エリック・サティ —— “沈黙”の作曲家


アガト・メリナン(Agathe Mélinand)

ジャーナリスト


訳:村松恭平、谷 明子、沖田夏弥


 最も創意に富む芸術家たちは、後世の人々によって、彼らが生み出した最も親しみやすい作品だけに結びつけられることが多い。2016年に生誕150周年を迎えた作曲家、エリック・サティの場合もそうだ。絹のように柔らかい彼の有名な『ジムノペディ』は多くの映画のクレジットタイトルに登場した。しかしこの曲は、ベル・エポック[パリを中心に新しい文化・芸術が栄えた19世紀末から20世紀初頭にかけての時代]を生きたこの共産主義者の、辛辣で粗野な一面を映し出してはいない。[フランス語版編集部]



 エリック・サティ(1866〜1925年)なる人物を語るのは厄介な作業だ。彼の人となりを理解するのは難しい。彼は抵抗し、冗談を言い、あなたに背を向け、そしていつもアルクイユ[パリ南部の都市]へと帰ってゆく。誰もそこに入ることを許されなかったみすぼらしい部屋に彼は閉じこもっていた。彼について言及するのは非常に困難な挑戦だ。一体どのサティについて語ればよいのだろうか? ビロードの服を着た革命家の青年? その人生の最後には公証人のような[黒い]服を身にまとったサティ? サン・ジェルマンの町外れにあったノアイユ家にいつも歩いて通っていたサティ? あるいは、アルクイユで「飲んだくれ、溝にはまって寝ていた(1)」サティ? キャバレー「シャ・ノワール(黒猫)」で演奏していたピアニスト? アルクイユ=カシャン青少年クラブで活動していたサティ? それから、彼が描いたデッサンもあれば、著作も存在している。840回続けて[同じフレーズを]反復する『ヴェクサシオン』もある。彼は言う。「この主題を演奏するためには、あらかじめ心構えをしておくのがよいでしょう。大いなる沈黙の中で、身動きせず静粛に」。『ヴェクサシオン』は15時間に及ぶ曲だ。ジョン・ケージと他の9名のピアニストたちが、1963年にはじめてこの曲を演奏した。

 それから? 突飛な内容の彼の講演録や、音楽について論じた彼の新聞記事、格言、怒りの叫び、詩、そして彼のさまざまな主張を引き合いに出すべきだろうか? 彼が所属したアルクイユにある共産党の第一支部について話さなければならないのだろうか? かの有名な『グノシエンヌ』と『ジムノペディ』についてのみ語るべきか? それらの作品は多種多様な彼の音楽をいくばくか見えなくしてしまう。ジャン・コクトー、モーリス・ラヴェル、ルネ・クレール、あるいはピカソ —— 誰が語るサティについて話さなければならないのだろうか? 画家で、かつては空中ぶらんこ乗りでもあったシュザンヌ・ヴァラドンの束の間の恋人だったサティについて? クロード・ドビュッシーの大切な友人だったサティについて? ドビュッシーは彼にコトレットを作ってあげていた。サティの貧困生活や神秘主義についても話さなければならないのだろうか?「導きのイエスの芸術首都教会」のこの創設者を賞賛しなければならないのだろうか? 幸いにも、彼だけがこの教会の司祭であり、唯一の信徒であった。あるいは、水道も電気もなかったアルクイユの部屋にいる彼に寄り添うべきだろうか? サティはそこで28年もの間、特に蚊に悩まされながら暮らしていた。

 話を変えよう。エリック・サティ生誕150周年を記念して、さまざまな講演会や人気投票が行われている。[ガスコーニュ地方]サン・ジャン・ド・リューズから日本にいたるまで、みなが彼を祝福している…… サティが生きていたとすれば、この状況を喜んだかもしれない。彼の音楽は当時、人々に好かれていなかったのだから。彼は言う。「とても短かった青年期の後、私は概してまあまあの若者になりましたが、それ以上ではありませんでした。人生の中で、私が音楽について考え、曲を書き始めたのはこの頃です。はい、なんという思いつきでしょう!…… なんという悪巧みだったことか!…… というのも、人を不快にさせ、ルールを破り、まったくフランス的でなく、自然に背くような独創性を私はすぐに生かし始めたのですから(2)」。

