声を上げ始めた中国系フランス人たち


チャン・チューリン(Zhang Zhulin)

ジャーナリスト


訳:川端聡子


 長いあいだ遠慮がちだった在仏中国人たち。だが、2016年9月、力強いデモを組織した彼らが突如として町の光景になだれ込んできた。同年8月に仲間である中国系男性が襲撃され死亡するに至ったことから、治安対策の強化を求めて彼らは集まったのだ。それは驚嘆すべき一致団結ぶりであった。先達である親たちの世代とは違い、若い世代は自分たちに向けられた偏見と戦おうとしている。[フランス語版編集部]



 パリ近郊、デファンス地区にある超高層ビルの9階にユー・フェイラン氏(30歳)のオフィスはある。エンジニアのフェイラン氏は、中国人のあいだで極めてポピュラーなSNS「WeChat(微信)」上で行われる議論に活発に参加している。彼のグループのメンバーは約500人で、学生、エンジニア、商人、研究者、企業主などが集まっている。メンバーの大部分がフランス在住か、あるいは以前フランスに住んでいた人たちで、彼らは日常的に会話をしている。

 2016年8月2日の午前中のことだ。ある若い女性ミュージシャンが[投稿で]罵った。「コンフラン=サントノリーヌ[イヴリーヌ県]でチベット人のグループとすれ違った。彼らは、以前はホームレスが占拠していた街角にだらだらとたむろしている。馬鹿ども[フランス人たち]は、なぜ彼らを放置しているのか」。異様な加熱ムードのなか、自身も10歳でフランスへ来たフェイラン氏は、この議論を静めようとした。「そのチベット人たちは避難所を求めている他の人たちと何ら変わりません。市民団体が彼らの世話をしています」。だが、それも無駄骨だった。他のメンバーが発言した。「フランスはゴミ箱ではなかったはずだ。なのに、たくさんのクズを受け入れた」。それから1カ月後、フェイラン氏はこの激しい論争を中立的な立場で見ていた。この種の意見を発信しているのは、たいていの場合「不公平な目に遭っていたり、あるいはフランス社会にかなり氾濫している人種差別的な言葉を投げかけられた」人たちなのだと彼は断言する。

アジア的容姿による先入観

 フランスの政治指導者たちは好んで移民との統合について語りたがる。だが、そのくせ同じフランス市民であるアジア系移民の声を、事あるごとに、広く流布する社会通念のなかに埋没させてきた。中国系移民の1世たちがつらい思いをしているにもかかわらず口をつぐみ黙し続けるのに対し、言葉の壁がない2世・3世たちは[そうした社会通念に]抵抗しようと決意した。「フランス社会には、顔かたちによるある種の“役割指定”が存在します。フランス人は私の顔を見ると、私が一言も発していないのに、ある役割を当てがいます。彼らは私の顔からあるメッセージを受け取り、それを解釈するんです。つまり、このアジア人は勤勉で、おしゃべりを好まず、事を荒立てるのを好まない、といったふうにです」。パリ・ドフィーヌ大学で経営学の学位を取得し、在仏中国人青年協会会長でもあるワン・ロイ氏は、このように指摘する。

 フランス国立科学研究センター(CNRS)で中国人コミュニティを研究する社会学者のワン・スーモンは、[中国系移民に対する]このような評価は、他の移民の場合、すぐさま悪意をもっていることを疑われるのに比べれば「差別是正のための優遇措置」[訳註1]のようなものと考えている。だが、ワン・ロイ氏にはそんな「利点」はまったく感じられない。「もっと若かったころ、肌を白くするために漂白剤を買いたかった」と言い、幼少期から直面し続けなくてはならなかった偏見や人種差別的な言葉の数々を列挙する。

