革命後チュニジアの女性たち―分断された社会―


フローランス・ボウジェ(Florence Beaugé)

ジャーナリスト


訳:山中達也



 チュニジア人女性といえば、独立後、ハビブ・ブルギバ初代大統領のもとで自由を手にし、中東地域ではユニークな存在とみなされてきた。チュニジアでは1956年に制定された身分法(CSP)によって一夫多妻制が廃止され、男性側からの一方的な離婚および強制結婚が禁止された。まさにこの法律を契機としてチュニジア人女性はイスラーム世界において例外的な存在となっていった。1959年には選挙権が与えられ、1973年からは人工妊娠中絶も認められ、さらには多くの女性閣僚も誕生してきた。1987年に大統領に就任したベン・アリは、チュニジア人女性の自由で解放されたイメージを事あるごとに喧伝していた。

 しかし、2011年1月にベン・アリ独裁政権が崩壊した後、このようなチュニジア人女性に対する画一的なイメージは誤りであったことが発覚した。言説と現実の間には大きな隔たりが存在していたのだ。首都チュニスからわずか数キロメートル離れた町では、読み書きを知らない女性たちが、貧困と暴力が蔓延する不安定な環境のもとで、医師、弁護士、企業家の女性たちの協力を得て、日々を生き抜くために闘っていた。こうしたなか、チュニジアの経済状況は悪化の一途を辿り、社会の騒乱と流血の惨事が繰り返されているのだ。政府は保守的な社会政策を実施し、人々もこれを支持するようになっているが、チュニスのリベラル派は事の重大さを理解していなかった。

 この4年間を通じてチュニジアにもたらされた変化は決して多くはなかったが、人々は表現の自由を手に入れ、政治に参加する権利を勝ち取った。同国において人々が自由に話し、表現できるというのは驚くべきことである。社会学者のハディージャ・シェリフはチュニジア人女性を取り巻く環境の変化についてこう述べている。「私たちはやっとチュニジアの本当の姿を目の当たりにし、真の問題点を発見しました。獲得した自由には負の側面があったのです。私たちがこれまで享受してきた権利の一部は疑問視されるようになり、何が本当の脅威なのかが明らかになりました」。シェリフは革命後、チュニジアの市民社会に男性優位主義的で蒙昧主義的な言説が広がっていることを指摘している。

 チュニジアの人々は、新憲法(2014年1月制定)が当初は男女間の〈平等〉ではなく、男性に対する女性の〈補完的性格〉を規定していたことを鮮明に覚えている。さらにイスラーム主義政党アンナハダのハビブ・エルーズ(現在は離党)がテレビの前で言い放った〈美容整形手術〉としての女性器の切除など反動的な目論見の数々を決して忘れることはない。

 イスラーム主義政党による立法が進められ、イスラーム過激主義者が台頭するなか、多くのチュニジア人女性は迫りくる脅威に自ら立ち向かっていった。2014年12月の大統領選挙は、ベジ・カイード・エッセブスィ[元暫定首相]とモンセフ・マルズーキ[暫定大統領]の一騎打ちとなったが、大多数のチュニジア人女性は、エッセブスィこそ周辺地域の不安定化やジハード主義者の脅威から同国を守るためにその手腕を発揮することができると信じていた。その結果はチュニジアを拠点とする国際調査機関SIGMAが行った統計に示されている。エッセブスィの得票率は全体で56パーセントだったが女性票は75パーセントにまで達したのである(1)

 ジャーナリストで、国際人権連盟の名誉会長も務めるスゥへイール・ベルハッセンはこう指摘する。「チュニジアにおいて女性の権利はかつてないほど重要な争点となりました。闘いはまだ終わっていません。いくら法律に記されたとしても人々のメンタリティは変化していないのです」。医療を専門とし、チュニジアの開発に取り残された地域で活動を続けるエムナ・ムニフ教授の見方はこうだ。「この国では大都市を一歩離れると〈近代化とは無縁の〉地域が広がっています。ブルギバの時代からエリートたちは、同国に宗教的というよりも保守的なもう一つの文化圏が存在することを認めてきませんでした。彼らはこれらの地域に手を差し伸べるべきだったのです」。

 議会の監視活動を行う非政府組織アル・バウサラの若き代表理事アミラ・ヤヒアウィも同様の見解を示している。「この4年間、チュニジアでは近代主義者であるエリートとその他の人々が対話するのではなく、むしろ互いを排除する動きが広まり、軽蔑し合うようになりました。チュニジア人女性の間にあった亀裂もさらに深まったのです」。こうしたなかで起きたのが22名の犠牲者を出したバルドー博物館襲撃事件(2015年3月18日)である。この事件はチュニジアの人々を震撼させた。その影響からかアンナハダ支持者と反対派の間で進んでいた社会の二極化に歯止めがかかったようも見える。はたしてこれは転換点なのか、それとも単に景気の変動によるものなのだろうか?

