本当に難民を受け入れるのは誰か——中東の混乱の影響


本紙特派員 ハナ・ジャベール(Hana Jaber)

アラブ世界の現代史専攻、コレージュ・ドゥ・フランス客員研究員


訳:土田 修、川端聡子


 西側諸国政府は最近流入してきた難民の多さを見てシリア国内の混乱が拡大していることに気がついたふりをしている。だが内戦から逃れてきた1100万人のうち、危険な旅の末に欧州にたどり着いたのはごく少数にすぎない。肝心なことは、シリア難民の多くが自国の他地域や、トルコ、レバノン、ヨルダンに逃れていることだ。そこでは膨大な数の難民の存在が社会・経済・政治的な均衡に混乱を招いていることだ。[フランス語版編集部]



 15歳のハマド・ハムダニはこう語る。「母は高齢者の面倒を見るため下の弟と一緒に村に残りました。母は私に叔父と一緒にトルコに向かうようにと言いました。母は私の身の安全を望みました。というのもアザス地域を支配している民兵が心配だからです」。アレッポ北部に位置する小さな町の近郊の村に生まれたハムダニはシリアを離れて3年になる。2012年7月、彼の父はバシャール・アサド政権の空襲の際、樽爆弾で殺された。数週間後の夜明け、この若者は母親に別れを告げ、政府軍の脱走兵である叔父の家族とともに小型トラックの荷台に這い上がった。大きな騒乱をくぐり抜けてきた難民たちの話は、シリアでの悲劇と隣国での余波を理解させてくれる特異な体験に満ちている。

 最初、ハムダニとその家族は国境の向こう側のトルコ・キリス県オクピナール難民キャンプに身を落ち着けた。2011年からトルコ政府当局が国境沿いの8つの県に開設した22のキャンプの一つだ。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、400万人以上が内戦のシリアを逃れたが、そのほかシリア国内に移動した人々が760万人いる(1)。シリア難民のおよそ半数は現在トルコで生活しており(UNHCRによると190万人)、そのうちの80パーセントは難民キャンプの外で暮らしている。それでハムダニの家族も、10人に一人はシリア人というガジアンテップの下町の小さなアパートに入っている。ハムダニはカフェのボーイとして、叔父は施設の台所で配達人兼何でも屋として働いている。ハムダニの叔父、ワエル・ハムダニはこう話す。「最初はキリスの難民キャンプが清潔で整っていた。必要な物は何でもあったが、かなり人で混み合っていた。私はキャンプを取り囲む柵と出入りの監視が我慢できなかった。私は兵舎のような所に閉じ込められるために危険を冒したのではなかった。私は働きたかったし、場所を変えて家族を養いたかった」。ハマドはといえば難民キャンプを懐かしんでいた。学校に行くことができたし、通りでぶらつく多くの《若い有用な頭脳たち》に加わることができたからだ。

 難民が大挙して押し寄せたことは、エルドアン大統領にとって《トルコに対する大きな挑戦》だった。物資や安全の側面のほかに、トルコは国のイメージを気遣い、「最適な状態でシリア難民を受け入れる」ことを望んだ、と論説記者のアリ・バイラモグルは書いている。国際メディアの多くは難民に提供されたサービスの質を指摘した。UNHCRとトルコ当局によって運営され、安全保障局によって厳重に監視されているキャンプは、市街地から離れ、難民受け入れの篩として機能している。

 この難民センターを離れるには、当局に行く先を告げる必要がある。トルコ政府はイスラム国の戦闘員がトルコ国内に入ることを禁止すると表明したが、メディアの多くは現実に行われている闇取引に目を閉ざしていることでトルコ政府を批判している。

