パゾリーニのめまい


セバスティアン・ラパーク(Sébastien Lapaque)

作家


訳:正清健介


 ピエル・パオロ・パゾリーニは、態度表明、著作、映画作品において、既存秩序の偉大なる撹乱者でありながら、伝説的英雄、すなわち1960年代の反体制勢力の証言者と呼ぶに価する人物である。彼がこれほどまで長きに渡り大きな関心の的となっているのは、もしかしたら、決して詩作から政治闘争を切り離さなかったからではないか。[フランス語版編集部]



 「我々は証言者を失った。ある特異な証言者を。だが、もう一度問い直してみよう。なぜ、そして何において特異なのか。なぜなら、ある意味で彼は、(いったい何と言おうか?)、無気力なイタリア社会全体において、活発で有益な反動を引き起こそうとしたからである。その特異さは、まさにこの有益な挑発に由来しており、それは、彼における打算、妥協、慎重さの完全な不在に帰せられる(1)」。

 1975年11月2日の朝、オアスティア海岸で頭を割られ、もはや帰らぬ人となって発見されたピエル・パオロ・パゾリーニ。上記の引用は、パゾリーニの追悼演説で、彼の友人で作家のアルベルト・モラヴィアが口にした悲痛な言葉の数々である。この言葉が、パゾリーニの死から40年後の今また私の頭に浮かんでくる。パゾリーニは特異だった。しかし、この特異さは、我々が思うようなそれでは必ずしもなかった。たしかに、彼は、コミュニストで、少年を愛した。このことは、戦後イタリアで理解されがたいことであった——小説で語り、映像化も辞さなかった「再犯者の情念」は、彼を数多くの訴訟に立ち向かわせ、裁判と暴力の苦悩に満ちた人生を送らせることになった。しかしながら、彼を烏合の衆とその「下劣な秩序(2)」から区別したものは、とりわけ彼の内でも最も神秘的といえる能力である。16歳の時に出会う、その嘆かわしい千里眼において兄貴分ともいえるアルチュール・ランボーのように、パゾリーニは「時折、人が見えると信じたものを見た」。そして、この『イリュミナシオン』の著者ランボーのように、その見えたものを真剣に捉え、悲劇的責務を受け入れることを心に決めていた。ローマの下層プロレタリア階級に、映画の俳優を見つけることを好んだこのシネアストは、一人の教師、もしくは貴重で、難しく、稀有な技量の持ち主というだけでなく、特に、人もしくはそのまなざしによって欺かれることのない見者であった。

 不正、虚偽、そして偽善は、彼にとってみれば一目瞭然の事柄であった。「僕は人の表情を見間違えることは決してなかった。というのは、僕のリビドーと内気さは、同類をよく知ることを強いたからだ(3)」。1945年、パゾリーニはカール・マルクスの著作に出会う。だが、それ以前にすでに青春の一時期を過ごしたフリウーリ地方において、労働者と地主、侮辱された人と満たされた人がいることに気づいていた。「シシリアのように、いまだ封建的奴隷がいた。ほとんど古代ローマの奴隷同然だった。そこで僕は、一方では、旗や首に巻いた赤いスカーフによって一致団結した日雇労働者、他方では、その雇用者が存在することに気づいた。そして、分かっていただけるだろうか、少しもマルクスを読むことなしに、僕はごく当たり前のことのようにフリウーリの日雇労働者の横に並んだ(4)……」。パゾリーニは多くの巧者たちとは違った。妥当かどうかまったく考えもせずに、高値になれば売ろうと下落した株式を買う。計画も方針もなかった。彼にとって唯一重要なのは高揚感と、敢然と立ち向かう意志だった。「彼は特異だった。まさに無欲であったという点において」とモラヴィアは再度言明している(5)

