マカロニ・ウェスタン、その革命


ダニエル・パリ・クラヴェル(Daniel Paris-Clavel)

ポップ・カルチャー・マガジン『シェリビビChériBibi』創刊者・編集人


訳:正清健介


 政治的千里眼の表れとも言うべき「マカロニ・ウェスタン」は、アメリカ創立神話を打破することで、力尽きるまで一つの映画ジャンルを深く刷新した。メキシコ革命を背景とした「サパタ・ウェスタン(メキシコ革命もの)」にシフトしながらも、「マカロニ・ウェスタン」は、ヤンキーヒーローからスターの座を奪うリオグランデ南部の日焼け顔の農夫にもうけ役を与える。[フランス語版編集部]



 セルジオ・レオーネが1964年の『荒野の用心棒』によって起こしたスタイル革命に続き、イタリア製ウェスタンは、政治寓話と大衆娯楽の間で主張を繰り返し、スタイルを磨き上げてきた。1966年、南北間の経済格差によって引き裂かれたイタリアが、「鉛の時代」(1)に向かいながら統一100周年を祝っているちょうどその時、「サパタ・ウェスタン(メキシコ革命もの)」と呼ばれようとしていたジャンルのプロトタイプが銀幕に現れる。ダミアーノ・ダミアーニ『群盗荒野を裂く』は、1910年のメキシコ革命における、ゲリラ隊首領エル・チュンチョ(ジャン・マリア・ヴォロンテ)と「アメリカ白人」ヤンキー野郎ビル(ルー・カステル)の出会いを描いている。ビルは、エル・チュンチョを革命へ身を投じるよう駆り立てる。だが、これは地位にしがみつく独裁者ポルフィリオ・ディアスの為に革命軍の将軍に近づき暗殺するという秘められた目的の為である。

 エミリアーノ・サパタとパンチョ・ビリャの暗殺という歴史的参照項を越えてこの映画は、ラテン・アメリカ(そしてその他の地域)におけるアメリカの内政干渉一般に焦点を当てている。劇中ある蜂起農夫が、当初アメリカは革命を支持したがその後自分たちの利益の為に反革命に転じた、と述べている。この農夫は、地主に「お前が俺を殺したいのは、俺が金持ちだからだろう?」と問われると、次のように答える。「いいえ、セニョール、私があなた様を殺したいのは私たちが貧乏だからです……そしてもっと言うなら、それはすべてあなた様のせいだからです」。これで方向性は決まった。ある対比が、アメリカとイタリア双方における南北対立の間に透けて見えるだろう。大地主が握る土地の再分配に関しては、南部イタリア人にも、ラテン・アメリカ人のように約束された取り分というものがあった。だが、その約束は守られることはなかった。メキシコとイタリアの国旗の類似性が、さらにこの結びつきを容易にしているのは言うまでもない。

 フランコ政権の目と鼻の先、アンダルシア地方で撮影されたという『群盗荒野を裂く』は、列車襲撃と革命の騎馬行をめぐり本ジャンルの基準を定めていく。つまり、日雇農夫/山賊が、少しずつ階級意識を発展させる状況に置かれ、民衆の大義が、少しずつ金儲けの誘惑に勝る。一方、ヤンキーは、手札を隠し(『群盗荒野を裂く』もしくはジュリオ・ペトローニ『復讐無頼・狼たちの荒野』)、冷笑的かつ金銭ずくで(セルジオ・コルブッチ『豹/ジャガー』・『ガンマン大連合』)、よくても覚めた態度の持ち主だが(セルジオ・レオーネ『夕陽のギャングたち』)、常に裏で物事を操る。そんな鋭い策略家であるヤンキーは、してやられたと気づくまで、メキシコ人に畏敬の念を抱かせる。この構図は、古典的話法とプロットにおいて相補的となる敵対者同士の弁証法を利用することを可能にするばかりでない。それは世界の二つの視点と階級の二つの現実をつきあわせる。つまり、集団闘争しか他に選択肢のない圧政に苦しむ者達の現実と、自分達自身の計画を遂行する「観光客」の現実である。なにしろ「観光客」は「メキシコが好きではない」のである。実際、『群盗荒野を裂く』のビルと『復讐無頼・狼たちの荒野』のイギリス人ヘンリー・プライスが繰り返しそう述べているではないか。