 二番目の脅威はトルコ社会の民族団結に起因している。800キロメートルに及ぶトルコとシリアの国境線は、トルクメン人、クルド人、アルメニア人、正教派、スンニ派、アラウィ派、アラビア語系、トルコ語系と民俗宗教がモザイクのように複雑に入り組んでいる。トルコ国家は1世紀かけて平和共存を実現してきた。多様な民族国家であるトルコへの難民流入は、未解決のままの集団的記憶の重要側面を再燃させた。しばしば紛争が起きている。夏の初め、トルコ南西部で過激な民族主義者が、この地域、特に1939年のトルコへの併合以来、シリアとの紛争が続いている、アレキサンドレッタ県の旧サンジャックを《アラブ化》するためシリア難民の流入をあおっているとしてアラブ語系トルコ人を告発した。

 トルコは1951年にジュネーブ協定に署名したが、対象をヨーロッパの難民に限定する条項がある。2013年4月、トルコはシリアの在外自国民を保護するという、外国人に関する法律を制定し、労働許可証の発行を緩和した。2014年4月、トルコ政府はまた、難民管理のための部局を首相管轄下に設置した。そのうえトルコ当局は難民の定住に向けた扉を閉ざすことはなかった。トルコ人の先祖のシリア人やトルクメン人のトルコ国籍取得を促進したからだ。

 三番目の脅威は、経済的要因だ。地方人口の増加、家賃と生活費の上昇、さらには観光客の減少が、難民に対する悪意を増幅している。確かに目立った対立もなく、一般的にトルコは亡命者に対して比較的安全な避難場所となってきた。だが政治的立場を強化するため緊張状態を当てにしているエルドアン大統領はシリア内戦をうまく利用している(2)。民族主義政党はトルコ・アイデンティティを危機にさらしているとして政府を非難しており、世俗左派政党は難民キャンプがイスラム国の後方基地になることを懸念している。アレッポ出身でイズミール在住のビジネスマン、ナセル・アセヌはこう説明する。「2011年以前、そして入国許可証が廃止された後、シリア人はトルコで歓迎された。彼らは二国間商業取引を促進して金を消費している。今日、彼らはなお歓迎されているが、彼らの状況は悪化の一途をたどっている。だからこそ彼らは欧州を目指して旅立つのだ」。

 難民受け入れの費用は増え続けている。9月中旬、クルトゥルムシュ副首相は「われわれは資金の面で最大規模の努力を続けており、2011年以来、総額70億ドルに上る援助を行っている」と語った。そして欧州連合を「事なかれ主義とエゴイズムだ」と非難した。

 レバノンは、自国民の4分の1に当たる110万人の難民を受け入れた。トルコと違ってレバノンでは難民の流入によって当局が行動を起こすことはなかった。ヨルダンの政治状況を知れば何も驚くことはない。大統領職は1年以上、空席のままだ(3)。議会は自動延長され続け、内閣はその日その日の雑事に追われていた。国境を開くか閉じるかの判断は、明白な考えもないままに行われている。レバノンは政治的に手詰まりなので、その場しのぎの対策しか取ってこなかった。偶発的な難民流入を受け入れるかどうかとか2月からの入国ビザの実施などだ。緊急を要する状況にもかかわらず、いかなる資金援助もなされなかったし、いかなる難民キャンプもつくられることはなかった。UNHCRや国内外のNGOの援助にもかかわらず、“自分しかあてにできない国”の中で、難民は自分しかあてにできない状態に置かれている。それは政界に憤っているレバノンの若者たちがはっきりと行っていることだが。

 ベイルートでは街角でシリア難民がどこにいるのかと尋ねると、ただちに「どこにでも至る所にいる」という答えが返ってくる。建物の外や避難所前の歩道の片隅など路上で、テーブルクロス代わりに広げた新聞の上で輪になって粗末な食事をする難民家族を見ることは珍しいことではない。数少ない空き地の一つに「UNHCR」のロゴの入ったテントが建てられている。レバノン人ジャーナリストのラドワン・エル-ザインはハマラの街角のカフェでこう話した。「最初にやって来たのは金持ちのシリア人だ。そして今は最貧困層のシリア人が来る。皆うまくやっているし、われわれもそうだ。だが一部の難民は嫌気がさしてシリアに戻った。このあたりではよく知られていた新聞の売り子は死んだそうだ。彼は国に帰って空襲でやられたんだ」。

