チュニジア、封印を解かれた歴史の証言


ティエリー・ブレジヨン(Thierry Brésillon)

ジャーナリスト


訳:樫山はるか、川端聡子



 昨年11月から、「移行期正義」のプロセスとしてアル=アビディン・ベン・アリ体制のみならずチュニジア独立の父ハビブ・ブルギバ体制の犠牲者たちにも聴き取りが行われている。闇に葬られた過去の掘り起こしはチュニジア社会を揺るがすほどの分断を引き起こしている。緊迫した政治状況下で、かつての指導者たちは責任を否認している。[フランス語版編集部]




 2016年11月17日から、「真実・尊厳委員会」(IVD)[訳註1]は公聴会を実施している。この委員会はチュニジアの「移行期正義」に基づく公式機関で、独立の1年前(1955年7月)から、この委員会を設置する法案が議決された日(2013年12月)までの間の人権侵害の実態と責任の究明を任務としており、このプロセスは2017年6月まで続き、100以上の証言が国営放送や民放でテレビ中継されることになっている。

 毎回の証言の中で、ハビブ・ブルギバ(1957-1987)からベン・アリ(1987-2011)と続く大統領任期における国家暴力が浮かび上がる。これらの証言が、肉体、精神、社会生活の破壊の実態を白日の下に晒したことで、人々の感情をおおいに揺さぶった。ベン・アリ政権の崩壊で幕が開けた混迷した政治の時代に、こうしたプロセス(真実・尊厳委員会)が時宜を得ているか否かについての議論はさておき、「真実・尊厳委員会」での聴き取りはチュニジア人に多くの問いを投げかけた。守るべき伝統的価値観とは何か?「国に奉仕する」と主張する際に誰が正当性を持つのか? 旧体制による抑圧行為をどう解釈すればいいのか? 一言でいえば、2011年の政治的断絶は国家の物語にも断絶をもたらすのか?

 この60年間、国の歴史の「正当な」解釈はただ国家だけが語ってきた。始めの頃はブルギバのスピーチを通して語られた。彼は女性の教育と法的解放により社会を封建的構造から切り離し、近代化を推進した予言者、創始者である。その後にはベン・アリの声を通して語られたが、彼は解放への展望も志も持たずに前任者の近代化推進のレトリックを再利用しただけだった(1)

 公式な歴史に対してようやく今になって表れた反応か、あるいは公の場での国民の発言権が復活したかのように、公聴会で明らかになった話は、国家による言説の裏側を暴露した。また、独立チュニジアの建国に際し一致協力した数々のイデオロギー的態度や、彼らへの絶え間ない弾圧を明るみに出した。その弾圧とは、1955~1956年の民族運動の最中のブルギバのライバルであったベン・ユーセフの排除(2)、60~70年代の極左への弾圧、70年代のアラブ民族主義運動に対する抑圧、1978年1月「黒い木曜日」や1983年12月と1984年1月「パン暴動」などの社会蜂起の厳しい弾圧、80年代のイスラーム原理主義者の迫害とそれに続く1990年からの彼らの抹殺であり、極左に近い学生運動への絶え間ない弾圧、2008年のガフサ鉱山における反乱の圧殺、そして最後は2010年から2011年冬にかけての民衆デモへの武力阻止の企てなどだった……。

 この公聴会の第一の目的は歴史の講義をすることではなく、独裁政権による権力行使が人間に及ぼす重大な結果を再現することである。証言に次ぐ証言に、昂ぶる感情、見えてくる情景は、苦痛、恐怖、屈辱、潰された将来、打ち砕かれた正義への夢、国家暴力により壊された家族であふれている。この紙面上で全ての証言を取り上げることはできないが、これ以上ない悲痛な証言の数々は今まで知られていなかったベン・アリ警察国家の苛酷さを明らかにした。1987年11月7日に当時首相だったベン・アリはブルギバを、大統領職の遂行に不適格と診断された、として罷免した。その「メディカル・クーデター」の直後には、自由化への希望のようなものがあらわれたものの、1990年から彼はイスラーム化運動根絶の組織的プロセスを開始した。彼の独裁政権はいかなる批判、問題提起にも不寛容で、宗教色のない政治団体からのものであっても同様だった。