 チュニジアに再び独裁者が現れたわけではない。同国では二つの社会モデルが水面下で、時には大きな音を立てて衝突してきた。一つは世俗主義的な社会モデルで、チュニスやその北部の近郊都市で優勢を保っている。もう一つは伝統的かつ宗教的な考えに基づく社会モデルだ。これはブルギバおよびベン・アリの時代には弾圧されていたのでその反動も大きい。

 チュニジア北西部の農業地帯に無数のコウノトリが生息することで有名なベジャという街がある。ベジャはチュニスからわずか110キロメートルの距離にあるが、この二つの都市の格差は凄まじい。「ベジャで働くのは女たちだ。男たちは失業していてカフェか家にいるのさ」。こうした評判をよく耳にする。ベジャ統合・持続的開発協会で会長を務めるホスニ・アブデルカリムによれば〈チュニジアの大いなる忘れもの〉は農村地域の女性たちであるという。チュニジア総人口の34パーセントは農村地域に住んでいる。「チュニスでは女性について多くが語られていますが、農村地域で日々薪を運び、水を汲む彼女たちの生活など知る由もないのです」。

H&M、Zaraの下請け工場で働く女性たち

 ベジャから数キロ離れた場所で5人の女性に出会った。彼女たちの腰は曲がっている。えんどう豆の畑で働いているのだ。30歳のモニアは失業中の兄と年老いた母の3人で暮らしている。生活は厳しいという。彼女は諦めにも似た表情を浮かべ、チュニジア方言でこう問いかけた。「読み書きもできない私に他に何ができるというのでしょう?」。モニアはひと月に数日だけ農作業を行う。日当は10ディナール(4ユーロ)だ。毎朝6時に起き、夜の8時に眠りにつく。「私は合計で数週間しか働くことができません。雇い主は彼自身も食い扶持に困っているというのです」。

 ベジャにある高校の体育教師で、ボランティアとして同地域の女性支援活動を行うイシュラク・ガルビによれば、この地域では他の女性たちの生活も前述のモニアと何ら変わらないという。「彼女たちは数ディナールを稼ぐためにどんな仕事でもします。畑仕事をはじめ、乳搾りなどの家畜の世話、パン作り…そしてトラックの荷台に無防備のまま家畜のように乗せられて、行く先も知らず移動するのです。男たちは賃金の低い仕事はやりたがりません。彼女たちには選択肢がないのです。それでも大抵の女性は働くことを選びます。仕事を持つことである程度自立することが出来るからです」。

 チュニジア南部では学校を中退する男子児童が増え続けている。一方、北部では女子児童が学校を辞めて畑仕事に従事しているのだ。さらにガルビはこんな話をしてくれた。「父親たちは13歳前後の娘たちをチュニスに女中として売り飛ばしているのです」。

 チュニジア中部の沿岸地帯に位置する街、モナスティール。その後背地は繊維企業の本拠地となっている。繊維産業はチュニジア国内総生産の19パーセントを占める一大産業である。とはいえ、そこで働く女工たちはわずかな報酬しか得ていなかったし、これら企業の工場が次から次へと閉鎖に追い込まれているのだ。クサール・ヘラルやクシベト・エル・メディウーニ(人口2万5000人)ではこの数年の間におよそ7500人が職を失った。そのうちの84パーセントは女性だった。