 国境なき医師団(MSF)によると、シリア人難民の大概は「心理的ストレス」を背負っており、「はなはだしく不安定な生活状況」に追い込まれているという。UNHCRによると、シリア難民の子ども40万人のうち学校に行っているのは10万人にすぎない。最近の歴史とそれ以前の30年にわたるシリア軍の駐屯(1975~2005)を通して、レバノン人は何より、彼らが過小評価してきた難民の数を気にかけてきた。2011年にシリア内戦が始まると、相容れない2陣営が対立を深めてきた。スンニ派はシリア野党を幅広く支持しており、ヒズボッラーはアサド体制に協力している。いつものようにキリスト教徒は分裂している。マロン派教徒の政治リーダーは匿名でこう指摘する。「キリスト教徒のシリア人に対する恨みはまだ消えてはいない。シリア内戦は、この国を30年間支配してきたシリア人に対する報いなのだ。アサド体制が崩壊した場合には政治・経済・社会が不安定化するリスク、さらには少数派非イスラム教徒の身に降りかかるリスクともなる」。

 シリア国境のベカー渓谷にあるアルサル村(レバノン)は、スンニ派の集落だ。この村はシリアのカラモウン地域と地形的に連なっている。当地域でヒズボッラーが支援するシリア政府軍と諸反体制派勢力(特にアル=カーイダに近いヌスラ戦線)との戦闘が激化するにつれ、シリア難民が村に殺到し、人口が3倍に膨れ上がった。一般市民に反シリア政府武装勢力のジハード主義者が紛れ込み、「イスラム国」の旗が出現した。ヒズボッラーは最初、シリア国土内におけるアサド政権の援護に徹することを約束していたのだが、こうした状況に対し「スンニ派脅威説」を強めていった。激しい宗教対立のなかで何十人もの命が奪われ、2014年夏と続く2015年5月、レバノン軍が強行介入することとなった。

 きちんとした方針を示さない政府に代わり、宗教的つながりがシリア難民への対応を引き受けた。レバノン中の各キリスト教区民が宗派を超えて一致団結し、難民となった同宗者たちへの草の根運動的な支援が行われた。かつてシリア労働者を受け入れていたトリポリ[レバノン第二の都市]のいくつかの地区やベイルートにも難民が殺到し、まさにナフル・エル=バーリド、シャティラ、ブルジ・アル=バラジネ、アイン・エル=ヘルワのパレスチナ難民キャンプのような光景が広がった。農村地域か、レバノンの後背地への避難を試みるシリア人家族もいる。彼らは金を支払うか、留守宅の管理や庭の手入れなどを請け負うことで避難先で暮らせている。またレバノン南部のビント=ジュベイル村はヒズボッラーの勢力圏ではあるがダルアーやラッカから逃れて来た数世帯のスンニ派家族が暮らしており、このように住民同士が協議のうえで黙認しているケースもある。ここでは沈黙が――別な言い方をすれば宗教的・政治的な信条を表に現さないことが生き延びるための暗黙の掟であり、誰も何も話さないがこの掟は極めて用心深く守られている。

 シリア内戦の影響を受けている第3の国はヨルダンだ。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によれば、ヨルダンは63万人のシリア難民を受け入れている。これまで間断なく難民を受け入れているこの国に過去直近で難民が大挙して押し寄せたのは2003年のことだ。この年、米英連合軍のイラク侵攻によって流入した30万人ともいわれる大量のイラク人のうち、裕福な者はそのままヨルダンに定住し、そうでない者はなんらかの方法でヨーロッパにたどり着くかイラクに帰国した。

