ボヘミアンの誘惑


アンソニー・グリノエール(Anthony Glinoer)

シェルブルック大学教授


訳:村松恭平


 陽気で、文無しで、少し挑発的なボヘミアンは、裕福なブルジョワのものとは異なる未来を自らの手で築こうとする仲間たちの一団だ。19世紀から受け継がれ、数々の伝説を生み出したボヘミアンは、多くの夢を人々に与えてきた。そうして、21世紀になってもなおその呼び名は用いられている。ロマンティックであり、横柄な響きもまた含むボヘミアンという言葉。それは自由な振る舞いのことなのか、あるいは精神のゆとりのことなのか?[フランス語版編集部]



 一人の男がパリの酒場に入っていく。彼は若く貧乏で、芸術家を志している。彼はその酒場で、彼と同様に貧しい哲学者、そして詩人と出会う。すぐに彼らは意気投合し、食べ物や酒、煙草が分かち合われる。次にそこに画家も加わり、仲の良いグループが出来上がる。このエピソードはアンリ・ミュルジェールの『ボヘミアン生活情景』(1851)(未邦訳、原題:Scènes de la vie de bohème)の幕が開く場面で、ボヘミアンの特徴全体を長い間定着させてきた。それはこの男の人物像に結び付いていた。都市の中に彼は居を構え、ブルジョワが着ていた黒の衣服とは対照をなす服をまとい、その日暮らしの生活をしていた。また、頻繁に引越しを行い、決まった仕事や安定した恋愛関係を拒み、日々の暮らしを仲間と共にし、懐具合がいい時にはごちそうや酒を堪能していた。ブルジョワは彼の「負の分身」のような存在で、そんなブルジョワとの関係を彼は保っていた。その関係は、互いに感じていた軽蔑、不安、あるいは魅力によっても築かれていた。『ボヘミアン生活情景』に登場する4人の仲間、ショナール、コリンヌ、ロドルフ、マルセルが経験した出来事は連載小説、舞台、書籍へと続けざまに形を変え、大当たりした。その初演以降、世界的に有名になったプッチーニのオペラ(1896)やシャルル・アズナヴールの歌(1965)はさらに大きな成功を収めた。プッチーニのオペラはこれまで最も上演回数の多い作品の一つとなり、アズナヴールの歌は幅広い大衆が慣れ親しむものとなった。それは人々の集団的関心が長い間共有されてきたことを示している。「ボヘミアン、ボヘミアン / 私たちは若かった / 私たちは浮かれていた」「私たちは詩を朗読していた / ストーブの周りに集まって / 冬を忘れながら」。このように、ボヘミアンは今でも人々に夢を見させているのだ。

 しかし、精彩に富み、無邪気なボヘミアンのこうした表象はそのすべてを汲み尽くしてはいない。すでに19世紀には文学と芸術の暮らしを描いた非常に多くのコラムや絵画、小説の中で、他の3つのボヘミアンのヴァージョンがはじめに挙げた表象と対立していた(1)。[3つのうち]一つ目のヴァージョンはより政治的なものだ。1871年にパリ・コミューンのメンバーとなった小説家・ジャーナリストのジュール・ヴァレスは、彼が「反逆者たち」と呼んだ人々の味方となった。「本の犠牲者たち」ともいわれた彼らは「百科事典、辞書、伝記には100文字あたり2リヤール、貴婦人向けの雑誌には1本の記事で3フラン」[という低い報酬]で執筆を行っていた(2)。ヴァレス本人のイメージにも重なった、作家でジャーナリストでもあったこうした人々は、周囲のしがらみを断り、社会的な拘束を受けなかった。彼らは商業界から逃れはしなかったものの、出世することを拒み、政治的確信に基づいて貧しさを選択した。そして、その貧しさを実際にこうむった。ミュルジェールが描いた喜びに浸ったボヘミアン、そしてヴァレスが描いた反抗的なボヘミアンに、遊び戯れ、挑発的で無礼なボヘミアンの表象が加えられる。彼らは政治に対する無関心主義者であったり、文学カフェやキャバレーに通う「水治療法派」[訳註1]と呼ばれた文学者集団であった。このボヘミアンは乱暴でごたごた文句を並べるような抵抗の仕方よりも、形式やジャンル、上品さを覆すことによってブルジョワ秩序への拒否を表明した。それはたとえば、有名な『ジュティストのアルバム』(1872)(原題:Album zutique)の中でポール・ヴェルレーヌとアルチュール・ランボーが発表した〈尻の穴のソネット〉(原題:Sonnet du trou du cul)に見てとれる。最後に、4つ目のヴァージョンとしてのボヘミアンは社会の最下層の者たちへと接近する(3)。そこでは貧しい芸術家たちが破産したブルジョワ、浮浪者、くず物商、あらゆる種類の無法者たちと交流する。カール・マルクスが『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』(原題:Le 18 Brumaire de Louis Bonaparte)の中で描くところでは、芸術家たちは彼らとともに「入り乱れ、まとまりなく、流動的な大衆」を形成していた。そして「フランス人たちは彼らを“ボヘミアン”と呼んだ」。