 例えばベルギーの繊維企業ジャック・ブリュイノーゲ・グローバルはチュニジアにおいて主にH&MやZaraに製品を供給してきた。しかし同社は10年から20年もの長期にわたって働いてきた女工たちを毎日のように解雇しているのだ。未熟練労働者である彼女たちが新たな職を見つけるのは非常に難しい。けれどもわずかな年金を受給するまで何とか生き延びねばならない。失業した一人の女性がため息交じりに話す。「私は42歳で二人の子供がいますが、仕事の影響で病気を患っています。もうこの年齢では雇用してくれるところなどありません。それなのに満足な社会保障もないのです」。また、4人の子どもを抱えるもう一人の女性が教えてくれた「私はやっと新しい仕事を見つけました。でも3カ月働いたのに1カ月分の給料しか支払われていません。ブラック企業なのです。給料について雇用主に訴えると彼はこう答えました。〈お前はベルギー人に搾取されていたんだろう。チュニジア人のおれに搾取されるのは拒否するのか?〉」。チュニジア国家統計局によれば、同国では女性の4人に一人しか職に就いていない。2014年の失業率は男性が12.7パーセントで女性は22.5パーセントに及んでいる。高等教育を受けた人々に関していえば、男性で21.2パーセント、女性で40パーセントまで失業率は上昇するのだ(2)

 クシベト・エル・メディウーニの人々はみな「革命後、すべてが悪い方向に向かっている」と口にする。ここ首都チュニスでも女性たちの不満は高まっている。28歳の会計士イブティヘヌは言う。「ラ・マルサ[海水浴客で賑わうチュニス郊外の高級住宅街]のブルジョワジーたちは美辞麗句を並び立て私たちを苛立たせます」。フランス語教師で友人のネジュアが続ける。「彼女たちは自分たちこそがチュニジア人女性の代表だと思っているのです」。

「我々はみな民主主義者です」

 一方で、遺産相続に関して男女間の平等を求め、〈ラ・マルサのブルジョワジーたち〉に賛同する若い女性二人にも話を聞いた。ちなみに一人はヒジャブで頭髪を隠しているが、もう一人はしていない。彼女たちは言う。「男性が遺産の3分の2を相続し、女性は3分の1というのは正当性がありません」。コーランはこの点について明確に規定している。しかしこれまで政府は法制化できなかった。前述のネジュアは女性のための相談センターでボランティアをしている。彼女は女性に対する暴力行為の増加を危惧して次のように話す。「私たちが行ったアンケートによれば、チュニジアでは女性の二人に一人が身体的な暴力を受けています」。

 チュニジア南部は決して裕福な地域とはいえない。けれども現地の女性たちは自分たちの暮らしは恵まれているものだと笑顔で話す。「南部の男性は働き者ですよ」。南部の海沿いにあるザルジスでは、メドゥニンやジェルバ島同様、女性たちはヒジャブをし、体を覆い隠す伝統的な長い布を纏っている。彼女たちは今、自由にこれらを着用できる喜びを感じている。なぜならばベン・アリ時代は警察に見つかると強制的に脱がされることもあったからだ。彼女たちは「耐え難い苦痛を受けた」と当時を振り返る。イスラーム主義者の家族と見なされると嫌がらせを受け、多いときは一日8回も警察署に出頭させられたという。したがって南部の人々は革命後、これまでの損失を埋め合わせるかのように議会選挙に臨んできた。チュニジア国民の多くがアンナハダを非難するようになっても、保守的な南部の人々は断固としてこのイスラーム主義政党に投票し続けてきたのだ。

 2011年12月から2014年の12月まで大統領を務めたマルズーキは、イスラーム主義者に甘く、取り締まりを怠ったとしてチュニスでは人々の反感を買ったが、南部ではいまだ絶大な人気を誇っている。「マルズーキ氏は医者ですし、誠実な人なので[落選して]残念です」。ジーンズに紫色のヒジャブ姿の40代女性ナフィサはそう話す。彼女はメドゥニンで小学校教師をしている。離婚も経験した。メドゥニンは砂漠特有の気候風土を有しており輸送手段も欠如しているため生活環境は厳しい。けれど自分は今幸せだという。「私はここでの生活が気に入っています。父は私をサポートしてくれています。家族が団結して支え合うことで、足りないものを補っているのです」。

