「アラブの春」は風と共に去りぬ?


ヒシャム・アラウィ(Hicham Alaoui)

ムーレイ・ヒシャム財団総裁、カーネギ-国際平和財団会員、
著書はJournal d’un prince banni, demain le Maroc(Grasset, Paris, 2014)

*本稿は2015年10月23日にノースウェスタン大学の中東・
北アフリカ研究会議で行われた講義をもとにしている。


訳:大竹秀子、土田 修



 アラブ世界では地域の平和、民主化、安定を求めてさまざまな試みがなされているが、平和な未来を構想する上で克服すべき多くの試練に直面している。専制的な諸国家の反革命的な傾向、イスラーム国が巻き起こしている地政学的で宗派的な挑戦である。

 今日のアラブ世界の専制国家の多くは、ジャン=ピエール・フィリウが「マムルーク」国家(1)と呼んだものに類似している。マムルークとは、元来、アッバース朝(750 - 1258)に抱えられていた非アラブ領土出身の奴隷兵士だ。アラブではないので、家族や部族、地域社会同士の競争の中で忠誠心の葛藤に苦しむ必要がないため、地域の指導者たちにとって安心していられる存在だった。

 マムルーク階級は数世紀をかけて次第に政治的・軍事的な力を得て、13世紀になるとエジプトから湾岸にいたる国を掌握するにいたった。支配する社会とつながりがないため、マムルークたちにとって奪取は簡単だったし、外部からの侵攻を除いては難攻不落でいられた。世襲的で独裁的なそんなマムルークの伝統が、シリアやエジプトなど、アラブ世界の軍国主義的な共和国の根底にある。

 こうした権威主義的政権は、自らを国の守護者であり、究極の政治的権威だとみており、その制度上の地位と国家主義的な正統性のおかげで、自分自身の社会からの影響が自らに及ぶことはないと信じこんでいる。社会を超越した位置に置かれた権威主義的な管理者として行動する権限を、国の始まりから、場合によっては植民地時代にさかのぼって内在化させてきた。エジプトでは、マムルークという概念は、19世紀初頭、ムハンマド・アリー・パシャ(1805年~1849年に統治)の行政改革のさなかに生まれた市民国家(dawla madaniyya)においてよみがえった。

 「アラブの春」が勃興した時、彼らは本能的にこの特権を是が非でも守ろうとした。現代のマムルークたちの願いは、国家機構が自分たちよりも劣っているようにみえる社会勢力の手に落ちないようにすることだった。エジプトでは、2011年の革命によりホスニ・ムバラク大統領が打倒されたが、2013年7月にアブドゥルファッターハ・アル・シーシが仕掛けた、選挙で選出されたムスリム同胞団政府に対するクーデターにより、軍部が自分たちの制度的特権が脅かされたと脅威を感じていたことが明らかになった。シリアでは、アサド政権が平和的な抗議行動に最初から残虐な攻撃を仕掛けたが、これまた自らの権威に対する疑問を一切受け入れられない、能力の欠如の表れだった。

 反革命的な戦略は、地政学的な要素によって強化され、スンニ派とシーア派との党派的分裂の増幅と共に勢いを増した。イランの勢力によって現実と化したシーア派の拡張主義への脅威により、スンニ派諸政権は国内の反対派を危険視し、国家安全保障上、必要だとして抑圧の強化を正当化する余地を得た。

 もうひとつの例は、バーレーンだ。ここではスンニ派政権と政治的エスタブリッシュメントたちが民衆の反体制活動をイランのシーア派の傀儡だとみなしている。実際には、改革要求は、1971年の独立以来、叫ばれてきたのだが。シリアで起きているのは、その逆だ。イランの支援を受けたアサド政権が、反対派はアメリカの支援を受け、中東の支配を狙うスンニ派の大掛かりな陰謀に加担していると主張している。アサド支持連合が、アラウィ派、レバノンのヒズボラなどイランの代理者、イエメンのフーシなど、多様な集団で構成されることになったのは、スンニ派がこの地域を奪取しようとしていると見る、この脅威のためだ。

