ソナ・フランカ——“世界の果て”のスーパーマーケット


ゲオルギ・ラザレフスキ(Georgi Lazarevski)

ドキュメンタリー映画監督、
映画『ソナ・フランカ』はフランスで2017年2月15日に公開


訳:村松恭平


 世間の喧騒から逃れたいという欲求から、時折私たちは遠い世界を夢みる。ずっと離れた場所、自然が保たれた人目に触れぬ片隅の土地、昔の清らかさが今も漂う美しい島々。異境を探し求める旅行者たちはアメリカ大陸最南端の地に魅了される。縹渺(ひょうびょう)たる広野の真ん中で彼らが発見するのは……スーパーマーケットと、慣れ親しんだ売り場の陳列棚だ。[フランス語版編集部]



 「ソナ・フランカ! この世界が提供するあらゆる最良の商品を、一つの場所で!」鼻にかかったような声で高らかに叫ばれるこの文句が、[南米大陸南端とフエゴ島を分ける]マゼラン海峡の両側で鳴り響く。人々の気を狂わせるといわれる風が吹くこの地方では、こうしたラジオ放送の電波がすべての家に入り込む。「今年は900万人以上のお客様を迎え、3億ドルの売り上げを達成しました! ぜひ足を運んでください!」誰もが同じ場所をもてはやす——ソナ・フランカ(無課税地帯)。海峡の沿岸地区に建てられたこの広大な面積のショッピングセンターは、チリのパタゴニア南部にある大都市、プンタ・アレナスの名の由来となった「砂の岬」に位置している。

 パナマ運河の完成前、20世紀が始まった頃にこの地の港は栄光時代を迎えた。当時そこは大西洋と太平洋を結び、ホーン岬の嵐を避けようとした船の通過地点だった。今では巨大なビルと同じぐらいの大きさの大型客船が[アルゼンチンの町]ウスアイアへと向かう途中でこの場所に立ち寄り、気晴らしを求める多くの観光客の波を吐き出している。

 この地の「世界の果て」 (el fin del mundo) という呼び名は何よりもまず「ラベル」であり、人々の夢をかき立てるためのブランドとなっている。ビールやコーヒー、レストラン、観光ツアーや国道にも付けられたそのラベルは、数多の商品の名称となった。たとえば、国道9号線の一部の区間が「世界の果てルート」と改称された。そこにやって来る観光客は、社会の周縁部、すなわち「未開の」土地に足を踏み入れることになると約束される。彼らは日常生活から完全に切り離されたと聞かされるのだ。そして、この地ではあらゆることがまだ可能であろう、とも。その話を信じた人々は後に失望するだろう。観光ガイドは彼らをある場所に一直線に連れてゆく。「プンタ・アレナスに訪れるのであれば、必ずソナ・フランカで買い物をしなければなりません。ソナ・フランカは、パタゴニアで最も大きなショッピングセンターです!(1)

 その場所を訪れた際、観光客は「世界の中心」が観光用の大型客船を導入する前に、すでにこの周縁部にはコンクリートでできた通路、倉庫、自動車の販売特約店、ショッピング・アーケードを作るための投資がなされていたことを発見する。そのアーケードには最新型の液晶パネル、免税のお酒の瓶、フォーマイカ家具、そして、快適さを保ったまま「未開の地で」過ごすことができるというキャンプ用品が積まれている。ようこそ「現代の」パタゴニアへ!

 プンタ・アレナスの無課税地帯は、アウグスト・ピノチェト将軍の独裁下にあった1977年に、マガヤネス[プンタ・アレナスの旧称]地域の監察官だったニロ・フロディ司令官によって作られた。彼は1973年11月に、当時の言葉を使えば「武装した過激派の掃討」に関わった人物として、さまざまな人権保護団体の間で名が知られている。

 ピノチェトの下で労働大臣を務めたホセ・ピニェラ氏と[彼らの政策に影響を及ぼした]「シカゴ・ボーイズ(2) 」のてこ入れで、この地域はグローバリゼーションの主要な実験場の一つとなった。石油、水、電話、航空輸送といった事業に携わる公企業が安価で売却され、民間セクターへと移行した。3,000キロメートル北に位置する首都のサンティアゴまで一本の道路すら結ばれていないチリ最南端のこの地帯では、当時、あらゆるものを買うことが可能だった。新たな住民たちをこの地に引きつけるために、政府は努力を惜しまなかった。一方、隣に位置する強国のアルゼンチンは[チリとの国境の]すぐ近くにあるビーグル運河の島々の領有権を主張していた。一世紀前にはオナ、アラカルフ、ヤーガンといった先住民たちの大虐殺を引き起こした「植民地主義」政策の方針を引き継ぎながら、ソナ・フランカはこの地域の経済発展の尖兵となった。