 『群盗荒野を裂く』の政治性は明白であり、それはキャストに見いだされる。イタリア共産党のメンバーであるジャン・マリア・ヴォロンテは、エリオ・ペトリ『殺人捜査』(1970)、もしくは、フランチェスコ・ロージ『黒い砂漠』(1972、カンヌ映画祭でパルム・ドール受賞)のような、いくつものスリラーにおいて情熱的な視線を投げかけるようになる。その一方で、極左活動家のルー・カステルは、1972年、イタリアから追放されるが、それまでに彼は、マルコ・ベロッキオ『ポケットの中の握り拳』(1965)に出演。またカルロ・リッツァーニの異色の寓話的ウェスタン『殺して祈れ』(1967)では、革命家の牧師を演じるピエル・パオロ・パゾリーニと共演している。

 しかし、特に『群盗荒野を裂く』には、稀有なシナリオライター、フランコ・ソリナスの技量が隠されている。このサルデーニャ生まれの共産党活動家(労働者、学生を経て、ジャーナリスト、小説家となった)ソリナスは、とりわけジッロ・ポンテコルヴォの為にシナリオを書いた。例えば、フランスで公開禁止にされたがヴェネチア国際映画祭で金獅子賞に輝いた『アルジェの戦い』(1966)や、カリブにおける植民地主義の描写で名高い『ケマダの戦い』(1969)である。「大衆向けの」作品(この場合はウェスタン)を一本撮ることを願ったポンテコルヴォであったが、ソリナスは『豹/ジャガー』を発表し、最終的にこれは1968年、コルブッチにより撮られることになる。フランコ・ネロは、本作において蜂起農民に高値で腕を売る傭兵のポルトガル人コワルスキを演じている。『群盗荒野を裂く』におけるように、ヤンキーの傲慢な振る舞いが、炭鉱の労働条件に不満を持ち反乱を起こした鉱夫パコ(トニー・ムサンテ)に、彼自身の階級価値の重要性を自覚させる。コワルスキが彼に「お前にとって革命とは何だ?」と訊ねると、パコは「パトロン達につきまとい、あいつらの金を奪うことだ」と答える。それは確かに合法的脱税、その巧妙な策である。パコは、ブルジョアのパーティーに乱入後に逮捕され、「貧乏人に与えるために金持ちから奪うことは、金持ちにしてみればとうてい受け入れられるものではない」ということを自ら証明することになる。

 ついに(どうしてこのシーンを忘れようか)、ベッドに裸で寝るメキシコ女と共に、パコはコワルスキに社会的階層分裂について説明される。「金持ち、それは上位部分つまり頭で、貧乏人は下位部分つまり尻だと想像してみろ。革命するってことは、この二つの部分を同じ高さにすることを企てるってことなのさ。でもそれは無理なことだ。というのは頭と尻の間には、背中があるからさ」。すると哲人パコは、女の尻の上に手をやり「じゃあ、もし選ばなきゃならないなら、俺は貧乏人と共に残る」と宣言する。

 コルブッチは、大変愉快な『ガンマン大連合』(1970)で同じテーマを繰り返す。同作でネロはスウェーデンの武器商人を演じる。彼は、チェ・ケバラ風のルックスのトーマス・ミリアン指揮する革命家達の下にやってくる。サパタ・ウェスタンのイコンであるこのキューバの移り気な俳優は、世渡り上手でボロボロのルンペンプロレタリアートを他の誰よりもうまく具現化した。特に、彼を「第三世界のスター」の列に持ち上げることになるセルジオ・ソリーマの三つのウェスタンにおいである。『復讐のガンマン』(1967)と『続・復讐のガンマン〜走れ、男、走れ〜』(1968)で繰り返される農夫クチーヨという役に加え、ミリアンは『血斗のジャンゴ』(1967)において、サディズムの欲動に対してイレガリスムを口実とする教授(ジャン・マリア・ヴォロンテ)と対決する粗野な山賊を演じる。ソリーマは、本作で暴力に訴えることから生み出されうる魅惑とファッショ化に関する辛辣な意見を提示している。

 ファッショ化は、用語そのものの意味で、しばしばイタリアの映画人によって批判された。ソリーマは、ペトローニと同様にレジスタンスに参加している。そのペトローニといえば1969年、ソリナスによってシナリオ化されたかなり陰鬱な映画『復讐無頼・狼たちの荒野』を撮り上げる。本作でトーマス・ミリアンは、フランシスコ・マデロを支持するゲリラ兵であるテペパを演じる。マデロは、結局ウエルタ将軍によって失脚・暗殺されるが、1911年から1913年の間メキシコ大統領であった。マデロは、農民達に約束の地と交換で武器の返還を要求する。テペパは、「大地と自由」というスローガンは現実化するにはほど遠いことをすぐに察知し、残忍な大佐(なんとオーソン・ウェルズ!)に対する闘争を再開することになる。

