苦渋の選択——ヒラリーはトランプより本当にマシなのか?


ジョン・R・マッカーサー(John R. MacArthur)

ハーパーズ誌発行人。

著書にL’Illusion Obama: Chroniques d’un intellectuel libéral aux Etats-Unis

(Les Arenes, Paris, 2012)


訳:大竹秀子


 ヒラリー・クリントンが米大統領選でなんとか当選を勝ち得たとしても、人気のなさは否めない。ドナルド・トランプによる専制政治の実現だけはなんとしてでも避けたい人たちのしぶしぶながらの票を集めただけにすぎない。[英語版編集部]



 「ヒラリー・クリントンが、こんなにも好感度が低いのはなぜだろう?」。ニューヨーク・タイムズ紙のコラムニスト、デイヴィッド・ブルックスは、5月24日付の記事で、そう自問する。ブルックスはその答えをクリントンの政治上の実績ではなく、精神のあり方に求める。「『ヒラリー・クリントンは気晴らしに何をして楽しむか』と聞かれて、答えられる人がいるだろうか?」。ヒラリーがアピールに欠けるのは、おそらくその気性のためだとブルックスは考える。クリントンは、自分のキャリアのことからどうしても離れられない。ヒラリーの低い好感度は、「仕事人間の不人気に通じる。ソーシャルメディア時代に求められるのは、親密でパーソナルでうちとけ、ひとを信頼し、弱さを隠さないという姿勢だ。キャリア志向の堅苦しいクリントンのパーソナリティは、これに真っ向から対立している」。常日頃は、共和党シンパであるこのコラムニストのことばとも思えぬお手柔らかな見解には驚かされるが、ドナルド・トランプに対する反発がこのような奇妙な同盟関係を生んでいる。

 ファーストレディ、米連邦議会上院議員、国務長官を体験したヒラリーだが、ブルックスのコラムを読んでいると、まるで政治の初舞台に立ったかのように聞こえる。2003年のイラク侵攻へのクリントンの支持、ゴールドマン・サックスの銀行関係者たちへの3回の講演(各回、22万5000ドルの講演料が支払われた)、自由貿易協定支持、リビアの指導者ムアンマル・カダフィ転覆への支持を、人々は忘れたと言ってよいだろうか? クリントン家の所有する多国籍慈善団体「クリントン財団」が、ヒラリーがオバマ政権の一員だったときに抱えていた利益相反の問題はどうなのか? ニューヨーク・タイムズ紙(2015年10月18日付)の報道によると、同財団の理事たちはクリントン国務長官に熱心なロビー活動を行った末、米連邦政府がルワンダでのエイズ撲滅プログラムのために割り当てていた予算を財団が準備したトレーニング・プログラムに振り替えさせるのに成功したという。

 ヒラリーのウォールストリートとのつながりは言うまでもない。ウォールストリートはヒラリーの選挙戦と財団の両方に資金を提供している。トランプですら、2009年に10万ドル以上、財団に寄付した。トランプは、長年にわたりクリントン夫妻と親交が深く、2005年には3度目の結婚式にふたりを招待した。「ビルとヒラリー」は、教会で最前列の席を与えられた。満面の笑みから、夫妻の上機嫌が見てとれる。ヒラリー・クリントンにとっては、こういうことが楽しみなのだ。

 11月の大統領選でヒラリーに投票することは、クリントン夫妻に票を投じることを意味する。2人は互いに最も親密なアドバイザーだからだ。ヒラリーはすでに本音を明かしている。自分が当選すれば、「ビルが経済再生を担当することになります。皆さんご存じのように、彼にはやり方がわかってますから」と。

 児童擁護に熱心に取り組んできたというイメージをヒラリーは広めようとしている。30年以上前、ビルがアーカンソー州知事だった時代には、思いやりのある人物という評判がたつことを期待して、「児童保護基金」をはじめとする慈善団体と手を組んだ。しかし、南部で過ごした時間の大半、ヒラリーが多くの時間を割いたのはこの件ではなく、1977年から1992年までローズ法律事務所で特許法と知的財産を専門とする仕事に精を出した。ローズは、アーカンソーの政治とビジネスの結託を象徴する法律事務所で、労働組合を毛嫌いし、労働力の搾取が可能な諸国で生産された格安商品が大好きなウォルマートもそのクライアントだ。

多国籍企業を怒らせず

 弁護士ヒラリー・クリントンは実績を買われて多国籍企業ウォルマートの取締役の座に付き、1986年から1992年まで務めて、年収1万8000ドルを得た(インフレ調整後の現在の金額では3万1000ドルに当たる)。ウォルマートを困らせるようなこと、とりわけその低賃金体系について、ヒラリーが口を開いたことはない(現在のウォルマート店員の平均給与、年俸1万9427ドルで子供を育てるのは困難だ)。 2013年から14年にディープサウスを旅したポール・セルーは、こう書いた。「サウスカロライナ、アラバマ、ミシシッピで、私が見いだしたのは、ジンバブエの町にも似た、見棄てられ追い詰められた町だ」(1)。アーカンソーの黒人貧困家庭には関心を示さず、「アフリカ象を救え」運動との提携を売り物プログラムのひとつとするクリントン財団を、セルーは揶揄した。