 それから40年が経った現在、波しぶきによって外壁が傷んだ倉庫群が今もなお海に面して立っている。人々が夢想を抱き続けるためであるかのように、定期的にそれらは鮮やかな色で塗り重ねられている。ソナ・フランカは好調に伸びている年間の売上高を高らかに叫んでいる。その数字はライバルとなったショッピングセンター、米国のウォルマート・グループのエスパシオ・ピオネロが同じ街で開業した後も、その影響をほとんど受けていない。

 パトリシア・レボリェドはこの場所を24時間ずっと監視するセキュリタスという会社に雇用されている若い従業員だ。彼女は日々、見回りを行なっている。夕方、荷物を溢れんばかりに積んだ運搬車のめまぐるしい動きとその軋む音が止むと、彼女は進入口のすべての扉に鍵をかけるためにこの地帯をあちこち走り回っている。そこは有刺鉄線と警備員の詰所によって取り囲まれている。ここでは今では消費財が収容されている。結局のところ、1848年にこの町が作られて以降、景観はさほど変わっていない。当時、プンタ・アレナスは囚人を閉じ込めるための「刑罰の地」だった。湿気が多く、凍てつくほどの寒さの容赦のない気候によって、彼らが受ける罰の苛酷さが約束されていた。逃げ出そうと危険を冒す者は凍死した。1877年には留置人と変わらぬほどの貧窮状態にいた監視人たちへの補助金が打ち切られ、反乱が起こった。その結果、この地帯の役割が変わった。「刑罰の地」は「植民地開発の地」、すなわち、国家が町を作ることによってその主権の確立を目論む場所となった。

 そうした過去の反乱の残響は、より最近の2011年に起こった住民たちの蜂起に見い出された。この地域の住民「マガリャニコス」たちが、ガスへの補助金カットに対して、集団で反対活動を行ったのだ。彼らはその補助金のおかげでこの国のどの地域よりもずっと安くガスを使用できた。数百のバリケードがこの地域全体を麻痺させ、観光客は一週間身動きが取れなくなった。その後、政府は後退し、4名の大臣が辞職した。ピノチェト政権に対抗したデモ以来、一度も生じなかったこうした民衆の結集をどのように説明できるだろうか? おそらくは、プンタ・アレナス周辺で採掘されたガスが今もなお公共財とみなされていること、さらには、凍てつくような寒さのこの地域で生活するにはガスが不可欠だということが背景にあるだろう。この地域に暮らす住民たちは、自分たちを「国家的ユートピア」を背負った先駆者だとみなしている。そのユートピアは、この容赦ない気候と厳しい土地の事情にもかかわらず、チリ政府がマゼラン海峡の両側で残し続けようとしているものだ。

 2014年、ミシェル・バチェレ大統領はガスへの補助金を存続させた。しかしながら、経済格差は著しいままだ。10ほどの財閥がチリを分け合い、その中のフィッシャー家が2030年までソナ・フランカの営業権を保有している。不動産業に携わるこのグループは、チリ国内で数カ所のショッピングセンターやカジノを経営している(たとえば、「ドリームス」というカジノはソナ・フランカに隣接している)他、ペルーや中央アメリカ、そして南アフリカにも進出している。またこのグループは、プッチ家が影響力を持つ多国籍企業、アクアチレ社においても大量の株を所有している。アクアチレ社の主要な事業はサーモンの養殖産業だが、ずっと北に位置するチロエ島での海底破壊のケースのように、環境問題に関わるスキャンダルを数多く引き起こしている。

 大多数のチリ人は生活をなんとかやりくりするために、不定期の仕事をかけ持ちしながら生き延びている。レボリェド夫人もその一人だ。彼女は高校の制服代を支払うために15歳から働き始めた。とても若くして母親となった彼女は、学問を途中で諦めなければならなかった。守衛として得られる彼女の給料は420ドルで、4人の子供にかかる生活費を賄うのに十分ではない。彼女は小さな詰所の中で敷地北側の入口を見張りながら、案内広告を読んでいる。その中の一枚が工事現場の重機の操縦訓練を薦めている。その訓練を受ければ、彼女はプンタ・アレナスから数キロメートル北のリエスコ島にある、巨大な炭鉱での仕事に応募することができるだろう。ルクシック家が所有するその炭鉱は開山されたばかりで、エコロジストたちから大きな反感を買っている。だが、彼女は彼らの苦情については知らない。「鉱山はこの国における天の恵みよ。それは最も多くの利益をもたらしてくれるものなの」と彼女は言う。新たな仕事、新たな人生を彼女は夢見始めている。

 その背後では、マゼラン海峡の黒ずんだ水の中をライトで煌めく大型客船が静かに進んでいる。ウスアイアへと向かうそれらの船は、海峡を覆う漂流物の前を通り、暖房の効いた部屋で冒険の夢を温める観光客を氷の海へと運んでいく。陸地では、土地の区画の境界を仕切るための囲いが永遠と続いており、それに沿ってバスが走る。乗客たちは通り過ぎていく景観をスマートフォンでせっせと写真に収めていくが、そこに張り巡らされた有刺鉄線にはほとんど目もくれない。それはこの地における植民地化の歴史の縮図である。というのも、未開拓地での観光事業の成功が期待される前、すなわち、ソナ・フランカとその消費による幸福の幻影が生み出される以前にも、別のエルドラド、他の開拓者たちの幻想がそこに存在したからだ。それらは出現した後、すぐに消え去ってしまった。