 例をあげると、1991年10月、警察はイスラーム教徒のシンパであるサミ・ブラヒムを逮捕した。そして取り調べの過程において拷問を続けた後、裁判所に起訴し武力闘争への関与を裏付ける物的証拠として彼のちゃちな鉄砲を提出した。これには裁判官すら笑うほどだったが、それでも8年の実刑が下され、彼は最悪の監獄生活を送ることになった。「アブグレイブ刑務所[2003年からアメリカ軍がイラク人囚人用に使っていた]について聞いていることは全てチュニジアの刑務所で起こっていました。(……)1994年3月20日の独立記念日、囚人は中庭に裸で集められ、看守達は彼らを両側から棒で押して性的接触を強要しようとしました。これら全ては施設の精神療法士の指導の下で行われました。その日、私は神経症の発作を起こし保健室に連れて行かれましたが、看護師たちは私を破壊するために陰部にエーテルを注いで去勢しようと試みました」

 教員で組合活動家のバシール・ラビディは、2008年1月から6月のガフサ鉱山反乱のリーダーの一人だったが、6月6日の動乱鎮圧後、7月1日に逮捕された。「彼らは私と息子の関係を壊すため、同じく逮捕されていた息子が私を密告したのだと信じ込ませようとしました。そして私がいる部屋の隣で息子を拷問し、私は彼が苦痛で叫ぶのを聞いていました。2時間経ち警官は私の目の前で息子をレイプすると私を脅迫しました」

 こうした拷問による肉体的・精神的な暴力は[人々の]社会生活を破壊しようとする計画と一体だった。特にベン・アリ政権がイスラーム運動「アンナハダ」を根絶しようとしたときには、アンナハダ党の活動家やシンパを困窮状態に陥れ社会から孤立させるため、ありとあらゆる手が尽くされた。日に数回の警察署への出頭の義務化、彼らを雇用する可能性のある者への組織的圧力、[彼らの配偶者への]離婚の強要だ。それと同じ手段が他の敵対勢力、特に左派に対しても行使された。

 いくつかの証言は、すでにブルギバ政権下でこうした苛烈な弾圧が行なわれていたことに触れている。たとえばチュニジア中部の小村ガアーフールの共産義者、ナビル・バラカティの事件だ。1987年5月8日、彼は政府を批判するパンフレットを作成した咎で国家警備隊の留置所で命を奪われた。ナビルの兄であるリッダはIVDに足を運び、弟の苦難を語った。「あまり細部までは思い出したくありません。でも弟は爪を剥がされ、髪を焼かれ、肉は引き裂かれていました。顔は、まるで死神を追い払うのに使われていたフェニキア人のお面のように歪んでいました!」

 これらの公聴会で見られたもっとも注目すべき現象の一つは、男女問わず何人もの被害者が、ときには親族の意に背いてまでもタブーを破り性的虐待について語ったことだ。こうした赤裸々な内心の吐露は、彼らの話にいっそうの重みを与えた。[彼らの証言は]2011年以降でもっとも意味のある政治的発言であるといっても過言ではない。それは、[傷ついた人々の]治癒プロセスの始まりであり、組織的に仕組まれた抑圧に対する勝利への主張でもある。彼らを圧政国家との闘いに参加させることにより、弾圧で引き裂かれた人生に再び生きる意味と将来を与えることができるのだ。さらには数人の被害者たちには励ましと感謝の言葉がかけられた。自分が受けた責め苦について公聴会で語ったある女性に、警察官たちは「あなたは私たちの頭上に輝く王冠です」と言った。そうした言葉は、彼らの社会的地位の回復をうながすものだ。

 独裁体制から脱却した南米あるいは東欧の歴史は、過去について問い直すことが旧体制上層部と新体制上層部が折り合うための重要な要素の一つとなることを私たちに教えている(3)。弾圧の「必要性」とそれに伴う責任の所在を明らかにすることは、もっとも扱いが難しい事案の一つである。たいていの場合、旧体制支持派は、忘却すなわち国家的犯罪に関する記憶の消却が和解につながると主張する。フランコ政権後のスペインは、こうした「忘却の協定」のまたとない例だ[訳註2]。そのスペインと同じ論理でもってベジ・カイドセブシ氏は自身が大統領となった2014年の選挙キャンペーン期間中、こう明言した。「過去に決着をつけようとするのは反対です。今のチュニジアに必要なのは、前を向くことです。チュニジアはすべての“子供たち”を必要としています。われわれは和解に向けた好ましいムードを作らねばなりません」。結局のところ、それは裁判も、罪の認識も、反省もない「国民的和解」なのだ。だが、IVDがめざすのはカイドセブシ大統領が主張するような和解モデルではない。事実の立証、責任の明確化とそれについて裁判が下す判決、被害者への賠償、同じ犯罪を繰り返さないための改革、この弾圧を国の歴史に刻み込んで共有すること――そして、これらに基づいた過去の検証[による和解]だ。