 パゾリーニのこの無私無欲、若かった頃の寛大さは、作品の豊富さを説明するものだろう。『生命ある若者』(1955)、『激しい生』(1959)、『石油』(1992、死後出版)といった主要な小説、『マンマ・ローマ』(1962)、『奇跡の丘』(1964)、『ソドムの市』(1964)等多くの傑作を含む長編映画12作品 、そして戯曲、数百もの詩作、翻訳、『海賊評論』(1975)と『ルター派書簡』(1976)において集められた新聞批評。重要さという点で、ほとんど測り知れない作品全体。その深層解明は始まったばかりである。忘却はもはやこの勢いを止めることはできない。

 パゾリーニにビオグラフィは必要ない。その人生は、我々に委ねられ、贈られた作品にある。彼は自身を定義する言葉を自ら見つけた。「異端の聖人」、「決して父となることのない子」、「特権的なマルクス主義詩人」。しかし、いずれにせよ我々を驚かせるのは、次の言葉である。「僕は過去の力だ。僕の愛は伝統にしかない。僕は、兄弟がかつて生きたアペニン山脈とプレアルプス山中の見捨てられた村、その廃墟、教会、祭壇画を起源とする」。これは、1964年に出版された『バラのかたちの詩』(6)で彼が綴る言葉である。この詩は、「40歳の男」(彼は1922年生まれ)が幼少時代と詩人としての道のりを回想して1960年初頭に書かれた自伝的エレジーである。ちょうどシャルル・ペギーが、「偉大なる非同時代党」の旗を高く掲げながら、『ヴィクトール・マリ・ユーゴ伯』(未邦訳)で回想しているのと同様である。ペギーとパゾリーニ? この結びつきは偶然ではない。

 ジョルジュ・ベルナノス、ヴィクトル・セルジュ、ジョージ・オーウェル、シモーヌ・ヴェイユ、もしくはアルベール・カミュ。自由の為の闘争のあらゆる状況における彼らのように、この二人の詩人は、自らの陣営を非難し始めることさえ辞さず、その卑怯さと無知蒙昧を告発した。「自身の家族に対する抵抗、それはしばしばその家族の拒絶を意味した」とパゾリーニは語っている。彼は、ファシズムに傾倒した一士官の息子であり、その弟は、終戦直前に戦死した対独レジスタンスだった。ペギーが熱狂的なドレフュス再審要求運動が政治的に終わったことを見たように、ベニート・ムッソリーニが処刑され、吊るされたずっと後になってアンチファシズムのなれの果てを見た。「今日のアンチファシズムの大半、もしくは少なくともアンチファシズムと呼ばれるものは、世間知らずの馬鹿で、言い訳じみていて不誠実である。実際、それは、もはや誰も恐れることのない、死んで葬り去られた考古学的現象と戦っている、もしくは、戦うふりをしている。それは、いわば、全く安楽で安逸なアンチファシズムである。僕は、真のファシズムとは社会学者が遠慮深く消費社会と呼んだものであると深く確信している」(『海賊評論』)。

 晩年のパゾリーニは1975年に残忍な殺され方で死を迎えた日の直前となる1973年から1975年にかけての記事でこのように語った。この詩人の忌憚ない口調と残虐な最期を結びつけるのは、たしかに興味深いことだろう。この近年で、パゾリーニについて書かれた最もすばらしい評論である『何か書かれたもの』(7)において、イタリア人作家のエマヌエレ・トレヴィは、小説『石油』の創作過程を明らかにしている。『石油』は、このシネアストが最後の3年を費やし、おそらくその全人生をかけたものである。イタリア誌『コリエーレ・デラ・セラ』の1974年11月付の「ゴルペ(クーデター)とは何か?(8)」と題された記事において、「僕は、1969年12月12日に起こったミラノの虐殺の首謀者たちの名を知っている。1974年前半に起こったブレジアとボローニャの虐殺の首謀者たちを知っている(9)」と言い立てた。大胆さをより押し進めながら、この『グラムシの遺骸』(1957)の著者は、1972年より「完全な本」の執筆に身を投じた。その野望とは、権力の悪魔性を暴くことだった。

