ルチャ・リブレ——メキシコ民衆の仇を討つマスクマン


バンジャマン・フェルナンデス(Benjamin Fernandez)

ジャーナリスト


訳:川端聡子


 メキシカン・プロレス「ルチャ・リブレ」は、北米プロレスに相通ずるものの、より知名度は低い。しかしながら、覆面姿のレスラーや、彼らが身に付けるレオタード、色鮮やかな数々のイラストは、元祖であるメキシコを超えて人々を魅了している。20世紀初頭に現れたこの「ルチャ・リブレ」という「人間喜劇」の人気は、メキシコの文化や歴史、政治活動のなかに定着し、思わぬ様相を呈している。[フランス語版編集部]



 金色のマスクで顔を覆い、ずんぐりむっくりとした体型の男が、「サンタ・ムエルタ(死の聖女)」を祀る礼拝堂の前にどっかりと座っている。サンタ・ムエルタは[キリスト教と土着信仰の]諸教混合の女神で、誰にも見向きもされない者にも慈悲深く、麻薬カルテルでも信仰されている。彼、エル・パドリーノ(“ゴッド・ファーザー”の意味)は、この広場で男たちが鉄製の大きな四辺形の骨組みを組み立てるのを観察している。暗い空の下、リングを形作るこの構築物は、アパトラコに広がる分譲地区のコンクリートの風景に完璧なまでに溶け込んでいる。アパトラコは、メキシコでもっとも貧しく仕事のないイスタパラパ地区の中心に位置する庶民の町だ。「死者の日」[ラテン・アメリカで11月1日と2日に行われる祝日。特にメキシコで盛大に祝われる]に、元レスラーのエル・パドリーノが、地元アパトラコでルチャ・リブレの試合を開催したのだ。

 「ゴッド・ファーザー」が、誇り高きアパトラコを讃え、のけ者たちの守護聖女を敬う短いスピーチを終えると、覆面レスラーたちが勢いよく華麗な宙返りでリングに飛び込む。興奮した子供たちはリングの周りに群がり、アイスクリーム売りやマスク売りが彼らを追いかける。さらにその後ろでは、大人たちが大きなグラスでビールを飲んでいる。

 マスクに明るいブルーのパンツ、筋骨たくましい躯体のエル・スブリメが数々の技を披露する。アーム・ロック、ドロップ・キック……。彼は、パートナーのエニグマ、スカイダーとともに「テクニコ」(ベビーフェイス、あるいは善玉)のチームを組んでいる。テクニコは正々堂々と、作法に適うやり方で「ルード」(ヒール、あるいは悪玉)と戦う。ルードは蛮行とインチキの権化だ。ほぼ1世紀も前からメキシコのあらゆる闘技場で、ルードとテクニコは観衆の心を掴もうと競い合ってきた。

 アパトラコでもっとも人気が高いのは、ルードのレスラーたちだ。ルードが試合に勝つことになっている。3ラウンドの激しい戦いのあと、アストラン(アステカ神話の伝説にちなんだ名)の悪童が、途方にくれるレフリーの抗議も意に介さずリングのロープの3段目[つまり最上段]から飛びかかり敵をコンクリートの広場に叩きつけたとき、観衆の叫び声のなかテクニコはギブアップした。

 試合後、レスラーたちはみなエル・パドリーノとサンタ・ムエルタに賛辞をおくり、懇親会に集まった。エル・スブリメはマスクを脱ぎ、笑みをたたえた小さな四角い眼鏡姿のオスカーに戻った。オスカーは――彼は威信に関わる問題だからと、匿名を申し出た――試合に負けたことを少しも根に持っていなかった。「これは善が悪に立ち向かう普遍的な戦いなんだ。ルードはルールを破る。政治家たちがやっているようにね。人々は真正直に戦おうとする。これこそ僕たちメキシコ人が日常的に経験していることだ。非力だけれど、ユーモアがある。メキシコ人は、自分たちの悲惨さを笑い飛ばすためにルチャ・リブレを考え出したんだ」。