 大統領第1期目から、ビル・クリントンは、従来、産業労働組合に過剰に頼っていた民主党の資金調達活動の変革をめざし、党の路線を右に変換した。このため、多国籍企業に人気だが民主党投票者には不人気だった北米自由貿易協定(NAFTA)を推進したが、ヒラリーがこの協定に反対したことは一度も無い。1992年9月、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領が交渉を進めていたこの協定をビルが支持することに決めたバージニア州アーリントンでの重要な会議にはヒラリーも出席し、その後、頑固に反対する民主党議員たちを取り込む戦略の策定に力を貸した。クリントン・チームの元メンバー、トム・ナイズの話では、「議員ひとりずつ、一本釣りでした。ひとりひとり、誰をどうやって落とせるか、頭をひねったんです」(2)。1993年11月、当時、下院で共和党の第2のボスだったニュート・ギングリッチの支援を得てNAFTAは批准された。1996年3月、ヒラリーは「NAFTAはその真価を証明していると思う」と満足げに語っている。

 自由貿易の成功に勢いを得て、ビルは1930年代にまでさかのぼり、ルーズベルトのニューディール政策以来、施行されてきた福祉国家アメリカの原則の一部にまで手をつけた。1994年中間選挙での民主党の敗北により下院議長になったギングリッチの支援を得て、ビル・クリントンはアメリカの福祉制度「改革」を断行し、1100万以上の貧困家庭への援助を打ち切った。保健社会福祉省の計画担当次官補だったピーター・エデルマンは、「児童擁護基金」創設者の夫でもあったが、抗議を表明して辞任し、「この法は雇用促進につながらず、全面的に適用になると何百万人もの貧しい子供たちがとばっちりを受ける」と表明した。ビルの政策のおかげで、子供たち(特に黒人とラティーノ)が痛みを負わされることに、ヒラリーは沈黙を守った。

 それから数年後、ビルは共和党の「ライバルたち」の力を借りてウォールストリートの規制緩和を行った。1999年11月にビルが廃止の署名をしたグラス・スティーガル法は、銀行が小口預金者の預金を投機的運用に向かわせることがないよう、1933年以来、商業銀行と投資銀行の分離を義務づけていた法律だ。現在、共和党のジョン・マケインなどが、この法の復活を提案している。だが、ヒラリーは違う。ヒラリーの経済顧問アラン・ブラインダーは、2015年に「グラス・スティーガル法の再来はない」と語っている。

 ヒラリーの政治家としてのキャリアが本格的に開始されたのは2000年、夫と民主党の強力なお仲間たちの手で天下りを果たし、一度も住んだことがなかったニューヨーク州で連邦上院議員に立候補した。当選後、ブッシュ政権とうまがあうことがわかった。2002年10月の上院での演説では、サダム・フセインが大量破壊兵器を保有しているというホワイトハウスの嘘をそのまま使って、イラク侵攻支援を確言した。「予防戦争」を擁護し、1999年にビルが「100万人を超えるコソボのアルバニア人の退去や民族浄化を止めるという気高い目的で決断したセルビア空爆に匹敵する」とし、「私の決断にはおそらく、ペンシルバニア通りの向こう側、ホワイトハウスで、我が国が直面する重大な挑戦に取り組む夫の姿を見守った8年間の体験が影響を及ぼしている」と語った。フェミニストにあるまじきことばだが、いまでもツイッターのプロフィール欄で「妻にして母、お祖母ちゃん」と自己紹介していることを思えば驚くにはあたらない。

 ヒラリーのこの2002年の演説の凡庸な表現には唖然とさせられる。だが、本人が書いたと決めて批判するのは公平を欠くだろう。実際、ゴーストライターを使うことも多いのだが、その名が公表されることはめったにない。バーバラ・ファインマン・トッド教授は、「子供たちが私たちに教えてくれる教訓」を取り上げたヒラリーのベストセラー書『村中みんなで』(1996)に自分の名がまったく触れられていないことに不満を述べた(3)。自伝ですら、自分で書いたかどうか怪しいものだ(4)。国務長官時代の回想録には「著作準備チーム」が動員されたが、本人はそのことをほとんど口にせずにいる(5)