 ジェルバ島アル・メイ村のほど近くにあるヌール・アル・フゥダの家で彼女のいとこの結婚パーティーに参加した。大人から子供まで女性たちは伝統的な衣装に身を包んでいた。もちろん全員がヒジャブで髪を隠している。「私は革命が起きるまで何にも興味がありませんでした。でも今は夫が営む織物工房で働いています。もうすぐ私が責任者になるんですよ!」。30歳のフェルダウスが弾けんばかりの笑顔で言った。2011年までチュニジアでは全身をすっぽりと覆うチャドルは禁止され、女性が市民組織に参加することも禁止されていた。南部の男性の多くは政府による報復措置を恐れて、彼らの妻たちがこうした行動をとらないよう注視してきたのである。フェルダウスは釘を刺した。「いま私は自分のしたいことをする権利を得たのです。それをとても誇りに思います!」。前述のフゥダ(40代)は市民団体で積極的に活動することを夫に認めてもらった。彼女はインターネットを基礎から学び、今では他の女性たちが「子供たちに追いつくように」ネット知識の習得をすすめている。南部の母親たちは、他の地域同様、自分たちの息子がジハード[聖戦]に引き寄せられることを心配している。実際にチュニジアでは地域ごとに男たちが兵士として徴集され「イスラーム国」に送り出されている。織物工房で働くフェルダウスの周りでも4人の若者がシリアに向かい、そのうちの一人が死亡したという。「私には理解できません。彼らは〈普通〉の若者でした。決して過激派ではなかったのです」。

 24年間におよぶベン・アリ体制下において、ベスマ・ジェバリは選挙で投票するのを拒否してきた。人的資源管理で学位を取得したジェバリは現在、ジェルバ選出のアンナハダ議員となった。彼女はチュニスを中心に行われているレッテル貼りに憤りを覚えている。すなわち〈ヒジャブをしない自称民主主義者〉の女性たちと、〈時代遅れの社会モデル〉に固執していると非難されるヒジャブ姿の女性たち、というレッテルだ。「私たちはみな民主主義者です。ヒジャブの有無による違いなどありません。ヒジャブ? これはやっと法律で認められた宗教的な衣服の一種に過ぎませんし、義務ではないのです」。

 ジェバリはチュニスの女性がチュニジア人女性全体のアイデンティティを独り占めすることが許せないのである。「ある女性がシャンパンのグラスを掲げて〈私こそがチュニジア人女性の代表よ〉と宣言したとしたら私はこう答えます。〈いいえ、あなたはチュニジア人女性のなかのマイノリティです。たしかにあなたにはお酒を飲む自由も、男性と同棲する自由もあります。でもあなたの生き方を私たちに押し付けないでくださいね!〉と」。

早急な教育改革が必要

 チュニスでは良い信仰にせよそうでないものにせよ、アンナハダはしばしばサラフィー主義の過激派と同一視される。アンナハダがそうした方向に進化すると考え、不安を抱く人々も存在し、「彼らは嘘つきで、二枚舌を使う」と非難するのだ。

 そうした蒙昧主義に対してどのような解決策が考えられるだろうか? チュニスではベン・アリ時代以降、停滞している教育部門の早急な改革が求められている。サミラ・メライ女性・家族・児童問題担当相は次のように述べている。「大臣として優先するべきことですか? それは子供たちです! 現在、幼稚園の90パーセントが私立で、多くの場合、非営利組織による経営もしくはコーラン学校なのです。したがって政府による監査も統制も存在しません」

 チュニジアでは初等教育から高等教育まで問題が山積みである。前大統領のマルズーキも「1970年代のチュニジアの強みは高い教育水準にあった。しかし今日、私は大卒者の悲惨な状態をとても案じている」という。

 こうした状況において多くの人々は伝統的な社会モデルが持続していくことを懸念している。前家族担当閣外大臣のネイラ・シャーバンヌ・ハムゥダは次のように述べる。「チュニジアの女性たちはイスラーム主義者の要求に合致した生活習慣を広く実践するようになりました。けれど私はこのような生き方がただの流行や上っ面のものだとは思いません。もっと深いものです。すぐに消え去ることはないでしょう」。サラフィー主義者による暴走の危険があるとして、伝統的社会モデルを抑え込むために闘うべきなのだろうか? チュニスにおける答えはイエスだ。しかし、他の地域ではそうしたアプローチは社会の緊張を高めるとして非生産的なものと考えられている。

 「私たちはもう周りから強制される生き方はしません。闘い続けます」。今、全国のチュニジア人女性からこうした声が聞こえてくるのだ。



(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2015年7月号)