 数カ月後、エル・スブリメは、首都メキシコシティからヴェラクルスへ遠征し、マスクを賭けた「マスカラ・コントラ・マスカラ」の試合に挑む。敗者は勝者にマスクをはがされるが、これ以上ない屈辱であり、レスラーにとってキャリアの終わりを意味することもある。これは暗黙の掟ではあるが、興行主が支払う大金と引き換えに八百長が行われるなどというのは日常茶飯事だ。だが、ルチャ・リブレでは、レスラーの運命を左右するのは観衆だ。「勝たなくてはならない」。オスカーはそう言い、目に闘志をたぎらせる。

 オスカーは、メキシコシティにある労働者階級の地区、テピートにある学校で造形美術を教えている。アパトラコ同様、テピートも貧しさや犯罪の多さで知られる地区だ。多くのレスラーがそうであるように、彼もまたレスラーの家系に生まれた。父親は国営電気会社の元社員で、アマチュア・レスラーとしても活動していた。「ルチャ・リブレに囲まれた世界で僕は育った。これらの地区では、子供たちは困難な境遇を忘れることが必要なんだ。道化師やレスラーたちは、そんな夢を与えてくれる」。

 記号論学者のロラン・バルトは、著書『神話作用』(1957年)の冒頭で、北米プロレス(1)やメキシコのルチャ・リブレの原型であるフレンチ・プロレスの世界を賞賛している。バルトはフレンチ・プロレスとギリシャ劇との親和性を強調している。「したがって、真の人間喜劇が問題となるのだ。そこでは情熱の最も社会的な諸ニュアンス(うぬぼれ、道義的正しさ、手の込んだ残酷さ、《仕返し》の感覚)が、それらを取り入れ、表現し、ホールの隅々まで運ぶことのできる最も明白な表象にいつでもうまく出会うのだ。(中略)観衆が求めるのは情熱のイメージであって、情熱それ自体ではない」。バルトは、試合結果が根回しされるプロレスをボクシングと比較する。「優越性の証明に基づく厳格主義的なスポーツであるボクシングの試合の結果については、賭けることができる。(中略)闘争の理性的将来はレスリング・ファンの興味を惹かず、一方、反対にボクシングの試合は常に未来への知識を含んでいる」(2)

メキシコ近代化とルチャ・リブレの黄金時代

 ルチャ・リブレがメキシコに根付いたのは、メキシコ革命以後の産業発展期である。その1920年代にメキシコは都市化し、発展を遂げた。ルチャは、こうした区域を土壌に、チランゴ[首都メキシコシティ在住者のこと]——つまりはより良き生活を求め首都に移り住んだ人々の子や孫たちによって始められた。そのもっとも象徴的な人物が「白銀のマスクマン」の名でも知られるエル・サント(“聖人”の意味)だ。本名はロドルフォ・グスマン・ウエルタ、1915年イダルゴ州トゥランシンゴに生まれた。その後、一家はメキシコシティに移住し、エル・カルメンに居を落ち着ける。若きグスマンは、他の多くの若者がそうであったように、生活に困窮した子供が夢見ることのできるたったひとつの希望を追い求めた。スポーツで成功することである。ボクシングはそうしたスポーツだったが、ヨーロッパからレスラーが興行に訪れていたことや、 1933年に初のルチャ・リブレ団体「CMLL」が設立されたことから当時ルチャ・リブレも人気となっていた。

 当時はメキシコ文化の隆盛期だったが、それはとりわけ映画の到来によるところが大きかった。エル・サントはリングを飛び出し、コミックや幻灯機の世界にも足を踏み入れた。1952〜1973年に50作以上の映画に出演し、夫を亡くした女性や孤児たちの味方を演じた。火星人やゾンビ、グアナジュアトのミイラ、吸血女、そしてメディアの大立者らとさえ対決したこれらの作品は、ヒューマニティだけの映画ではなかった。だが40年の活動の後、ルチャ・リブレの偉大なる伝説、エル・サントは別れの挨拶を告げた。テレビの生放送で初めてマスクを脱いだのだ。そしてその数カ月後、1984年にこの世を去った。

