そしてマネは物議をかもした


ピエール・ブルデュー(Pierre Bourdieu)

社会学者


訳:村松恭平、加藤 梓


 エドゥアール・マネ(1832~1883年)は『草上の昼食』を描いた時、ことに芸術のカテゴリー間にヒエラルキーを作り出していた対立概念のシステムを拒むことにより、「象徴革命」を創始した。彼は世界を描く方法に非常に大きな変化をもたらしたため、[意識の]解放を伴ったこの作品の「逸脱」がいかなるものかを今日において評価するのは難しい。以下は、ピエール・ブルデューが1998~2000年にコレージュ・ド・フランスで行った講義『マネ:象徴革命』と、ピエール・ブルデューとマリー=クレール・ブルデューによる未完の草稿(Seuil - Raisons d’agir, Paris, 2013)からの抜粋である。[フランス語版編集部]=雑誌「マニエール・ドゥ・ヴォワール」より



 今年は、成し遂げられた「象徴革命」といえるものについて、皆さんにお話ししましょう。それはエドゥアール・マネが創始した革命です。(.......)

 「象徴革命」は特に成功した時、それを理解するのが特に難しい。自明であるようにみえるものこそ、理解するのが最も難しいのです。「象徴革命」は構造を生み出し、そして私たちはその構造を通じて「象徴革命」を感じ取っているのです。別の言い方をしますと、「象徴革命」は大きな宗教革命のように人々の認知構造を一変させ、時にまた、社会構造も一定程度覆します。「象徴革命」は成功すると同時に新たな認知構造を課します。その構造は普及し、拡散し、社会領域で認知されうる対象全体と一体化するので、認知できないものとなります。私たちが持っている知覚や評価のカテゴリーは、私たちが普段、世界の表象と現実世界そのものを理解するために用いられています。そうしたカテゴリーはこの成功した「象徴革命」から生まれたのです。この革命から生まれた世界の表象は、それゆえ自明なものとなりました。それはあまりに自明になったので、[今日では]マネの諸作品が生み出した物議そのものが驚きの対象、あるいは物議の対象となっています。

 マネが世に出た第二帝政(1852~1870年)のもと、フランスには国の「公認芸術」が備わっていました。サロンや芸術院、美術学校、美術館、すなわち大衆の嗜好を「管理」したともいえる多くの官僚的システムが存在しました(1)。(......)この統合された「アカデミー制度」の機能は、褒章が与えられる、途切れのない一連のコンクールから成り立っていました。その中で最も重要だったのは「グランプリ・コンクール」で、毎年開催されていました。1位を獲得した者には、ローマにあるメディチ邸宅に滞在する権利が与えられました。私たちがよく知っているように、このコンクールのロジックは美術界のシステム全体を支配しました (2)。(......)

 [画家のアトリエの中では]ヒエラルキーは至るところに存在しました。たとえば、モデルとの距離は前の週に実施されたテストの成績順が反映されたものでした。ヒエラルキーが想起されることによって、常に競争心も呼び起こされました。たとえば、ジャン=レオン・ジェロームやレオン・ボナ、ギュスターヴ・モロー、ウィリアム・ブグローのようなこの時代の偉大な指導教授たちは、きまってアトリエの中で過ごしていました。弟子と議論したり、時には弟子に代わって椅子に座り作品に手を加えたり、あるいは助言を与える彼らの姿が多くの風刺画の中に見られました。非常に綺麗な身なりをした教師たちは、自由奔放な画学生たちにとっての絶対的なアンチテーゼでした。ジェロームが与えていた助言の中には、清潔であることを課す至上命令がありました。たとえば、絵筆はとても念入りに洗い、絵の具は無駄に使ってはならない、などです。そうした助言は山ほどあり、重要だとみなされていました。はじめに皆さんにお話ししたように、たとえ美学が倫理と関連し、そして倹約、厳密さ、清潔さの倫理が本当に存在するとしても、その美学は倫理面のみならず、性的な側面も同時に含んでいました。印象派の画家たちの絵、とりわけマネが描いた絵は低俗、あるいは(「尻軽女」とある女性が呼ばれるように)安っぽいと見なされていました。したがって、その絵は退廃し、堕落し、本質的に美を欠いているものとみなされました。

 すでにマネの時代から「詐欺師」が登場しているのが見てとれます。彼らは他の人たちよりも先に進行しつつある革命を理解し、少しは注目を浴びるような「転換」を行い、ある一定の期間、「保守」と「転換」による利益を積み上げました。最も典型的な例としては、エミール・ゾラの『制作』(3)の中のフジュロルという登場人物を私たちは思い出すでしょう。現実においてはジュール・バスティアン=ルパージュ[画家、1848~1884年]が挙げられますが、彼はあらゆる分野に見られた「詐欺師」の典型例でした。たとえば、オート・クチュールの分野ではアンドレ・クレージュ[ファッション・デザイナー、1923~2016年]のような改革者たちがいますし、また、イヴ・サン=ローランのような「アレンジャー」たちもいます。あらゆる分野において、こうした人々は概して後からやって来て、何が起こったかを理解し、「ハード」な改革からの「ソフト」なバージョンを創ることができました。そうして彼らは多くの利益を得たのです。(......)

