消えゆく山の農家——何が伝統と景観を破壊するのか?


ブノワ・デュトゥルトル(Benoît Duteurtre)

作家。本稿は近著 Livre pour adultes (Gallimard, Paris)より。


訳:村松恭平


「有機」農業や「持続可能な」農業が絶えず打ち出されてはいるが、米国の安全衛生制度を模した欧州の規準が伝統的な農民の根絶を促している。保健衛生に関わる事件は今でも増加している。ヴォージュ山脈のある場所で、ジョゼット・アントワンヌはその昔からの営みをまだ続けている。[フランス語版編集部]



 「それでですね、あなたはもう高齢なので見逃しますが、今はただ大目に見てあげているだけです。これ以後はもうおしまいです。おしまい!」

 安全衛生の視察官は無情な人間ではない。県の農業部から現地に派遣された彼らは、祖先から伝わる農業の方法全体を知っている。諸規則から外れたその実践によって、最後となった山の農家たちは生き残っている。視察官たちは農業高校で集約的牧畜の利点や「養豚課程」と「養鶏課程」の展望を見出だしたが、学問を学んだ後には、そのうちの何人かが考え方を見直すこともあった。彼らは「環境に配慮した経済」においては有機農業がその役割を果たしうると認めており、この分野で新たな「専門課程」の発展を促している……。但し、施行中の様々なルールを守りさえすれば、ではあるが。ルールの中にはたとえば、農業用建物と住居用建物の分離、コンクリートを敷いた床での家畜飼育、家畜ごとに育成過程を確認できるマイクロチップの埋め込み、保証ラベルの貼られた餌の供給、農場作物の殺菌、あらゆる感染から食糧を守るためのビニール手袋と帽子の使用義務がある。もし誰かが視察官に「いっそのこと、宇宙飛行士のつなぎを着たらどうですか?」と尋ねれば、彼は笑うだろう。彼は妥協する余地のない保守主義者ではない。単に、規則を守ろうとしているだけだ。

 しかし、そうした規準に関して言えば、60歳のジョゼット・アントワンヌはその平均以下であることを認めざるをえない。私が住む村から数キロメートルの高地の森の真ん中にある彼女の農場では、家の中にある家畜小屋を雌牛と子牛がいつも占拠している。兎たちは新鮮な草を食べ、雌鳥は穀粒やミミズだけでなく、残飯もついばんでいる(これは厳禁なことである!)。ジョゼットはまだ温かい牛乳を売っているが、それは牛の乳から出たばかりで、大きなバケツの中で泡立っている。道具置場で彼女が私の真鍮でできた牛乳缶を一杯にした時、家畜小屋の梁に掛かった小さな巣に燕たちが入っていくのが見えた。それだけではない。彼女の干し草置き場ではおそらく何匹かのノネズミが巣を作っているし、彼女のチーズは塩漬け貯蔵室の木製の水切り器の上で、外気に触れながらゆっくりと熟成している。これら全てのことは安全衛生の視察官を苛立たせている。彼は木製の板に触れているチーズをもはや見たくはなく、厳しい視線をジョゼットに投げ掛ける。「こうした作業を続けるのを許しますが、大目に見ていることを忘れないでくださいね」。そして彼はこう付け加えた。「これ以後はもうおしまいです!」別の言い方をすればこうだ。「あなたが亡くなれば、すぐにおしまいです」。ただ、これは失礼な表現だ。このチーズは彼らから見ると細菌たっぷりの爆弾であり、時代遅れの慣行農業の残滓だ。ジョゼット・アントワンヌが仕事をやめる日に、彼らはそれに終止符を打たねばならない。その営みがまだ可能なのは、それが彼女の昔からの習慣であり、この出来事が目立たなかったからだ。