 写真家のロウルデス・グローベットほど、この黄金時代をよく捉えた者はいない。日々戦いを繰り広げる男女のレスラーたち、唖然とする観衆(有力者たちは彼らをサン・カルソン[革命を推進した貧困層。フランス語のサン・キュロット]と呼んでいた)、そしてグローベットが聖地としての意義を与えた近代建築の象徴たる競技場——これら3つのパートから成る写真集には、平凡な日常と神話が絡み合っている。作家で詩人のカルロス・モンシヴァイスが『ルチャ・リブレ』(未邦訳)(3)の序文で書くところによれば、「ルチャ・リブレ神学」についての前衛的な証言ともいえるこの作品が出版されるまでには25年もの時間を要した。モンシヴァイスは、メキシコと、そしてそこに住む人々の日常生活を描いたあくなき計量士だ。

 モンシヴァイスが言うには、ルチャ・リブレの絶頂期はラテン・アメリカ大衆文化の絶頂期だ。「ルチャの黄金期は、映画、そしてボレロ、タンゴ、ペルー・ワルツやランチェラ音楽における黄金期と呼応しています(中略)。すなわち、それは都市居住区の誇りとともに生まれた都会的な感性であり、結局その自慢話を生きていくための武器に変えたのです」。モンシヴァイスは記す。「特権階級あるいはブルジョワへの対抗としてではなく、むしろ制度のなかでその存在を見えなくされている名もなき民衆の“仕返し”として」大衆性というものが理解されている、と。

 今日、ルチャ・リブレは中産階級や知識階級のあいだでかつてなく影響力を強めている。2014年9月にはメキシコで、初めてルチャ・リブレをテーマに大学のセミナーが行われ(4)、マルキシズムや状況主義、さらにはクィア理論[ゲイ、レスビアンなど、ジェンダー、セクシュアリティの思想的・論理的研究から派生した理論]を分析軸にして数十の研究がなされた。クィア理論は、ルチャ・リブレが引き受けた悪趣味なイメージとマスクに関わる情熱のなかに、さまざまなアイデンティティのポストモダン的な構造の母胎を見て取ろうとした。テクニコとルードとは別に、第3のレスラーのカテゴリーが生まれた。女性の衣装に濃いメイクをしたトランスジェンダーたちの「エキゾティコ」である。1992年の世界チャンピオン、カッサンドロは、シウダードフアレス出身のエキゾティコで、全世界のゲイ・シンボルとなった。

 「かつて、ルチャ・リブレは嫌われていました。下品なショーとみなされ、野蛮で教養のないの人のやるものと思われていたのです。今ではルチャ・リブレは現代性の象徴なのです」。こう語るのは、歴史家のオルランド・ヒメネスだ。伝統主義に囚われないルチャ・リブレの研究者で、レフリーを務めることもあるヒメネスは、こうした進化はメキシコ社会の移り変わり、何よりマスメディアの飛躍的な発展と一致すると言う。「1954年にテレビが始まったころ、子供たちに悪い手本を広めてしまうという理由からルチャは放送禁止でした。そして1990年代には、当時腐敗していた組合が崩壊しつつあったことを背景に、テレビ局がレスラーたちに対し独自の条件を課しました」。かつては各組合がプロモーターからレスラーたちを守り、彼らに地位を与え、健康面におけるルールを要求していた。だが、競技場はメキシコのふたつの大きな闘技場に限られていた。最初の組合を設立したのは、エル・サントだった……。

 1992年に設立された新しいルチャ・リブレの興行会社、トリプレア(AAA)は、メキシコだけでなくアメリカ合衆国や日本でも興行を行った。1990年代、テレビ放送の民営化に利を得たトリプレアは、アメリカ式のルールを模したプロレスを大きく広めた。ボディビルドされたレスラーたち、巨大スクリーン、音響や照明、チアガールや小人レスリングなどだ。これにより、ルチャ・リブレは、その言語をテレビ・コードに合わせること、そして観客よりもむしろテレビカメラに向けて試合を演出することを余儀なくされた。

 2015年3月、ティファナで、有名なルチャのレスラー、エル・イホ・デル・ペロ・アグアヨ(「山犬アグアヨ」の息子[日本では「ペロ・アグアヨ・ジュニア」の名で知られる])がテレビの生放送中に相手からドロップキックを受け、頚椎に外傷を受けたことが原因で死亡した。このことで大きな不安がレスラーたちに広まった。彼の断末魔はショーが続くあいだもクローズアップで撮られ続けた。この事故は、メキシコで男らしさの最強のシンボルであるレスラーたちの弱い立場を浮き彫りにした。彼らの多くは社会保障も医療保障もなく働いている。