 長期化する経済危機とチュニジアで民主主義が根付くのかという疑問のなかで、チュニジアの人々は移行期正義について相反する二つの考えの間で揺れ動いている。ある者はIVDの設置を歓迎しているが、他の者はIVDによって政治的緊張が高まる可能性があると考え、その結果を恐れている。過去の政権が行った犯罪行為、特にベン・アリ政権については許せないが、多くの人々が迷いの気持ちを表すのに「井戸は蓋をしたままのほうがいい」というアラブの諺を引き合いに出す。

 しかも、IVDの設置を承認したのは2013年12月、当時アンナハダ党とその友党が支配的だった憲法制定議会だ。つまり、もはや影響力を失った議会勢力と過去の一連の出来事から生じた機関なのである。2014年の選挙では、イスラーム政党であるアンナハダを牽制するため2012年に一部の近代化運動や前政権与党[訳註3]の人脈を取り込んで設立された政党「ニダ・チュニス[チュニジアの呼びかけ]」が勝利している。そして、エジプト、リビア、シリアの混迷により「アラブの春」という革命の価値は損なわれてしまった。カイドセブシ大統領は、政治的安定を固めようとアンナハダ党との連立を打ち立てた。その間接的な影響の一つとして、イスラーム政党の幹部が新たに政治に加わるのと引き換えに、旧体制の幹部らは比較的安定した状態を保証されたことがあげられる(4)。ベン・アリ統治時代の要人たちは、少しずつだが表舞台に復帰しつつある。失業者や民間セクターの労働者、そして工業汚染の犠牲者らによる社会運動が厳しい闘いを推し進めているものの、ほとんど大手メディアで報じられることはない。こうして「アラブの春」当時の政治体制と決別できる可能性はしだいに薄まっていった。あの革命は、現上層部が以前と変わらぬ経済政策を実施するのに際し国際的な政治援助を得るためにしか、もはや役立ってはいない。

 IVDによる司法面の進展は棚上げされたままだ。もっとも深刻な人権侵害を裁くとされる専門審議会に相応しい裁判官の養成の立ち遅れがその理由だ。IVDの教育的使命感は、世論が[テレビ放送される]公聴会に対しへきえきし視聴者が減少するにつれ、萎えてきている。[ジャスミン]革命の「殉教者」の遺族と負傷者であり、どの政治的団体にも属さない者、政府上層部との裏取り引きにまったく関与しない者だけが頑として妥協せず、力関係に屈し短期間で政治決着をつける要請を拒否している。モスレム・カスダッラー氏は、ベン・アリ政権の挑発と手下たちに抵抗するため組織された地区委員会に加わり、2011年1月13日に銃弾で足を砕かれた一人だ。カスダッラー氏は言う。「殉教者や不自由な身体にされた人々の母親が『息子や娘が心穏やかでいる』と感じることができるようになれば、私は穏やかな眠りにつけるでしょう。それは彼らが正しかったと認められたときのことです」




  • (1) Kamel Labidi, « La longue descente aux enfers de la Tunisie», Le Monde diplomatique, 2006年3月号参照。
  • (2) ベン・ユーセフは、フランス植民地政府に対する強硬派のパルチザンであり、新ドゥストゥール党の総書記(1948-1955)を務めた。
  • (3) Sandrine Lefranc, Politiques du pardon, Presses universitaires de France, Paris, 2002.参照。
  • (4) «Alliance conservatrice à l’ombre de la menace djihadiste», Le Monde diplomatique, 2016年1月号参照。


    [訳註1] 内戦など紛争による人権侵害と折り合いをつける社会の試みと仕組みを意味し、①刑事訴追②公聴会開催③被害者への補償④制度改革⑤公的謝罪などが行われる。
    [訳註2] フランコ独裁政権後のスペインではフランコ政権上層部と反体制派上層部の合意のもと平和的に民主化への移行が進められ、通常行われる「移行期正義」のような過去の弾圧についての検証がなされなかった稀なケースだった。
    [訳註3] 立憲民主連合のこと。ベン・アリ政権崩壊後に解党した。


(ル・モンド・ディプロマティーク2017年5月号)