 さて、この作品について話を進めます。今、あなた方が目にしている『草上の昼食』を[プロジェクターに]投影した趣旨を早速言いましょう。この作品はお菓子の箱のイラストとして見かけますし、『モナリザ』の次に最も多く解説されている作品でもありますので、ありふれた作品だと言えます。すなわち、最も見られるがゆえに、注目されない作品です。私が少しとっぴな意図を持っているのは確かですが、このありふれた作品が生み出したスキャンダルをあなた方はこれから感じ取れるでしょう。

 その構造は二項対立の形で最も多く現れます。上位と下位の対立があり、美学的にはそれはジャンルのヒエラルキーに相当します。また、男性と女性の対立、ブルジョワジーと庶民の対立などがあります。たとえば「大衆的な」批判からただちに見られたのは(「大衆的」批判とは、大衆紙に書かれる批判であり、彼らが聞きたいことを伝えることによって気に入られようとする批判のこと。つまり「視聴率」はすでに存在していた......)「野卑な性描写」でした。すなわち、正装したブルジョワの男たちと、庶民の売春婦と思われる一人の女がいるという事実です。

 この絵画には多くの「非常識」がありました。いくつかの「不作法」について指摘しなければなりません。それはカテゴリーの観点、この時代の人々の意識にそれとなく組み込まれた知覚図式の観点、大多数の観客と芸術家によって認められたものの観点から、この絵画には多くの矛盾が存在しました。たとえば、2.08メートル×2.64メートルのサイズのこの絵画は、その主題には大きすぎると指摘されました。私たちはもはやそのサイズに注目しませんし、特に芸術カテゴリーの、つまりは諸作品のヒエラルキーと絵画のサイズのヒエラルキーがどう関係するのかも分かりません。一部の人々は、それは風俗画(4)にしては大きすぎるし、とりわけ水浴の場面にとっては尚更そうだと考えました。それは非常に特殊なジャンルでした。同時代性とその作品の牧歌的特徴の間に矛盾があるといった批判がなされました。水浴のシーンにしてはあまりにも写実的だという批判もなされました。批判の対象となった物議の他の原因は、こっそりと売られるか、あるいは紳士が財布に忍ばせるわいせつなイメージにしては公に晒されすぎているということでした。この作品は2種類の神聖なるものについて、二重の「逸脱」を犯しました(すなわち、この作品は冒涜を犯した)。一つ目として、美学の秩序における特別な神聖なるものにこの作品は背きました。それは、美術評論家や、ことに熱心な[カトリック]信者によって非難されました。彼らは最も憤慨していた人々でした。二つ目は、特別ではない神聖なるものにも背いたというものです。それは倫理と性の両面に基づいていました。

 マネの戦略はまったく無意識的になされたものではありませんでした。彼は議論を引き起こしたかったのです。共和主義者で非常に左派的な立場をとっていた彼は、国外追放を宣告されたコミューンの英雄『アンリ・ロシュフォールの肖像(1881)』をサロンに送りました。あらゆるヒエラルキーの衝突を狙ったこの戦略は、アカデミーとブルジョワジーを同時に標的とする二重の戦略でした。

 マネの作品は常に規格外の美学の中に並べられ、周囲からは、構図も遠近法も知らないと非難されました。善意ある人々は、最も優れた絵画のアトリエで彼は大いに研究したと指摘しました(それは大変有名で、少し反体制的とみなされたトマ・クチュールのアトリエだった)。それゆえ、私たちはマネを無学な人物とみなして非難することはできません。なぜなら、彼はそれをわざと行ったからです。さらにマネは、その構図において傑作となった静物画を描くことによって、絵画そのものの中で彼に対する誹謗者に反駁しました。マネの卓越性は作品の中の目立たない隅に示されているかのようでした。(......)したがって、必然的にヒエラルキーを生むことになる遠近法、すなわち、遠くに行けば行くほど小さくなるという画法の代わりに平面的な表現方法を彼は用いました。マネを好まなかったクールベは、また逆も然りでマネもクールべを好みませんでしたが、それがトランプのカードに描かれた夫人に似ていると言いました。その絵画には、正面から照らす光のような、一連の技法が使われました。その技法によって肉付き具合が消されたり、写実主義の効果が生み出されたり、理想化が取り除かれたりしました。(......)

