動文章作成機』」を取り上げて、フィリップ・K・ディックの小説『もし、ベニー・チェモリが存在しなかったら If There Were No Benny Cemoli』(『ロボット化したニューヨーク・タイムズ』を基に、1963年に発表。未邦訳)と私たちの現在を比較している。ジャーナリストや「ホワイトカラー」の半分近くが、「来たる10年、20年の間」に人工知能によって置き換えられるとこの作家は予想している。すなわち、20世紀のSFが予想していたことのすべてが今まさに実現しつつあるのである。

 21世紀のSFは、超人間主義の「三本の柱」(8) の周りを途方もなく回り続けている。不死、バイオテクノロジー、そして人工知能である。Gafam(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン、マイクロソフト)の巨大な影響の下で、SFは彼らの社会的、経済的、そして人間的な影響のあり得る姿を分析している。労働界における技術の影響はその一例だ。ここから、アリエル・キルーの表現で言うところの「極端な推測」がなされる。パオロ・バチガルピ『ねじまき少女』(2009年)における人工知能にしろ、スナイル・マグナソン『ラブスター博士の最後の発見』(2002年)における貪欲な多国籍企業にしろ、新しいパラダイムを想像しようとするがためにこれらはその典型から脱してはいないし、これからも脱することはない。もちろん、人工知能やバイオテクノロジーが差し出す可能性を広げることは、文学の進むべき肥沃な道を開くことにもなる。しかし、私たちの時代はさらにその先を見通すための新しいオーウェルや新しいハクスリーを切望している。それは相対的な正当化[訳註2]の帰結であるのだが、おそらく芸術運動にとっての死に至る喘息、マニエリスムと呼ばれるこの病に苦しんでいることと表裏一体である。マニエリスム——これは誇張によって息切れを起こし、とりわけ息切れのために誇張してしまう運動だ。

 とはいえ、その息切れの全責任をSFが負っているわけではない。この責任はおそらく、SFの周囲で加速している現実にある。「現実はディック的世界観に向かい横滑りしているのか?」(9)。何か出版物のページを捲ってみよう。たとえば世界保健機関のレポートでは、欧州では騒音が原因で80万年分の寿命が損なわれていることが報告されている。それを改善するために、前衛的な技術を想像してみよう。それからインターネットで調べてみよう。それは既にある。ミューゾーという小さなグレーの騒音防止装置が、「あなたの周りに無音の領域を作り出し、このように外の騒音からあなたを守ってくれる」のである(10)

 少し前まで驚くべきものと思われていたアイデアは、今や芸術家の想像の世界だけで生きているわけではない。リュック・ベッソンの『フィフス・エレメント』(1997)における生命再生のシーンや、あるいはロジェ・ルルーのバンドデシネ『ヴィネアの三つの太陽』(『Yoko Tsuno』シリーズ第11巻、1976年、未邦訳)に描かれた魂のダウンロードによる不老不死の技術が、思いつくままに挙げられよう。ビル・ゲイツ氏の資産や、グーグルの技術部長レイモンド・カーツワイル、あるいはテスラ・モーター会長であり、脳をプリント回路に接続しようと試みるNeuralinkの創始者であるイーロン・マスクを介して、今や確立を待つだけなのはこれら技術の明証性である。では、アメリカの科学者でありSF作家でもあるヴァーナー・ヴィンジが1993年に提唱した、今から2050年までに人類を超越し、人類に終止符を打つようなレベルの人工知能が発明されるという「シンギュラリティ(技術的特異点)」は到来しただろうか? 科学よりも先を思考し、想像するSF作家の能力は失われてしまうのだろうか? 文学というジャンルが息切れしていることは中々認め難い——。『持続体の箱』(2014年、未邦訳)の著者レオ・ヘンリーの言葉を借りるなら、「SFは現実を前にして出鼻を挫かれている」のである。

 とはいえ、SFに一つの未来も残されていないわけではない。ありとあらゆる領域が科学の手中に置かれたわけでもなく、たとえば思想のような新たな発明を求めてもいるからだ。今日の秩序作りに一役買っている認知神経科学が、その威光がどれほどのものであろうと、意味の創出やあるいは政治の広範な争点を思考対象にすることはない。1954年にジャン・ロスタンは著書『ある生物学者の思考 Pensée d’un biologiste』(未邦訳)で、彼にとって進歩の限界だと考えられたものについて記している。「人は原子エネルギーを思うがままに利用するようになるだろう。結核や癌を治癒し、星々を旅し、そして寿命を伸ばすようになるだろう。だが、最もふさわしい者によって統治される方法は見つけ出すまい」。確かにこの領域においては仮説を出すことに意味がある。さらに言うなら、SFが「欲望と現実をつなぐ知性の膠(にかわ)」(11)であり続けることができるのは、人間を人間たらしめるものを問い続けることによってである。





(ル・モンド・ディプロマティーク 仏語版2017年7月号より)