新たな中東を生んだ「戦術的思惑」

ソ連がイスラエル建国を後押ししたワケ


ガブリエル・ゴロデツキー(Gabriel Gorodetsky)*

オックスフォード大学オール・ソウルズ・カレッジ研究員(Quondam Fellow)。


訳:大竹秀子


 ソ連の駐英大使だったイワン・マイスキーの日記に、1941年に起きた予期せぬ会合についての記載がある。この会合が、後にソ連のイスラエル建国承認を導くことになった。2民族による1連邦国家を思い描いていたソ連が、最後の土壇場で、シオニズムを選んだのだ。[英語版編集部]



 1947年11月29日、国連総会でパレスチナ分割決議が可決され、イスラエル建国の道が開かれた。ソ連が強力に支持しなければ、可決は実現しなかっただろう。民族解放運動としてのシオニズムにまっこうから敵対していたソ連政府が手放しの支持にまわったのは何故か、長年、歴史家たちは頭を悩ませてきた。シオニスト指導層がソ連の指導者と初めて有意義な顔合わせを行い、シオニスト運動がもつ潜在的な価値にソ連の関心を向けることに成功したのは、ドイツのソ連侵攻前にさかのぼり、皮肉にも独ソ不可侵条約の下、ソ連とナチス・ドイツが蜜月関係にあった時代だった。第2次大戦はフランスの陥落ですぐにも終わると誤算したスターリンは、1942年に和平会議が召集されると思い込み、会議での自らの政治的地位を改善しヨーロッパの勢力均衡に対処しようと躍起になった。パレスチナを委任統治してきた大英帝国の出方が、とりわけ重要だった。

 世界シオニスト機構議長のハイム・ワイツマンは、国際政治の観察にたけた目端の利く人物だった。彼はスターリンの目論見を見抜いていたに違いない。ワイツマンにとって火急の心配は、ポーランド、バルト諸国、そしてソ連に併合された直後のベッサラビア[現在のモルドバとウクライナ南西部にまたがる地域]から来るユダヤ人の運命だった。1941年2月、彼はロンドン駐在の大物ソ連大使、イワン・マイスキー(1)と知己を得た。マイスキーの1941年2月3日の日記に、このときの会合が記載されている。

 ワイツマンが以下の事項を話し合いに来た。――現在、パレスチナ産オレンジには、市場がない――ソ連の毛皮とバーター取引はできないだろうか? ユダヤの会社を通して毛皮をアメリカで売るのは簡単だ。

 ワイツマンには、「即座に断定的な答えは出せないが、調べてみよう」と約束した。とはいえ、当面の回答として、「パレスチナのユダヤ人は我々に過大な希望を抱くべきではない」と釘をさした。ソ連には、海外から果物を輸入する通例はない。私の読みは、正しかった。政府はワイツマンの提案を却下した。その結果を書簡にしたためて本日、彼宛に送った。

 オレンジについての対話の中で、ワイツマンはパレスチナ問題全般についても論じた。さらに、世界各地のユダヤ民族の現状と展望についても触れた。彼の視点は、大変、悲観的だ。

 彼の計算によると、現在、世界には1700万人あまりのユダヤ人がいる。このうち1000万から1100万人は、比較的まあまあの状態で暮らしている。とりあえず、絶滅させられる脅威はない。アメリカ、イギリス、そしてソ連で暮らすユダヤ人たちが、これにあたる。[……]

 ワイツマンは、こう見る。「ソ連のユダヤ人たちは国から切り離せない存在として現在のロシアの暮らしの潮流に次第に吸収されていくだろう。必ずしも望むことではないが、私には甘受する覚悟ができている。少なくとも、ソ連のユダヤ人は安全な状態にあり、彼らの運命について恐怖を覚えることはない。だが、中欧とヨーロッパ東南部―ドイツ、オーストリア、チェコスロバキア、バルカン諸国、特にポーランド——に住む600万から700万人のユダヤ人については身の毛もよだつ思いがする。彼らの身に何が起ころうとしているのか? どこに行くことになるのか?」

 深いため息をつき、ワイツマンは続けた。「この戦争でドイツが勝利すれば、皆殺しです。ドイツが勝つとは思いません。しかし、イギリスが勝利したとしても、どうなるのか?」

 ワイツマンは、自分が抱く恐怖を並べ立て始めた。英国人は――とりわけ英国の植民地弁務官は――ユダヤ人が嫌いだ。ユダヤ人とアラブ人の両方の住民がいるパレスチナでは特に、顕著だ。イギリスの「高等弁務官」が、ユダヤ人よりアラブ人を好んでいることに疑問の余地はない。[……]こういった場所には、きちんと決められた支配のパターンがある。少数の道路、いくつかの裁判所、伝道者たちのささやかな活動、住民に向けた少々の医療、などだ。なにもかもが大変シンプルかつ明白で、平穏だ。深刻な問題は、何もない。支配される側が不満を述べることもない。英国の弁務官は、この状態を好み、それがあたり前になっている。だが、パレスチナは?