 その頃と同じく、現在も市民間には同族としての連帯感が働いている。ダルアー(シリア)とアル=ラムサ(ヨルダン)のケースがそうだ。国境を挟んで隣り合わせるよく似た二つの町は、古くは社会的・商業的な交流(遊牧、結婚、密輸入、隊商宿など)を結びながらお互いに発展してきた。

 並んで腰掛けたダルアー出身の二人の女性は、2011年に学校の壁に「消え失せろ」と落書きしただけでシリア治安部隊に連行された二人の若者の母親と叔母だ。子供たちは投獄され、拷問を受けた。彼らの処遇がデモの発端となり、アサド政権による弾圧にもかかわらずシリア全土に広がった。その後、この痛ましい内戦が常態化したのである。「子供たちは惨めな姿で帰ってきました」。こう語るのは、母親のウーム・カッセムだ。「言葉もありませんでした。私たちに何が言えるというのです? 故郷を去りたくはなかったけど、決断するしかなかった。家は精鋭の狙撃兵たちに使われていました。ダルアーのいたるところで同じような話が聞けるでしょう。一人として喜んで出発した者はいない、そしてアル=ラムサでは誰もが私たちを迎えてくれたと、みなそう話すでしょう」。実際に、家族、村、部族、商業といったあらゆる関係性による連帯感が活発に機能していた。一気にかつてのつながりが取り戻されたことに誰よりも驚いたのは、当の現地住民自身だ。ハーラン地域とガリラヤの関係が平和的状態にあり、まだ人々の往来も自由だった時代に逆戻りしたかのような、ちょっとそんな感じのする話だ。

 ヨルダン政府は、トルコほどの予算を割かず、しかし隣国レバノンよりはやや積極的にシリア難民を支援しようと努めた。2012年7月末、ヨルダン北部にザアタリ難民キャンプが作られた。このときのヨルダン政府の対応は、1948年・1967年のパレスチナ難民、あるいは第一次湾岸戦争(1990~1991年)の間にイラクから逃れてきた外国人労働者、さらには2003年のイラク侵攻がさまざまな方面で凄まじい宗教紛争を招き、それにより発生した大勢の亡命者を受け入れてきたという前例に基づくものだった。

 ヨルダン人とシリア難民との間で急速に緊張が高まり、現地住民の間では難民たちに対する反対運動が起こった。そうした声が、ヨルダン政府当局を難民の流入制限へと向かわせた。「キャンプ」という言葉は、テントやキャンピング・カーが集積した光景を示すために使われ始めた。表向きには、難民キャンプはヨルダン北部の主要都市に再設置された6つのみということになっているが、それ以外にもコンスタントに増え、特にヨルダン中部に多い。これらの「キャンプ」は取り壊しになるよりも先にどんどん増え続けている。ヨルダン政府が実質的に難民キャンプの建設を要請したのはザアタリ(2012年)とアズラク(2014年)のキャンプのみで、収容力はそれぞれ12万人と13万人だ。設備・運営費用は2012年までで20億ドルかかったとされるが、その90パーセントは湾岸諸国を含む外国からの資金で賄われている。

 具体案としてUNHCRは、国連難民救済事業機関(UNRWA)(4)の査察報告を活用しながら難民キャンプの人口把握とサービス供与を行うとしている。国連によれば、2015年、シリア難民受け入れの費用は世界レベルでざっと30億ドルに達する見通しだ。2014年にヨルダンが受け取った難民支援資金は8億5400万ドルだった。つまり、ヨルダンが難民受け入れのため出費せざるを得なかった23億ドルのたった38パーセントでしかない。それを考えれば、示された経費は巨額である。

