ニュイ・ドゥブ——フランスの新しい民主主義の実践


レア・デュクレ(Léa Ducré)


ジャーナリスト


訳:村松恭平


 エル・コムリ法(労働法改正)案に反対する3月31日のデモの後に出現したこの運動は、特定の政党を支持せず、水平的で、階層的ではない。政治面の計画は漠然としたままではあるが、それを明確にしようとする公開討論会が、新たな形の民主主義的経験を既に生み出している。[フランス語版編集部]



 「是非来てみてください! 何が起こるかは分かりませんが、きっと何かが起こるでしょう」。この「何か」の裏には一体何が隠れているのだろうか? この言葉はレピュブリック広場を覆う逡巡、誰であっても排除はしないという意志、そして、未だ名前を持たない新たなモデルを創る必要性を同時に語っている。

 この運動は大規模な社会計画から形作られたわけではなく、フランソワ・リュファン監督の『メルシー、パトロン!』(Merci patron! 日本未公開)という1本の映画がその発端となった(1)。「ジョリ・モーム」劇団メンバーであるロイクは「すぐに行動したい気を起こさせるドキュメンタリー」と言う。2月23日、彼はパリの労働組合センターにて、日刊紙ファキールの編集部が企画した上映・討論会に参加した。このドキュメンタリーが促した様々な行動喚起の想いに答えるのがファキールの目的だった。この日の夜のスローガンは「彼らを恐がらせてやろう」だった。「越えられないものとして提示される枠組み、たとえばある人はそれをネオリベラリズムと呼んだり、他の人はキャピタリズム、あるいはオリガルシ(寡頭支配)と呼ぶ」枠組みがその標的だった。討論が進むにつれ、ある一つの解答が浮かび上がった。労働法改革に反対する3月31日のデモを終えた後でも「私たちは家には帰らない」という決断がなされたのだ。12人の人々がバーに集まり、偉大なる夕べが催された。運動の第一歩としての初日の夜だ。

 行動開始の日、アルチュールはその熱狂が信じ難かった。「僕らは18時にニュイ・ドゥブ[訳註1]を開始したけれど、18時半にはもう何もコントロールできなくなったんだ」とパリ政治学院で社会学を専攻するこの学生は微笑む。「僕らが求めていたのはこれだったんだよ。技術的に、3月31日以後の事態をコントロールする手段を僕らは持っていなかった。あと、政治的なことに関しては僕らは避けていた」。それ以降は毎晩、日が暮れるとすぐに何人かの人々が発言を行い、聴き、投票し、反応した。長く続く議論や組織運営の様々な困難、天候の厳しさにもかかわらず、大勢の人々がその場所に集った。数十もの委員会が形成され、構造化され、そして再編成が日々行われた。

 パリで開催された最初の討論については、8万人以上がインターネットを通して閲覧した。こうした討議は中規模のいくつかの街で急速に拡散した。「3月32日」(4月1日)からはガロンヌ劇場が占拠されたトゥールーズが噂になった。〈美しき平穏な街〉と呼ばれたボルドーでさえ、ニュイ・ドゥブは広がりを見せた。それぞれの闘いの収斂と人々が集う場所の合致。パリと同じ時間、そして同じ名前を持つ広場において、ボルドーを首都とするジロンド県の人々によって総会が開かれた。同様の行動、委員会組織、そして非常に類似した議論。「全てのニュイ・ドゥブは共通の目標を持っている」とジャン・ギヨームは主張する。「広場を占拠し、システムを変えることです」。歴史学を専攻するこの学生は、3月6日にアテネ・リベルテール[訳註2]で開催された最初の準備集会に出席した。彼は、こうした討論がフランス全国の街や村に広がる必要があると考える。「地方の力を引き出すことがこの運動の重要な鍵なんだ」。彼は今後訪れるであろう幸福な日々を強く期待している。「ニュイ・ドゥブが当たり前なものにならないといけない。毎晩、各人が他の市民と論議したり、意見を交換できる空間が見つかることを願っているよ」。

 エル・コムリ法は、それに対抗する職業間の結集を生んだという点でこの社会運動の重要な出発点にはなったが、もはやそれは一つのきっかけでしかない。実行委員会のヴィクトルは3回目のニュイ・ドゥブに参加してすぐにそのことを認めている。「労働法はもう僕たちの狙いではない。別の段階に進んだんだ。労働法改正は非常事態、国籍剥奪が導入された後の、そしてこの30年間で積み重ねられた沢山の法律の後の行き過ぎた計画だ。もはや我慢の限界だったよ」。