 これら4つの異なったボヘミアンの姿は、それぞれにもし後継者が存在したとすれば、明確に区別することは決してできない。彼らはパリのいくつかの社交場(ブラスリー・デ・マルティール、クロズリー・デ・リラ、シャ・ノワールとラパン・アジルのナイトクラブ)で出会い、夜に行動する習慣、衣服の奇抜さ、19世紀以降文化界を支配していた市場経済への抵抗を共有していた。たとえその抵抗が消極的なものであったとしても。

 ミュルジェールは『ボヘミアン生活情景』の序文の中で「ボヘミアンはパリにしか存在せず、存在しえない」と明言している。彼の言わんとするところは、人々が行き交う場所、その大半が貧しく名声もない溢れるほどの数の作家や芸術家が暮らす要所にしかボヘミアンは社会環境を形成できなかったということだ。だが、彼が間違ったことは歴史が示している。ボヘミアンの神話は西洋世界の至るところに拡散したのだ(4)。ミランでは後にジュゼッペ・ヴェルディの台本作家となったアリゴ・ボイトや、[作家の]イジノ・ウゴ・タルケッティのような「スカピリアティ」(「スカピリアトゥーラ」はイタリア語で「ボヘミアン」を意味する)が、当時支配的であった教権支持、ロマン派の風潮とたもとを分かち、1860年代に現代イタリアで初の前衛運動の一つを形成した。彼らはジュゼッペ・ガリバルディの赤シャツ千人隊と緊密な関係にあった。マドリードでは1913年に「ボヘミアン協会」が設立され、90名以上の会員が集まった。大西洋の向こう側でもこの熱狂は急速に広まった。ニューヨークのビアホール、パフス(Pfaff’s)には若い作家が集まり、『草の葉』(1855)(原題:Leaves of Grass)を創作したウォルト・ホイットマンは「ボヘミアンのプリンス」となった。サンフランシスコでは「ボヘミアン・クラブ」が1870年代から存在しており、そこではマーク・トウェインが輝きを放った。その20年後のモントリオールでは、パリのカフェにちなんで「プティ・プロコープ」と改名されたアイオット・カフェで「6つのスポンジ・クラブ」の者たちがビールを飲みながら詩を書いていた。創造性に富み、不安定で、既存価値の転覆をはかるコミュニティーが大都市での形成されるがままに、いくつかのボヘミアン地区がカルチエ・ラタンのモデルにしたがって作り上げられた。ミュンヘンのシュヴァービング、ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジ、ブエノス・アイレスのサン・テルモがそうである。

 第一次世界大戦後、こうした芸術家たちを表すのに「ボヘミアン」という言葉はあまり使われなくなった。しかしながら、ダダイスムやビートニク、ヒッピー、さらにパンクといったムーヴメントが共有したいくつかの特徴、たとえばアルコールと薬物の大量摂取、奇抜な服装とヘアスタイル、挑発好き、夜間の行動、金に対する軽蔑、ブルジョワ的倫理への抵抗、合法範囲すれすれの暮らしなどは「ボヘミアン」と直接的に結びついている。こうした観点で、[ダダイスムの創始者]トリスタン・ツァラ、[フランスの作家・映画作家]ギー・ドゥボール、[米国のロック・バンド]ジェファーソン・エアプレインそして[英国のロック・バンド]セックス・ピストルズは19世紀のボヘミアンの継承者だった。

 こうした現象が後世に伝わっていったのは、まず第一に、19世紀の半ばのパリに存在したさまざまな社会状況(たとえば、文化的生活の都市への集中、文化・芸術活動への財政援助の衰退と、それに代わった出版・アート市場の台頭、芸術家の数の急増)が他の場所にも広がったからだ。第二の理由として、ボヘミアンは厳密な定義にも特定のグループにも決して還元されることがなかったため、あらゆる場面で使うことができた。その領域における代表者を決めたり、社会学的な輪郭を定めるような制限を設けることは誰にもできなかった。[「ボヘミアン」という概念の]変化のしやすさは、逆説的に、この神話が残り続けるための最良の手段となった。最後の理由として、この現象はボヘミアンが芸術と生活を自身から切り離そうとしなかったことにも起因する。「ボヘミアン的な暮らし」においては社会的な生き方と芸術的な生き方が非常にはっきりと混ざり合い、それらが創造それ自体を豊かにしたのだ。ミュルジェールからアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックが描いたキャバレーのシーン、そしてアーネスト・ヘミングウェイの『移動祝祭日』(原題:Paris est une fête)までこの現象は途切れることなく、それぞれの作品(詩、小説、デッサン、シャンソン)は想像力を駆使した独自表現を作り上げてきた。ボヘミアンであることとは、そのように見えること。そして、「ボヘミアン」的な領域に属していることを人々に認めさせることだ。それゆえ、たとえ「ボヘミアン」とみなされる環境がなくなったり、あるいは変化するとしても、新しい世代を活気づけるような伝説やフィクションは残り続けるのだ。