 トルコの難民キャンプに比べ、かなり交通が不便なザアタリやアズラクの難民キャンプは、少しずつ街化している。サウジ・アラビアから寄せられた資金で、テントに代わる仮設住宅やプレハブが建てられた。樹が植えられ、遊歩道には「ジャスミン」や「ジュジュビ」といったのどかな名称がつけられた。ザアタリ難民キャンプにあるメイン・ストリートにはあらゆる種類の商店や仕事場が軒を連ね、オランダ・アムステルダム市から寄付された自転車のおかげで大いに賑わっている。導水工事や下水路設備など、インフラ工事費の一部をアラブ首長国連邦が融資してもいる。だが、こうした数々の努力にもかかわらず砂漠の真ん中にある二つの難民キャンプはほとんど歓迎されず、生活者数は2013年3月の15万6000人から2015年8月には7万9000人となった。つまりは受け入れ可能人数の3分の1だ。難民たちはひたすら街、それも特にアンマンで暮らし、溶け込みたいと考えている。こうしたことがヨルダンの、特に北部の都市の様相や社会環境に強い影響を与えた。シリア人はもの作りや料理の技術、そして商才豊かなことで名高く、金物細工や木工芸品の工房、レストラン、卸問屋などがちらほらと店を開いている。建設業者は裕福なシリア難民向けの住居の注文で潤い、一方ではシリア人実業家が農産加工業といった部門を中心にアル・ハッサン工業地区に進出している。アンマンでは「バクダーシュ」(1995年創業のシリアの有名アイスクリーム店)のオープンにならいダマスカス出身の優れた高級砂糖菓子職人たちが店を開き、一部のカフェは多少とも故郷での習慣を取り戻したシリア人たちを主な固定客としている。

 シリア難民のヨルダンへの流入はとどまることを知らず、彼らの洗練された生活様式はヨルダンのプチブルの手本となった。「やっかいな客人」となったシリア難民に対し、政府当局は厳しい対応をとるようになった。国境の取り締まりが強化され、不法入国者は処罰を受ける危険があろうともシリア当局へ送還される。ここで重要なのは、レバノン同様ヨルダンもジュネーヴ条約に調印しておらず、戦争状態における文民保護を義務づける条項を守らねばならないとは感じていないということである。

 レバノンやトルコでもそうだが、ヨルダンでもシリア難民は内政の駆け引きの道具だ。進歩主義と反帝国主義を主張する自称「左翼野党」が、ヨルダンの国民アイデンティティおよび治安を脅かすとしてシリア難民をバッシングしており、たとえば一部のアサド政権寄りのヨルダン紙では以下のような記事が見られる。「国外流出したシリア難民の大部分は、多様性のある社会にも、シリア固有の文明社会様式にも適合しえない階級に属している。したがって、彼らの流出は、[内戦の被害による]シリアの国民人口の激減であるとは認められない」(5)。2013年の国会議員選挙とそれに続く地方選挙の期間、ヨルダン政府はこうした声を、市民の政府への抗議運動を封じ込め、ムスリム同胞団の活動を衰退させるのに利用した(6)。外国人排他主義的な意見がさらに顕在化し、現地でジハード主義者たちが勢力を伸ばすにしたがって警戒心が強まっていった。ヨルダン政府側は、シリア難民殺到による非常事態を前面に押し出して、2011年の「アラブの春」の熱狂のなか約束させられた改革が遅々として進まないことへの言い訳としている。

 シリア人の大量移動は、すでに1948年のパレスチナ人の大移動を凌ぐ広がりを見せている。ダイナミックな人口移動が将来どこまで規模を拡大していくのか、私たちはこの激変の意味を自問せざるをえない。受け入れ国社会の頑張り、そしてア・プリオリに悲惨な状況を飲み込んでしまう対処能力には目を見張るものがある。とはいえ、難民が大量に押し寄せ、武装グループが行き来する、ないも同然の国境の問題については中長期化しており、いまだ解決のめどはない。率先して積極的な政策を打ち出したトルコに比べ、レバノンとヨルダンの対応は、両国ともシリアと同じ言語体系や文化基盤をもつ国としてはあまりにも乏しい。



(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2015年10月号)