 サティの非常に反射的な性格、あらゆる権威と「既成の」ものへの強い拒絶に、そうした消極的な態度が重なった。挑発やいさかい、激しい苛立ちを覚え易かった敏感な感覚とも結びついていた。その苛立ちが頂点に達すると批評家に向かって傘で攻撃し、そのことでサティは牢屋に入れられそうにもなった。彼はパリ音楽院で認められなかった時には憤慨し、アルクイユ市で行った奉仕に対して教育功労章が与えられた時には歓喜した…… エリック・サティ、彼の行動はいつも矛盾で溢れていた。

 しかしながら、そうした激しい苛立ちやアルコールの問題、青少年時代の叫びから離れて、サティについて語り、彼の音楽を聴くためには、「白」を想定しなければならない。彼が愛していたこの「白」を。らせん形を描きながらほとばしる彼の音楽は、生き生きとしながらこの余白で鳴り響くのだ。サティは“沈黙”を作り出した。前にやって来る沈黙と、後にやって来る沈黙を。

 名前のスペルの最後の文字が“K”で終わるエリック・サティは、1866年5月17日にカルヴァドス県ポンレヴェックのオンフルールで生まれた。彼はこう言う。「私は平凡で取るに足らない子供時代と青年時代を送りました。真面目な文献に載せるほどたいした特徴はなかったので、わざわざ話すつもりもありません(3)」。母親も祖母もいなかったその少年は、住んでいたオート通りから大きな船の様子を眺め、その音を聴きながら「海はなんて広くて水がいっぱいなんだろう」と考えていた(4)。12歳になったサティは、ウジェーヌ・ブーダン[オンフルール生まれの風景画家]が描いた景色の街とヴィノ先生のクラスを去り、楽譜の出版を手掛けていた父親と、アマチュアの作曲家でのちに彼に「本物の音楽」を教えることになる義母の住むパリへと向かった。

 「子供だった私は、あなた方のクラスに入りました。私の心はとても柔らかかったため、あなた方はそれを理解できませんでした。私のやり方は花をも驚かしていました……。そして、私が若さの絶頂にいて機敏さを備えていたのに、あなた方の無理解のおかげで、私はあなた方が教えていた趣味の悪い芸術が大嫌いになりました(5)」。

 パリ音楽院での生活は惨憺たるものであった。教授たちはサティのことを、才能はあるが怠け者の生徒、熱意に欠けた実行力のない学生と評した。サティは諦めた。彼の音楽家としての将来は暗く、深い憎しみを抱きながら学校を去った。彼ははっきり言う。「たった一人でも私は叫ぶ。アマチュア万歳!」と。さて、どうしたものか。『幻想ワルツ』や『ワルツ・バレエ』の作曲を試みるか、それともノートルダム大聖堂の天井を何時間もただじっと眺めているか? 20歳の頃、明快な旋律を描く『4つのオジーヴ[訳註1]』を書いた。サティはこの作品で小節線を用いず、ゴシック建築をイメージさせる音の流れを実験し、そして発見したのである。

 あぁ、だめだ。「その年、彼は持っていた服という服をボールのように丸め、床の上で引っ張り、踏みつけ、それらが完全にボロ着となり果てるまであらゆる種類の液体をかけた。帽子に穴を開け、靴を破り、ネクタイを裂き、髭は剃らず、髪も伸ばし放題だった(6)」。

 彼はすべてを捨てた。ノルマンディも、音楽院も、そして父親も。そして遂にありのままの自分となったのだ。将来、身なりも態度も洗練されるこの紳士は、20歳の時にモンマルトルの麓で友人の詩人 J.P.コンタミーヌ・ドゥ・ラトゥールと同居し、彼自身の人生を歩み始めた。毎日お祭り騒ぎで、呑んだくれてばかりいた。「我々はあらゆる慣習、愚かなこと、そして偏見に対して反発する。我々は、自分自身が見ている世界を表現する勇気のある人々、古い考えに縛られない人々、そして自然 —— 偉大で美しい自然 —— だけを師とする人々に賛同する(7)」。