 「我々の理想が彼らの投票箱に入ることはない」と1枚のポスターが訴える。「君のロレックスを見て! 抵抗する時だ」とスプレーで地面に書かれたピンク色の落書きが目に入る。議論においても壁の上に描かれた表現と同様に、要求よりも感情が勝っている。私たちがそこにいるのは何よりもまず他者の言葉を聴くことで自己を認識し、自分の意見を表明し、互いを理解するためだ。ソーシャルワーカーである24歳のテオは、反体制派でもなければ固執した意見を持っているわけでもない。デモに参加することにも慣れていない。彼が来たのは、自分の家に「もはや留まっていたくなかった」からだ。「ここだと皆が単に時間を潰したり、交流したり、色んな議論を聴いたり、言いたいことを吐き出すことができるんだ。私たちは今の民主主義において投票はするけれども、何も言わない」。

 サラダボール用として使われた深鍋の周りで、6人の若者がフルーツサラダを自由価格で提供しようと忙しく立ち働いている。両手は寒さで震え、湿ったシートが頬を襲う。しかし、議論は調子良く進んでいる。法律、経済、個々人の困難な状況を巡って議論は展開していた。承諾できない労働条件を免れようとその職を辞めた女性看護士、生活をどうやり繰りすればいいかもはや分からない年金生活者、免状を取得したもののファストフード店で働く若い男性、途方に暮れた女子高校生。それぞれの失望が寄せ集められ、そこから共通の熱望が出現するのを人々は期待している。

 「意のままに得をするずるい奴らに対し、どう対抗すべきか?」、「会社を移転させなければならないか?」ここに集った人々を動かした初期の討論は些細なものに見える。「私たちは全国規模の民主主義モデルを創り出す前に、どこか一つの場所で200、300、あるいは3,000人規模の企画を運営できるか見極めようとしているんだ」とパリ第8大学の学生は解説する。彼はカミーユと呼んで欲しいと言うが、その名前はメディアに対して匿名で情報を伝えるため、もともとザディストたち[訳註3]が使っていた一般的なあだ名だ。共通の身ぶりコードを採用し、議論を誘導し、日常的に企画を準備する。はじめの数日間はこうした調整が広場の全てのエネルギーを食い尽くしていた。ずっとそこに寝泊まりすることは大変過ぎることが分かった。4月5日以降、活動時間は17時から深夜0時までに集中することが決まった。

 総会や委員会では、参加者が具体的な提案に取り組んでいる。しかし、どこから議論を始めるべきか? また、夜間に働いている人たちや討論に参加できない人たちの考えをどのようにして集めるか? 4月11日には「要求書委員会」が創設された(2)。「純朴な民主主義の方式に立ち返るため、あらゆる考え、提案、憤りをリスト化すること」がその目的だ。白紙投票、新しい憲法、カンナビスの合法化、難民の受入れ、水の入手。そうした要求によってリストのページ全体が黒く埋め尽くされた。まだ明確な形をした社会像とは言えないものの、公共の問題への参加や社会的公正を中心に据えた理想がそこにはあった。

 この運動が何を切望するか分からないにしても、避けるべきことは何かを知っている。犯したくはない失敗を他の運動の中に見出だしているのだ。スペインと米国の運動の先任者たちは全ての討論に加わり、反例としての役割をいつも担っている。

 「自分自身に惚れてはならない(3)」という第一の教訓は、オキュパイ・ウォール・ストリートから引き出された。哲学者で経済学者のフレデリック・ロルドンのように、多くの人々が「常設総会」の危うさを警告している。「今後は具体的な内容を引き出さないといけない」と、徹夜のせいで顔に皺が刻まれたアルチュールが言い足した。「これ程沢山の人が集まって具体的なことがそこから何も創り出されなかったなら、ニュイ・ドゥブはなかった方がまだましだろう。結局、レピュブリック広場にいることがカッコイイとか民主主義は雰囲気がいい感じだとか言われるかも知れないけれど、結局どこにも至らないこともあるよね」。その規模と民主主義を再び創ろうとする熱望によって、この運動は具体的な解決策を早急に産み出すことを強いられたのだろうか。