 実のところ、「アラブの春」は、スンニ派=シーア派紛争に互いに異なるいくつかの分節点で特徴づけられた新しいパラダイムを導きいれた。最も最近の分節点は、石油価格の下落と米国とイランの核交渉だ。とりわけ大事なことは、政治面での多元的共存の兆しと国家安全保障への脅威とが融合していることだ。エジプトでは、軍事政権の復興により、以前は選挙にも参加し、武装闘争を放棄していたムスリム同胞団への残虐な抑圧がもたらされた。イスラーム主義者たち、そして反対派一般への抑圧は、1950年代以来、もっとも過酷になっている。権力者たちの反テロリスト戦略は自己達成予言だ。国による抑圧は、より大きな抵抗と反撃的暴力をもたらすだけだ。そしてその返礼としてより大きな軍の介入が正当化される。

 現代のマムルークたちは、地域に広がるテロリズムとジハーディズムへの恐怖により、欧米が国内での抑圧に目をつぶり「安定した」権威主義体制を無条件に支持することを望んでいる。皮肉なことにこうした専制政権の多くは表裏がばらばらな二心ある言行を行っている。国内では宗教的過激主義を抑圧しながら、国外では反対にその過激主義をてこ入れする政策を実施するのだ。

 リビアでは、欧米の支援を受けたハリーファ・ハフタル将軍の勢力がイスラーム国のシルト地域への拡散を意図的に見逃し、代わりにトリポリの競合政府への攻撃に集中した。シリアでは、「アラブの春」のさなかに、アサド政権は刑務所に投獄されていた大勢のイスラーム原理主義者たちを釈放したが、それ以外の反政府派は獄中にとどめた。イエメン政府はフーシ派をイランの支援を受けたテロリスト運動と呼んでいるが、アル=カーイダとは交渉をおこなってきた。湾岸諸国の君主政権はイスラーム国を地域の安全保障にとって最大の脅威と宣言したが、自国の宗教系組織が武装したイスラーム主義者ネットワークに国外で資金援助しているのを妨げる努力はほんのわずかしか行っていない。

 このようなどっちつかずの行動が明らかにするのは、アラブの諸政権がテロリズムとジハーディズムの脅威を真剣に除去しようとはしていないということだ。脅威が、あらゆる民主化改革を阻止する完璧な口実を与えてくれるからだ。

 長期的に見れば、このような奮闘は水の泡になるかもしれない。革命プロセスには生来、終わりというものがないからだ。とはいうものの、欧米の多くの評論家たちは「アラブの春」は終わったと宣言し、ただひとつの本当の成功談はあらたに民主化された新生チュニジアだけだと断じている。アラブ諸政権もまた、革命と蜂起の時代は終わったとみている。こんなにも多くの国で、民主化要求への罰ででもあるかのように、権威主義的な統治が舞い戻ったことを鑑みれば、この見解は正当に見えるかもしれない。しかしまた、歴史は我々に、革命の波は周期的に起こるものであり、尊厳と自由を求める民衆の希求は、政府にその準備ができていようがいまいが、必ず再現されると教えている。

 蜂起が起きていないからといって、革命プロセスが停止したわけではない。民衆の暴動の原因を作った構造のダイナミズムや経済上の問題は、2010年当時より悪化したとは言わないまでも、同程度に劣悪だ。大半のアラブ諸国では、失業率は実質的に以前と変わらないし、大半の国で経済はいまも低迷している。公共部門は効率が悪く、民間部門は規模が小さい。アラブ社会では若年層が、大規模かつ急速にふくれあがっており、この層が政府が提供するサービスと経済的な機会を圧倒している。教育制度は、いまなお、実績よりも財力を基盤としており、グローバル化する経済に太刀打ちする技量をもたない卒業生が大量に生産されている。

 より問題なのは、この地域の諸政権が自国の市民に意味ある発言権を与えることを否定し続けていることだ。政治と経済との結託は悪化し、小集団のエリートが政治機関と天然資源を支配している。大勢の人々にとって、開発主義の神話は崩壊した。GDPなどの統計上では成長が増大しているものの、雇用の機会は生まれず、若年層は尊厳を感じられずにいる。その一方で、格差は増大し、インフラの衰退、お粗末な教育、地域特有の汚職は、あいかわらずだ。