 レオーネは、生々しく考証されたリアリズムのためにハリウッドのまやかしを解体することでウェスタンを再創造した後、1971年の『夕陽のギャングたち』によって、逆説的に他の監督達の政治的楽観主義に反旗を翻す。亡命中のアイルランド共和軍(IRA)のメンバーであるシーン(ジェームズ・コバーン)は、夢のような押し込み強盗の話を餌に、無法者のファン(ロッド・スタイガー)とその家族を誘惑する。しかし銀行には政治犯達しかおらず、ファンは意に反して革命のリーダーとなる。レオーネは、多くのファシズムへの参照でちりばめられたこの寓話によって、サパタ・ウェスタンの規範に忠実であり続ける。例えば、処刑シーンは、ローマ、アルデアティーネ洞窟における1944年3月24日のナチスによる335人の大虐殺を想起させる。そこには戯画化されたドイツ人将校が描かれてさえもいる。

 『群盗荒野を裂く』におけるより、より覚めた(より暴力的でない?)方法でもって、いま一度、農夫がヤンキーに説教をたれる。「それはお前にじゃない、ちぇっ畜生、それは俺に革命について語るのさ。俺は革命ってもんがどのようにおっぱじまるかよく知ってる!〔中略〕お前だってわかってるだろ。本で読み書きを知っているヤツが、読み書きを知らないヤツ、つまり貧乏人のところに来て、『変革が必要だ!』と叫ぶ。すると、そのあわれなヤツらは、言った通りに変革をするわけさ。その後、読み書きのできるヤツらの中で最もずる賢いヤツらは、テーブルの周りに座って、話して、食べて、ああ、いい気なもんだ〔中略〕。その間、そのあわれなヤツらはいったい何してるかって? 死んでるのさ!」。撮影中即興されたこのシーンは、このシネアストの政治的幻滅を映している。「僕の世代は、たくさんの約束を聞いた。それは多すぎるほどだった。彼らは夢を持っていたが、結局彼らにはもう後悔の気持ちしか残っていない」(2)

 メキシコの山賊をアイルランドの爆弾職人に結びつけることになった友情は、最後には、前者を解放へ、後者をニリヒズムへ至らせることとなる。爆弾職人の彼の手にはもはや憂鬱を紛らわせるための起爆剤しか残っていない。イタリアの社会的文脈が大衆映画のエピナル版画に似通い始める時、当時のいくつかの極左グループによって遂行された前向きの逃避への批判を、そこに見ることが可能である。つまり、ネオファシズムの出現、グラディオのような秘密組織による国の介入、不当にもアナーキストのせいとされることになるミラノのフォンターナ広場爆破事件、南イタリアにおけるストライキと暴動等々……。

 レオーネが『夕陽のギャングたち』の終わりに口笛を鳴らしてから、本ジャンルは多かれ少なかれ鋭い冗談となる。ドゥッチョ・テッサリ『フランコ・ネロの新・脱獄の用心棒』(1971)において、フランコ・ネロとイーライ・ウォラックは、彼らを著名にした役を再度誇張しながら演じる。一方、コルブッチのパロディ笑劇『進撃0号作戦』(1972)では、役者(ヴィットリオ・ガスマン)と牧師(パオロ・ヴィラッジョ)は、自分たちが革命の動乱に巻き込まれていることを悟ることになる。

 いずれにしてもサパタ・ウェスタンを通して、ソリナス、ソリーマ、そしてコルブッチは、娯楽と社会的主張を、強力な弁証法において混合する術を学んだ。アクションシーンに、多くの政治的暗示を差し込み、「大衆」を彼らのヒーローに仕立て上げることで、彼らの映画群は幅広い観客層の心を打った。それは、厳格な社会派映画ではほとんどなし得ないことである。こうした成功にも関わらず、批評家達は、本ジャンルを見下して論じてきた。そして、そのコマーシャリズム、暴力性、裏の意味、そして全体としてあまりにシリアスなその主題について雑然と非難してきたのだ。だがサパタ・ウェスタンは、あらゆる二元論的カリカチュアと一線を画し、父権主義的な主張を大衆に刷り込もうとすることなく、大衆階級の自主解放を根本的に取り扱っている。この点において本ジャンルは、今日性を一切失っていない。



(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2015年9月号)