 彼らの若い世代は、アイデンティティの葛藤に苦しむことが珍しくない、とフレデリック・チョウは語っている。彼は、特に『最高の花嫁』(原題:Qu’est-ce qu’on a fait au Bon Dieu ?(1)に出演して以降、フランスでもっとも知られるアジア系俳優のひとりとなった。生後6カ月でフランスに来たチョウは、思春期に自分のルーツを激しく拒絶した。「でも大人になるにつれ、人生に良いことをもたらしてくれたのは、すべてそのルーツだったことに気づいた」と打ち明ける。チョウはベトナム生まれだが、家族はカンボジア出身で、カンボジアでは中国人はマイノリティだ。両親や祖父母との長い会話が彼には必要だった。たとえばタイ、ベトナム、カンボジア、ビルマ[現ミャンマー]に滞在していた時も、そうすることで心の平穏を得ることができたのだと語る。こうした経験があるのは、おそらく彼だけではないだろう。

 現在、フランスには60万人の中国系の人々が生活し、その大半はイル=ド=フランス地方で生活しているといわれている。だが、[フランスでは]民族的出身に関連する公式な統計はなく、こうした数字は見積もりでしかない(2)。フランスのパスポートを持っている者もいれば、中国のパスポートを持っている者もいる——中国政府は二重国籍を認めていない。彼らはどのようにして、地理的にも文化的にもはるか遠くの国、フランスへと移り住んできたのか。『エシャンジュ』誌に、中国人の移住を「第1次世界大戦中を例外として、フランスは望んでいなかった」という指摘があることからも、これは素朴な疑問だろう(3)。1918年以後1800人の中国人がフランスに留まったが、1925~1935年に、彼らを頼って青田県(チンティエン)の町々や、とりわけ(浙江省の)温州(ウェンジョウ)から移住者が押し寄せた(「ウェンジョウ」という彼らのあだ名はここから付けられた)(4)

 そして1970年代には、いわゆる「ボート・ピープル」が上陸する。共産主義から逃れてカンボジアやラオス、南ベトナムへ移住していた中国南部(広東省)のチャオジョウ人(潮州出身者)が、多くの南ベトナム人同様、べトナム戦争の終結時にこれらの地域を離れたのだ。一部の人々はパリ郊外に住んだが、多くは13区に集中した。中国が[ベトナムとの]国境を開いた1979年以降は温州の住民たちが[パリにいる]同郷人たちに合流した。

 もうひとつの波は、中国東北部(遼寧省、黒龍江省、吉林省から成る地域)から押し寄せた。1990〜2000年代、重工業における再編成が行われ、大量解雇が発生した後のことだ。彼らはパリのベルヴィル界隈にいる。専門商社や総合商社については、おもにウェンジョウ人が経営している。高い住居費と駐車困難のため、彼らは郊外、特にオーベルヴィリエへと押し出された。元は倉庫だった建物で4000〜5000人の中国人が働き、その30パーセントが中国東北部出身だ(5)

 多くの場合、商業や製造業における彼らの存在は中国人コミュニティの経済的成功の印ととらえられている。レストランや食料品店、花屋、たばこ屋兼バーといった3万5000軒の近隣商店を在仏中国人が所有しているといわれる。一方で、彼らが(弁護士、建築家などの)自由業や管理職で存在感を示していることについては、あまり知られていない(6)。アジア人を両親にもつ2世・3世たちの27パーセントが管理職のカテゴリーに属しているが、それに対しフランス人の労働人口全体における管理職の割合は16.7パーセントだ(7)

 ともあれ、中国人学生たちは大学やグランゼコールへと歩みを進めた。フランス政府留学局の動向調査によれば、2015年の新学期にフランスの高等教育機関に入学を申し込んだ中国人学生は2万8043人、つまりフランス第二の外国人学生グループということになる。なかにはパリ郊外のモントルイユの一室に住むリー・トンルーに倣いフランス残留を検討する学生もいる。エコール・デ・ボザール・ド・ヴェルサイユに学んだトンルーは、34歳にして慎ましくとも自分の芸術で食べていくことができている、中国アートの新世代で非常に稀なアーティストのひとりだ。「ここでの生活はとてもシンプルだ。中国であるような社会的義務は一切ない」とトンルーは語る。パリのギャラリー、A2Zは彼に多くの援助をしている。このギャラリーはリー・ ツーウェイとアンソニー・フォン氏、ともに30歳の中国系フランス人とベトナム系フランス人の夫婦が運営し、アジアとフランスの文化の架け橋たらんとしている。「私たちアジア人には[西洋人とは]違った伝達方法があります。見過ごしてしまいがちな要素を際立たせるというやり方です」