 フレデリック・ロルドンは、いつか憲法を書き直し、新たな諸制度の構築を勧める人々の一人だ。いくつかの憲法制定委員会がグルノーブル、リヨン、トゥールーズ、ニースで創設された。それらの委員会は、市民自身が憲法の諸条項を書く訓練を2005年からサポートしている団体「憲法を市民で作ろう」の周囲でしばしば組織されている。グルノーブルでは、その委員会が週に2回の頻度で開催されている。ニュイ・ドゥブの活動中に作成された条項の中には、次のものが見られる。「上院を解散させ、市民による議会に置き換える。その市民はパネルAから抽選で選ばれ、(……)1年の任期で再任不可とする(パネルAは、市民それぞれが信頼を寄せ、能力があると見なす人を3名挙げて構成される)」。

 パリにいるアルチュールは自問する。「ボボたち[訳註4]や学生、生活が不安定な人たちの妄想としては少し行き過ぎではないだろうか。憲法についての考えがある種の反響を生むのは、一つの世界の見方を共有しているからだと僕には思えるんだ。多分、工場を解雇された労働者や郊外に住む人にとっては、社会的な憲法なんか全然しっくりこないだろうね」。この疑問はニュイ・ドゥブの2番目の障害に呼応している。「仲間内」となることを非常に警戒しているのだ。学生、不安定生活者、組合活動家、フリーター…… 「社会学的な見方をすると、多様性が欠けているんだ。労働者たちをこの運動に加えなければいけない。僕らはレピュブリック広場を占拠するために全てのエネルギーを使った。今は、そこから外に出て、こうした『仲間内』から脱するために何でもしている」とアルチュールは言う。そのためにゼネラル・ストライキ委員会は労働者たち、したがって組合に接近している。これらの伝統的な組織はプエルタ・デル・ソル広場よりも、レピュブリック広場において、より好意的に迎え入れられている。スペインで緊縮政策と腐敗を非難するために2011年5月に始まった「15M」運動(4)は、あらゆる組合と団体に対して不信を示していた。フランスでは、県に対してデモの許可を申請したのは組合などの伝統的な組織だ。組合活動家たちはニュイ・ドゥブの警備チームを形成し、「居住の権利」団体は彼らに活動場所を提供した。「スペインのように、〈我々の意見を代表しない〉組織を拒否する発言によってこの集会は作り上げられてはいない。僕らは闘いが一つにまとまることを強く勧めている。だから、闘いに加わろうとする人がいれば、彼にも参加してもらうんだ」とアルチュールは力説する。

 ゼネラル・ストライキはこの運動を拡大させるための解決策となるのであろうか? 4月20日、労働組合センターで開催された「次なる段階」をテーマとした新たな夜の討論会において、ファキールの編集部は5月1日に組合の運動へ合流するよう呼び掛けた。

 あらゆることは可能なのか? 古代ギリシャのアゴラに形を変えた広場では、全ての提案が聞き取れる。しかし、政党について話すのは注意したほうがいい。ボルドーのレピュブリック広場での総会で、美術史を専攻する学生のヴァンサンがこの運動から政治組織の形成を擁護する発言を行った際、そこにいた群衆が不満の声を上げた。ヴァンサンは、新たなポデモスを創りたいと即座に自己弁護しなければならなかった。パブロ・イグレシアスが主導したこの政党がスペインの第三の政治勢力になれた背景には、その組織の多くの水平性が失われたことがあった。今日、あらゆる政治組織の形成に対する反発が多数派を占めているように見える。政党の立ち上げは民主主義的屈服と同義語であろうと大半の人々は考えている。彼らはこの運動が選挙戦の中で弱体化することを恐れている。

 「ニュイ・ドゥブは人々が出会い、議論し、闘いを見つける時間、ただそれだけでしょう?」と生活保護支給を受ける30代のニッキーは自問する。共生に関する小規模の話し合いやニュイ・ドゥブと民主主義についての大規模な討論が開催されるにつれて、「何か」が起こっている。人々は討論をすること、互いに聞くこと、発言することを学び、あるいは学び直している。およそ60歳の社会心理学者であるエレンはこう発言する。「最終的に、人々が自分自身で考えられること、これがまさに本質なんです」。