今、改革するか、新たな反乱を待つか

 このような問題が悪化はしなくとも相変わらずなのに、アラブ社会の社会的・文化的な骨組みは決定的に変化を遂げた。一般庶民はもはや権威主義国家への恐怖や畏怖を抱えて暮らしてはいない。彼らを力づくの恐怖で脅したり、イデオロギーを叩き込きこんで服従させることは、もうできない。もちろん、大勢の人々は、恐怖や極度の疲労から、いまでは、真正な変革は不可能だと思っている。イスラーム国とジハーディズムの広がり、そしてシリアやイエメンでの国の崩壊は心配のタネだ。リビアとエジプトでの革命運動の失敗に憔悴し、モロッコとヨルダンで裏をかかれたために士気を失っている。初期の蜂起での失望はまた、人々をアパシーに陥れ、ほかに代われるものが見あたらないために、事実上、政権を資する結果を生んでいる。

 とはいうものの、恐怖も憔悴もアパシーも、一時的な心理にすぎない。諸政権は改革を永遠に先延ばしにすることはできない。そもそも、「アラブの春」が起きたのは、権威主義的な政府が信頼のおける改革を実施することができなかったからだ。明日にでも同じ結果が同じ理由によって起きるに違いない。いま改革するか、後で反乱が起きるか、選択はふたつにひとつなのだ。

 このジレンマが消えていないことをうかがわせる幾つかの徴候がある。例えばレバノンでは、この夏、ゴミの収集ができない政府の無能力を引き金にして、大規模な抗議行動が沸き起こり、宗派や民族の違いを超えたデモが動員された。レバノンの若者たちが機能不全な統治に対する強いいらだちを共有していたからだ。これは、レバノンの政治を長年にわたって決定づけてきたが、いまや時代遅れだとみられている「信条主義」制度に対する市民運動の延長線上にある動きだった。デモ参加者たちは、権力を高齢のエリートたちの手に集中させるのではなく、全市民に均等な機会を与えるより民主的な制度を求めたのだ。

 アルジェリアでは、それより2~3ヵ月前に、サハラ砂漠の貧しい農村地域で、シェールガスの水圧破砕による採掘を阻止しようと、前例のない環境抗議運動が繰り広げられた。経済的な恩恵が生じる可能性があったにも関わらず、水圧破砕によって生じかねない環境破壊を理由に、政府によるこのプロジェクトに反対して数千人がデモを行った。この闘争が特別に意義深いのは、「アラブの春」のもっとも早期の起源は、1988年のアルジェリアにさかのぼるからだ。イスラーム救国戦線(FIS)の躍進、変革と民主主義を求める草の根の市民の動員、軍事クーデターとそれによって引き起こされた内戦は、国家と社会との間の長期にわたる闘争をあらわにし、「アラブの春」の闘争の本質を要約している。散発的だとはいえ最近のデモは、「アラブの春」の精神がいまも生きていることの証明である。

 しかしながら、「アラブの春」の主要な教訓は、政治変革には、大衆動員の瞬間以上のものが必要だということだ。専制政権を打倒した後も、反対勢力は、適切な組織、政治の職人的技能、組織としての長期的ビジョンを必要とする。エジプトの反対勢力は、2011年に短期的な勝利を得た後、このような戦略の構築に失敗したため、軍を権力の座に戻してしまった。大勢の人々にとっては、民主化への移行におけるこうした内部崩壊が主な原因で、「アラブの春」は終わりを告げたのだ。チュニジアを例外として、ほかの大半の抗議運動はこうした失敗を犯したが、それでもそこから教訓を得て、次の新たな蜂起ではもっとうまくやるに違いない。

 だが、これにより、イスラーム国というもうひとつのより恐るべき問題が浮上した。イスラーム国の勃興は大勢の人々が転覆をめざす既存諸国家の弱体化、そして地政学的な対立と外部からの干渉による破壊的な影響の両方が相まって可能になった。

