政治的剥奪=自己喪失症候群


フレデリック・ロルドン(Frédéric Lordon)

[*経済学者。近著にLa Malfaçon. Monnaie européenne et souveraineté
démocratique,
Les Liens qui libèrent, Paris, 2014. がある。
当記事は « Conspirationnisme : la paille et la poutre »,
Les blogs du Diplo, La pompe à phynance, 24 août 2012.の要約である]



訳:杉村昌昭



 いたるところに見るか、どこにも見ないか――謀略についての議論はたいていこの二つの対称的暗礁に乗り上げる。2004年に、ウォールストリートの五つの大金融会社が、事業銀行のグローバル・レバレッジ係数(1)を12に制限する「ピカール・ルール」を廃止するために、アメリカ資本市場の制御装置である「米証券取引委員会」(SEC)に圧力をかけて、長年秘密にされていた会合を開かせたときが好例である。それを強力に組織化された利益集団の隠された共謀行動と見せないようにするためには、これに問答無用の仕方で蓋をするような知的隠蔽工作が必要とされるのだが、ともあれ共謀は存在しうるのであり、この場合、完全に成功したのである。

 しかし、だからといって、それだけで金融危機についての完全な分析を行なったとするわけにはいくまい。そして、おそらくこのことが、謀略が明らかな事実である場合でも、謀略理論の明らかな弱点のひとつであると言えるだろう。それはただひとつのことがすべてを説明しうるとする単一観念症(2)であり、ものごとをすべてにわたって完全に説明することができるという排他的思考であり、秘密の会合がすべてを決定することができるという観念論的思考である。謀略理論による単一観念症の典型的な事例はビルダーバーグ会議やトライラテラル委員会(3)である。ビルダーバーグ会議はたしかに存在する。トライラテラル委員会もしかりである。したがって、問題はこうした事実を確認することにはない。こうした事実からどんな因果関係を引き出すかということが問題なのである。つまりビルダーバーグ会議やトライラテラル委員会が新自由主義グローバリゼーション推進の唯一万能の組織団体なのかどうかということが問われなくてはならないということである。謀略的ビジョンという単一観念症を解体するには、それを思考の偽造実験に向き合わせるだけで十分である。仮にビルダーバーグ会議やトライラテラル委員会が存在しない世界を想像してみよう。この仮設的世界は、はたして新自由主義グローバリゼーションを回避しえたであろうか。答えはもちろん「ノー」である。そこから対偶的論理によって、この秘密会議は新自由主義の必須のエージェントではない、そしておそらく最重要のエージェントでもないという結論が導きだされる。しかしそのことは、われわれが生きているこの世界のなかで明らかになんらかの役割を果たしているビルダーバーグ会議やトライラテラル委員会について語ることを忘れていいという理由にはならない。

 したがって、《謀略論》という不名誉なレッテルをはってすぐにでも信用を失墜させることができるテーゼのなかから、それでも根拠のあるものを拾い上げるには、少しだけ知的思いやりを発揮しさえすればいいだろう。つまり「謀略論」による説明の迷妄性を遠ざけ、たしかに現実に存在するのだが新自由主義ドクトリンが否定しようとする共謀的行動の事実を別の仕方で動的に編成し直すということである。一般に支配の事実を否定すること(たとえば、賃金労働者と雇用者は「労働市場において自由かつ平等な契約者である」とするような仕方で)が、支配者たちの世界観の構成要素となっていることはたしかである。その手始めに、支配者たちは彼らの利害関係に則って生産や再生産を行ない、さらなる支配の深化をはかろうとして一致協力するために明らかに同盟を組んでいるという事実を当然のごとく否定する。こうした状況において、メディアを通じた議論のなかで中間的位置に立ち、謀略論的思考の法外な迷妄(スキャンダルと言ってもいいような)を制御しながら、同時に、支配は主に構造のなかで構造によってつくられるとしても支配者たちの決然たる集団的行動によるものでもあるという見方をそこに結びつけようとする考えは、まずまともにあつかわれることはあるまい。この種の区別はおそらく要求が高すぎるのであり、このような考えそのものが謀略理論や謀略理論家に対する擁護論であるとするようなコメントがたくさん寄せられることになるだろう。