 サティは10年間、キャバレー「シャ・ノワール」でピアノを弾いた。アンコエラン派[「支離滅裂な人々」を意味する新進芸術家たち]は、『鴨のグリーンピース添え』、『にんにくの浅浮き彫り』『雪が降る中で初めて聖体を拝領する萎黄病にかかった少女』など、「絵の描き方を知らない人々によって描かれたデッサン」を展示していた。彼らの中で、アルフォンス・アレーは特に傑出していた。これらの風変わりな人々は、サティのユーモアと詩的な感性に、一生に亘って大きな影響を与えることになった。そこで行われていた影絵芝居には、ギ・ド・モーパッサン、エミール・ゾラ、アルフォンス・ドーデ、ポール・ヴェルレーヌ、マルセル・プルースト、カラン・ダッシュ、シャルル・クロといった面々も来ていた。サティがドビュッシーと出会ったのもここだと言われている。「エゾテリック・サティ[秘教者サティ][訳註2]」は、作家でありオカルト信仰者のサール・ペラダン率いる薔薇十字会の公認音楽家となり、ラトゥールと共に『キリスト教的バレエ ユスピュ』を作曲した。しかし彼らの度重なる脅迫にもかかわらず、オペラ座の支配人はその上演を拒否した。

 このような喧騒の中で、サティは6つの『グノシエンヌ』と[3つの]『ジムノペディ』を作曲した。「ゆっくりと、痛ましげに、悲しげに、厳粛に」奏され、「裸の子供の踊り」という意味である『ジムノペディ』では、大理石の床の上を滑って遊びまわるギリシャの子供たちの足音が聴こえる。

 26歳の時に、サティはシュザンヌ・ヴァラドンと6カ月間の短く激しい関係をもつ。彼はそれがもっと長く続くことを望んだが、ヴァラドンはそれを望まず、彼らは破局した。「あらゆる泥酔者、破廉恥漢、放蕩者、ならず者、にせ者たちを憐れみて」や「受けた侮辱の許しが問題となるとき」を含む『ゴシック舞曲 —— 我が魂の大いなる静けさと堅固な平安のための9日間の祈祷崇拝と聖歌的協賛』が作曲された。他の恋愛関係を二度と持たなかったサティは、不幸だった。彼はほとんど自棄になった。薔薇十字団を離れ、一文無しになった彼は、美術館の守衛になることを考えた。経験豊富な批評家ウィリーは、彼についての嫌悪感を次のように書いている。「気のふれた音楽野郎、神秘主義のシラミ、汚らわしい秘教徒め!」サティは反論し、戦い、このパリの名士に対して呪いをかけた……。それでも彼は『貧者のミサ』を作曲した。『冷たい小品』と『ゆがんだ踊り』を何曲か書いた後[訳註3]、おそらく出発の時がやってきたようだ。

 1898年の12月、モンマルトルを離れ、ビエーヴル河のほとりの労働者の田舎町、アルクイユへと向かった手押し車の上の荷物はいったい誰のものだろう? それは、エリック・サティのものだ。彼の全ての生活はそこに収まり、コシー通り22番に居を構えることになった。部屋の広さは15平方メートルで、水も電気もなく、「フリーメーソンの回し者に違いない」蚊の音楽に彼は悩まされた……。自宅にいるサティは、ぞっとするほど惨めであった。「私はもう2日間何も食べていません」。そうして彼はカフコンス[カフェ・コンセール]でヴァンサン・イスパ、または「スローなワルツの女王」の異名を持つポーレット・ダルティの伴奏をしに、いつも徒歩でモンマルトルに戻っていた。それから、ドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』から衝撃を受ける 。サティは「他のことを探さねば、私はもうだめだ」と言っている。ドビュッシーは彼に形式を勉強するよう助言した。そしてサティは『梨の形をした3つの小品』を作曲した。

 学ぶべきことがあったサティは ——「私の無知を人々が非難することにうんざりしていた」—— 39歳の時にスコラ・カントルム[音楽院]に登録した。ドビュッシーは言った。「あなたの年齢では、もう生まれ変わるのは難しい」と。そんなことはない。学校に行くためには、身なりを整えねばならない。少し粋な黒のスーツ、付け襟、帽子に傘。『馬の装具で』を作曲した。そして、サティは対位法の課程を優等で卒業したのだ。「1つの作品を作曲する前に、私は自分自身を思い浮かべながら、それを7周する。『新・冷たい小品』の“壁について”、“木について”、“橋について”のように。