 イスラーム国がシリアとイラクで隆盛なのは皮肉だ。両国共に数十年にわたり、社会支配による変化の影響を受けない、耐久力のある威圧的で安定した統治の典型として祀り上げられてきた。イスラーム国の急進的な信条はジハーディズム・イデオロギーの新局面の表れだが、その成長に欠かせない人的素材は、すでに整っていたのだ。

 シリアでイスラーム国が最初に拡大するには、海外でのリクルートばかりではなく現地での実質的な支持が不可欠だった。こうした支援の基盤となったのは、ひとつにはシリア国家が民衆の要求にほとんど関心を示さず、貧困と底辺で孤立した層が生まれるに任せていたことであり、そのため、高度な能力をもつ宗派がこの層を利用するのはごく簡単だった。

 イラクでは、イスラーム国は米国侵攻後に国家機構が壊滅した後、シーア派が支配するヌーリ・マリキ政権による差別を受けていたスンニ派コミュニティに歓迎された(2)。マリキ政権は、スンニ派の多くの人々を抑圧し残忍に扱ったシーア派の民兵を雇用していた。民兵は旧イラク軍が残していった装備を奪い取った。組織化、ブランドとしての知名度、軍事能力という点で民兵が手本にしたのは、ヒズボラだった。このことから、イスラーム国を単なる外的刺激でなく、抑圧的な統治に対する内部からの反発とみることもできる。

 イスラーム国は諸勢力の連合だ。その中にはメシア的な非主流派もいるが、さまざまな部族、権利を剥奪された現地コミュニティ、サダム・フセイン政権の元軍幹部やバアス党の高官もいる。また、多くの主要な点で、アル=カーイダと異なっている(3)。アル=カーイダは、ジハードの唯一正当な形態は軍事攻撃だと考えており、領土を支配し国家制度を整備しようという考えはない。自らをノマド的な戦士のグローバル化したネットワークだとみなし、戦争の目標は自分たちの死後、はるかな未来に達成されるとする。これに比べてイスラーム国は、闘争の成果は死後ではなく現在、もたらされなければならないとする。彼らにとって暴力は単に目的を達するための手段ではなく、それを通して世界観を達成する目標そのものだ。現実の領土創設もこれと同じ宗教的責務に基づいている。ジハードは領土の征服、統治の制定、土地と人というすべての資源の利用を求めるのだ。

 新メンバーを慎重に選び、彼らにきわめて厳しい要求を行うアル=カーイダとは異なり、イスラーム国のメンバー方式は、制限のない新人募集ともいえるもので、やる気のある支援者なら、さしたる秘密の手続きもなく参加できる。アル=カーイダの構成員は全員が戦士だが、イスラーム国は普通の住民での構成を求めている。そのため、家族、女性や子供を必要とする。さらに、外国からの新メンバーは雑兵というよりは、イスラーム国が外部世界に投影したいと考える理想のイスラーム共同体(ウンマ)の媒介とされる。

 大多数のスンニ派諸国は、イスラーム国の国家建設観を挑発、あるいは異端とさえみている。これほど広範なスンニ派アラブ連合がイスラーム国に反対して動員された一因は、これだ。同時に、イスラーム国現象は外国の介入という背景を見なければ理解不能だ。ロシアとトルコなどの外部勢力は、イスラーム国の脅威をアラブ世界でより大きな野心を行使するための口実にしている。ロシアのシリア、そして、今後起きる可能性のあるイラクへの軍事介入は、イスラーム国との関連で実施されたが、自国の勢力を世界各地で回復したいという、背景にあるロシアの願いも見逃してはならない。ロシアにとって中東への直接的な関与は、ソ連崩壊で失われた軍事力の漸進的な復活につながっている(4)。シリアでアサド政権を支援することにより、ロシアはウクライナはじめ、欧米の介入を招く可能性がある係争中の領土でより大きな影響力を得ようとしている。

パリのテロ事件で明らかなイスラーム国の“企画力”