 1945年、マゼラン海峡の反対側にあるティエラ・デル・フエゴでは石油が発見され、大きな希望が湧き立った。しかし、石油ブームは長くは続かなかった。何もなかったところからセロ・ソンブレロという小さな町が映画館やプール、遊園地とともに突然姿を現し、当時はチリで最も高い婚姻率を示していたものの、もはや見る影もなくなってしまった。今では不毛な丘の上にあるこの小さな村は、大時代的な作風の彫像や使い古された掘削機のヘッドを通じて、その存在が歴史の中に刻まれることを要求している。石油に次いで発見された天然ガス鉱脈の開発も似たような運命を辿った。その埋蔵量は徐々に減ってゆき、現在ではハイドロ・フラクチャリング[訳註1]を用いてより深く鉱脈を探さなければならなくなった。

 「黒い金」[石油]が採掘される前、19世紀の終わりにブラウン=メネンデス一族によって設立されたティエラ・デル・フエゴ開発会社(SETF)が席巻した大いなる時代には、まだ「白い金」、すなわち羊毛が生産されていた。「巨大なカニ」というニックネームが付けられたこの会社は、羊の飼育を産業のレベルまで大きく成長させ、パタゴニア全土にその支配を広げていた。障害となるものを徐々に排除しながら、SETFは300万ヘクタール、すなわちイングランドの面積のおよそ4分の1の広さの土地を征服するに至った。

 SETF——別名「エクスプロタドーラ」——は、ヒトとモノの流れを統制しようとする資本の論理の中にすでに組み込まれていた。初めてマゼラン海峡に辿り着いた船乗りたちに先を越されたこの会社にとっては、この地域における船の通過地点と交差点を確実に自分たちの監督下に置くことが重要だった。研究者のヨアキン・バスコペ・フリオ氏はこう語る。「土地の境界を区切るために欧州から運び込まれた莫大な量の有刺鉄線は、土地への執着というよりも、[物資を運ぶための]さまざまな輸送路を支配管理するためのものでした。先住民や労働組合、他のライバル会社といった「障害」から輸送路の管理権を守る必要があったのです(3) 」。

 [財力や権力を持った]財閥にとって、領域全体に彼らの支配を広げることは、最初に押し寄せた開拓者たちを(法律あるいは力——それらはしばしば一体となっていた——によって)排除することを意味した。彼らはティエラ・デル・フエゴで金が発見された1880年代の始まりにこの地に殺到した貧民の一団だった。今日、金を探す人々がごく少数だけティエラ・デル・フエゴ北部の山々に暮らしている。彼らの生活は昔とほとんど変わっていない。

 ガスパール・ガイセル氏は手につるはしを持ち、彼のものではない土地を掘って一日を過ごしている。その地主はサンティアゴに住み、彼の財産の管理を(羊の群れを見守る)一人のガウチョに任せている。ガイセルはその場所にいることを黙認されている。石を持ち上げ、穴を掘り、川底を探る。30年前からそれをずっと続けている。黙々と働くが稼ぎはほとんどない。しかし、そこから30キロメートル離れたポルベニールの工場でサーモンを包装する作業、あるいは彼が住む小屋の前を通る未舗装道路の整備で疲弊する仕事よりも、今のほうがましだと思っている。

 時折、数名の観光客がその道を通る。彼らはその際、「金採掘中」とガイセルが立てたパネルの前で止まる。彼らは数ペソを支払い、いっときだけ鉱夫の生活に浸る権利を得る。ガイセルもまた観光ブームの恩恵を受けたいと考えている。しかし、ウスアイアへと通ずるルートから離れれば、車やバスは滅多に姿を見せない。そうして彼は砂金を採取し、薪ストーブの傍で綿密にその重量を測り続けている。冬が到来し、雪と氷が辺りを覆うようになれば、彼は海峡の反対側にあるプンタ・アレナスに向かうフェリーに乗るだろう。そこで彼は金を売るのだ。

 今しばらくの間、乾電池式の小さなラジオが彼を現代世界につないでいる。定期的に、鼻にかかったいつもと同じ声が、その日のニュースや金の相場、そして、ソナ・フランカで売り出し中の商品の価格を告げている。




  • (1) « Punta Arenas Tax-Free Area »
  • (2) 特にミルトン・フリードマン(1912-2006)が主導した新自由主義的経済学派の呼び方
  • (3) « Pasajeros del poder propietario », Magallania, vol. 36, n° 2, Punta Arenas, novembre 2008.

[訳註1]水圧破砕。油層の浸透性が悪い場合などに液体を高圧で圧入し、地層に割れ目(フラクチャー)を入れて坑井周辺の浸透性を高める作業。(ブリタニカ国際大百科辞典より)


(ル・モンド・ディプロマティーク2017年2月号)