 だが、この輝かしく見える社会的・文化的な成功の裏には、滞在許可書なしで働き続ける数万人もの中国人がいる。彼らは飲食業や既製服製造業、革製品製造業、建設業でまるで女工哀史のようにすずめの涙ほどの給料のために働く。その正確な人数を把握するのは難しい。カオ・ユンとヴェロニク・ポアソンによる2005年の調査では、違法労働者の数は6万人で、その3分の2がパリで暮らしていることに触れている(8)。売春を強制された女性たちについては語られていない。それでも、中国系の大半が成功者であるというイメージが圧倒的に強く、彼らのポケットやハンドバッグは金で膨らんでいると思い込まれている——そしてそれが、中国人を狙った襲撃が繰り返される理由ともなっている。

 仏中商工協会の会長を務めるクオ・ジーミン氏は、こうした暴力事件を体験した。ベルヴィルでアジア製品のスーパーを経営していた1995~2003年頃に、何度も店で襲撃に遭遇している。「毎週、盗みがありました。アジア人の客たちが私の店の出口でバッグをひったくられました。よくあることでした。何度も泥棒と乱闘になりました」と、クオ氏は振り返る。夫がパリ3区で旅行代理店を営むヤン夫人は、「数年前からベルヴィルには行かないようにしているの。強盗に遭うのが怖いから。大げさと思うでしょうけれど、本当よ」と言う。

 こうした治安の悪さが彼らを中国人コミュニティによる初のデモへと駆り立てた。それは、2010年6月20日のことだ。結婚を祝うパーティが襲撃され、犠牲者が出たことに抗議して大勢がベルヴィル界隈をデモ行進した(警察発表で8500人、主催者発表で3万人)。その1年後、2011年6月19日に再び中国系の人々がデモを行った。このときは中華レストラン経営者の息子が暴行を受けて昏睡状態になったことから、「安全は権利だ!」と声を上げた。これ以降、地域専門班(BST)が作られ、メトロのベルヴィル駅周辺で10区、11区、19区、20区にまたがる警察のパトロールが強化された。クオ氏は——今ではオーベルヴィリエで商いをしているのだが——ベルヴィル界隈が以前より落ち着いたと思っている。

 だがクオ氏は言う。「今日の暴力はもっと酷いです。以前は強盗たちはバッグや金を奪うだけでしたが、今はいきなり目をつけた相手を殴るんです」。オーベルヴィリエで49歳の労働者、チャン・チャオリンが若者3人に殴られて亡くなった事件は、彼の話を裏付けている。この事件が2016年9月4日に大規模なデモ集会を引き起こしたのだ。5万人(警察発表は1万5500人)——大半は中国人で、ベトナム人、カンボジア人、韓国人など、あらゆる年齢と職業の人々が混在していた——がパリのレピュブリック広場に集結し、「自由、平等、友愛、そして安全を!」と叫んだ。在仏中国人協会、フランス中国人青年協会、商業協会など、64の中国人団体およびアジア人団体によって始められたこのデモは、その人数の多さと参加者たちの毅然たる態度、そして主催者側の厳格な管理が強い印象を与えた。

 2016年8月13日、つまりチャンの死の翌日には、すでにパリにあるワン・リージ弁護士宅で会議が行われていた。参加したのは、ほんの一握りの者だった。ワン・ロイ氏は「私たちは翌日にデモを行おうと決めたんです」と振り返る。こうしてオーベルヴィリエで最初の自然発生的なデモに1000人が集まった。2度目のデモは8月21日に行われ、参加者の数は4倍に膨らんでいた。この2つのデモが強固な基盤となって、その後の運動へと繋がった。

中国政府との距離感

 暴力に反撃するため団結しても、若い世代と年長者世代の見解が常に同じとは限らない。特に中国当局との関わりについては異なっている。ワン・ロイは「私たち若者世代は、中国大使館に援助を求めることには反対です」と主張する。ところが、彼らの両親や祖父母にとっては、それは必須の手続きだ。上の世代の目には、一部の若者たちは中国人としてのルーツを忘れてしまったように映る。あるデモ参加者によれば、中国大使館の高官たちが最初のデモを除くすべての集会に参加していたという。パリで発行されている北京官話の新聞「Huarenjie」(「中華街」の意)のジャーナリスト、ウー・チャンホンの見解では、これはいたって普通のことだ。「チャン・チャオリンは中国市民だった」のだから。