 ロシアは現在、戦略的な影響力をシリア国内で投影しようと試み、アサド政権に、アラウィ派という民族的基盤をアイデンティティとする聖域国家を与えて現状の凍結を図っている。この介入は、軍事投資に対する見返りがないためにある時点で燃え尽きる可能性があるが、いまのところ、ロシアは、国家の実状はともあれ、この地域を異なる民族集団と国民のアイデンティティという見方で捉える伝統的な観点をあらためて打ち出す戦略を取っている。

 このためもあり、ロシア=シリア間のこの新たな提携に、そのうち、イラクが取り込まれるかもしれない。イラク政府は、昔のような多宗派による統一国家への回帰から次第に後退し、いまやシーア派勢力のみに支配されている。イラクは、イスラーム国に支配されている領土の復元に関心がない。というのもイラクが忌み嫌っているスンニ派共同体を再統合する必要があるからだ。イラク政権は、その代わりにロシアによる安全保障の庇護を受ける方を好んでいる。ロシアがアメリカという保護者に取ってかわることだってありうるのだ。

 プーチンは母国やコーカサスでのテロリストによる報復をさして恐れていない。西部にある首都モスクワでの地下鉄爆破は、政府の脆弱性をあらわにしたが、ロシアではこの事件でプーチンの戦略が逆説的に強まった。テロリズムの脅威こそが国内ではプーチン体制の強化、国外では領土拡張を正当化するのに役立った。

 イスラーム国の排除はロシアの利害にそぐわない。イスラーム国は、欧米の利害を弱め、欧米が支援しているシリア国内の反対派の封じ込めにとって不可欠な存在だからだ。イスラーム国は皆の役に立っている。シリア政権は自らの残虐行為から注意をそらすために、サウジアラビアは反シーア派イデオロギーとの戦いを強化するために、さらにイランはスンニ派のライバルに反撃するために、トルコはクルド労働者党(PKK)に復讐するためにイスラーム国を利用しているのだ。

 トルコは、主に国内政治にイスラーム国家の目的達成のため手段を選ばない戦略を利用して、緊張、恐怖、不和を生みだし、エルドアン大統領とその政府が混沌に対する最後のとりでというイメージをつくりあげようとしている。トルコは反イスラーム国家連合に正式に参加して遮蔽物を手に入れ、その陰に隠れて、自国民であるクルド人とシリア・イラク国内のクルド人を攻撃している。このエスカレーションは、もうひとつの紛争の枢軸を生みかねないのだが、そんなことはおかまいなしだ。このなりふり構わぬ政策で選挙の勝利をつかみ取ろうとしているのだ。

 パリのテロ事件はイスラーム国の戦略の変化を示している。今回の事件はほかのいくつかの事件のすぐ後に起きた。アサド政権を支持するヒズボラに対するベイルートでの爆破や、エジプトのシナイ半島でのロシア機墜落事件などだ。こうした事件から、いまではイスラーム国の活動は自らが主張するシリアとイラクの国境をはるかに超えた場所に達しており、彼らに反対して提携した国際的連合のメンバーとみなす相手に直接攻撃を仕掛けていることがわかる。同時に、これらの攻撃はイスラーム国がシリアとイラクの拠点への連合勢力のたえまない軍事攻撃に苦しみ、国外における反撃によって国内の前線の戦意喪失を糊塗しようとしていることも明らかにしている。テロの危険は増す一方だ。一見、非合理的にみえる暴力にも合理的な論理があり、アル=カーイダの黙示録的な論理とは相容れない。

 欧米はイスラーム国に対して空爆を軸とした軍事作戦を強化するかもしれない。だが、これだけではイスラーム国を根絶することはできない。過去の経験からみて、失地回復に効果的なのは非国家的勢力の方だ。このことは、イラクのシンジャルでのクルド人やイスラーム国に対して武器を取ったシャマール地域のベドウィンによる攻勢を見れば明らかだ。だが、真の突破口を生むには、こうした闘争すべてをつなぎ、利害の衝突や地政学的な敵対関係を最小化する戦略が必要だ。

 権威主義的諸国家のドミノ効果、「アラブの春」再生の可能性、そして手の施しようのないジハーディズムをめぐる複雑にもつれあった利害。この3つの見通しに引き裂かれたアラブ世界の未来はあまりにも不確かだ。



(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2015年12月号)