 私が子供の頃、夏休みに出掛けた際、牛乳、卵、鶏、兎、豚、チーズ、サラダといった食品の大部分を人々はまだその農場で買っていた。しかし、私は食中毒の話は一度も聞いた記憶がない。卵一ダースの中に(暗闇で保存するため、卵は新聞紙で包まれていた)腐った卵が一つ隠れていたことがあったぐらいだ。そのひどい臭いは子供たちの記憶に焼き付いていた。反対に、地球規模の激震を生じさせている食品衛生に関わる昨今の事件はすべて、厳しい規準が設けられた工業型農業に由来している。そこでは、ほんの少しの機能障害が大惨事へと変わる。それは伝染病の大流行や「動物間流行病」で、家畜への餌やりの方法や集約的牧畜の諸条件に関わっている。これらの中毒はコールドチェーンの欠陥や粗悪な解凍、不十分な殺菌によって引き起こされる。細菌による病気は新聞の「一面」を飾っている。だめになった多数の牛が燃やされる、嘆かわしい火あぶりのように。

 逆に、「持続的発展」という現代的な言葉が示すものの完璧な模範をこの山の農場は体現していた。厳しい気候条件に適応する暖かさが、家の中に家畜がいたり干し草置き場があるおかげで、ほぼコストをかけずに常に保たれていた。また、毎回洗われ、一生涯使われ続ける容器で牛乳が運ばれていたことから、プラスチック廃棄物が黄色のゴミ箱に溜まっていくことはなかった。残飯や野菜を剥いた皮は豚、兎、鶏の餌となり、緑色のゴミ箱の中で腐ることもなかった。ふん便は最終的に堆肥の山となり、牧畜を豊かなものにしていた。そして、こうした生活様式によって、私たちの童話や伝説に登場してきた動物と人間との神秘的な対話が古くから続いてきた。豚の屠殺、あるいは兎が喉を切って殺されるような恐ろしい光景も、その死に具体的な現実が与えられていた。

干し草置き場の詩情

 したがって、本来ならばこの小さな農場は「環境に配慮した」農業、「持続可能な」農業、「有機」農業について考えている人々の模範となる必要があっただろう。ところが、エコロジーは他の産業と同様、同じ専門家たちによってコントロールされ、同じルールに従った一つの産業となっている。化学肥料あるいは遺伝子導入作物を頑に拒むエコロジー産業も、やはりこうした強迫的な安全衛生規準を守っている。それは米国や欧州北部から広がり、農村世界を包んだ。殺菌マスクや消毒と低温殺菌法の技術が押し付けられ、その結果、あらゆる自然産品が、本質的に危険なものとして指定されるようになった。

 北米の街では、包装を被せずに農産物を並べる、という考えですら受け入れられていないようだ……。それぞれの果物、野菜を密封してプラスチックの包装で包まなければならない。したがって、素朴な習慣を残すフランスの市場では、そこの活き活きとした魚を見た観光客たちが盛り上がり、笑っている。一方、私たちフランス人は北アフリカのアラブ市場で、鍋に入った香辛料や卵のピラミッドを見て更に古い世界を思い起こし、それらを目の前にして夢想にふけている。しかし、それも長くは続かないだろう。安全衛生規準が拡大し、人間と動物の共生だけでなく、かつて詩情に満ちていた「飼育場」の動物の種の共生もまた破壊されることになる。欧州の、それが残存しているあらゆる場所で。保護手袋を用いずに農産品を扱うこと、蛍光色のつなぎを着用せずに農場で作業すること、警報音を鳴らさずにバックギアでトラクターを運転することは、こうした規準によって根絶されようとしている。指定されたリストにない餌や植物の種子の使用もだ。一方では禁止が進められ、他方では新たな方式が強制的に適用される。その方式は田舎に都会の雰囲気を、農場には漂白剤の臭いを放つタイルの貼られた実験室の様相を与えている。

 ロンジュメール湖(ヴォージュ山脈で最も美しい湖で、樹林に覆われた斜面の中腹にある)の湖岸から出発した1本の険しい道が木々の間を上り、いくつものつづら折りを経て、標高1000メートルにある広大な林間の空地に辿り着く。この場所、ショームの農場では、まるで森林の大海の真ん中に浮かぶ島にいるかのように感じられるだろう。あらゆる方面からの眺めが、丸みを帯びた他の山々に面している(かの有名なバロン・デ・ヴォージュ)。それらはモミの木のコートに覆われて無限に繰り返されるが、東方面だけは牧草地の広がったホーネックの山がそびえ立っている。この山は冬には巨大な氷塊の様相を呈する。この地域で最後に残ったジョゼット・アントワンヌの農場に私が着いた時には、この山を必ずじっくり見ることにしている。