 パゾリーニ、偉大なる罪責感の散布者。我こそがコミュニストであると主張しながら、イタリア共産党(PCI)を激しく批判した。支配階級、テレビ、中央情報局(CIA)、独裁政権を樹立したギリシアの将校たち、そしてマフィアを非難した。さらに、陶酔しきった遺作『石油』で、性や死や政治、神話と現実、賢明さと狂気を混ぜ合わせたあらゆる叙述形式並びに文献調査を用いて、産業界の有力者と石油業界のロビイストを非難した。1972年3月5日に50歳を迎えた時、イタリアのブルジョアに対する彼の憎悪は、絶頂に達してしまっていた。「 La borghesia è il diavolo(ブルジョアは悪魔である)」。晩年のパゾリーニにおける悪魔の不意の出現には、驚くべきものがある。というのは、無心論者で世俗的人間であったパゾリーニは、本質的かつ根本的な神聖の意味に合致した神を想起させるような言葉を決して使わなかったからだ。ところが彼は同時代史の裏側で活動している悪魔を見たのだ。

 さらにより印象的なのは、晩年の10年の著作と作品における、幼年期の失われた純粋さに対する強迫観念と、母スザンナ・コルーシの魅惑的な存在である。彼は彼女に、映画『奇跡の丘』でキリストの母マリアの役を託した。「君はかけがえのない人だ。だから、君が僕にくれた人生は、孤独を余儀なくされた。僕は孤独でありたいと思っている。僕はとてつもなく愛に飢えている。魂抜きの肉体愛に飢えている。なぜなら、魂は君にこそあり、君はただ単に僕の母にすぎず、君の愛は、僕を隷属状態に置くからだ。僕は幼年時代を通してこの感覚に支配されていた。気高く、取り返しのつかない感覚、果てしない誓約の感覚だ(10)」。『バラのかたちの詩』において、パゾリーニは自身のことを「成人した胎児」と奇妙に定義している。この奇妙なイメージは、イタリアの堕胎法での論議の場で、しっくりせず一般には理解されがたい彼の立ち位置を明らかにするものである。子宮内の幸福な思い出を忘れずにいたことを誓い、形而上学的には反対、政治的には賛成の立場を取った。このことは、悲劇的であると同時に悲痛な能力に由来している。その能力とは、彼が消費社会による性生活の統制とみなすことのできた事柄に対する私的な嫌悪感と、古い法的装置によって永続された無秩序と階級間の不公平、そのはっきりした光景とを結びつける能力のことである。この作家は、1968年、次のように説明した。自分は学生側に対して警察側の人間である。というのは、学生はブルジョアであり、警察官はプロリレタリアだから、と。彼はスキャンダルになろうと気にしなかったのだ。

 しかし、堕胎問題に関する彼の深い心情を、その挑発趣味と結びつけたり、コミュニスト的厳格主義とカトリック的かままととさの後遺症と結びつけて考えることは、誤りだろう。その心情を明らかにするためには、再び、母親の身体との関係(変わることなく公然としたゆるぎない関係)についての話に戻らなければならない。フリウーリの日雇労働者の赤いスカーフと共にあったように、それは、視覚的な出来事である。1949年、未成年者への淫行のために教職と共産党から追放された後、彼についてローマに行く勇気を持ち合わせていた悲しみの聖母(mater dolorosa)を、そのそばで彼は絶え間なく見つめた。「僕は逃げた。母とトランクと、後に偽りだとわかることになるいくらかの喜びと共に、まるで貨物列車のような遅い列車で、逃げた」。散策という形を取る素晴らしい実践である『パゾリーニの道』(未邦訳)(11)で、だからこそピエール・アドリアンは、パゾリーニの墓のあるカザルサの公共墓地(ウーディネの西、ポルデノーネ地方の村)で長居をしている。父親と弟がすこし離れた場所に埋葬されているのに対し、彼は簡素な板石の下、母親と同じ地下墓所に眠っている。「もしかしたら、誰もそのような欲望のレベルにおいて葬送の不安というものを経験したことはないだろう」。パゾリーニは、息子と母とを結びつける本質的かつ危険な情念を説明するためにこう書いた。それはおそらく、彼の偉大さであり謎である。



(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2015年11月号)