 ヒメネスは、ルチャ・リブレがこうしてグローバル化した後も、その真正さは失われてはいないと言う。「これにはグリンゴ[米国人を指す蔑称]さえも驚いています。グリンゴはメキシコ人を支配していると思っていたのに、アメリカ大陸を制圧しつつあるのはルチャ・リブレのほうなのですから。ラテン・アメリカで、そしてメキシコ系アメリカ人のおかげで北米でも、ルチャ・リブレは少しずつ発展しています。ルチャ・リブレは、[国を超えて]文化的統合を果たしているのです」。

 ルチャ・リブレが生み出したこの現象を特徴づけているのは、その普遍性だとヒメネスは言う。「さまざまなスタイルの違いが指摘されているものの、いずれもレスリングの長き伝統を持つ合衆国、日本、メキシコといった工業発展国において同じ状況が見て取れます。社会を荒廃させる資本主義経済に苦しめられている民衆が、虐げられるのに慣れていることです」。

ルチャ・リブレの政治的表象

 一方では、ルチャ・リブレの職業化は男女レスラーたちに自己の権利を守るチャンスをもたらした、とヒメネスは言う。「メキシコでは組合組織の崩壊が問題となっていましたが、21世紀になってから状況は変わりました。レスラーたちはプロモーターの搾取に抵抗して結束しています。3人のレスラーが率いる『ルチャ・リブレの平等と尊厳を守る財団』は、社会保障についての討論会の開催にこぎつけたのです」。

 ヒメネスの見解によると、ルチャ・リブレは常に強い政治的シンボリスム、すなわち「社会正義希求のシンボリスム」をもたらしてきた。怪傑ゾロからマルコス副司令官[メキシコ農民の生活水準向上や民主化を要求するゲリラ組織「サパティスタ民族解放軍」の実質的指導者。公の場では覆面をしている]に至るまで、マスクは民衆の表象である。ルチャ・リブレのレスラーには偉大な社会運動家が何人かいる。たとえば孤児院の費用をまかなうためリングに身を投じた神父のフレイ・トルメンタは、自身の孤児院でレスラーを養成していた。また、ルチャ・リブレは社会的統合の象徴を探し求める活動家たちにもインスピレーションを与えた。

 1985年、大震災で大きな打撃を受けたメキシコの瓦礫のなかから、赤と金のマントを着たマスクの人物が登場した。スーパーバリオ・ゴメスだ。地域運動を推進する彼は、住む家も政府の救済もなく見捨てられた被災者たちを全面支援した。各地の地区議会とともに大地震で苦境に陥っている人々の要求をのませることに成功した。スーパーバリオは抵抗運動の先頭に立ち続け、特にカルロス・サリナス・ゴルタリが勝利した1988年の大統領選における悪質な選挙不正を追及した。それは、半世紀以上にわたり国の舵を取ってきたPRI(制度的革命党)候補者のサリナスが、民衆が抱いた変化の希望を体現していたPRD(民主革命党)のクアウテモック・カルデナスを破り勝利したときのことだった。カルデナスも後には縁故主義と汚職という同じ鞭を踏むのだが。スーパーバリオ・ゴメスこと本名マルコ・ラスコン・コルドヴァは、自身のマニフェスト「スーパーデシダンス[大いなる反逆]」にこのように記している。「私は、ルチャ・リブレという、現実的で広大無辺の偉大なこのシンボリズムが、誠実かつ飾らずに日常の社会的・政治的闘争に置き換わってほしかった。(中略)。少しずつ、街や通りが大きな四辺形、つまりはリングに転換することを望んでいた」(5)

 ヒメネスは言う。「確かに、社会運動家のスーパーバリオは民衆のシンボルとなりました。でもその後、「スーパーPRD」に転身してしまった。つまり、同業組合主義と党派の掟を優先する主導者になったのです。ルードに転身してしまった彼は、ヒーローは助けてくれることもあれば、裏切ることもあるのだと示しました。これはルチャ・リブレがくれた政治的教訓です」。




(ル・モンド・ディプロマティーク2016年10月号)