 それはさておき、アメリカの外交政策の責任者だったヒラリーの4年間の記録は、どうにも心許ない。2011年、リビアの叛乱が勢いを増していた時、ヒラリーは「国際的承認が不在の状態で、アメリカが単独で行動することは、結果が読めない状況に足を踏み入れることになるという考えに、私も与します」と、慎重だった。その後、考えを変えた。その理由は?「サルコジ[仏大統領]から、軍事介入すべきだと耳にタコができるほど聞かされ続けました 。彼はダイナミックな人物で、いつもあふれんばかりの活気をみなぎらせ、行動の中心にいるのが大好きです。また、フランスの知識人ベルナール=アンリ・レヴィの影響もあります。2人とも、残忍な独裁者に苦しめられているリビア国民の悲惨に心底、心を動かされているのです」。この2人のフランス人にそそのかされ、「人道主義の危機」を回避すべく、クリントン国務長官は介入主義陣営に加わり、オバマ大統領共々、憲法が義務づけている議会の承認を求めることなく、アメリカを新たな戦争へと導いた。幸運なことに、終わり良ければすべて良し。「その後72時間内に、カダフィの防空力は 破壊され、ベンガジ住民は差し迫っていた荒廃から救われた」。回顧録の残りも、このノリだ。

自由貿易に関するUターン

 バーニー・サンダース支持者たちの票を獲得するのに自らの右派イメージが妨げになっていることをヒラリーは承知している。対抗馬だったこの「社会主義者」が予備選でみせた成功に引かれて、ヒラリーは最近、過剰な債務を抱える銀行への課税、最低賃金の時給12ドルへの値上げ、家族の収入に基づいた大学の学費規制など、進歩的な対策を提案した。自由貿易に関する180度の転換には、目を見張るものがある。2012年11月、ヒラリーは、環太平洋連携協定(TPP) について、「TPPは、貿易協定に「ゴールド・スタンダード(最高度の基準)」を設けるもので、これにより自由で透明で公正な貿易が開かれる」と絶賛した。だが、3年後には、風向きが変わった。トランプとサンダースによる批判が有権者の心を捕らえたかに見えるからだ。ヒラリーは、2015年10月に「現時点で把握している内容は好ましいものではない。私が設定した高い基準を満たしているとは思えない」と述べた。それでも、2016年7月7日には、連邦議会でTPPの採決を許さない立場を公約するよう民主党に求めたサンダースの動きをヒラリー陣営は阻止した。

 「イスラーム過激派」と「移民」に対する暴言をつのらせているトランプ候補に比べれば、ヒラリーの方が予測がつきやすそうにみえる。冷静さとバランス感覚で、一部の共和党員まで味方に引き入れている。ヒューレット・パッカード社の最高経営責任者でかつてはミット・ロムニー大統領候補選出委員会の選挙資金調達共同議長を務めたメグ・ホイットマンも、ロムニーの元顧問だったネオコンのロバート・ケイガンも、ヒラリー支援を公言した。ブッシュ一族は、今回の大統領選では棄権すると述べている。

 さらにヒラリーは、「蛮行に対する最後の砦」として主流メディアのゆるぎない支持も得ている。ニューヨーカー誌のエディター、デイヴィッド・レムニックは、こう書いた。「ヒラリー・クリントンか、ドナルド・トランプか? 大統領選が、これほど違いが際立つ候補同士の争いになったことはなかった。クリントンは、最高に危険で何をしでかすか予測がつかない対立候補、権力を勝ち取るためにはどんな境界線も進んで無視するデマゴーグを相手に、強力で断固とした闘いを余儀なくされる」。

 こうした物言いは、2002年のジャック・シラク大統領と国民戦線党首ジャン=マリー・ル・ペンの対決を思い出させる。この時には、フランスの左派は「ファシストの危険」から国を守るために右派の候補者を支持せざるを得なかった。だが、そのシラクでさえ、特に外交政策に関しては、ヒラリーよりは進歩的だった。今回のアメリカ大統領の場合、いわばアンゲラ・メルケルとシルヴィオ・ベルルスコーニとの間での勝者選びといった関係に近い。それだったらメルケル支持にまわろうとアメリカの左派は決めたのだ。




  • (1) Paul Theroux, ‘The hypocrisy of “helping” the poor’ The New York Times,2 October 2015.
  • (2) Quoted in John R MacArthur, The Selling of Free Trade: NAFTA, Washington and the Subversion of American Democracy, Hill and Wang, New York, 2000.
  • (3) Hillary Rodham Clinton, It Takes a Village, and Other Lessons Children Teach Us, Simon & Schuster, New York, 1996.ヒラリー・ロダム・クリントン著『村中みんなで』(1996年、あすなろ書房)
  • (4) Hard Choices, Simon & Schuster, New York, 2014.『困難な選択』(2015年、日本経済新聞出版社)
  • (5) Paul Farhi, ‘Who wrote that political memoir? No, who actually wrote it?’, The Washington Post, 9 June 2014.


(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2016年8月号)