 勢いづいて、ワイツマンは続けた。「あんなプログラムひとつで、おさまるはずがありません。問題は大きく、あまりにも複雑です。確かにイギリスの弁務官は、パレスチナのアラブ人をモルモットにして、その扱いには慣れています。だが、ユダヤ人は弁務官を絶望させています。 何ひとつ満足することがなく、質問攻めにし、回答を要求するのです。――時には、回答を出すのが楽でないにもかかわらず。弁務官は腹を立て、ユダヤ人を頭痛のタネとみなすようになります。だが、何よりも問題なのは、ユダヤ人がいつも弁務官の顔をまっこうから見据えて、『お前さんには知性というものがあるのかい? あったとしても、私の方があんたの2倍は知的だろうよ』と内心考えているに違いないという思いに弁務官が囚われてしまうことです。このために弁務官はユダヤ人を永遠に許せなくなり、アラブ人を誉めそやし始めます。アラブ人たちは、まったく違いますから。彼らは何もほしがらないし、誰もわずらわせない」

 こうした状況を考慮に入れた末に、ワイツマンは、不安気に「英国の勝利は、ユダヤ人に何をもたらしてきたか?」と自問した。この問いからワイツマンが得る結論は、心地よいものではない。中欧にいるユダヤ民族を(そしてまず何よりもポーランドのユダヤ民族を)救うためにワイツマンが思いつける唯一の「計画」は、こうだ。現在、パレスチナに住んでいる100万人のアラブ人をイラクに移動させ、ポーランドやその他の諸国からの400万から500万人のユダヤ人を、アラブ人が占拠してきた土地に入植させるのだ。英国は、こんな計画を承認しようとはしないだろう。だが、承認しないとすれば、いったいどうなるのか?

 100万人のアラブ人が占拠している領地に500万人のユダヤ人を入植させるというワイツマンの願いに私はいくばくかの驚きを表明した。「心配にはおよびません」と、ワイツマンは爆笑した。「アラブ人はよく砂漠の息子と呼ばれます。が、砂漠の父と呼ぶ方が的を射ています。その怠慢と未開なやり方で、緑豊かな庭園を砂漠化させています。アラブ人100万人が占拠している土地を私に与えてくれれば、5倍の人数のユダヤ人をやすやすと入植させてみせますよ」

 ワイツマンは悲しげに首を振り、こう言ってしめくくった。「問題はただひとつ。どうやってこの土地を手に入れるのかです」

 マイスキーの日記には、この後、パレスチナをめぐって彼が急激に起こした熱心な活動についての記載は一切ない。だが、イスラエルの公文書保管所に残された記録は、ワイツマンとパレスチナのユダヤ機関議長だったダヴィッド・ベン=グリオンの両者が、マイスキーへのアプローチを続けたことを明らかにしている。ふたりはマイスキーに向けて、シオニズムは彼らの運動にとって「死活問題」だが、社会主義の目標にとっても「なによりも重大」なのだという印象を与えようと格別の努力を払った。パレスチナに「社会主義連邦の中核」が建設されるがその証拠だ。イデオロギー的なリップサービスで釣り、ソ連の役割を「新世界の運命を決定する少なくとも3つの指導的な勢力のひとつ」として称賛し、ベン=グリオンはパレスチナにおけるシオニストの政治的な野心にマイスキーの支援を取り付けようとした。

 1943年夏にモスクワに呼び戻されたとき、マイスキーは戦後の協力とヨーロッパの国境確定を政治的な手土産として帰国することで、風あたりをやわらげたいと望んだ。このため、マイスキーは英国を離れる前にチャーチルとイーデンに対して非公式の一連の交渉を電光石火でおこなった。同時に、帰国途上、中東で自らの存在を有効に使い、シオニストのセツルメントをソ連の勢力下に取り込もうとする大胆な動きに出た。

 1943年10月、パレスチナでの3日間の滞在はマイスキーに、パレスチナへのシオニストの移動は実行可能であり、かなりの人数のユダヤ移民を吸収することができるという印象を直に得る機会を与えた。マイスキーは、ベン=グリオン、ゴルダ・メイアソン(メイアの名で知られる)はじめ、エルサレム近郊のお手本的キブツ「マーレハッカーミーシャ」のユダヤ人セツルメントのその他のリーダーたちと突っ込んだ交渉を行った。それまでの生涯、ユダヤ人であるという自らの出自から距離を置こうとしてきた彼だったが、この訪問は彼を「虜にした」らしい。マイスキーがパレスチナで感じたに違いない親しみの感情がこのつながりをさらに強めた。会談相手の大半はロシア語を流暢に話したし、英国のパレスチナ撤収後、正統な社会主義思想を奉ずるシオニスト運動が政治勢力として力を発揮すると自信をみなぎらせていた。

 モスクワでの自分の位置をかさあげしてみせようとするあまり、マイスキーはベン=グリオン(ひいては、その後の歴史家たち)に自分の発言は政府の見解だという誤った印象を与えることになった。自分はいまでは、スターリン、モロトフにつぐ「外交問題のナンバー・スリー」であり、地域の将来に関する交渉は「自分の肩にかかっている」と、マイスキーは豪語した。ユダヤ人指導者たちには知るよしもなかったが、マイスキーはスターリンに向けて熱のこもったパレスチナ訪問報告書を準備したのだが、帰還した彼に対してクレムリンの扉は開かれず、外務省に閉じ込められ、その活動は賠償と戦後計画に関するリサーチに限られることになった。