 今日では何が残っているだろうか? 一方では、ボヘミアンがこれほどまでに存在することはなかった。カルチエ・ラタン、モンパルナス、そしてモンマルトルのボヘミアン的な暮らしを取り上げる展示会が定期的に催され、ウディ・アレンの『ミッドナイト・イン・パリ』(2011)(原題:Midnight in Paris)のような映画によってボヘミアンは再び流行となった。小説風にボヘミアンの歴史を壮大に描いた『ボヘミアンの時代』(2015)(未邦訳、原題:Le Temps des bohèmes)は、ボヘミアンを20世紀における現代芸術の実験的試みの中心にさえ置いている。他方では、私たちは「身分の不安定なインテリ」(5)やプロレタリア化した芸術家の状況を表す際、もはや「ボヘミアン」について話すことはほとんどなくなった。しかし、それは日常語の中で「ボボ」という縮約された形でうまく生き残った。「ボボ」は米国のジャーナリスト、ディヴィッド・ブルックスが書いた『アメリカ新上流階級「ボボズ」: ニューリッチたちの優雅な生き方』(2000)(原題:Bobos in Paradise )によって普及した。「ボボ」、すなわち「ブルジョワ・ボヘミアン」は、現代において私たちが社会集団として想像するものの重要な記号となった。「ボボ」には服装や食べ物の面でいくつかの習慣があるとみなされ、旅行先や文化的嗜好、職業キャリアによっても彼らは「ボボ」だと認識される。「ボボ」はいくつかのバンド・デシネ(たとえば『ボボランドへようこそ』:Bienvenue à Boboland, de Philippe Dupuy et Charles Berbérian, 2008)やケベックのテレビ番組シリーズ(『ボボ』:Les Bobos, de Marc Labrèche et Marc Brunet, 2012-2013)でも取り上げられた。インテリア装飾の雑誌には彼らの暮らしの様子が詳しく紹介され、フランスでは『ボボ共和国』(République bobo, Laure Watrin et Thomas Legrand, 2014)という本もまた話題となっている。

 アングロ・サクソンの研究者たちは、1960年代にボヘミアンをしばしばブルジョワに対抗するカウンター・カルチャーのモデルとして提起したが(6)、「ボボ」とボヘミアンを比較することは重要だ。一方では独立性、オルタナティブな生活スタイル、創造性を主張し、他方では市場に依存するといったその解きほぐすことのできない混ざり合いをみれば、「ボボ」はボヘミアンとさほど異なってはいない。より協調的で平等に重きをおく仕事上の関係性を重視し、[製品の製造プロセスや環境・社会問題などに配慮する]「責任ある消費」、あるいはオルタナティブの消費を「ボボ」が主張し、いくつかの「コンセプト」を創り出すときにも、彼らは資本主義も消費中心社会も拒絶することはない。彼らは一部の人々が「アート資本主義」と呼ぶものに非常に調和よく組み込まれ、カウンター・カルチャーと市場経済を総合しようと試みている。実のところ、それらは混ざり合ってしまっているだろうが。こうして、[既成の権力や価値に]最も従属したボヘミアンのヴァージョンだけが今は保たれている。そして、ボヘミアンがこれほど長い間抵抗し、枠の外に置いてきた社会にこれほど都合良く吸収されるのならば、アズナヴールが歌うように「ボヘミアン、それはもはや何も意味しない」といえるだろう。




  • (1) la somme éditée par Jean-Didier Wagneur et Françoise Cestor, Les Bohèmes, 1840-1870, Champ Vallon, Seyssel, 2012. 参照
  • (2) Jules Vallès, Les Réfractaires, dans Œuvres, tome I : 1857-1870, Gallimard, coll. « Bibliothèque de la Pléiade », Paris, 1975.
  • (3) Dominique Kalifa, Les Bas-Fonds. Histoire d’un imaginaire, Seuil, coll. « L’univers historique », Paris, 2013. 参照
  • (4) Pascal Brissette et Anthony Glinoer (sous la dir. de), Bohème sans frontière, Presses universitaires de Rennes, coll. « Interférences », 2010. 参照
  • (5) Anne et Marine Rambach, Les Intellos précaires, Hachette, coll. « Pluriel », Paris, 2002. 参照
  • (6) César Graña, Bohemian Versus Bourgeois. French Society and the French Man of Letters in the Nineteenth Century, Basic Books, New York, 1964 ; et Richard Miller, Bohemia. The Protoculture Then and Now, Nelson-Hall, Chicago, 1977.

[訳註1]「水治療法派」(les Hydropathes)とは「l’Hydropathe紙を中心に1878年にパリで結成され、1881年頃に解散したデカダン的傾向の文学者集団。水治療法とは無関係で、この名称は「酒を愛し水を毛嫌いする」精神のアイロニカルな表明にすぎない」(ロベール仏和大辞典より引用)


(ル・モンド・ディプロマティーク2016年10月号)