 しかし、いまや、いうならば謀略を非謀略論的に捉える思考に訴えるべき時がきている。すなわち、(1)隠蔽された陰謀――謀略と呼べるもの――が実際にありうることを認識すること。(2)謀略をあらゆる社会的事象の唯一の説明図式にしないこと。さらに、謀略論はすべての使用可能な図式のなかで、もっともつまらなく、ときにもっとも不適切なものでもあるとみなすこと。たとえ謀略論が理にかなっている(!)と思われるときでも、方法論的に謀略論に向かうのは最後にとっておくこと。

 謀略論議はあらゆるものを生み出す。錯乱としか言いようのない謀略論議の風刺的絵図(実際、そのような事例には事欠かない)、謀略論議というテーマを物神崇拝的に取り上げる雑誌、謀略論議の精神病理の学問的分析まである。しかし、謀略論議の政治的分析となると、まったくといっていいほど存在していない!たとえば次のような分析である。謀略論議が持っている信用失墜効果の潜在力、謀略論議はうむを言わさず発信元を選択するがその選択そのものに社会的特徴が表れているということ、つまり謀略論議はある者には正当な発言を用意するが他方で絶対的に排除する者もつくるということ、謀略論議は精神錯乱というレッテル張りや発言禁止措置をともないながら孤立した錯乱者を含むおよそ全社会的存在が交ぜ合わされたアマルガム効果をつくりだすということ。そして、こういったことが結果として政治的言説を専門家に補佐された《政治的代理人たち》の独占的分野にしてしまうということ。フランスのメディアのなかで激化したこのようなメカニズム全体が、謀略論議のなかに組み込まれているまぎれもなく政治的な課題への関心を引き起こさねばならないのに、実際にはその議論はくすくす笑いや偽装された恐怖の叫びといったものを引き起こすことにしかならない。要するに、過熱化した謀略論議は、どんなにものごとの核心から外れていても、政治的剥奪=自己喪失を説明するための最良の論拠を提供するということである。

 政治的剥奪=自己喪失、おそらくこれが謀略論を社会的事象として――心理的事象ではなくて――政治的に分析するための最良の言葉であろう。というのは、この事象のなかに理由なき錯乱あるいは知恵遅れの庶民の錯乱ではなく、自らの身に起きていることをなんとか理解しようとするのだが、そのための手段を体系的に拒まれている民衆の、おそらく常軌を逸しているかもしれないが予見的でもある結果を見いだすことができるからである。民衆は情報へのアクセス、政治的議題の透明性、公的議論の深化(公的議論という名のもとにマスメディアが差し出す貧弱な粥状の混ぜ物とは別のもの)といったものを一貫して拒否されているのである。しかし、この20年のもっとも重要な出来事、すなわち2005年のヨーロッパ憲法条約についての国民投票が、これに反対する人々の例外的な雰囲気の高まりのなかで、考察や議論の時間を与えられさえすれば民衆的政治団体が何をなしえるかということを証明したことを想起しよう。民衆は複雑きわまりないテーマでもつかみとり、それをわがものとし、聡明な投票をすることができることを示したのである。

 ただし、こうした例外的状況をのぞいたら、民衆を包囲する歴史的諸力の方向を決めるためのほとんどすべての手段、とりわけ民衆の運命を決する議論への参加の手段を民衆は拒否されている。しかしスピノザが言うように、「人間は誰しも自らの判断能力を譲り渡すことはできない」(『国家論』)。そしてこの判断能力は、与えられた条件のなかで、いやが応でも考えざるをえないとき、絶望感をともないながらもあくなき執拗さでもって、最大限発揮されるのである。謀略論は少数の錯乱者の精神病理ではない。それは政治的剥奪による自己喪失と公的議論の没収にともなう必然的症候なのである。したがって、民衆がかくも方法的に組織化されたやり方でいっさいの思考道具を奪われ、すべての思考活動の外に追いやられているときに、民衆に対してその思考の彷徨を非難することは、不条理きわまりないことなのである。このことをスピノザ以上に的確に言い当てた者はいない。