 パレスチナ問題はヤルタ会談の公式な議題にはならなかったが、非公式な会談を通して、何がしかの国際信託統治制度を採り英国のパレスチナ撤収を進めるという了解が生まれた。ソ連はヤルタ会談後の国際問題に関し、戦後も連合軍の統一が維持されると考えていた。米英ソ「3大国」 が世界の警察として協調して働き、平和時の「壮大な同盟」という枠組内で行動し、ソ連と西側の勢力範囲を確定するものと期待していたのだ。

 ところが、ポツダム首脳会談直後の1945年8月17日付のニューヨーク・タイムズ紙でのコメントで、トルーマンは、パレスチナの未来がチャーチルとの対話のテーマだったと認め「いずれにしろ、これに関して[スターリン]大元帥の出幕はない」とした。1946年初めには、パレスチナに関する英米調査委員会が設立され、ソ連は排除された。

 英国の陰謀と闘うべく、クレムリンは4項目の計画を採用した。その中核をなしたのは、英国信託統治の終了とパレスチナからの英軍撤退の断固たる要求で、これは、1941年以来、一貫したソ連の政策だった。次の2項目は、驚きの新展開だった。ソ連ははじめて、パレスチナの政治的未来とユダヤ人問題に関する立場を明確にし、アメリカそしてできれば英国の支援を望んだ。当初の指針では、「単一で民主的な独立パレスチナ」の創設が推奨されていた。そこではユダヤ人が少数派ではあれ、国民として平等で民主的権利をもつとされた。覚書はクレムリンの政策として一言も変えずに採択されたが、あっという間につぶされることになった。

 1947年3月12日、トルーマンは米国議会で演説を行い、ソ連の脅威を受けているという口実でギリシャとトルコ両政府への経済的支援を訴えた。「ソ連の指導者たちが理解し反応する唯一のことばは、権力と腕力のことばだ」とトルーマンは主張した。

 35歳の国連大使、アンドレイ・グロムイコが4月に国連の手続き事項に関する予備会議に参加したとき、携えていたのはまだ当初の指針だったが、これはユダヤ人の野心にとっては致命的な打撃を意味した。グロムイコは、(スターリンへの電信が示すように)「パレスチナの運命について両者間で友好的な妥結に達する」ため、アメリカと英国が引き延ばし策を講じているのではないかと疑っていた。この時点までには、ニューヨークの国連での展開を背景に、ソ連政府はトルーマン封じ込め政策を検討し始めていた。

 1947年4月28日、国連総会特別会期が召集されたとき、グロムイコは突如、まったく新しい指令を受け取った。突然、方針を変え、戦争中にユダヤ人がこうむった「前代未聞の災厄と苦難」を強調するよう求められたのだ。英国のパレスチナ委任統治終了はいまなおソ連の政策の中軸だったが、いまやグロムイコに与えられた指令は、「ユダヤ人の要求を満たすさまざまなプロジェクトを考慮し、可能な代替案を念頭に置く」ように指示していた。「第1案はユダヤ人とアラブ人が同等の権利をもつアラブとユダヤの2民族国家の建国」だったが、もうひとつの案は、第1案の実現可能性を疑問視し、ユダヤとアラブの関係が悪化する場合には、「パレスチナのユダヤとアラブのふたつの独立国家への分割」を支持する提案を行うよう求めていた。

 モスクワからの電信の説明によると、第1案(2民族国家案)は単なる「戦術的配慮」によるものにすぎず、モロトフは、ユダヤ人国家建設という選択が「我々の立場により沿ったもの」だと強調しつつ、ソ連がその音頭とりをしているという印象は与えたくないと望んでいた。驚くべき心変わりだった。最初の案が実行されれば、ユダヤ人の野望に死の一撃を与えたばかりでなく、現在の中東をすっかり変えていたことだろう。

 命運を左右した11月29日の決議は、この春、ソ連の劇的な方向転換がなければ、完全に異なる方向をたどっていたかもしれない。ソ連政府が即刻、何よりも優先して求めたのは、委任統治の終了と英国部隊の撤退だった。だが、数々の兆しから、この路線変更は新しいユダヤ国家との長期的な提携への先鞭ををつけるべく意図されていたことがうかがわれる。「パレスチナに関するあらゆる重要な問題について、ユダヤ人の意見を聴くことが肝要だ」と国連に派遣されたソ連代表団は、指示されていた。「特に、エルサレムに関しては、これが欠かせない」のだと。



*ガブリエル・ゴロデツキーは、著書The Maisky Diaries: Red Ambassador to the Court of St James’s, 1932-1943, Yale University Press, London, 2015からの抜粋が「ル・モンド・ディプロマティーク英語版」2015年10月号に掲載された。


(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2016年2月号)