 この写実主義の効果から、この絵画は[パリ郊外北西にある]アニエールでのピクニックのシーンだと考えられます。もしそれがピクニックならば、私たちはこのモデルについて疑問に思うでしょう。なぜ彼女は裸なのか? 何かトラブルは起こらないのか? マネが当初、その絵画を『二組のカップルの交換パーティー』と名付けただけになおさら疑問です。

 それはさておき、光を正面から当てる技法によって、逆説的に形式主義の効果が生み出されました。写実主義を形式主義と対立させる歴史的な伝統とは別の、もう一つの選択肢がありました。マネはフローベールのように、写実主義者であると同時に形式主義者でもありました。ゾラはマネを擁護するために、純粋な画法の議論を引き合いに出しました。意味を伝えるためではなく、色彩の筆触で戯れるため、造形的な効果を及ぼすためだけに形、色、並置された筆触を構成したのです。その言葉のあらゆる意味において、それは純粋な画法でした。特に、性的特徴が取り除かれた絵画をそれは意味しています。公衆の下卑た視線にマネが対抗したものは、アトリエの純粋な美学の視線だといえましょう。ゴンクールの小説『マネット・サロモン』の中に一つの逸話があります。彼らはアトリエに関する議論についてメモを取り、次のような話を語りました。あるモデルがアトリエの男性グループの前で平気で裸になってポーズを取っていましたが、外にいた男に見られていると気づいた時、裸を隠すために彼女は急いで服を取りに向かいました(5)。これは二つのタイプの視線を示す興味深い話です。一つは純粋で、美的で、無性化され、中立化された視線です。そして他方には、性的な視線が存在します(......)(6)

 したがって、そこには美学に関わる「逸脱」と、性に関わる「逸脱」が存在しました。マネは気まぐれに、美学的視点から低い地位を示すあらゆる兆候(風俗画や風景画、肖像画の模作の採用)と、みだらな場面、あるいは潜在的にきわどさを秘めた場面を示すあらゆる兆候を重ね合わせました。同時代の読者が気づいたこと、それは社会的な意味での高位と下位の対立と、男性と女性の対立でした。結局のところ、「恥知らず」と認識されたのは、コレージュ[中等学校]の生徒の間での出会い(しかしこれは当時頻繁に用いられていた言葉だった)、あるいは学生たちと「尻軽な娘たち」、すなわちいかがわしい庶民階級の女性たちとの出会いでした。彼女たちは生物学的な再生産と社会的な再生産に対する脅威となっていたのです(前者にとっての脅威は「性病」、後者にとっての脅威は「身分の低い者との結婚」)。

 こう言うのはためらわれますが、私はある種の「美学的理論」を提示しました。こう名付けてみると壮大で、度を超し、少し傲慢だと感じられるでしょう。一方でこの理論は、ある作品、とりわけ断絶を引き起こす作品を理解するためには、作品が生み出した社会的効果を考慮に入れることが重要だという考えに基づきます。それは、こうした効果の理由や原因を明らかにする性質を、その社会的効果が持つ限りにおいてですが。そして他方では、反響あるいは効果に関する美学は意図ではなく、「性向」の美学でなければならないという事実に基づいています。そして、わたしが強調したいのはこの最後の点についてです。(......)




  • (1) かつて(絵画と彫刻の)サロンは1年に1回、芸術学院によって認可された作品を発表していた。公認芸術としての資格を認めていたこの展示は18世紀からパリで開催され、1881年まで続いた。
  • (2) (フランス語版編集部注)この段落と次の段落は、二つの別の講義で述べられた発言を並べて構成している。
  • (3) ゾラはマネを擁護していた。彼の小説である『制作』は、芸術界と排斥された画家の運命を描いている。(クロード・ランティエより)
  • (4) 逸話的、あるいは日常の親しみやすい場面を描いた作品のタイプは「風俗画」と呼ばれる。絵画のヒエラルキーの中で非常に低い位置に置かれたこの「風俗画」は、ヨーロッパの複数の芸術学院において例外的な教育対象となっていた。
  • (5) Edmond et Jules de Goncourt, Manette Salomon, Gallimard, coll. «Folio», Paris, 1996 [1re éd.: 1867], p.271.
  • (6) Pierre Bourdieu, Les Règles de l’art. Genèse et structure du champ littéraire, Seuil, Paris, 1998 [1reéd.: 1992], p.46-49.