「99%」という幻想


セルジュ・アリミ (Serge Halimi)

訳:村松恭平





 水は100℃に達すれば間違いなく沸騰する。だが、人間社会そのものが物理学の法則に従うことは期待しないほうがいい。世界で生み出される富の大部分を上位1%の人々が独占していることは確かだが、だからと言って、残りの99%の人々が連帯した社会グループを形成するとは限らない。まして一つの政治勢力となって沸き立つようなこともない。

 「私たちは皆、99%だ。1%の奴らの強欲さと腐敗にはもう耐えられない」というスローガンを訴え、2011年にオキュパイ・ウォールストリート運動が生まれた。様々な研究によって、景気回復から生じる利益のほとんどが最も裕福な1%の米国人にしか行き渡らないと明らかになったばかりだった。この事実は歴史上の例外的な出来事でもなければ、特定の国に限られた特徴でもなかった。各国政府が実施する政策を通じて、様々な地域において同様の傾向が強められてきた。たとえば、仏大統領のエマニュエル・マクロンが打ち出した税制に関する計画によって利益の大部分を手にするのは「最も裕福な28万世帯、すなわち最上位1%の人々だ(......)彼らの資産は、特に金融商品や企業の株で構成されている(1)」。

 他の99%の人々には、現体制を打ち倒すためのエネルギーを結集できるほど多くの共通点があるのだろうか? ある人間が億万長者でなく、恵まれた階級に属しているとしても、プロレタリアの人々と同じ社会グループにいるという幻想を抱くならば、慰めにはなる。ところが「99%」と言う時、恵まれない人々と層の厚い上位中産階級の人々(医者、大学教員、ジャーナリスト、軍人、会社の管理職、広告業者、高級公務員)は区別なく一緒くたにされてしまっている。後者がいなければ、1%による支配は2日ともたないだろう。何でもかんでも「99%」という巨大なグループにまとめてしまうことは、「多かれ少なかれ皆が中産階級に属する。そして、ほとんど誰もがすでに裕福な人間であるか、あるいはこれから裕福になるだろう」と主張した米国の建国神話をふと思い起こさせる(2)

 しかし、たとえ人々の結集と団結が力を生み出すとしても…… 歴史を振り返れば、彼らが一体となって行動する重大な瞬間は長くは続かないことが分かる。ラマルティーヌが友愛を唱えた1848年2月、労働者とブルジョワの人々は一緒になってバリケードを守ったが、数週間後には彼らは互いを敵視して衝突し、死者を出す「六月事件」へと至った(3)。現在はもう、人々が一致団結することは困難だ。一つの同じ国における二つの進歩主義的な運動の間においても同様だ。「人間社会から寡頭支配を排除する」といった大まかな考え方に基づいて共通の計画や持続的な政治勢力を構想するならば、せいぜいユートピア的幻想となるか、最悪の場合、選択をしない、決断を避けるといった無気力に人々は陥ることになる。そして結局、彼らは当事者間の契約に関わる法律や子供の虐待、交通事故といった身近な事柄にしか関心を持たなくなる。

 それ以外の事柄に関しては、「99%」という数字は大き過ぎて何の意味も持たない。




(ル・モンド・ディプロマティーク2017年8月号)