 そしてラヴェル、その後にコクトーが、サティの面倒を見るようになる。人々はサティの曲を演奏し、出版した。サティはサロンに頻繁に通うため、誰かが彼を車で送って行った —— 『犬のためのぶよぶよとした本当の前奏曲』の「家に一人」。そして、バレエ『パラード』が騒動を引き起こした。「ピカソ万歳、コクトー万歳、サティは去れ!」と批評家は叫ぶ。サティはすかさず応報し、戦いが始まる。——「もうだめだ」。そして彼はポリニャック大公妃へ、プラトンの対話篇による、素晴らしくてキュビスム的でもある傑作『ソクラテス』を書くために「象牙か、あるいは別の(金属製の)金属の塔」の中に身を引くのであった。それから、いくつかのノクターンとバレエ音楽を作曲した。彼は有名であると同時に無一文でもあった。彼が発明した『家具の音楽』は、その後、私たちの時代にエレベーターで頻繁に流れるようになった。フランシス・ピカビアとともに、ほんの少しだけダダ映画にも出演した。ルネ・クレールの『幕間』の中で、私たちは幸運にも、本物のサティの姿を見ることができる。さらに「6人組」(8)のたわいない肖像写真にも……。しかし「サティ主義は存在しない」のだ。ドビュッシーが死に、サティエリック[訳註4]はラヴェルとコクトーと仲違いをした。自称「年老いた共産主義者」がアルクイユ=カシャン青少年クラブの子供たちにもう会わなくなってから、長い時間が経っていた。ダンスの授業も、お菓子ももはやない。病気のサティは自宅にさえもう帰ることができなくなっていた。彼は肝硬変と胸膜炎を患い、病院にいた。サティは59歳で生涯を終えた。

 彼の埋葬の日はとても良い天気で、二人の若い女性が彼の棺の後をついて行ったそうだ。とても大きな、2本の美しい傘を広げながら。




  • (1) 他の註が付けられていない限り、すべての引用文はジャン=ピエール・アーマンゴが著した伝記(Erik Satie, Fayard, Paris, 2009)を参照している。
  • (2) Erik Satie, Mémoires d’un amnésique, Ombres, coll. « Petite Bibliothèque », Toulouse, 2010.
  • (3) Ibid.
  • (4) Sports et Divertissements, vingt et une pièces brèves pour piano.
  • (5) 1892年11月に音楽院に宛てられた手紙の内容 Cf. Erik Satie. Correspondance presque complète, réunie et présentée par Ornella Volta, Fayard, Paris, 2000.
  • (6) J. P. Contamine de Latour, « Erik Satie intime : souvenirs de jeunesse », Comœdia, Paris, 1925年8月6日
  • (7) Henri Rivière, dans la revue Le Chat noir, 1888年4月15日.
  • (8) ジョルジュ・オーリック、アルチュール・オネゲル、フランシス・プーランク、ルイ・デュレ、ジェルメーヌ・タイユフェール、ダリウス・ミヨーといった音楽家たちによって、いわゆる「六人組」が形成された。サティはその「後見人」のような存在だった。


    [訳註1] オジーヴとは2つの円弧でつくられる先端のとがったアーチのことで、ゴシック建築を最も特徴づける重要な要素。(ブリタニカ国際大百科事典より)
    [訳註2] 「神秘主義者」(Esotérik Satie)は風刺作家アルフォンス・アレーがサティにつけたニックネーム。(ヴォルタ, O. (1999)『エリック・サティの郊外』(昼間賢 訳)早美出版社)
    [訳註3] ただし、実際は『ゆがんだ踊り』は『冷たい小品』を構成する1つの曲であり、それがまた3つの曲からできている。
    [訳註4] 「サティエリック(Satierik)」はフランシス・ピカビアがサティにつけたニックネーム。“satirique”は毒舌家という意。(ヴォルタ, O. (1989)『書簡から見るエリック・サティ』(田村安佐子・有田英也 訳)中央公論社)


(ル・モンド・ディプロマティーク2016年8月号)