 住居が山のものと同じ石と木で作られたような景色の魔法を見つけられるのは、今日では映画の中だけだ。『ホビット』の伝説や『ロード・オブ・ザ・リング』で子供たちに夢を見させた様々な映像効果の作り手たちは、こうした藁葺きや荒壁土の田舎家を再現するのにある種の才能を見せている。その家の床は踏み固められた土でできており、雌鳥やガチョウ、カモ、豚が飛び回る。そこに置かれた樽はキャベツで満たされ、食糧貯蔵室にはたくさんのハムや上等の酒が並べられている。ところが、21世紀の若者たちを魅了するために作られたこの世界は、ハリウッドのファンタジーの産物ではない。それはつい最近消え去ったばかりの生活様式を、少しばかり凝った形で再現したものに過ぎない。今でも実際に残っているのは、ここの農場のようないくつかの辺鄙な場所だけだ。チーズが今でも水切り器の上で熟成しており、山から流れてきた小川が家畜小屋近くの砂岩でできた器の中に流れている。雌鳥たちはたっぷり広げられた厩肥の山をよじ登っている。その山が堆肥生産や貯蔵規準に合致するかどうかは、そこではどうでもいい話だ。

 しかしながら、私にとって干し草置き場の詩情に勝るものはない。私は子供の頃のように、村にある農場でこの夢の干し草置き場を時折よじ登っている。家族たちは7月に草原の真ん中に集まり、すさまじい量のまだ青い秣や牧草、野原の花々を刈っていた。それらはジュートの袋に詰め込まれ、建物の中に流し入れられた。農業用フォークで何度も突かれ押し込まれたその飼葉は、その薄暗い巨大な空間で乾燥しないまま冬を越すことになり、より香りを放ついくつかの小山やタワー、城を形作って私たちがそこで遊ぶのを迎えていた。

 私にはこの生活様式が、貴重な財産のように、私たちのあらゆる利益に値していたようにみえる。そして国家やコミューンはその消滅を促進するのではなく、非常に古い再生利用モデルや生産モデルを保持できたようにもみえる。もうどうしようもない。第二次世界大戦で占領されたフランスでは、田舎に住む同胞たちが街の住民たちに食糧を供給していた。しかし今日では、田舎は自分たち自身で食糧を確保することはできないだろう。小さな農家に対する行政当局の無関心、そして牛乳の集荷の中止(私が子供の頃には、集荷のための大きな缶を山道の端で見つけていた)に続き、衛生学者たちが最後の山の農家たちに止めを刺す役割を担っている。間もなく、農家たちの姿は国立民芸民間伝承博物館の数枚の絵の中でしか見れなくなるだろう。

 ジョゼット・アントワンヌはせいぜい10年後には引退し、この農場を引き継ごうとしている彼女の息子が行政当局の勧告に従うだろう。まずは農場内部の家畜小屋、兎小屋、チーズの貯蔵室が破壊される。彼は家畜のための新しい建物を外側に建て、新たな規準に適合した鉄筋コンクリートの床の上で家畜の世話を行うだろう。修道士たちが深い森を開墾した時代である中世に始まった山の農業の歴史は、こうして本当に終わってしまうだろう。あらゆる重大な消失のように、この農業の消失も無関心のうちになされてしまうだろう。遅すぎた頃になってようやくそれが間違っていたと気付くのだ。