 「庶民がなんの真理も判断も有していないということは無理からぬことである。国家の政務は庶民の知らないところで執り行なわれ、庶民は国家がどうしても庶民に隠すことができないわずかばかりのことからしか自らの意見をつくりあげることができないからである。しかも判断を停止することは実に希な徳だからである。したがって、国家が国民に対してすべてを秘密裏に行ないながら、国民が判断をしないように望むのは、愚の骨頂なのである。というのも、もし庶民が自らを抑制して、自分がよく知らないことを判断することをやめ、自分が知っているわずかばかりのことから正しい判断をすることができたら、庶民は統治されるよりも統治するのにふさわしい存在になるだろうからである」(『国家論』第7章、第27節)[この訳文は基本的にロルドンが引用で用いているフランス語訳に即して現代風にアレンジした]。

 しかし、エリートたちがどうしようもない未熟さのしるしと見なす謀略論議は、政治的剥奪=自己喪失である以上に、実際にそれでもって民衆が成熟に達することができるかもしれない逆説的なしるしでもありうる。というのは、民衆は当局者の話に敬意をもって耳を傾けることにうんざりしていて、お偉方の話を抜きにして世界を思い描こうとするからである。民衆が完全に成熟し、あらゆる公的議論に不可避的にまとわりついている謀略論議の罠から抜け出すために欠けているのは、ただひとつのことだけである。すなわち、訓練、実践、習熟といったもの、いわば政治的剥奪=自己喪失をもたらす制度(政治的代表制、メディア、専門家など)が民衆に拒否するものである。しかし民衆はそれを周辺部において獲得しようと努める(アソシエーション、民衆教育運動、オルタナティブ・ジャーナリズム、公開集会、等々)。なぜなら、個人的・集団的な知性の形成は、民衆が“自らを実践的に鍛えること”を通してはじめて可能になるものだからである。

 公的赤字への通貨融資をあらかじめ禁じる《1973年[1月]の法》をめぐる議論は、その試みや失敗の特徴的プロセスとともにこうした訓練の一段階と見なされるべきものであろう。この法律はインターネット上で激しい議論の対象となり揺れ動いた。たとえばポール・ギニョンの謀略論的傾向のビデオ(『負債金』、2006年)は通貨にかかわる巨大な謀略(通貨を作っているのは民間銀行であるということ)を明るみに出したが、ただしそれはどんな経済学の教科書にもどこかに書かれていることではあった。他方で、この法律を延命させようとする執拗な動きがあって、この法律がまず《ポンピドー法》と改称され、ついで最終的に《ロスチャイルド法》に塗り替えられたことも指摘された。そこに政治権力と金融界上層部とのつながりしか見ようとしない者もいたが(4)、あらゆる種類の暗黙の了解事項が含まれて機能していると考える者もいた。

 こうしたどろどろとした複雑な状況にいくらかでも政治的まなざしを向けてみると、次のようなことが見えてくる。(1)問題を技術的次元の明証性においてとらえながらも、その政治的争点を通貨や銀行にかかわる可能なかぎり広がりのある方向に差し向ける非専門家たちによる思いがけない成果。(2)金利の正当性、公的赤字への融資、通貨主権制のあり方、民主主義社会における通貨発行ルールなどについての混乱しつつも有益な疑問の出現。(3)多くのテクスト、サイトやブログの始動、あらゆる資料に基づいた議論、等々をともなった、言葉の最良の意味における論争的活動の高揚。こうしたことすべては、それまで基本的無知、公知の逸脱、明らかに誤った思考経路といったものによって見えなくさせられていたことを明るみに出す。《1973年の法》を執拗に告発していた者たちのなかに、自分たちが存在してもいない野兎(幻影)を追いかけていたことに気づき始める者がでてくる。こうした動きを不完全ではあっても“それ自体”として価値のある集団的思考訓練と見なし、このなかに民衆が成熟に至るための模範的な自己形成的プロセスを見るべきであろう。既成エリートがこうした民衆の自己形成のつまずきを利用して民衆の自己形成自体を拒否しようとすることは驚くべきことではない。そういう自己形成が完遂されたら、まさに政治的剥奪=自己喪失をもたらしている者自身の政治的剥奪=自己喪失が起きるからである。



(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2015年6月号)