 在仏中国人協会(最大かつもっとも歴史ある中国コミュニティ団体)の会長を務めるチー・ワンション氏は、各団体に役割分担を提案した。「こうしたやり方が効果的だと分かりました。でなければ、団結は成功しなかったでしょう」と、ワン・ロイ氏は認める。彼自身、フランス語でこの運動を伝達する役割を担ったし、ウー・チャンホン氏も中国語で伝えるという役割を担った。こうして、フランスに現存するあらゆるコミュニティとコンタクトをとることができた。

 デモの拡大は、中国当局の支援があるのではないかという疑惑を生じさせた。だが、研究者のワン・スーモンは、それは単純に「フランスの中国人コミュニティがある種の成熟に達した」結果だととらえている。第2世代の代表者たちは30歳以上で、2010年と2011年に起きたふたつのデモを経験し、「自分たちが完全なフランス人だと認知されることを望んでいる」という。彼ら第2世代は、年長者の後押しも得つつ、SNSの発達を利用してお互いにコミュニケーションを取り合った。これが[彼らの運動が]成功した秘訣だ。

 確かに、中国語のみで語られた中国大使館の顧問、ルー・チンチアン女史のスピーチは、困惑を残した。今でもワン・ロイ氏は「若者たちは彼女を招請することには反対だった」と繰り返す。それがこの運動を曇らせてしまうと考えていたからだ。そして、フランスのあらゆる政治指導者たちのスピーチにも、等しく反対だった。

 この運動が起こったのが20年前であったならば「おそらく中国大使館から援助はなかったでしょう。つまり、離散した国民は中国政府から見捨てられていましたから」とワン・スーモンは言う。[今回、中国政府が取った対応は]中国政府による政治的な懐柔策、というのが彼女の見解だ。「今や中国政府は国外へ離散した中国人たちを重要とみなし、経済、あるいはコミュニケーションにおいて果たすべき役割を担っていると考えているのです」。だが、完全な権利を有するフランス人として生活する若い世代の、全員の足並みが揃っているかどうかは定かではない。レピュブリック広場に集まった群衆に向かい、ワン・ロイ氏がマイクで「このデモは、私たち参加者自身のためのものだ!」と繰り返していたのは偶然ではないのだ。




  • (1) フィリップ・ドゥ・ショヴロン監督の映画『最高の花嫁』(2014)は、カトリック教徒であるフランス人夫婦の3人の娘が、それぞれ出自も宗教も異なる男性と結婚する騒動を描いている。
  • (2) 統計上の数字には、30万人(国際労働機関調べ)から、60万人(その他の専門家調べ)までの差がある。
  • (3) Henri Simon, « France : l’immigration chinoise », Échanges, no 121, Paris, été 2007.
  • (4) Yu-Sion Live, « Les Chinois de Paris : groupes, quartiers et réseaux », dans Antoine Marès et Pierre Milza (sous la dir. de), Le Paris des étrangers depuis 1945, Publications de la Sorbonne, Paris, 1995.
  • (5) Luc Richard, « … Aubervilliers, après le “miracle chinois” », Marianne, Paris, 2013年8月17日
  • (6) Sandrine Trouvelot, « Immigration : pourquoi les Chinois réussissent mieux que les autres », Capital, Paris, 2012年12月6日
  • (7) Cris Beauchemin, Christelle Hamel et Patrick Simon (sous la dir. de), Trajectoire et origines. Enquête sur la diversité des populations de France, Institut national d’études démographiques, coll. « Grandes enquêtes », Paris, 2008.
  • (8) Gao Yun et Véronique Poisson, « Le trafic et l’exploitation des immigrants chinois en France » (PDF), Bureau international du travail, Genève, mars 2005.


(ル・モンド・ディプロマティーク2017年4月号)