 私の家からは、村と、赤い瓦屋根で鐘楼を備えた山の教会を見渡すことができる。この景観は間違いなく欧州のものだ。農場、キリストの十字架、市庁舎に司祭館、慰霊碑、そしてフランス語の響きに混ざったドイツ語の名前を目にする。欧州のもう他方の端にあるカルパチア山脈を旅した時、私はこのヴォージュ山脈にとてもよく似たいくつかの地域を訪れた。道と通り名のある場所で張り巡らされたその田舎は、その地の歴史によって形成されたようにみえる。それは北米の無限に広がる森とは非常に異なっている。

マスが泳いでいくのを眺めながら歩く

 ところが不思議なことに、「欧州の建設」を試みたこの数十年間、こうした景観の変化そのものがまったく欧州的ではなかった。各地方の諸条件に適応していた典型的な農場は閉鎖され、平原に集中し世界市場と結び付いた集約的生産が行われるようになった。牧場と山道は藪の中に消え、荒れるがままとなった。残ったのは駐車場と別の駐車場を結ぶ、アスファルトが塗られた何本かの道路だけだ。代々の木こりが担ってきた丹念な森の維持も、巨大な機械の侵入によって終わりを告げた。これらの機械は山道に轍を作り、最も収益が見込まれる木々だけを引き抜いている。その後は荒れたままの状態で放置している。村を貫いて流れる川に沿って防護柵が作られたように、不可解な法規則が課されるようになった。これは誰かが川に落ちて、コミューンを訴える場合に備えてのことだ。もっとも、マスが泳いでいくのを眺めながら歩くのはとても気持ちが良かった。しかし、ここでも他の場所でも、今や「予防原則」が人生の出来事の責任を引き受けている。経済の規制緩和と日々の生活を縛る法規制が混ざり合い、欧州は結局「新世界」[米国]の属州に変わってしまった。

 しかしながら、地方自然公園に沿って位置し、私が一年のうち一定期間を過ごすこの村は、この地域で最も保護された村の一つだ。絵になる美しさ、いくつかの滝、小さなホテルが観光客たちを惹き付ける。30年前から指揮を執っている村長の考えは、行動を極力控え、行動するにしてもゆっくりと物事を進めるというものだ。それはなかなかどうして悪くはない。隣接したコミューンでは、村の現代化を進めようとする熱気によって、成り行き任せの分譲地が増加している。かつては蛇行していたが、自動車専用道路となるために徐々に整備された道については言うまでもない。以前はカーブに差し掛かると、家々が突然その姿を現していた。今日ではいくつかの街灯がこの直線の車道にぞっとする光を映している。夜の星空に鈍感な市会議員たちは、有権者たちに本物の都市に値する村の整備を提示することによって、彼らの気を引きたいと思っている。

 私が子供だった1960年代の頃、私の年齢の村人たちは人見知りで、粗野な雰囲気をまだ持っていた。こうした人里離れた農場で彼らは生活を送り、公立小学校でたった一つしかない学級に通っていた。冬になると、彼らは雪の中を歩いて向かっていた。その子供たちは成長し、都市で仕事を見つけている。工場労働者になったり、エンジニアになったりした。彼らの親は年を取り、農業経営は次第に衰えた。その後、彼らの多くは心から愛着を抱いていると思われるこの山にモダンな家を建てた。仕事の引退時期が近づいた何人かは、雌牛を購入しようとしている。彼らは公立小学校へと向かう雪に覆われた道を懐かしく思い起こしている。しかし、先人たちの生活を取り戻そうとは誰も考えてはいないだろう。

 かつては、険しく原始的なこの山から抜け出すことは困難であった。その土地の社会秩序と宗教的な影響によって、人々の意識に自由はほとんど与えられなかった。この村の貧しさは甚だしかったように見えた。私たちが子供だった頃、振り子時計の振り子の音を聴きながら退屈を感じる一方で、大人たちは平凡な雑談に耽っていた。しかし、草地と森に広がったこうした貧しさは、都市周辺部にある貧しさ、テレビのリアリティー番組が醸し出す貧しさ、そして工業食品そのものの貧しさよりも悪いものだったのだろうか? この閉ざされた世界は、一つのショッピングエリアから他のショッピングエリアへ車に乗って走り回る世界よりも、より危険なものだったのだろうか?



(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2016年8月号)