 「怒れる者たち」や「ザディストたち」にとって、空間を占拠することは請願書やゼネラル・ストライキと同じく正当な政治的行動である。34歳のエマは[2011年]5月15日の運動の後にも行動し続けたスペインの「怒れる者たち」の一員だ。運動を支えるために彼女がパリまで来たのは、彼女によれば、明日の変革はこうしてなされるからだ。「私たちは欧州において、今、世代間の変動の時期にいます。この運動はこれまでとは別の方法で政治を構想し、闘い、伝達し、インターネットを活用しているのです……私たちは伝統的な左派路線と同じではありません。人々を奮起させるため、変化する社会を構築するため、そして現状を変えるために私たちはソーシャル・ネットワークと広場の上で活動しています。活動家は、彼らだけで世界を変えることはできません。それを成功させ得るのは社会全体なのです」。5月15日に向けて国際的な呼び掛けが発せられた。「世界中で公共の広場をこの日に圧倒的に占拠するために(……)国際的に大規模な行動を起こそう」。

 この運動が成果を出す可能性を信じる人々は多い。この場所で一晩を過ごす度に政治の再発見がなされていると一部の参加者は考えている。占拠された広場ごとに民主主義のトレーニング・キャンプが行われている。35歳のクアンタンにとっては、それもまたニュイ・ドゥブだ。「こうした企画は調整するのも何か新しいことを生み出すのも難しいけれど、そこがまさに面白いのです」。彼は、変化の可能性が選挙から訪れると考えるのをやめた。「この[オランド政権の]5年間を、僕らはある種の熱狂をもってスタートした。僕らはあの大統領を信じたけれど、今や僕らは窮地に陥っている。広場に行くことを僕に促したのはそれなんです」。この運動の本質的な特徴はそこにある。つまり、参加者たちはもはや政権交替を全く期待していないのだ。「選挙システムを変えない限り、選挙の目標なんてないさ!」と医学部に通う学生のスティーブは端的に語る。それならば、この次は?「新しいものを創り出すんだ。でも慌ててはいけない! 新たな社会計画を創り出すためには、謙虚さや地道な作業、時間が必要だ」と彼は訴える。こうした意識の持ち方は、民主主義的な賭けの重大さと複雑さに直面したニュイ・ドゥブへの多くの参加者に共通している。ところが、この意識の持ち方は人々を気落ちさせるのではなく、憤激を高める手段にもなっている。「政治に打ち込む時間を人々に与えるためには、経済面の変化を起こすしかない」。スティーブはこのニュイ・ドゥブがこの夏まで続くと同時に、民衆の声を集めるために、それが永続的な議会へと変わることを既に夢見ている。




  • (1) Frédéric Lordon « Un film d’action directe », Le Monde diplomatique, février, 2016. 参照。
  • (2) le compte-rendu de l’AG du 11 avril 2016, 42 mars. 参照。
  • (3) « Pourquoi Occuper Wall Street n’a pas réussi aussi bien que le Tea Party », Le Monde diplomatique, janvier, 2013. 参照。
  • (4) « Alchimistes de la Puerta del Sol », Le Monde diplomatique, juillet 2011.参照。


    [1] ニュイ・ドゥブ(Nuit debout)はニュイ(夜)、ドゥブ(立った)という意味から「立ち上がる夜」や「屈しない夜」など、様々な日本語で訳されている。
    [2] 1960年代にボルドーのアナーキストたちによって創られた活動空間。全ての企画がボランティアで行われ、国家や政党、労働組合に対し、精神・金銭両方の観点から自律した運営を維持している。http://www.atheneelibertaire.net/index.php/l-athenee-libertaire 
    [3] ザッド(ZAD)はもともと「開発整備予定地域」(zone d’aménagement différé)の頭字語であるが、現在は「守るべき地域」(zone à défendre)という意味でも用いられている。後者を目的として、若者を中心とした活動家である「ザディスト」たちは、資本主義や消費主義に反対しながら政府主導の公共工事(たとえばナント郊外のノートル・ダム・デ・ランドへの空港移転計画)に対する阻止活動を展開している。Thomas Legrand, « L’idéologie des Zadistes », France Inter (2014/10/30)
    [4] ボボ(bobos)は「ブルジョア・ボヘミアン」« bourgeois-bohèmes »の省略形で、その意味は明確な形では示されていなものの、悠々自適な生活を送る比較的裕福な人々、エリート主義、保守的、社会的不平等の是正に関心は持つものの、「庶民」の現実との間に認識上の乖離があるとしてしばしば皮肉的・批判的なニュアンスをもって使われている。 https://www.franceinter.fr/emissions/le-cabinet-de-curiosites/le-cabinet-de-curiosites-17-mars-2016 


(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2016年5月号)